4話「世界はクローズドサークル」

 燕が飛んでいくのを指差した子供の頃。青い空を駆けていくその姿を見失わないように、目を輝かせて追いかけたくなった。しかし眩しすぎる太陽に視界を奪われて、瞼を閉じれば黒い燕も消えていた。

 あの燕は何処へ行ったのだろうか。寒い場所では死んでしまうから、暖かい場所を目指しているのだろう。そこはきっと優しい所なのだ。あんなにも懸命に飛んでいるのだから、そうであってほしい。

 だからだろうか。童話の親指姫が嫌いだった。彼女は努力も忘れて、めそめそと泣いて、その愛らしさから同情を買って、全て捨てていく。最初に子供を欲しがった女性の下に帰らず、助けてくれた鼠の老婆の好意も無駄にして、逃がしてくれた燕の気持ちに気付かない。


 まるで自分みたいで、嫌いだ。


 最後に王子様と幸せになる。それは紛れもなくハッピーエンドだ。終わりよければ全てよし、という言葉がよく似合う。素晴らしい未来を歩む。結構なことだ。ではその土台に意味はないのか。最初に子供を欲しがって魔法使いを頼った女性の哀しみさえ知らぬままでいいのか。

 親指姫が嫌いだ。あんな小さくて愛らしい少女と自分が重なる。だから指差す。君は私ではない。私は努力した。大抵のことは一人でできる。学力も、運動も、申し分ない。泣き虫ではないし、弱虫でもない。そして私は、君のように好かれるような人間ではない。

 しかし指差した先にいたのは、世界の頂点で戦った過去の友人。彼が背中を向けて去っていく。だけれど恐ろしいくらいに指が降ろせない。背後で燕の声に負けない程の醜い言葉が木霊している。もう一度、小さな少女と自分が重なった。世界の頂点に一人だけ立っている。ハッピーエンドだ。私は正々堂々と勝負した。間違っていない。


 なのに後悔だけが息を止めようとしてくる。


 わかっている。親指姫はなにも間違っていない。彼女が燕を助けようとした想いも、大好きな女性と別れたことで泣いたのも、なに一つ間違いではない。私と同じだ。しかし認めたくない。だって私は失ってばかりで、彼女みたいに幸せになれないのだから。

 憤りの裏に哀しみがある。怒りの表に喪失がある。なるほど。憤怒とは罪だ。得た物全てにひび割れを起こす感情だ。誰かを傷つけるだけじゃなく、自らも殺しかねない罪悪だ。だからもう二度と怒らないようにしよう。優しい誰かになろう。

 ──あの燕は何処へ行ったのだろうか。潰れ消え行く夕陽を背に、私こと天鳥あまとりヤクモは願うだけだ。暖かく穏やかな場所で幸せになっていればいい。親指姫を助けた優しい恋する燕。想い叶わなかったとしても、それはきっと無駄じゃないのだから。




 昼休みから疲れた。放課後の時点で足取りが怪しい俺、雑賀さいがサイタは六限目の授業が終わって早々と帰り支度を済ませるくらいだ。同じ野球部の西山トウゴには体調不良故の休みを伝えているので問題ない。まあこの学校の野球部は軟式で、甲子園とは一切縁がないしな。ゆるい部活動だ。

 気怠いまま廊下を歩いていて、横から伸びてきた手に引きずり込まれる。女の子の細い腕でも引っ張れるほどの憔悴だったのか、俺。金属製のロッカーとはいえ、夏は暑い。背中の金属板は冷たい。だけど胸の上に寄りかかってくる柔らかい体も低体温を伝えてくる。


「ふふ、捕まえた」


 最悪だ。魔女に捕まった。同級生の藤木ユキエ。色々な男を誘惑する悪い魔女だ。これで本人は悪気がないものだから悪質だ。俺よりも小さな体に折れそうなほど細い体型。それでも女の子らしい柔らかい感触が胸と腹の間に圧し掛かっている。

 しかし珍しいな。こいつは興味を持ってきた相手を捕食する食虫植物みたいな奴で、自らが動いて狩りをする肉食動物な女子ではない。それを一年の頃に知ったからこそ、俺はこいつには近づかないでおこうと心に決めたんだが。

