6話「スワローアローとぶつかって」
大家さんは爆弾発言を残し、その後は興味が野球に向いたらしい。俺こと雑賀サイタが問い質す前に階段を下りていった。試合観戦中にうっかり寝てしまい、結果だけ後々知ってしまう羽目になれば良い。
俺の横を一礼しながら通り過ぎた大和ヤマト。一分後くらいにバイクの排気音が聞こえたので、あちらは準備完了したな。着替えるために俺は自室へ向かう。愛用の漢字Tシャツに念のため半袖の上着を羽織り、ジーンズを穿く。
男の準備なんてそんなもんだ。リビングへ行けば、いつもの袖なしパーカーにスラックスを着た鏡テオがメルヘン兎リュックを抱えていた。横では椛さんと樫さんが黙して立っている。椛さんの額が赤いのは一応無視しておこう。
「そういえば……クルリは忘れ物を取りに来たんだよな?」
「うん! でもゲーム機は置いていったよ」
「あの猫耳ゲーマーが!? 代わりに何を持っていったんだよ?」
「新聞だよ」
鏡テオは淀みなく答えていくが、俺からすれば疑問が溜まっていく内容だ。猫耳野郎こと枢クルリがゲーム機を置いて新聞を持っていく。どう考えてもしっくり来ない。大体魔法を消すって言う意味もわかっていないんだぞ。
「待たせたな。私も準備を終えた」
「お、丁度良かった」
髪ゴムを取った黒髪はまたもや燕尾のように広がっている。青年らしい白シャツに黒の上着とスラックス。下手すると就活生みたいな組み合わせだが、椛さんが持ってきた服のデザインによってお洒落に見えた。
もう少し天鳥ヤクモの堅苦しい雰囲気が抜ければ、コーヒーショップの紙コップでも持たせて雑誌に写真を載せても良さそうだ。服の効果は絶大だっていうことがよくわかるな。素体よりも外装か。
「なあ、ヤクモ。クルリが忘れ物として新聞を取りに来たらしいんだが、意味わかるか?」
「どんな新聞かで結果は変わるな。もう少し詳細な情報が欲しい」
「えっとねー、数日前のコンビニで買えるような夕刊だよ」
「あのスポーツ新聞か」
俺も思い出した。そういえば大和ヤマトから朝刊と夕刊のちょっとした豆知識を教えて貰ったな。そこから推理っぽい流れになるかとも考えたが、なんだかんだで放置していた。あれから枢クルリが何時からいなくなっていたか割り出そうとしたはずだったか。
しかし枢クルリが外出した時間ってあまり意味がなくなってきたしな。そうなるとあの新聞が本当に意味がある物なのかわからなくなってきた。なんでそんなのをわざわざ持っていくのかもだ。
「……どんな記事が書いてあった?」
「確か梓が調べてたはずだけど、えっと……」
「僭越ながらこの樫めが説明を代行させて頂きます。夕刊発行の政治経済に重点を置いた新聞となっておりまして、見出しには警察が本格的に前日の東京一区画封鎖の件について調査に乗り出したとありました」
そこまでは見ていなかった俺は肝が冷えた。なにせあの時は部屋に入ってきた蛾を退治しようと蠅叩き代わりを探していたからな。東京一区画封鎖の事件には大和ヤマトやカーディナルと錬金術師機関、それに大家さんまで関わっている。
多くの怪我人が出て、交通が一時的に麻痺した。俺の学校とかも翌日は臨時休校となったくらいだ。どう見ても固有魔法所有者の仕業としか思えない内容だし、もしも罪に問われたら最悪の結果しか導かれない。
でも確か魔法管理政府の方で辿り着かないように工作するって話だよな。俺は学校で岩泉ノアにそう聞かされた。まあ裏側では錬金術師機関とか大家さんが動いているのだろうな。なにせ大和ヤマトは鍵候補。大家さんとしても損害を受けたくないと思っているはずだ。
「多分、クルリが気にしているのはそこじゃないな」
俺の思考を裏切るように、あっさりと天鳥ヤクモは見出しの内容は関係なしと判断した。
「恐らくその新聞にしか書かれていない内容があったはずだ。でなければ面倒くさがりのクルリがわざわざ買いに行くとは思えない。しかも夕刊。夜の内に買わなくては早朝にはなくなってしまう。早急に購入する必要があったと思われる」
