憤怒編

ワールドエンドに妥当な憤怒を抱いて燕が飛ぶバベルタワー

1話「アタックモーションは激しくね」

 違和感が消えない。一日中、猫耳が頭から離れない。これが可愛い女の子が着けている猫耳ならば、まあ妄想豊かなんですね、とか誤魔化せるんだが残念ながら猫耳野郎のことである。そんな理不尽な目に合っている男子高校生の雑賀さいがサイタ、つまり俺は昼休み前の四限目で数学の教師に怒られた。

 三限目の古文の教科書を出したまま、云々と唸っていたからだ。ただでさえ東京の一時区画封鎖による混乱から臨時休日を与えられた教師達は、授業の遅れに嘆いている。そこに生徒からの授業進行妨害ともなれば怒りは最もである。いや、聞いた話によると臨時休日は生徒達には歓喜の声だが、教師達は少し違う。

 連絡網の中心となり、上司である校長や教頭が必死に次々と迫ってくる情報に対応するために学校へいたのだ。家族には泣かれることだが、仕事第一ということ。これが台風の日とか大きな地震の時も同じようで、簡単に要約すると一大事な時こそ教師は登校してください、ということだ。


 おかげで昼休みに職員室呼び出しを食らった。いやもう昼休みに食らうのは弁当だけでいいんだけど、今回に関しては猫耳に気を取られた俺の不甲斐なさというか、本当にもう腹立つなあの猫耳。初見のインパクトがでかすぎて、上手く顔が思い出せない。本当にここ数日猫耳野郎ことくるるクルリの顔をまともに見てないのだと思い知らされる。

 一昨日の暴食と魔人関係、ついでに大家さん黒幕疑惑に後輩の大神おおかみシャコが都市伝説殺人鬼疑惑など山盛りだったことを思い出して、正直食欲がない。いやでも放課後に野球部の練習があると思うと、こんな七月頭に食事抜きの運動は生命活動にまで影響を及ぼす。俺が倒れたら何人かが適当な食事をする。それだけは避けなくては。

 というか、待てよ。猫耳野郎以外は俺がいなくても、まともな食事ができるんじゃないかと、ふと思い当る。同級生で同じマンションに住む女子高生の多々良たたらララは料理ができないだけ。好き嫌いがないからサラダとかもかなり食べる。食事量が女子と思って侮っていると痛い目見るだけで、別に適当な食事ではない。


 次はストリートミュージシャンをやっているかがみテオ。副業でホストしているくぬぎさんにしろ、ドイツと日本を行き来しているこずえさんにしろ、最近存在を知った運転手のかしさんにしても。鏡テオを飢えさせるということはしないし、鏡テオの過去の経歴から考えて下手な食事はさせないはずだ。むしろ俺が作るよりも健康的な料理を出すかもしれない。味は二の次かもしれないけどな。

 その次は一昨日の一件で俺と同居状態になった大和だいわヤマトだが、こいつに関してはバイトとか幼馴染とか家族公認の家出、なにより常に腹を減らせていることからバイト先でも賄いの飯を食べられることも含めて、飢えるということはないだろう。好物があるかどうかはまだ知らないが、人から与えられた料理は食べられる限りはなんでも食べるみたいだしな。幼馴染の三浦みうらリンの下手くそに切られた人参をしっかり食べていたのを見ているし。

 つまり問題は枢クルリだけ。俺の食事が出ないとなればコンビニで菓子パンとか芋揚げとか、栄養バランスが偏った物を食べながらゲームをするだろう。そのことだけは阻止しなくてはいけないが、でもなんか変な感覚が残っている。まあ今日の大神シャコによる奇行のせいで若干放置してた負い目もあるんだけどな。


「聞いてるのかぁっ、雑賀!!!!」

「っ、はい!!すんません!!!!」


 説教を上の空で聞いていた俺に怒りを露わにする数学教師の八神やがみダイチ先生。熱血漢でいい先生なんだが、些か声が大きい。そんでもって野球部顧問なので、俺としてはもう直立姿勢を保つしかない。近くにいた新任の海原うなばらリンゴ先生が俺を庇おうとしてくれているが、その糸口が掴めなくて右往左往している。

