10話「ラブ&コメディは殺伐と」

 夜明けがやってきた。眩しい陽光が瞼越しに意識を刺激する。しかし夏とはいえ朝は少し肌寒い。そんな訳で温もりを求めて腕を動かすのが俺、雑賀サイタという男だ。正直に言えばもう少し寝ていたい。

 しかし朝ご飯の支度に登校準備、その他諸々を考えると起きるしかない。微睡みの中で指先に触れた柔らかい感触と鼻をくすぐる甘い香りに違和感を覚え、瞼を静かに開ける。


「先輩。おはよう」


 そういうラブコメ的な状況で都市伝説の殺人鬼疑惑候補者に朝っぱらから驚かされた俺は奇声を上げた。




 同じ布団の中で固有魔法の赤い布地だけを身に纏った女子中学生の大神おおかみシャコの登場により、俺は逃げるために床上を転がる。その勢いのまま台所に続く廊下を走り、リビングのソファで朝からゲームを寝転がってしているくるるクルリに声をかける。


「おはよう、クルリ!!あれはなんだ!?」

「不法侵入」

「冷静にありがとうな!!そんでもってお前も同じじゃねぇか!!」


 俺に視線を一切向けないままゲームに興じる猫耳野郎のおかげで、頭が冷えていく。水だって沸騰して百度までしかいかないだろう。怒りの限界値だって上限がある、と思いたい。とりあえず思考は可能になった。

 東京の一区画一時封鎖から二日くらい経っている。いまだ枢クルリは肌の上に包帯を巻いている。しかし猫耳付きバンダナは外せないらしい。くたびれた紫色のジャージとかも相変わらずで、いつも通りの様子だ。多分。

 ちなみに枢クルリはマンション構造的には隣人なのだが、飯を食べに来るために部屋同士を繋ぐ扉を引っ越しの際に作りやがった奴だ。今もそれがどうして可能になったかわかる。金にがめつい大家さんだからな、金を積んだわけだ。そしてそんな大家さん関係の問題児が俺の背中に寄り添ってきやがった。


「先輩。そんなに怖がらなくても。シャコがこんなにも勇気出して先輩の好きにしていいよアピールしてるのに!!」


 ぎこちなく振り返る。赤いフードマントには首辺りを固定する釦しかない。そのため手で押さえてないと裸の前身が丸見えなわけで、大神シャコは両手でフードマントの布地を掴んで恥ずかしそうに胸とか大事なところを隠している。

 しかしどうしても隙間はできてしまうわけで、白い滑らかな肌に似合う小さな臍とか、まだ未熟な体らしい細い太腿などが見えてしまう。しかし俺はそんな物に惑わされないからな。こいつの正体を知った今、これは罠なのだと頭の中が警戒色の赤で染められている気分だ。


「若い娘が色仕掛けをするな!!その前に俺は殺人疑惑が残る奴に誘惑されるほどの大胆さはない!!」

「えー?シャコは誰も殺してないよ?命令されたらその限りじゃないけど」


 大神シャコ。その正体は都市伝説で語られる赤ずきんだ。悪人を中心に制裁という名の殺人を長年行っているらしく、俺なんかはつい最近話を聞いたばかりだ。しかし今日の朝ニュースにもある通り、赤ずきんが関与したとされる留置所殺人事件の報道をニュースキャスターが朗々と話している。

 ちなみに殺された被害者とは面識がある。だからといって友人でもないし、知り合い以下だ。俺が偶然入ったコンビニでスキー服を着て強盗をしていた男だ。そこで何故か大和だいわヤマトというもう一人の後輩と知り合うきっかけができてしまったわけだが、それは少し置いておこう。

 つまり今も俺の後ろで恥ずかしそうに内股で膝を擦り合わせ、なおかつ隙あらばきわどい下乳部分とかをチラ見せしてくる女子中学生が、ニュースで写真付きで報道されているコンビニ強盗を殺した疑いがあるわけだ。あの最悪な夜から二日。そんなに久しぶりでもない期間の内に再開する羽目になるとは、嫌な予感しかない。