言われてみれば、と俺は納得してしまう。大事なのは枢クルリが何時から外出していたではなく、引きこもりのあいつが手に入れなくてはいけない理由が夕刊のスポーツ新聞にあった、ということだ。
俺が蛾の退治に使おうと考えたあの新聞がそこまで重要な物だったのか。だったらあそこで新聞を鱗粉塗れにして捨ててしまえば、もしかして枢クルリの企みを潰せたかもしれない。まあそれが良いのか悪いのかは置いておこう。
「……梓は一つ気になることを言っておりました。とある会社の株価が意図的に下げられた。大企業のようでしたが、別に問題は見当たらないのでおかしいと」
「株?」
「皆さんには投資や資産運用の方が身近かもしれませんが、やり方によっては会社の乗っ取りなどが可能となるのです。株の価値は信用と結びつきますので、株価が低いと言うことは信用を得られていないと見られてしまうのです」
樫さんが簡単に教えてくれた内容に感謝する。いやだって枢クルリは株とかで生活費稼いでたりしていたから、もっと楽な物だと思っていた。意外と物騒な話も纏わり付くのは金が関与しているせいだろうな。
「ただテオ様から与えられた情報からスポーツ新聞を買いましたが、そこには株価が下げられた会社の情報はありませんでした。代わりにカジノ法案について載っていたくらいですね」
「ああ、なんかテレビでよく騒いでいる」
「はい。現在日本では金銭が直接関わる賭博行為は禁止されています。その賭博の代表であるのがカジノと言えましょう。賛否両論ございますが、兆単位の金額が動く大事業です」
「兆!?」
億単位ではなく、兆。それはもう国家予算とかそういうレベルじゃないか。自分には無関係だと思って聞き流していたが、そりゃあ賛否両論で報道に上がるわけだよ。国全体を動かせる金銭が流通するんだしな。
しかしこれで枢クルリの動向とか、新聞を持っていった理由がますます謎になってきた。カジノ法案とか雲の上にある話みたいな雰囲気だ。そして株価が下がった会社とか。でも枢クルリの目的は魔法を消すってことだよな。どういう関連付けなんだ。
頭を抱え始めた俺の近くで、天鳥ヤクモは渋い顔をしていた。鼻からずり落ちそうになった赤い太縁眼鏡の位置を直している。それが煩わしかったのか、中指で眼鏡を押さえつけた格好のまま思考を続けていた。
「その……一つどうしても気になることがあるのだが、雑賀はなにか隠していないか?」
「隠してるわけじゃないけど、巻き込みたくなくて言ってねぇことはある」
「君は一見粗暴そうだが、優しい性格なのだろう。気遣いは感謝するが、嫌な予感がする。話してくれ」
「わかった。後悔すんなよ」
別に優しくはねぇよ。無関心と無関係を貫きたいだけの傲慢野郎なだけだ。けれど天鳥ヤクモの真摯な態度には折れるしかない。仕方ない、受験生のくせに厄介事に首を突っ込んだ生真面目さを恨んでくれよ。
まずは七つの童話と固有魔法所有者の関係、錬金術師機関とカーディナル、ついでに大家さんの正体を簡潔に。説明するのは得意じゃないから自信はないけど、伝わったという前提で進めていく。
そして東京一区画封鎖。色々と動き出した夜。俺が両腕骨折したり、大和ヤマトが家族を一人奪われたり、まあ思い出すのが苦にならないほど濃い事情。枢クルリがそこからなにかを企んでいたんじゃないかと、俺は推測を口にした。
「………………少し整理する時間をくれ」
だよな。天鳥ヤクモの性格だと受け止めきれないのわかっていたぜ。俺だって嫌々関わっているせいでなんとか納得できているだけで、非現実な話だ。目の前で起きた上に痛い目を見たから信じているという情けない理由。
「そういえば
「あー……確か――」
先程の大家さんの言葉とか、その前の発言とかを思い出していく。枢クルリの作戦は大家さんの商売に多少関わってくるらしい。けれど止めるメリットよりコストの方が高いだとか。
そんでもって錬金術師機関とカーディナルが手出しできないように契約を交わしているんだが、枢クルリはそれを逆手に取って利用しているとかも言っていたな。危ない綱渡りする曲芸猫みたいなイメージしか湧かない。