 そんな最中、俺の背中を優しく爪先でなぞる感覚。最近、爪には良い思い出がない俺としては慌てて振り向くしかない。下手したら殺されるんじゃないかという、できれば無関係でありたかった強迫観念が思考も挟まない条件反射を俺に植え付けている。


「それくらいにしたら?八神センセー。海原っちも困ってるみたいだしぃ?」

城崎きざき!お前はお前でまた遅刻したのを忘れているのか!?飛空ひくう先生がそろそろ遅刻と校則違反の減点で卒業が危ないとお前を気にかけているんだぞ?」

「だーいじょうぶだって。アタシぃ、こう見えて要領がいいしぃ。頭も悪くないの、八神センセーも知ってんじゃん?」

「城崎先輩……まさか」


 城崎マナカ先輩。パーマをかけて柔らかい広がりを見せる金髪は肩下まで伸ばしている。染色のしすぎで痛み始めているが、それさえも味のある風味へと変えていく雰囲気の女子高生。がっつりメイクだが、本人的にはナチュラルを意識しているらしい。リボンタイやネクタイも外して、シャツのボタンは第三まで開けている。ぎりぎり下着が見えそうで、見えない露出。

 もちろんスカートは膝上すぎて、太腿さえもほぼ隠せていない。本人的には男子高校生のサービスとか男前に笑うから、女子人気は悪くないとか。蒸れるのが嫌いだとかで靴下は履いてないのは清潔感としてはどうなんだ。肉付きの良い素足を思う存分曝け出しており、女子が憧れるモデル体型とは少し違う。アクション女優みたいな感じだな。そんで巨乳なのだが、どうにも色気がないように感じるのは何故だろうか。

 気質の問題かもしれないが、派手なネイルアートに手首にはシュシュを幾重にも着けている。うちの学校は基本的に自由な校則だが、過度な装飾は禁じられている。だというのに大きなハート形の輪っかピアスは下手すると先住民の装飾かと思ってしまうほど大きい。


「それに雑賀はアタシよりまともっしょ。料理美味いしぃ?そんなわけで危機を救った先輩に夕飯奢ってちょーよ、ね?」

「やっぱりか!!嫌ですよ、先輩好き勝手に食べる癖に注文多いし!今度はアレ作ってーとか、コレ食べたいとか!一人暮らしの食費は余裕がないって言ってるのに!!」

「そんなこと言っていいのかにゃー?アタシぃ、知ってるんだよ……最近、家の中に大勢連れ込んで金に余裕あるんだろぉ?」


 目の前で呆れて声が出ない八神先生に聞こえないように、艶のある口紅で彩られた唇から囁かれた言葉に俺の思考が停止する。何故か城崎マナカ先輩は情報通で、何処から手に入れたかもわからないことを伝えてくる。人の口に戸は立てられないというが、この人の場合は鉄の扉を取り付けた方が良さそうだ。

 しかも言葉選びがまた誤解を生むような感じで使ってくるので、俺はこの城崎マナカ先輩が苦手だ。簡単に言えば、この人を横にして街を歩くだけで噂される、という類の人物だ。美人だから噂されたいと言う奴も多くいるが、俺としては好みの正反対を地で行く人なので無関係を貫きたかったんだけどな。

 ある時、調理実習で作った俺の料理が流れに流れてこの人の口に入ったらしく、変に気に入れられてしまった。時たま猫のようにふらりと俺の前に現れてはからかってくるし、マンションにまでついて来て飯をたかるのだ。前の一人暮らしならばまだしも、今は色々と問題が多い気がする。


「はぁ……城崎、お前の志望は四年大学……しかも有名私立だろう?推薦も視野に入れていると聞いたが、そんな中で遅刻や素行の問題はお前のためにならないぞ」

「平気平気!大学駄目だったら就職でもいいし、専門学校で美容師目指すのもいいなーとか思ってるし。大学に行きたいのは単純にサークル目当てと出会い目的だしさ、別に道は一つじゃないんだよ、八神センセー」

「その前向きさを受験で悩んでる生徒に分けてやりたいくらいだよ。わかった、雑賀への説教はここまでだ。雑賀、俺の授業もそうだが、他の先生の授業でも真面目に受けなさい。高校は中学と違って義務ではない。お前達が自ら望んで受けていることを忘れないように」