 すると藤木ユキエは何処から出したのか、俺と自分の胸の隙間に保温性の水筒を下から上に突き上げるように差し出してきた。そういえば前日にホットチョコドリンクを渡したのを忘れていた。しかし中村トシキから返してくる物だと考えていたぞ。


「貴方の熱さが喉を通り過ぎて体内に巡って昂ぶる……最高だったわ」

「誤解しか招かない発言!! ホットチョコくらいでそんな発言すんな!!」


 やっぱりこの性悪魔女苦手だ。これはもう事態がややこしくなる前にロッカーから出なくてはいけない。藤木ユキエの体を押しのけて、片腕を伸ばす。モップが落ちないように少しだけ閉まり方が頑丈とはいえ、すぐ動くはずだった。

 開かない。もう一度、強く押す。結果は同じだった。俺の力が足りないのか。少し混乱し始めた俺の胸元で、軽やかな振動。笑っていやがるな、藤木ユキエ。なにが面白いのかわからんが、俺は一刻も早くお前から離れたいんだよ。


「駄目よ、駄目。だって世界の全てがここだけになったもの」

「は?」

「魔法。とっても素敵でしょう? この狭い世界に私達だけ。まるでアダムとイヴみたいね」


 薄汚い掃除用具入れのロッカーが世界の全てなんて御免だけどな。いや本当に藤木ユキエがイヴとか悪夢過ぎる。むしろ与太話で聞いたアダムにとって初めての妻だったリリスの方がしっくりする。

 確かリリスってのは後に悪魔になるんだよな。西山トウゴがゲームの資料集を見せてくれた時に憶えただけ。ついでに魔女ってのは悪魔と契約した人間のことであって、男性も該当するとかなんとかな。

 どうでもいい知識を思い出してる場合じゃなかったな。即座にこのロッカーから脱出しなくてはいけない。ただでさえこいつと関わって昨日は散々な目に遭ったというのに、こんな狭い場所で密着状態。最悪と言うしかない。


「ねえ。私を愛してくれる?」

「絶対に嫌だね。薄気味悪い魔女に手を出すほど落ちぶれてねぇよ」

「……ふふっ。正直者ね。いいわ、じゃあ痛い目を見てもらうから」


 藤木ユキエがそう言った直後、体を仰け反らせた。同時に開く扉。首筋に抱きつかれていた俺はそのまま倒れるしかない。しかし床に着地する寸前、藤木ユキエを押し潰す想像を膨らませた。こいつは細い上に、小さい。

 いくら俺がチ……少々小柄とはいえ、女を下敷きにするのは後味が悪い。とりあえず左手を藤木ユキエの背中に回し、床に向かって右手を伸ばす。手首と肘あたりに痺れる痛みが走ったが、彼女が頭をぶつけるという事態は避けられたはずだ。

 痛みで強く瞼を閉じていた俺の背筋に冷気。覚えがあるぞ、この予感。瞼を薄く開ければ、頬を赤らめてこちらを見つめている藤木ユキエ。演技なのか、口元を両手で隠している。言っとくけど、そんな少女漫画みたいなハプニングは起こしてないからな。


 ゆっくりと顔を上げる。予想通り。昨日と同じくペットボトルを床に落として静止している多々良たたらララ。見下ろしている、というよりは見下していると表現するべきだな。無表情なのがなおさら怖い。


「サイタ……藤木さんと仲がいいんだ」

「誤解だ!! 俺はこの性悪魔女が苦手なんだよ!!」

「酷いわ、雑賀くん……私をロッカーに連れ込んだのは貴方じゃない」


 怖い。この性悪魔女、本当に恐怖の塊だ。俺じゃないと証明するには、証拠が何一つない。どうする。多々良ララの誤解を解きたいが、昨日の今日とか、言い訳しにくい状況とか、問題だけが山積みだ。


「……いや。サイタはそんな馬鹿なことしないでしょ」


 おや?