「はぁ……俺が作った朝ご飯が欲しければ服を着てこい」

「え!?やだ……先輩ってそういう趣味?でもシャコもそういうのは嫌いじゃないかもなぁ、って。これが流行りの俺様系?」

「は?」

「その娘、赤フードマント一枚で大家さんのマスターキー使って侵入してからサイタの布団に入り込んだんだよ。深夜に」


 気付いてたなら止めろよ猫耳野郎。というかお前もお前で深夜から俺の部屋でゲームしてたのかよ。けどそれは珍しいな。基本的に枢クルリはゲームするだけなら自分一人しかいない部屋で集中するタイプだからな。やっぱりどこか雰囲気が違うというか、気配が刺々しいような。

 とにかく俺は照れながらも赤いフードマント一丁で早朝の東京の街、つーか階下にある大家さんの部屋へ裸同然の姿で向かおうとする大神シャコを止めるために腕を伸ばす。赤い布地を掴んだ指先から伝わってきたのは軽い反動。そして間が悪いことに廊下から見える玄関の扉が開く。


「サイタ、そこでテオと会ってきたから朝ごは──」


 玄関の扉を開けた多々良たたらララ。その視点からはこう見えるはずだ。幼気な女子中学生のたった一枚の布を剥いだ男子高校生の俺。ちなみに俺の視点からは健康的で輝く白い背中と臀部丸出しの大神シャコ。多々良ララ、すまない。お前から見れば大神シャコの全裸だな。

 扉は音もなく閉じられた。直後に大神シャコが顔を真っ赤にして悲鳴を上げて、泣きながら大暴れを始めた。具体的に言うと的確に台所から包丁を取り出して俺へと迫ってきた。いや本当に悪かったとは思うけど、この場合は防御力が布一枚という選択肢を選んだ大神シャコ自身のせいだからな。

 とにかく俺は固有魔法である【小さな支配者リトルマスター】を発動させ、全身に青い鱗を生やす。しかしこれは保険だ。いいか、大神シャコが手にしたのは俺の家の包丁だ。つまり俺の家財である。そして朝ご飯を作るために必要な愛用の一番いい包丁だ。ここで刃先を折るわけにはいかない。


 鱗怪人流白刃取りとかいう訳わからない状況と、包丁装備の全裸女子中学生に跨れている現場。その横で我関せずにゲームを続ける猫耳野郎。打開策はないのかと、鼻先に突きつけられた包丁を前に焦りだけが募る。

 ちなみに閉じられた扉が再度開く様子はない。どうやらイケメンクール女子代表の多々良ララでも大きな動揺が走っていると推測できる。同情はする。俺も同じ目に遭ったら平静でいられる自信はない。しかし今は誰でもいいので助けが欲しい。

 そう思っていた矢先、大神シャコの背中越しに天井から生える緑色の茨が二本。その内の一本は白いバスタオルを摘んでいた。即座にバスタオルは大神シャコの全身を覆うために落ちてきた。そして上から簀巻きにするようにもう一本が素早く大神シャコの体に巻き付く。


「大丈夫っすか?サイタの兄貴」


 寝癖だらけの金髪。大口開けて欠伸をしている大和ヤマトは、寝間着代わりのランニングシャツとボクサーパンツだけの姿で登場する。俺は大神シャコの手から離れた愛用包丁を素早く洗い桶に入れつつ、何度も頷く。バスタオル越しに聞こえるくぐもった大神シャコの怒声など丸無視だ。


「サイター。ララに頼まれてクルリの部屋から来たけど、僕はなにすればいい?」

「お前はなにもしなくていい……」


 少し遅れて枢クルリの部屋に繋がる扉から顔を覗かせたかがみテオに対し、俺は気が抜けて床上にへたりこむ。できれば空気が読めないお前に関してはもう少し早く来てほしかった次第だ。なんにせよ、これでなんとか……と思っていた俺の耳に次の声。


「すいませーん。ヤマトのお母さんからおすそ分けを届けに──」


 さあ第二次大混乱のお時間です。幼馴染が操る触手に似た茨がバスタオルをかけていてもわかる全裸の女子中学生を縛っているのを見てしまった三浦みうらリンの行方はいかに。もうそんな馬鹿げたことしか頭に浮かばない辺り、俺はそろそろこういったことと無関係になりたいと祈るわけだよ、本気で。