「はい、すいませんでした」


 俺としてはもう素直に謝るしかない。というか反論しても馬鹿を露呈するだけだ。全面的に俺が悪い。学費を自分で払っているならまだしも、高校ってのはどうしても義務教育の延長戦だと甘く見ている奴が多いが、俺はただでさえ両親がバカップルなのでそこらへんは気をつけるようにしている。

 そんで肩を落としながら職員室を背中に去るわけだが、何故か城崎マナカ先輩がついてくる。嫌な予感しかしないが、下手に振り向いてしまうと玩具にされそうな気もする。このまま無視して教室に戻ろうかと思った矢先、口喧嘩のような声が曲がり角から近付いてきた。


「なんでだ、藤木さん!俺は貴女に貢いできた!!なのに、なんで!?」

「私は別にお金とか物が欲しかったわけじゃないの。愛が欲しかったの。それなのに貴方が勘違いして贈り物をしてきただけ。高くなくてもいいわ、心があるなら。手作りでもいいわよ、愛があるなら」


 なんだか微妙に聞いたことがあるようなフレーズが。背中には城崎マナカ先輩。そして前面から迫ってくる気配は俺が城崎マナカ先輩と同じくらい苦手としている同級生の美少女。藤木ふじきユキエという色々と噂が絶えない美少女だ。ある意味、城崎マナカ先輩とは真逆の、女子に嫌われている女子筆頭と言うべきか。

 愛らしい顔は西洋人形みたいに整っていて、長い金髪をツインテールにしている。しかもそれは地毛だとか。しかも目が明るい琥珀色、背筋が粟立つほど美しい黄色に見える色彩だ。帰国子女とは聞いているが、あれだけ鮮やかな金髪と琥珀色の目は見たことがない。そんでもって身長も俺よりかなり小さく、小学生高学年と言われても納得する。

 そして曲がり角から姿を現した藤木ユキエは、俺の姿を瞳に映すと蠱惑的な笑みを浮かべた。危機感を覚えて逃げ出す前に、軽やかな足取りで近付いてきた。後ろに退きたくてもそこには城崎マナカ先輩。そして後頭部に巨乳の感覚と、首筋を捕えて離さない細く白い腕。これは危険な状況だ。


「ふふ、珍しいわね雑賀。私に捕まるなんて。ねえ甘いお菓子が欲しいわ。心を込めて溶けたチョコレートが大好きよ。熱くて、痛くて、でも病みつきになるの。私のために作ってくれるなら、どんな願い事も叶えてあげるわ」

「アタシはチョコアイスがいいにゃーん。なー作っておくれよー。そしたらいいものあげるからさ。絶対役立つ超秘伝アイテム的な物。そういうの好きだろ、男の子は」

「俺の六限目の授業が家庭科と知っての発言かよ!?しかも材料まで当ててるし!というかこんな暑い時期にホットチョコドリンクとか正気か、藤木!?そしてああもう、間に合わない!!」

「藤木さ……雑賀、お前……そういうキャラじゃなかっただろぉおおおおおおおおおおおお!!!???」


 うるせぇ。俺だってこんな問題女子二人に挟まれたくなかったわ、ボケ。というかよく見れば藤木ユキエに貢いでいた男は、一年の頃に同じ教室で馬鹿騒ぎした中村なかむらトシキだった。いやまあ一年の頃から藤木ユキエ可愛いとかは言っていたが、お前。貢いじゃったか、この性悪魔女に。

 俺の中では藤木ユキエは魔女だ。しかも悪い魔女だ。悪女とかそういうのではないんだよ。付き合い方を間違えると痛い目を見るタイプの女だ。それでいて自分の価値観に揺るぎがない。世界の中心に愛があり、自分はそれを求めていると宣うくらいの女だ。そんな陳腐な言葉さえも、この女が言えば魅惑的な魔法の呪文みたいに変化する。

 愛があれば下手な折り紙さえも心底嬉しそうに受け取る。一年の頃に同じ教室だった時、学祭かなにかで一番綺麗にできた飾り付け用の花を冗談でプレゼントと言って渡した時、俺に微笑みながら髪飾りにしたのはわけがわからなくて怖かった。貴方の想いがこもってて好きよ、と熱っぽい目で言われた時は眩暈がした。