「むしろされる側というか……藤木さん、あまりからかうと可哀想だよ」

「……あら残念。ばれちゃった」


 ばれちゃった、じゃねぇよ。しかし多々良ララ、俺はお前に対しての信頼度的なものが大幅アップしたぞ。まあ色々とツッコミたいことは多いが、むしろなんだか意気地なしと言外に言われたような気もするが、なんにせよ誤解が解けるならば無視してもいい。

 俺はとりあえず藤木ユキエから離れるために立ち上がる。背中は事前に床につけているから、いきなり体を打ち付けるということはないはずだ。ロッカーに落ちた水筒も回収する。俺、今日だけで女子二人に弄ばれているような。疲れが半端ない。


「サイタ、アタシはカノンの見舞いがあるから、今日も帰り遅いの。夕ご飯、残しておいてね」

「おう……」


 そしてクールに去る多々良ララ。藤木ユキエは彼女の背中を見送って、小さく笑った。俺はその笑い声で背筋に悪寒が走るのがわかった。


「きひっ」


 この耳に障る笑い方を藤木ユキエは時たまするのだ。もちろん愛が欲しい相手には絶対見せないし、聞かせない。俺は一年の頃に偶然耳に届き、そこでこいつが猫被っていることがわかったんだ。

 スカートの裾についた埃を払い、優雅に立ち上がる藤木ユキエ。手櫛で長い金髪を梳きながら、俺へと笑みを向けてくるが視線を逸らしておく。こいつの琥珀色の目は魔性だ。黄色にひたすら近い、蜂蜜みたいな甘さに騙される男が多数いるしな。

 それにしても藤木ユキエは固有魔法所有者だったのか。だとするとさっきのロッカーでも固有魔法を使ったのだろうか。それにしては違和感があるんだよな。あの時、本当にロッカーの外には世界がないと思いかけたくらいに、扉の外側になんの気配も、音も、生活に普遍的に存在する全てが消えていたような。


「私の出番はまだみたいね。ふふっ、貴方が私を頼る日が楽しみだわ」

「藤木……その口調も演技だろう。なに考えていやがる」

「……きひっ。お見事。まあ今は関係ないよ、雑賀くん。僕は僕なりにやることが多くてね。ばいばーい」


 ははっ。俺相手には臆面もなく本性を見せに来やがったぞ、あの魔女。何事もなかったかのように颯爽と去って行く小さな体が確実に視界から消えた。俺はこれ以上学校内で面倒事に巻き込まれたくないため、走り出す。

 せめて家の中だけでも平穏を確保したいというのに、肝心の猫耳野郎が失踪中のままだ。あんにゃろう、行き先くらい残しておけよ。一体なに考えてるかわからんが、お前用に保存している天麩羅蕎麦は今日までしか保たない。冷蔵庫の中とはいえ、夏場の痛み速度をなめてはいけない。

 そういえば今日の夕飯内容も思いついていない。仕方ない、あいつに頼るのは癪なんだが、これから会う理由が昼休みにできている。買い物しながらメニューを思考し、を調理しなくてはいけない。


 まだ夕焼けが訪れない街中を歩いて行く。東京の歩道で走るのはなかなかに危険行為だからな。仕方ない。冷やし中華の気分だ。ハムに、胡瓜、トマト、錦糸卵。好みでモヤシを追加してもいいな。これから会う奴にも食べるかどうか聞かないと。そしたら六人分だ。

学内での運が悪かった分、外では運が良かったようだ。いつものスーパーへと続く道に、昨日と同じように天鳥ヤクモが鞄を脇に挟みながら、単語帳片手に立っていた。赤い太縁眼鏡に燕尾みたいな髪型。塾通いとか言ってたな。

 俺に気づいて天鳥ヤクモが顔を上げた。優等生らしい笑顔で手を振ろうとした矢先、ミニパトのサイレンとバイクの排気音。通り過ぎた仮面ライ……いやこれは語弊があるな。変態仮面……も微妙だな。慈愛の魔人ナルキズムが婦警に追われていた。