というか大家さんの商売ってなんだよ。マンションの管理人とかじゃないのか。いやでも考えてみれば大神シャコの件とか、その他諸々も含めて……嫌味も込めて幅広そうだ。あくどそうな気配も濃厚。
「ふむ……見当は幾つがあるのだが、これ以上は絞りきれない」
「じゃあ早くクルリに会いに行こうよ」
難しい顔をしていた天鳥ヤクモに対し、メルヘン兎リュックを抱えていた鏡テオが明るい声を出した。それもそうだな。どうせ全部知っているのは猫耳野郎だ。さっさと本人にと問い詰めて洗いざらい吐いて貰おう。
「では皆様。私は先にエンジンを動かしてきます。椛、マンション内とは言えテオ様の護衛を抜かるなよ」
「へいへーい! この命に代えてもテオ様は守るって。なんなら樫の処女に誓っ」
「ふんぬ」
冷静な態度のまま股間を蹴り上げた樫さん。蹲る椛さん。俺や天鳥ヤクモが思わず内股になるレベルだ。想像上の痛みとは言え、なんだか尾骨辺りを叩かなくてはいけない気がする。
鏡テオだけは去りゆく樫さんに対し、あまりいじめちゃ駄目だよー、と暢気に声をかけている。そんな軽い注意で済ます内容だったのか、今のは。椛さんは壁に寄りかかりながらもゆっくりと立ち上がる。もちろん息は荒い。
「おっふ、ぜぇ、はっ……で、では短い距離ではありますが皆さんの護衛を致しやす」
「はあ……あ、そうだ。一つだけメール送らなきゃいけない相手が」
俺は使い慣れていない最新型の携帯電話を操作する。城崎マナカ先輩になにかあれば教えてくれと頼まれていたんだった。いまいち敵か味方かわからないけれど、一応義理は通して置いた方が良いだろう。
枢クルリは東京スカイツリーにいる。それだけだ。他の事情なんてあの人なら勝手に調べるだろうと、すぐに携帯電話をポケットにしまおうとした矢先。返信の着信音。早すぎないか。
まあ無視するわけにもいかないので、仕方なく確認する。浅草駅前で待っている、と簡潔な内容。城崎マナカ先輩にしては珍しい絵文字や顔文字もない事務的な文面。たまに昔使われていたギャル文字で暗号文仕立てするよりはマシか。
「テオ、樫さんに浅草駅前に立ち寄るように言ってくれ。確認したいことができた」
「わかったよー。ほら早く早く! 急がないと手遅れになっちゃうかも!」
急かすように鏡テオが小走りで階段を下りていく。こちとら防犯上の理由で施錠しなきゃいけないんだから少し待って欲しいんだがな。けれどまあ、鏡テオが急行したい理由もわかる。
ソフィアの時は間に合わなかったもんな。気付くのも遅くて、遠回りして辿り着いたようなもんだ。成人男性の割に幼い性格な気はするが、それでも成長している。良い傾向なんだろう。
黒いリムジン車が待機していた。相変わらず高級そうな。そして土足厳禁だったのを思い出し、俺は後部座席へと入る前に靴を脱ぐ。背後でそれを見ていた天鳥ヤクモも倣ってくれたのでありがたいことだ。
「では浅草駅前、次にスカイツリーへと向かいます。事態の重要性から高速道路を利用しますが、よろしいですね?」
「樫さんに全部お任せします」
どの道程が早いかなんて俺にはわからない。助手席に椛さんが座ってシートベルトを着用した。それを合図に樫さんはギアを動かし、アクセルを踏む。急発進ではないが、スムーズな走り出しに感心する。
車が高級なおかげか、防音性が高いのか。外の音が気にならない。窓の外で光る街並みが涼やかに流れていく。車内で感じる振動がほぼないのは、樫さんの運転技術の賜物だろう。
豪華な車内の雰囲気に圧倒された天鳥ヤクモは身を縮こまらせていた。わかるぞ、その気持ち。汚したらどうしようとか、このふかふかシートの値段はどれくらいだろうかなど、あらゆる点が気になってしまうんだ。俺もそうだった。
「……ヤクモ。クルリと仲直りするの?」
「え?」
「それとも喧嘩するの?」
「……っ、わからない」