 まずはどこから話すべきか。とりあえず昨日だな。一昨日の夜に疲弊しきった俺が深山カノンの容態が安定したと知った後、マンション前まで鏡テオや枢クルリ、そして多々良ララを含めた四人で帰った時のことだ。

 賢者の石の悪用による固有魔法暴走で東京の一部が一時的に封鎖。その影響は大きく、昨日は学校が臨時休校となったのを知って喜び、病院でひと眠りした後はすでに昼過ぎだった。学校側は授業が進められずに悲鳴を上げているだろうが、ほぼ徹夜だった俺達としては安堵するしかない。

 で、マンション前に大荷物を抱えた大和ヤマトが体育座りで待っていたわけだ。これまた菓子折りとか、非常時用のお菓子とか、焼きそばパンとか。衣服とか学習道具が少ないことに関しては言及しないでおこう。


 そして第一声。家を追い出されたので泊めてください、ときたもんだ。なんとなく大和ヤマトとはこれから面倒事での付き合いになりそうだとは思っていたが、同居人になるとは思わなかった。ただ俺が借りているマンションの一室は家族五人が住むと仮定した部屋なので、実は泊める余裕があるんだよなこれが。

 というのも俺の家族は両親が熱愛カップル、ただし家族として一緒にいるには難あり、というのが問題なわけだ。そこに妹二人の我儘に振り回されて、仕方なく俺が一人で住んでいる。まあ自活はできるし、最近は鏡テオと枢クルリのおかげで生活費に大分余裕があるんだけどな。

 しかし最初に事情を聞かなくてはいけない。だけど往来で話すわけにもいかない。渋々俺の部屋へと招き入れ、お茶菓子の準備など終えてから五人揃って話を聞くことに。けど枢クルリは体の節々が痛いとか言って、ソファの上に体を丸めた上に背中を向けていた。相変わらず猫みたいに気侭な奴だ。


 話を聞くと、大和家の大家族会議の末に知識の魔人であるナレッジが戻ってくるまで家出しろ、ということらしい。家出を促すというのも中々聞いたことないけど、なんとなく大和ヤマトの母親のことを思い出せば仕方ないとも言えるだろう。

 大和ヤマトは一連の流れで錬金術師機関とカーディナル、それに事の元凶というべきなのかも迷うが大家さんの事情に巻き込まれた。そんでもって無謀な取引まで持ちかけて、危うく命のやり取りに発展した。一番問題なのは幼馴染の三浦リンも深夜遅くまで外出させたことだろう。

 家族だけの話ならば済むことも、昔からの付き合いとはいえよそ様のお子さんを巻き込んでしまった。しかも東京の夜遅くは、田舎の夜遅くとも違う危険性がある。夜でも明るい都内で眠らない人がいるように、悪意も眠る様子がないらしい。


 そして俺も初めて聞いた話なんだが、大和家で現在固有魔法所有者は大和ヤマト一人だけらしい。二人に一人当てはまるはずの話なんだが、結局は確率論。五分五分とは言うが、五人いても五人とも外れるということも確率の妙だな。とりあえず脅威的な確率を引き当て続けた大和家は、昔からナレッジが鍵に選ぶとしたら大和ヤマトだろうという家族会議があったらしい。

 そして少しずつ魔人が揃い始め、とうとう鍵として決定した多々良ララの出現で事態は急転。家族で大和ヤマトを守ろうにも、頼りになるナレッジさえも今や大家さん手の中に。東京の下町に住む大家族とはいえ、二つの組織に抵抗する術なんてない。どれだけ守りたいと思っても、一般人に活躍を期待されても困るというものだ。

 それに大和ヤマトにはまだ幼い妹や弟もいる。老いも若いも、これから人生の大勝負という婚期真っただ中の家族もいる。そして魔人、錠の役目を持つ奴らが七人揃えば今度は鍵探しだ。そして真っ先に狙われるのが大和ヤマトであり、下手すれば家族が強迫手段として使われる。そして大和ヤマトにその手段は大いに有効だ。