「藤木!!今すぐ俺から離れろ!!そして先輩は胸を押し付けるのやめてください!!俺はこんな些細なことで今までの地位を失いたくな……」


 遠くから、階段でペットボトルを落とす音が聞こえた。階段を下りる途中で無表情のままこちらを見て停止している多々良ララ。クールイケメン女子の感情が読めなくて怖い。だけど突き刺さる硝子の破片みたいな冷気と言えばいいのか、これ以上は死ぬかもしれないという恐怖が襲い掛かってくる。


「……おい、俺を助けてくれ中村。とりあえず藤木はお前が連れていけ。こいつはお前の愛を試してるだけなんだよ。あと貢ぐな。こいつは本気で手作りの花でも喜ぶぞ」


 プライドとかそういう物をかなぐり捨てる時がこんな状況なのは嫌だが、背に腹は変えられない。とりあえず目の前で放心している中村に懇願する。これだから藤木ユキエという魔女は苦手なんだ。必ず女子が誤解するようなタイミングとか状況を作り上げる。だから一年の頃に藤木ユキエは男にばかり囲まれてたし、今もそんな感じだ。

 ただし藤木ユキエという女はそれでいいらしい。愛が欲しい。それは嫌悪はいらないということだ。ある意味潔い。女子に嫌われても男子に愛されるならばいい。だからといって自分から愛するというようなこともない。ただ欲求だけ。徹頭徹尾愛が欲しいだけなのだ、最悪なことにな。

 噂では愛をくれるならば年齢問わずに付き合っているという噂もある。貢物も下手したら宝石を貰っているということも。しかし身に着けているのはツインテールの髪につける赤いリボンの飾りと、細い首を守るように金色の細いチェーンに青二つと赤一つの硝子玉と燕を模ったペンダントトップ。


「多々良さん。こんにちは。ペットボトル落としましたよ?」

「……うん。そうだね。で、なんでそんな阿保みたいな状況になってるの?藤木さん」

「愛を試していただけよ。あとお菓子をおねだりしていたの。彼、六限目は家庭科でお菓子作りなんだもの」

「……サイタ、アタシも食べたい」


 なんだろう、一見は普通の会話のはずなんだが茨の道を歩いているような気分にさせられる。俺はなにも悪くないはずなのに。とりあえず首に腕を回していた藤木ユキエの体を引き離して中村に渡す。細い肩に手を触れた中村は何故か感激していたが、知ったことか。

 次に城崎マナカ先輩から一歩距離を取る。後頭部にあった気持ちいい柔らかさと温もりはなくなったが、それを惜しむ気にはなれなかった。睨みながらお菓子が欲しいと訴える痛いくらいに強い視線、多々良ララがいるからだ。チョコアイスに、ホットチョコドリンクに、多々良ララにはトリュフチョコ作ってやるか。

 トリュフチョコくらいならば簡単だと聞いてたし、ココアパウダーが必要になるから昼休みの間に買い出しを購買で済ませておけばなんとかなるだろう。近くにコンビニもあるから、クラスの奴で珍味を買いに行っているであろう田原リキヤとかに頼んでもいい。


「わかった!わかったから怒るな!って……ララ、お前怒ってるのか?」

「え?えっと……かもしれない。よく、わからない」


 俺への問いかけに多々良ララは目を丸くした。少し考え込んだ後、曖昧な返事だけが俺の耳に届く。もしかして無意識に怒っていたのか。そうだよな、女に囲まれている男を見て、良い気持ちにはならないよな。俺だって街中でそんな男を見たら舌打ちくらいはすると思う。

 そして携帯電話で時間を確認すれば、もうすでに昼休みの三分の一は終わっている。まだご飯を食べていないというのに、これはやばいとその場から走り出そうとした俺の足に悪戯で足を引っかけてきた城崎マナカ先輩。俺の右手から飛び出ていった携帯電話が華麗に廊下の床を滑っていく。

 その先は見事と言うしかなかった。滑った携帯電話は廊下を歩く生徒達の足の間をすり抜けていき、階段へ大胆なダイブ。いやもうこれは紐なしバンジージャンプか、それとも人間飛行大会さながらか。なんにせよ真っ直ぐ飛んだ。ここで拍手してもいいくらいだ。一切落ちる気配を見せずに飛んだ携帯電話は激しい音と共に粉砕した。理由は簡単だ。青空はここにはない。飛んだ先にあるのは携帯電話と比べればあまりにも巨大な壁。古いとはいえ、それを突き破れるはずがない。破片は落ちた先で階段を歩きゲームをしていた西山トウゴによって踏み潰された。