唐突な鏡テオの問いに、天鳥ヤクモは声を詰まらせながら答えた。そういえば枢クルリに会いたいのは知っていたが、具体的な目的は聞いていなかった気がするな。俺としてもあいつの行方がわからなかったし。
受験前に心配事を一つなくすくらいなんだろうと。なんだってどいつもこいつも問題を抱えていやがんだ。こういう面倒事とは無縁というか、無関係と無関心を貫きたいって言うのに。
「クルリってね、猫みたい」
「まあ……そうだな」
「本当は一人気ままに生きていけるのに、僕達の傍が大好きなんだよ」
鏡テオの言葉に、俺は二の句を継げなかった。そうだよな。別に俺達がいなくても、あいつは平気なはずなんだ。あの頭脳があれば上手く立ち回りできるし、損することだって少ない。
なのに面倒事の塊みたいな俺達の近くで、メンドー、を口癖にゲームしている。ご飯の時間になればふらりとやって来て、好きなように食べている。俺の小言だって嫌々ながらも聞き流しているし。
「だから傷つけないでね。僕達もクルリが大好きなんだ」
そう言ってはにかみ笑う鏡テオ。考えての発言か、それとも無自覚故の言葉か。ただ今まで思考していた疑問とか謎とか、どうでもよくなった気がする。まあ、なんというか。俺とクルリって関係を言葉で表すなら、友達だもんな。
あいつはその言葉を使って俺を指差した。俺も部活仲間にそう告げた。なんだかいきなり照れくさくなってきた。むず痒くて落ち着かない。どちらかと言えば飼い主扱いされた方が楽かもしれない。
窓硝子に映る自分を見て、思わず手の甲で顔を擦る。照れて真っ赤になった間抜け面。恥ずかしい。こんなの俺なんかには似合わないと格好付けたいのに、別に元から平々凡々だったことを思い出して観念した。もうそんな感じでいいや。
「……善処する。ただ、その……なんだ」
少しだけ安堵した表情を見せた天鳥ヤクモだが、すぐにしどろもどろな呂律で告げる。
「逃げられたらすまない」
だから、お前と猫耳野郎の間に、なにがあったんだ。馬鹿野郎。
夜の浅草駅前は適度な賑やかさだった。というのも帰宅途中の会社員とか、飲み会をハシゴしているサラリーマンとか、静かなわけではないけれどうるさすぎない。繁華街に比べれば大人しい雰囲気だ。
浅草は多様な路線があるからな。ここで乗り換えして郊外の自宅へ帰る人も多いだろう。そして駅から既にスカイツリーが見えていた。場所と角度によっては隠れてしまうが、それでも背が高い塔は夜中でも浮かび上がるように輝いていた。電灯のおかげだな。
俺は城崎マナカ先輩の姿を探すために車から出ようとした矢先、窓硝子を叩く小さな手。気を利かせて樫さんが運転席から窓だけ開けてくれた。染めた金髪少女が現れると考えていた俺は、赤いヘアピンを付けた黒髪少女に表情が固まった。
「やっほー、先輩!」
「大神シャコ!?」
思わずフルネームで呼んでしまう。大家さんの手先、後輩系女子中学生、都市伝説で語られる殺人鬼候補、俺としてはなるべく深く関わるのを避けたい相手。紺色のセーラー服と赤いリボンがよく似合うが、この時間に外でその格好は補導されるぞ。
「部活付き合いで遅くなった所なんだけど、凛道組からの依頼とか六番に頼まれたから、おつかい。はい、これ」
部活していたのかよ。よく見ればスクールバック以外に持っていたのは楽器ケース。細長い形状から察するにフルートとかか。学校の備品を練習名目で持ち帰っているのか、それとも大家さんが買ってくれたかどうかまではわからない。
ただ俺は差し出された紙袋を受け取る。封筒シール代わりにメモが貼ってある。何故か毛筆で、憧れの先輩からプレゼント☆、とふざけたことが書かれていた。つまりこれが城崎マナカ先輩からの差し入れか。
「うーん、このまま帰ってもいいんだけど……先輩。シャコがいると色々と便利だし、もう夜遅いから送っていってほしいなー、なんて」
「はぁあ!? 俺達はこれからスカイツリーに向かうから、帰宅はもっと遅くなるぞ」
「知ってるよ。でもほら、シャコは六番の所有物というか、財産みたいな物だし」
「それ自分で言うことかよ……テオ、いいか?」