 そこで鍵として決定した多々良ララが近くに住んでおり、なおかつ不本意ながら毎度毎度巻き込まれている俺の傍にいれば問題は最小で済むのではないか。そういう結論になったらしい。菓子折りに挟まれていた長文の手紙を読めば、大変ご迷惑だとは思いますがよろしくお願いします、とあった。追伸の、遠方にて農作業や牧畜を営む親戚からの贈り物を受け取ってくださいとあり、手始めに北海道の牛肉とメロンが届いた俺は思いっきり心動かされた。中々やるな、大和ヤマトの母親は。

 多分、大和ヤマトの母親も心苦しいだろう。いきなり家族一人を理不尽に失った上、大事な息子が太刀打ちできない問題の渦中に引きずり込まれたのだから。その中で最善と思う方法を模索して、頼れる相手として認識してくれたならば、まあ悪くないなとも思ってしまう。

 それに今回の件に関しては俺も無関心を貫き通すのは止めようと思う。俺だって納得していない。取り戻せるなら、絶対に取り戻してやる。ナレッジは魔人だ。しかし大和ヤマトの家族だ。そんな小さな幸せ一つを奪って金の取引を良しとした奴らに腹立てるのは、おかしくないだろう。


 とりあえず大和ヤマトの母親に贈り物のお礼の手紙に大和ヤマトを預かる件の了承、そしてナレッジを取り戻すためにできる限りの協力をするという内容を書いておこう。ちなみに大和ヤマトからは母親から俺に渡すように言われたの生活費を渡された。

 ちなみに食費込みとあえて強調したのは、大和ヤマトは暴食担当であり、実際に大食漢であるためだ。一ヶ月分とあるが、確実に三ヶ月分の封筒の厚さよ。これは家計簿複数持ちにして、しっかり計算しとかないとやばい奴だな。あと冷蔵庫に私物を入れる際に、名前を書くことを徹底させないと。

 なんにせよ今回の件である程度腹括ってやったわ。かなりやばい状況だったが、色んなことの兼ね合いとか事情のおかげで難を逃れたに過ぎない。大和ヤマトが茨の壁に似た色の通帳片手に大家さんに取引持ちかけたおかげで、大家さんの意気が消沈したのも今思い返せば良かったかもな。


 結局、あの後忠義の魔人であるフェデルタの姿は見かけなかった。そして慈愛の魔人も東京のどこかでミニパトの婦警に追われているだろう。まあライダースーツの変態に関しては、今はあまり重要ではない。というのも奴はすでに多々良ララを鍵として決めたからな。

 そんなこんなで昨日から大和ヤマトが同居している。空いている部屋を好きに使っていいと指示したし、どうやらこいつは食べることとバイトなどの労働以外にあまり興味がないらしい。俺が部屋を借りているマンションから学校とバイト先はそんなに遠くないと少し喜んでた。

 鏡テオも大和ヤマトが近所に住むと聞いて喜ぶし、まあ鏡テオの無邪気な子供行動に付き合える大和ヤマトが近くにいるのは良いことだな。なんというか朴念仁な長男ができたみたいな。俺としては世話の手間が省けるのは嬉しいことだ。


 で、冒頭の大和ヤマトが寝間着姿で現れたことに関してはこういう経緯があったからだ。そしてどうやら三浦リンは大和ヤマトの母親に頼まれておかずのおすそ分けなどしてくれるらしい。まあ、それは手前というか、本当の目的は大和ヤマトと会って様子を見ることだろう。さらについでに俺から料理を学ぶためだ。

 しかし早朝から大神シャコによる大混乱の余波を受けてしまい、無言で俺に肉じゃがが入った保存容器を渡すと、大和ヤマトに無言の威圧で詰め寄っている。しかし寝ぼけまなこの大和ヤマトはそれに気付いていない。