「俺の携帯電話ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 高校二年生夏。小さなことから俺は生活に欠かせない携帯電話を壊してしまったのである。




 携帯電話破壊に関わってしまった城崎マナカ先輩と西山トウゴは、さすがに悪いと思ったのか親に相談したらしい。まあ西山トウゴに関しては事故と処理してもいいのだが、歩きゲームは歩き携帯電話と同じくらい不注意なことだし自省を込めての判断らしい。

 そういえば俺も大神シャコの携帯電話をうっかり壊したが、いつかアレに関して大家さんになにか言われそうだと気付く。その時はまあ素直に謝って、代替品の金額を出そう。ただしちゃんと正規の金額を表示してもらわなければいけない。大家さん金にがめついからな。

 で、とりあえず西山トウゴの親からは後々お詫びの品が贈られてくるとのことで、ついでに通信会社勤務の親父さんのコネで高校近くの携帯電話ショップに事情を話して最新機種を安く買えるように根回ししてくれたとのこと。別に最新機種じゃなくてもいいんだが、御厚意はありがたく受け取っておくのが礼儀だよな。


 そんでもって城崎マナカ先輩からは携帯電話の機種代を持つということで、話が付いたらしい。いくら安くしてもらったとはいえ、最新機種の代金はかなり高いと思うのだが、城崎マナカ先輩曰く父親が会社の社長だとかで、こういう時は後輩として素直に甘えとけということらしい。いや、根本の原因はアンタの悪戯だからな。

 ということで俺は通信プランとかの料金だけ考えていい話になり、親に学校の電話借りて話したら俺に任せるということで終わった。ただし西山トウゴと城崎マナカの御両親には丁寧な挨拶を贈りたいとのことで、とりあえず二人から聞いた贈り先の住所を伝えておく。まあ、これも礼儀だよな。

 踏み潰されたものの、携帯電話に必要な情報チップは無傷だっただけでもありがたい。ここには写真や連絡先を含めた、大事な情報が込められているからな。これが壊れていたらかなり危なかった。あと俺が契約している通信会社と、西山トウゴの親父さん勤務の通信会社が同じおかげで電話番号やメルアド変更もないし、本当に機種を変えるだけで済みそうだ。


 でもまあお金の問題だし、俺が携帯電話片手に走りださなければ良かったわけでもあるから、昼休みの間に材料を多めに買い出ししておく。あと放課後は部活を休もう。携帯電話を新しくするってどうしても時間がかかるため、部活の後では夕飯の準備が間に合わない可能性もあるからな。

 そんでもって六限目の家庭科で俺は今までにない本気モードで手際よくチョコを刻んだりテンパリングしたり生地を焼き上げたりなんだりして、最終的にホットチョコドリンクを洗った水筒に入れて、チョコトリュフを可愛くラッピングし、チョコアイスは保冷容器に保冷剤と一緒に入れて、一番の自信作である苺を乗せたチョコケーキに関しては四分の一を西山トウゴに渡して、四分の一を城崎マナカ先輩に別枠として保存し、そして残った分はクラスの連中が争奪戦を始めた。ふっ、俺は菓子作りもいけたじゃないか。今度もう少し手の込んだ物でも作ってみるか。

 で、放課後に急いで中村トシキを呼んで水筒を藤木ユキエに渡すように言う。ちなみに水筒は洗って返せ。そんで中村トシキにはチョコはビターな感じで作ったから、口当たりがさっぱりする甘い柑橘系のドライフルーツを買って一緒に食べようとでも誘っておけと助言はしておく。それ以上は知らん。


 次は城崎マナカ先輩。保冷剤を入れたために食べ頃なチョコケーキ見てテンションアップした上に、携帯電話のカメラ機能で連続撮りした上に近くにいた女子生徒に披露している。べた褒めなので、まあ俺としては悪い気がしない。ただしこれでチビじゃなければと言った知らない女子先輩に関しては、食べないでほしい。