「僕は大丈夫だよ。むしろシャコとは前から話してみたかったんだー」
はは。この怖い物知らずめ。運転席と助手席から漂ってくる警戒が伝わっていないようだ。まあ大神シャコの強さというか、頑丈さに関しては体験済みだ。その凶悪さもな。それはもう痛いほど。
というか腹の傷、まだ癒えていないからな。数日前に殺されかけたのは生々しい記憶だ。忘れようにも、多分一生覚えていると思う。いや、殺害されかけたのを笑って受け流せるほど俺は変人じゃねぇからな。
いきなり現れた大神シャコに天鳥ヤクモは目を丸くしていた。そういえば全く説明していなかったな。というのもこいつが都市伝説で有名な赤ずきんなんです、なんて頭がおかしいと思われても普通だろう。
「えー……っと。俺の後輩の大神シャコ。大家さんの関係者」
「あ、えっ、と……こんにちは」
人見知りが発動したらしく、靴を脱いで車内に入ってきた大神シャコは俺の背中に隠れてしまった。まあ慣れれば図々しいくらい近寄っていくだろう。俺が心配することではない。
「ああ、こんにちは。私は天鳥ヤクモという。よろしく」
好青年な笑みを浮かべて穏やかに挨拶する天鳥ヤクモ。こういう時に真面目って便利だなと思ってしまう。咄嗟の状況でも礼儀正しくできるなんて簡単なことじゃない。美点だな。
樫さんが今度はスカイツリーに向かって運転する。まあすぐそこだ。慌てることもないし、なんなら歩いても良かったかもな。俺はとりあえず城崎マナカ先輩から贈られた物を確認しようと封を開いた。
驚愕で息が止まると思った。同時に急ブレーキ。
樫さんらしくない荒い運転だった。鏡テオはメルヘン兎リュックを抱えて目を回しており、前のめりに倒れそうになった天鳥ヤクモは落ちた眼鏡を拾っていた。どちらもシートベルトのおかげで怪我はなし。
もちろん俺もシートベルトを着用していたから体勢が崩れただけだ。けれど手元から紙袋が離れていき、中身が柔らかな絨毯の上に零れた。眼鏡を装着した天鳥ヤクモが信じられない様子でそれを凝視している。
賢者の石。固有魔法所有者を暴走に至らしめる危険な薬品だ。真っ赤な石。俺が慌てて拾い上げてみれば、林檎飴みたいな堅さだった。これくらいならば歯で噛み砕けるだろうが、そういうことが問題じゃない。
「か、樫~? なにがあったの?」
「すみません、テオ様。道を塞ぐ不届き者がいたので」
厳しい声音で返事した樫さんの視線を追う。フロントガラスの向こう側、他に車が走っていない道路の真ん中。聖クリスティーナ女学園の制服を着た女子高生達がこちらを睨んでいる。
思わず針山アイの姿を探したが、どうやら今日は来ていないようだ。そしてあの制服の女子高生がいるってことは、カーディナルが早々に関わっているのが理解できた。樫さんと椛さんを巻き込むわけにはいかないよな、と思案を巡らせていた俺の耳にエンジンを吹かす音。
嫌な予感しかない。考えてみれば、鏡テオの付き人って大体はっちゃけた大人ばかりじゃないか。梢さんとか、梢さんとか、梢さんとか。大事なことだから心の中で思わず三回も名前を出してしまうほどだ。
「皆様、シートベルトにしがみつきながらおかけになってください」
「何する気だよ!?」
「轢きます」
怖っ。冷淡な声で告げられたせいか、恐怖二割り増しだった。天鳥ヤクモが制止の声を出す前に、勢いよく踏み込まれたアクセルを表現するような急発進。加圧、というのか背中が仰け反るような速度を感じた。
フロントガラス越しで見えたのは流石に慌てて道を譲った女子高生達。そりゃあ本能的にも危険と判断したのだろう。固有魔法を使って止める暇もないほどの潔すぎる殺意。樫さんはまともな方だと信じていたかったぜ。
「テオ様、俺達は戦闘では役に立ちません。梓経由で
「大丈夫! シャコがいるもん。じゃあサイタ、ヤクモ、扉を開けて!」
急ブレーキの衝撃が体に響く最中。椛さんの報告を受け止めながら、鏡テオは手早くシートベルトを外していた。そして俺達を手招きする。なるほど、樫さんは相手が車を避けている内に走れ、という意味で行動していたのか。