『そこのバイク止まりなさーい!! というか、またか!!』

「はーはっははははは!!!! またもなにも、明日明後日も我が愛機と共に駆け回る所存さ! ハイヤァアアアアアア!!!!」


 俺が知っている限りでは慈愛の魔人というのは狙われているはずなんだが。自由だな、あの変態。改めて天鳥ヤクモに視線を戻すと、目頭を指先で押さえながら苦悩していた。


「姉さん……」

「ん?」

「はっ!? すまない!! その、先ほどバイクに向かって怒鳴っていた婦警が私の姉であるとかそういう話は置いておこう!!」


 別にそこまでは聞いていなかったんだが、自ら白状しやがった。しかも妙に怯えていやがる。さては強力な姉に勝てずに下僕扱いされていた弟系か。微妙に頼りにならなさそうな感じがするな。ちょっと探り入れるか。


「俺も妹二人いたから、女兄妹に勝てないのはよくわかるぜ」

「妹二人……私の家は姉三人だったからな……羨ましい」


 予想以上だった。これは確実に女達が徒党を組み、逆らえなかった構図だ。いやむしろ反逆する気も起こせなかっただろう。幼少時代の恥ずかしい話を持ち出されるだけでギブアップするしかないからな。

 兄弟ってのはそこら辺を上手く活用してくるから。まあ天鳥ヤクモが末っ子てのも意外な話だったが。一人っ子か、もしくは兄とか弟がいる印象だったからな。家では姉に勝てなかった分、外では真面目に強く出られるのかもしれない。

 そして本題を忘れるところだった。周囲が騒がしいと、言いたいことが掻き消える。そう思った矢先、視界を黒い物が横切った。目で追いかければ、燕が低空飛行をしていた。それでも空へと向かう。見上げれば少し雲が出てきていた。雨が降るかもしれないな。


「……燕は暖かい場所へ飛ぶだろうか」

「そういう習性だろう。俺達が心配しなくても行くんじゃねぇの」

「ふむ……一理あるな。だが童話の中では冬に凍え死ぬ燕が多く出てくる物だ」


 この流れは望んでいたが、嫌な予感しかない奴だ。しかし最後まで聞かないと目標達成することもできない。叶うなら無関係で無関心を貫きたかったが、俺は黙って聞き耳を立てる。


「だからかな。私は親指姫の話が苦手なのだよ」

「……嫌いじゃなくて?」

「む、その……好きな人もいるだろう? もしもそんな人の前で嫌いなどと言えば、傷つけてしまう。それは私の意にそぐわない」


 ちっ。判断しづらい。いっそのことはっきり言えばいいのに。まあ気遣いなんだろうな。俺も好きなシンガーの曲を馬鹿にされたら、なんだこいつ、と胡乱な目で睨むだろうし。好き嫌いは良いが、それを誰かの前で言うのには判断力が必要なんだろう。

 食べ物の嫌いは仕方ない。アレルギーならばもっと重要だから宣言してほしい。しかし音楽とか絵画とか、趣味に繋がる部分に関しては細心の注意が必要だな。いやでも童話くらいでそこまで気を遣うのもどうなんだとは思うけど。

 なんか普通に良い奴だよな、天鳥ヤクモ。これが本当にあの引きこもり猫耳野郎の友人だったのか。少しくらい疑うぞ。でも考えてみれば天鳥ヤクモと枢クルリ、そして城崎マナカ先輩。この三人が出会うとすれば、学校しかない。つまり枢クルリは昔、猫耳でも引きこもりでもなかったんだよな。


「しかし燕は好きだ。幸せに……飛び去るなら、それでいい」


 引っかかった。魚の小骨が喉を刺したような、違和感。今のは本音じゃない。少しだけ誤魔化した。そんな気がしたけど、追求しようとは思わない。そういえば城崎マナカ先輩はなんでタトゥーシールに燕を選んだんだ。

 燕、確か藤木ユキエも似た形の首飾りを着けていた。でも藤木ユキエの燕は、どこか違う印象があった。頭の奥と言うよりは勘だ。あいつ自身も言っていたが、今回の件に藤木ユキエは関与していない。

 けど親指姫に燕なんていたか。実は親指姫の話なんてしっかり憶えていない。親指くらい小さなお姫様が泣きながら放浪する童話だった気はするけどよ。なんというかハッピーエンドだったから、まあいいか、と表紙に戻った程度の記憶だ。