 チョコアイスを頬張る城崎マナカ先輩の表情は幸せそのもので、この人は食べる時の表情が心底美味しいっていうのがわかるから、まあ嫌いじゃないんだよな。食レポとかも上手そうだし、そこら辺目指せばいいのに。あと第三釦まで開けてるシャツからわずかに見える、胸上の黒いのは痣だろうか。しかしあまり見ているとからかわれてしまう。で、城崎マナカ先輩に別れを告げて、次は多々良ララ。

 可愛くラッピングしたチョコトリュフを受け取っている時、表情はあまり動いていなかったが俺にはわかる。かなり喜んでいる。しかも多々良ララが好きそうなリボンとか袋を選んだし、これで喜ばないはずがない。ただ次の表情は俺には少し予想外だった。


「ありがと。サイタ」


 はにかむような、柔らかい笑顔。そんな多々良ララの表情に慣れていなかった俺は、思わず狼狽えそうになった。いやー、クールイケメン女子だとは思っていたが、まさかあんな可愛い表情を作れるとは。これで男の趣味さえ悪くなかったら、お前絶対男子にもモテただろうに。

 多々良ララはこれから深山カノンのお見舞いだそうで、病院へ向かうらしい。一昨日の東京一区画封鎖の際に深山カノンはどうやら父親を庇って傷を負ったらしい。かなりの出血量で一時は危なかったが、今は容態も安定していて、一週間以内には退院できるとか。ちなみに父親に関しては、またなにかひと悶着あるらしい。深山カノン、アイツもああ見えて苦労人だよな。

 そんなわけで学内の用事全て終えた俺は速攻携帯電話ショップに。昼休みからはメール確認もできていない。もしも鏡テオ、もしくは大和ヤマト、あとは枢クルリから夕飯の催促があったら大変だからだ。やっぱその日に食べたい物を食べるって幸せだと思うわけだよ。


 携帯電話ショップの店長っぽい感じの丁寧な物腰のおじさんが俺の名前を聞いて、手際よく最新機種を一通り見せてくれて容量によっても変わる値段についても詳しく説明してくれた。良い人、俺はこういう大人になってみたいが無理な気がする。とりあえず必要な機能、メールと電話と目覚まし時計機能さえあればいいという庶民的な俺は一番安い奴にしとく。それでも一世代前の機種より高いけどな。

 とうとう新世代の携帯電話は前面全てを画面にしてしまったらしい。まあ操作している内に慣れるだろうが、ホームボタンくらいは欲しかったような気がしなくもない。しかもイヤホンジャックがないだと。だから最近妙にワイヤレスイヤホンのCMが多いわけだな。個人的にはヘッドホンの方が形がごつくて好きだけど。

 色は黒、青、ピンク、金、から選べるらしい。なんというか俺の固有魔法で出てくる鱗の色に似ていたので青に。どうせカバーケースとかなにかで隠すわけだが、見えない所のオシャレくらいしたらどうだと中学生の妹にメールで言われたしな。兄の底力見せてやる。


 あとは城崎マナカ先輩が渡してきた機種代請求に必要な用紙を店員さんに渡す。すると先程までにこやかに対応していた店員さんがいきなり立ち上がり、椅子を後ろに倒してしまった。予想以上に大きな音が響き、店内にいた客の視線が一気に集まった。


「お、お客様……請求先は本当にこちらでよろしいのですか!?」

「え?あ、はい。ちょっと学校内のトラブルで機種代は先輩の親が持つとかで……あの、なんかありましたか?」

「い、いいえ……お客様がよろしいならば、後はこちらで処理いたしますので。失礼いたしました」


 そして冷静を保とうと何度も深呼吸する店員さん。城崎マナカ先輩の親は社長とか言ってたけど、まさか大企業の令嬢だとかいうオチか。いやでもあの外見と、平々凡々なうちの学校に通っていることを考えるとそれも変な話だな。あまり他人の家の事情には首突っ込まない方が良いだろう。俺だってそれくらいは軽く学んでいるからな。

 とりあえず通信プランとかも決めてしまい、あとは確信的な前面全て画面という性質上から店員さんが簡単に操作を教えてくれた。なんかこういう最新機種を手に入れただけで、俺ってば最先端流行行ってるんじゃないかと勘違いしそうになるな。つまりは舞い上がる。いや純粋に嬉しい。西山トウゴが最新機種好きなのも少しわかった。