俺はポケットに賢者の石を入れた紙袋をねじ込む。どうして城崎マナカ先輩がこれを寄越したのかわからないが、今は枢クルリが優先だ。状況に思考が追いついていない天鳥ヤクモの首根っこを掴み、大神シャコと共に道路へと飛び出る。
予想通り、人払いの気配。不自然なほど車の通行がないし、人通りも俺達以外に見当たらない。観光名所で有名なスカイツリーの近くだというのにだ。相変わらず手際の良いことだ。
だがこれで人目を気にして行動する必要はない。俺達が降りた後、樫さんは車を過激な運転で勢いよく反対車線へ。そして再度動き出そうと身構えていた女子高生達に向かって突進していく。
ほ、本気で轢き殺すような真似は止めてくれよと思う。けれどまあ樫さんの運転技術ならば威嚇として最後の一回として有効なのだろう。実際、二度目の突進に身構えた女子高生達の横を過ぎ去ってリムジン車は夜の街に消えていった。
「樫と椛なら得意分野がはっきりしてるから、このまま邪魔にならないように逃げて安全地帯から連絡待ちだと思うよ。楡と桐は確か仕事中だから、駆けつけるの遅いみたい」
「期待するなってことだろ? いいさ、別に。元々俺達で解決できる問題だからな」
「ね、ね、ね! シャコを連れてきて正解だったでしょ、先輩! 褒めてー!」
「へーへー。頼りにしてるぜ、後輩」
飛びついて抱きつきそうな勢いの大神シャコへ適当に返事し、とりあえず東京スカイツリーに向かって走り続ける。状況が飲み込めない天鳥ヤクモも流石に自らの足で動き始めた。背後からは追いかけてくる足音。
「でもどうする? シャコが盾になってもいいけど、そうすると契約問題が起きて後で六番に怒られそう。シャコ、怒られるの好きじゃない」
「打撃系の固有魔法なら俺の鱗で耐えられると思うが、相手にするのも時間がかかりそうだ」
「……相手は固有魔法で攻撃してくる、という前提で良いんだな?」
「まあ……そうだな」
確認を取ってくる天鳥ヤクモに俺は曖昧に頷く。少なくとも大神シャコみたいに改造モデルガンとか大鎌で攻撃、という凶悪行為はないと思いたい。希望的観測だが、追いかけてくる奴らは目立った武器を持っていない。
すると天鳥ヤクモが道を塞ぐように立ち止まった。慌てて俺も足を止め、鏡テオもこちらを振り向いてくる。大神シャコは既に固有魔法で赤いフード付きローブを羽織っていた。
「ならば対処できる。私に任せろ」
そう言った天鳥ヤクモの手にいつの間にか黒い木刀が現れていた。木に漆を塗ったような光沢だ。少し高級感溢れる外観だが、固有魔法所有者に武器が効くかは相手によるぞ。
木刀の正体を聞く前に、目の前で火花が空気を伝うように幾千と迫ってきた。よく見れば火花を出した女子高生の目が赤い。まさか賢者の石を服用しているのか。暴走した固有魔法で、範囲攻撃。
これには俺の固有魔法【
「これが私の固有魔法【
天鳥ヤクモが木刀を一振り。同時に真っ黒な燕が一羽、空を飛ぶ。本来なら赤い頭や黄色の嘴、白い体毛さえも黒く染まっている。まるで墨に濡れたようだ。燕が火花に触れた途端、全て消失した。
「……魔法無効系か?」
「そうだ。幾千の火花とはいえ、一回の魔法発動で出したのならば、一羽で充分だ」
天鳥ヤクモが言っていた止める方法ってこれか。確かに固有魔法所有者相手、いや、もしかしたら魔人相手にも大いに有効な固有魔法だ。もちろんこの魔法無効自体が固有魔法であるため、無効を無効にするという事例もあるらしいけれどよ。
なんにせよ心強いな。これがもし性格悪い奴の固有魔法だったら警戒するけれどよ、味方と判明している天鳥ヤクモならば百人力だ。真面目で良い奴っていうのもわかっている。つまりは珍しく俺達が有利だ。
「私達はこれから友を迎えに行く。邪魔をするならば、容赦はしない!!!!」
俺、初めて天鳥ヤクモをカッコイイと思ったかもしれない。いいぞ、もっとやれ。
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