「そうだ。今日は私になにか用事でもあったのか? 塾はないが、家で勉強をしようと思っていたのだが」

「あー! そうだ! 城崎マナカ……先輩って御存知?」


 思わず敬語になる。いやだって今日の昼休みに城崎マナカ先輩に若干酷い目に遭わされたんだ。当分はトラウマ案件だろう。というか本当に清純系お嬢様だったか、ここで天鳥ヤクモの証言をとってやろうじゃねぇか。


「城崎くんか。懐かしい名前だ。小学校時代の同級生でな、綺麗な黒髪をした物静かな少女だったよ。温和な性格で、読書姿は青春小説に出てくる麗しい令嬢の如くだった」


 まじか。というかよく憶えているな、そこまで。俺なんか昔の同級生とか仲が良かった奴でも何人か名前を忘れているぞ。顔を見れば話くらいはできるかもしれないけど、名前は最後まで思い出せないだろう。


「そのまま育っていたら聖クリスティーナ女学園の生徒になっていそうだが……普通の進学校を選んだのか。それも人生だな」

「……金髪に染めてるんだけど」

「は?」


 間の抜けた顔。天鳥ヤクモの思考が停止したらしい。おいおい、聖クリスティーナ女学園といえば超絶お嬢様学校で、知り合い……にしとくけどよ、針山アイが通学している学校だよな。あ、でもあそこはカーディナルが関与してたんだっけ。

 高校デビューか、それとも中学か。なんにせよ天鳥ヤクモが知らない間に城崎マナカ先輩は大変革を遂げたらしい。畜生、聞いている限りでは昔の城崎マナカ先輩が好みドストライクな気配しかないじゃねぇか。

 一分くらい静止していた天鳥ヤクモだが、鼻から眼鏡がずれたのを合図に動いた。右手の中指で押し上げ、額に流れた汗を清潔そうなハンカチで拭いている。相当動揺したらしい。今も信じられないといった様子だ。


「そんな……城崎くんが不良になるなんて」

「金髪=不良の図式は古すぎないか。まあいいや。もう少しゆっくり話したいし、今日の晩ご飯に招待するんで買い物に付き合ってくれないか?」

「それはありがたいが、急な来訪に御家族などの了承をとった方が……」

「俺、一応一人暮らしなんで。まあ最近はご飯をたかりに来る同級生と同じマンションに住む奴と、同居人……あと引きこもりが帰ってくれば……」


 言っていて虚しくなってきた。まともな奴が同級生くらいしかいないし、これ本当に一人暮らしの奴が口にする内容じゃない。天鳥ヤクモも不可解な物を見る目だ。俺だって知り合いにこんなこと打ち明けられたら、騙されているんじゃないかと心配する。

 しかし悠長にしている暇はなかった。雲が少しずつ空を隠し始めて、唸る雷の音が遠くから迫っている。これは夕立が来る。急いで買い物をしなくては洗濯の手間が増えてしまう。


「とにかく! 買い物に付き合え!! 六人分の冷やし中華を買うんだ!! エコバッグは充分だが、手が足りない! 食いたければ働け!!」

「しょ、承知した! それでは御相伴にあずかろう」


 急いでスーパーに向かい、タイムセールで本気を見せた主婦の波を掻い潜り、ついでに安売りしていた白玉粉を購入しておく。食後にバニラアイスと餡子を添えれば、なんと立派なデザートに早変わり。作り方も単純だしな。

 昔、妹達に暑い日にアイスだけじゃ満足できないと駄々こねられた経験が活きる。しかし感謝するには、記憶の中でアイスだけで充分だという俺の背中を叩きまくる妹の姿が浮かぶんで、微妙な気分だ。

 そして天鳥ヤクモの野郎、エコバッグに物を詰め込むのが下手すぎる上に遅い。こういうのを全然やったことがない奴の動きだ。レジが立て込んでいる時間帯において、荷台の混雑はお店側としては致命的。俺は重くて壊れにくいのを下に敷く術や、牛乳パックの効率的な入れ方などを伝授して、早々と詰め終える。