 ついでに最近は懐事情も温かいということで、携帯電話カバーケースと画面を守るためのシートも購入。画面を守るシートは厚手の硝子製シートだ。画面がクリアに見えるし、頑丈さについても西山トウゴに力説されたからな。貼るのを店員に頼めば、これまた綺麗に貼ってくれた。カバーケースは手帳型。やっぱ画面を守るのは大事だからな、うん。今度こそ大事にするんだ。


 というわけで魚の絵が描かれたオシャレな濃い青のレザーケース。意外とこういうの選ぶのが楽しくて時間をかけたせいで、大分日が沈んできた。と言ってもまだ夕焼けではない。だが夕焼けになればその時点でご飯を作っていないと危ういのが、夏という季節の怖さだ。

 慌てて携帯電話に前の携帯電話の情報を同期してもらい、メールや連絡先を確認。ついでに数が少なすぎてあまり容量も食わない写真も。なんと万全だった。情報技術の進化は素晴らしいな。というわけでメール自体も残っており、鏡テオから今日は蕎麦を食べたいとあった。いいな、それ。天ぷらも作っちまうか、と意気揚々となるくらいには俺の機嫌も最新機種のおかげで上昇していた。

 買い出しならばマンション近くのスーパーが良い。ということで携帯電話ショップから出て、電車内で携帯電話の操作方法、なんと噂のアプリとかもインストールしてみてたりと遊びつつ、スキップしそうになるのを堪えながら改札口を出る。今日も駅前では鏡テオが演奏している。歌声は良いんだけどな、ピアノ演奏方法が六本指演奏なのはどうかと思うぞ。


「待たれよ、そこの御仁!」


 なんだか古臭い話し方で誰かを引き止めたい奴がいるが、俺はあんな話し方をする奴には心当たりはない。ここは振り向くのも面倒なのでそのまま歩いてしまおう。厄日かと思ったが、最新機種を手に入れたからには良い日だと思うしかないよな。


「あの、ま、待ってくれ!そこの少年!!」


 またもや引き止める声。ということは無視されたのか、可哀想な奴だな。そんでもって俺は高校二年生なので少年というよりは青年だという分類だと今現在判断したので、スーパーの特売も気になるところだし早足で進んでいこうと思う。天ぷら蕎麦いいよな。特にこの時期は冷たい汁が美味くてな、いくらでも食べられそうだ。大和ヤマトと多々良ララの食べる量のことも考えて、多めに買うか。


「待つんだ、そ、そこの……えー」


 天ぷらはなにがいいだろうか。やはり王道はさつま芋、次にちくわ、かき揚げも上美味い。葱のかき揚げとか最高じゃないか。考えた奴は天才だ。海老も美味しいのがあると良い。天かすとご飯を混ぜた天かすご飯も食べたくなってきた。明日の朝食は天かすおにぎりだな。こんなに毎日美味しい物を食べれるなんて、自炊ができるって素晴らしい。


「申し訳ない!!そこの額に傷のある小さな少年!!止まってくれ!!」

「初対面の奴に小さいとか言われたくないぞ、ごるぁっ!!!!」


 しまった。思わず反応してしまった。しかし実際に俺の額、というか眉毛の上あたりに傷はある。となるともしかして俺なのか。だけど小さいは許さん。どんだけお前は大きいか確認してやろうか、この野郎。

 そんで俺の目に映るのは俺とあまり身長が変わらない男だった。まあ良くて百六十九cmくらいじゃないか。俺よりすこしあるくらいで、多々良ララには負けているんじゃないかこれ。黒髪が翼を畳む途中のような広がり方をしていて、後ろは短く見えるのに前は長く見えるという髪型だ。

 そんでもって勇ましさと理知が両立したような黒い目。それよりも特徴的な赤くて太い縁眼鏡。手には通学鞄と一緒に単語帳を手にしているし、受験生御用達の赤シートを見てわかるのは年上の高校三年生か学習塾通いの学生のようだ。けどそれよりも俺にとって見覚えがあるのは白いベストに着けられた有名金持ち高等学校の校章と水色のチェックズボン。トドメは次の言葉だ。


「デュフフ丸と枢クルリを知っているか?」


 それは二度と聞きたくない名前と、俺が今一番気にしている奴の名前だった。

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