 途中までは暗雲が広がっているだけだったが、都心名物ゲリラ豪雨はあと少しでマンションに辿り着くタイミングで降り出した。バケツの水を被せられたように全身がずぶ濡れになるが、ここまで来たら駆け込むだけだ。

 眼鏡が濡れて前が見えないと背後で叫ぶ天鳥ヤクモだが、雷と豪雨で聞こえないフリをする。こんな時に眼鏡にワイパー装着できたら便利だろうなとか馬鹿なことを考えている暇はない。裸眼だって目に雨が直撃なんだよ。引き分けイーブンだ。

 ようやく玄関に辿り着いた俺は、扉に背中を預けて息を荒らげる天鳥ヤクモに、タオルをとってくるから待機しておくように指示する。濡れた男二人が動くとか、掃除の手間が増える。浴室のバスタオル二枚を手に、玄関へと戻る。


 天鳥ヤクモからエコバッグを受け取り、荒く水滴を拭き取りながら台所に移動。白玉粉の袋は無事だ。なにせスーパーの備え付けビニール袋で保護していたからな。ここらへんが生活の知恵という奴だ。

 とか思っていたら、台所の洗い桶に冷蔵庫で保存していた天麩羅や蕎麦を入れた食品保存容器が洗剤液に浸かっている。確か俺は鍵をかけたはずなんだが、まさか大家さんのマスターキーを使って大神おおかみシャコが侵入したか。許可なく食事すんな。

 矢先、冷蔵庫の扉に見慣れない紙が貼ってある。普段はそこにゴミ捨てカレンダーや大家さんからのお知らせなどを貼り付けているのだが、それは手書きの小さな文字が書かれたメモだった。濡らさないように手にしていたバスタオルで指先を拭き、メモを掴む。


【ごちそうさま。おいしかった。クルリ】


 え? あの猫耳野郎がお礼? 俺は夢でも見ているのか。というか、意外とあいつ可愛い文字を書くんだな。線が細そうな、自己主張の薄い小さな字。しかし読みやすい。多々良ララの綺麗な字とは違う、けど猫耳野郎らしい文字だった。


「雑賀くん。私はこの後、どうすればいい?」

「あ、そうだった。えーと、俺と身長が近いみたいだし、着替えを渡すんで風呂でも……」


 相手は受験生。風邪は大敵だ。そう思って体を温めるように勧めた俺の視界に仰天映像。いや、まあそこまで大袈裟にしなくてもいい事柄なんだが、たまには例外を作ってほしいと怒っても良いだろう。

 シャツの裾を絞って水をバスタオルに吸収させている天鳥ヤクモ。そのため腹がわずかに曝け出されていた。意外と鍛えているのか、薄らと腹筋が見えるが、注目すべきところはそこではない。臍の左側。正確には左脇腹だ。燕の形をした黒い痣があった。

 一瞬、タトゥーシールかとも疑ったが、アレはお洒落目的で目立つ場所に貼る物だ。それに生真面目そうな天鳥ヤクモが手を出すとは思えないし、あれだけ濡れて剥がれないシールというのも変だった。


「どうした? む……ああ、そうか。固有魔法所有者の痣は目立つからな」

「アンタもかよ……」

「も、ということは雑賀くんもか。まあ二人に一人は当てはまる話だしな」


 そう言って快活に笑う天鳥ヤクモだが、問題はそこじゃねぇんだよ。ということはやっぱりこいつは憤怒の親指姫候補になるな。すまない、俺のせいで巻き込む感じに、じゃないな。考えてみれば最初に天鳥ヤクモから話しかけてきたんだった。

 今更な内容だから、詳しいことは省略しておこう。なんにせよ天鳥ヤクモが風邪を引くのを避けなくては。浴室を案内して、着替えは後で用意しておくと告げる。つでいに一言追加な。


「俺もヤクモ呼び捨てなんだし、そっちも呼び捨てでいいぜ」

「了解した。風呂を借りるぞ、雑賀」


 浴室の扉が閉まると同時に、俺は自分の部屋へと向かう。愛用の漢字Tシャツに半ズボンで良いか。下着……は友人が着替えなしで来た際に用意しておいた未使用のコンビニパンツがある。俺は間違っても他人にパンツは貸さないからな。

 ちなみに漢字Tシャツに書かれているのは、燕雀、と少しかっこいい奴だ。まあ天鳥ヤクモのイメージに丁度良いだろう。それらを綺麗に畳んで、浴室の扉をノック。シャワーを浴びているから、入っていきなり悲鳴という事態はないな。

 というわけで着替えを置いて、次に玄関から移動したが故にこぼれ落ちまくった水滴の処理。しかし夕飯の時間も差し迫ってるし、手が足りないパート二だ。悩みそうになった矢先、もう一人の帰還者。


「ただいまっす。あ、サイタの兄貴が先に帰ってたんすね」

「よし! ヤマト、悪いけど掃除を頼めるか? その分、今日は大盛りにしてやる」

「うぃっす。任せてください。じゃあまずはバスタオルください」


 折り畳み傘を持っていた大和だいわヤマトも盛大に濡れていたが、俺や天鳥ヤクモに比べればまだマシだった。なんにせよ大和ヤマトならば安心して掃除を任せられる。バイトマンなこいつは仕事ができる。

 新たなバスタオルと掃除用具を大和ヤマトに渡し、掃除を終えたら風呂に入って湯を浴槽に貯めるように頼んでおく。客人に湯を沸かしてくれと言うのも変な話だし、大和ヤマトが掃除を終了する頃には天鳥ヤクモも出ているだろう。

 これで食事の準備ができる。エコバッグに手を伸ばした俺の視界に、枢クルリが残したであろうメモが。なんかこう、普段と違う行動をしているせいか不信感しかない。まじであの引きこもり猫耳野郎はなにを考えていやがる。


「サイター! 今日のご飯なにー?」


 俺の悩みを吹き飛ばすような明るい声。かがみテオが全く濡れていない様子で枢クルリの部屋からやってきた。なんでだよ。


「冷やし中華と白玉デザートだけど……なんでテオがクルリの部屋から?」

「だってさっきまでクルリと一緒だったもん」


 危うく手にしていた白玉粉の袋を落とすところだった。なんで、そこで、引き留めておかないんだよ。しかし鏡テオの性格だと確実に哀願するように枢クルリを留めたはず。それを振り払ったか、猫耳野郎。


「梓が居場所を突き止めたら、このマンションにいるって夕方電話があってね。試しにクルリの部屋に向かったら鍵が開いてて、天麩羅蕎麦を食べてたよ!」


 有能だな、出会ったことのない梓さんとやら。さすがは鏡テオの護衛七人衆(仮)の一人なだけはある。というか結局天麩羅と蕎麦は食べたんかい、あの猫耳野郎。まあ無駄にならなくて良かったけどよ、餌だけ頂戴に来る野良猫か。

 詳しく聞けば、梓さんから電話を受けて雨が降り出す数時間前に鏡テオは帰ってきたらしい。そこで髪切って服装も変えた枢クルリにばったり遭遇。尋ねてみれば忘れ物をしたとのこと。鏡テオは、美味しかった天麩羅蕎麦が残ってるから口に入れた方が良い、と催促したらしい。

 枢クルリが食事している間に鏡テオは質問しまくったらしいが、あまり答えてくれなかったそうだ。ただ一つ、猫耳バンダナはやめて猫耳フードにしたのは気分転換だとか。その情報はいらなかったな。


「クルリと話している間に眠くなっちゃって、お昼寝してたらクルリ出かけてた」


 自由か。しかし鏡テオとしても少し反省するべき部分らしく、眉尻を下げるゴールデンレトリバーのような顔をされては怒れない。とにかく冷やし中華を調理し、食べながらゆっくり話を聞いた方が良さそうだ。この後、天鳥ヤクモが風呂から上がれば鏡テオの質問攻めもあるだろうしな。

 本格的に枢クルリの居場所を探す必要が出てきたな。とりあえず猫耳が健在ならば、なんとかなるだろう。なにせ、猫耳の印象が強すぎて既に顔が朧気だ。早く探し当てなくてはと思いながら、胡瓜を刻む速度を上げるのであった。

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