「ヤマト……おばさんに様子見てこいと言われた私が今なにを考えていると思う?」

「……………………おなかへった?」

「この腹ペコ大魔王!!!!食事で摂取した糖分を少しは頭の回転に回せぇえええええええ!!」

「いやまだ今日は朝ご飯前の牛乳とバナナも食べてな、いたい、地味に痛い」


 日頃から肉体労働のバイトで鍛えている腹筋に、女子高生の拳が何度も当たっても特に動じない大和ヤマト。言っとくけど俺は三浦リンに同情するからな。とりあえず朝のおかず一品がすぐに決まったので、味噌汁を作りながらご飯の具合を見つつ、もう一品なにか作るか。


「もがぁあああああああ!!」

「メンドーだけど、そろそろ全裸娘になにか着せたら?」

「ほえ?あ、シャコだ!大家さんがさっき箒片手に怒ってたよ。見かけたら呼べって」


 バスタオル越しで体くねらせて暴れていた大神シャコの動きが、鏡テオの言葉で一瞬にして停止する。そういえばいつの間にか俺の手から消えていた赤いフードマントが、もう一度大神シャコの体を隠す。同時に童話に出てくる赤ずきんらしいフリルが愛らしいエプロンドレスに黒タイツが。お前……まさか服装に関しても自在な魔法なのか。

 大和ヤマトも思い出したように固有魔法で出した茨を消し、自由になった大神シャコが弾頭のように俺の家の玄関を勢いよく開けて階段を駆け降りていく。入れ替わるように多々良ララが入ってくるが、胡乱な視線で俺を睨んでいる。いや、俺はなにも悪くない、とは微妙に言い辛い。


「じゃあ飯作るからヤマトと三浦は手伝え。俺から料理のテクを盗みたいんだろ?」

「は、はいっ!お願いします、雑賀師匠!!」


 どうにもこうにも三浦リンのような普通に可愛い女子後輩には師匠と呼ばれ、俺よりもでかい大和ヤマトには兄貴と呼ばれ、都市伝説という恐ろしい背景を持つ大神シャコに可愛い声で先輩と呼ばれる。なんか間違っている気がするけど、もう朝から疲れた俺は料理するしか心の慰めはない。

 多々良ララが終始膨れっ面のまま皿を並べる手伝いをしていたが、俺が作った焼き鮭と大和ヤマトの母親の肉じゃがを再度温めた物を頬張ってご機嫌に。俺はお前のそういう単純なところを少し気に入っているぞ。三浦リンも悔しそうにしつつも箸を止めない。まさか包丁で材料を切る時の猫の手から教える羽目になるとは思わなかったけどな。

 三浦リン手作りのサラダに関しては、雑な切り方のせいで人参の輪切りが連結している。それを無言で口に入れて咀嚼している大和ヤマトを見て、別に俺の料理指導はいらないのではないかとも思う。鏡テオは相変わらずの少食で、味噌汁にご飯入れて食べやすくしている。


「そういえばサイタ」

「なんだよ?」

「あの全裸娘からマスターキー回収しなくて良かったの?」


 枢クルリの発言に思わず箸を落とす。忘れていた。これからも何度も同じことがあるのは正直嫌だ。しかし一学生である俺に引っ越しという選択肢はない。それに大和ヤマトの同居も決まってしまい、その他諸々の事情で引っ越しは当分無理だ。

 そこに来客を知らせる音。インターホンカメラで確認すれば、不機嫌そうな大家さんの顔が映っている。できれば今は会いたくない相手第一位だ。しかし相手は大家さん。無視するわけにはいかない。俺は重い足取りで玄関の扉を開ける。ただし固有魔法で体全体を鱗で守った防御態勢でだ。


「よお、チビ。うちの馬鹿が迷惑かけたな。とりあえずマスターキーに関して厳重注意したからな、今後は勝手に入るということはない」


 あれ?まともだ。なんか久しぶりに凄いまともな言葉を大家さんから聞いた気がする。思わず呆けてしまい、それが気に入らなかった大家さんにデコピンされた。鱗で守っていたので痛みはない。とりあえずこれ以上の不興も買いたくないし、危険性もなさそうだから固有魔法を解除しとこう。


「もしもあの馬鹿がまた阿呆なことしたら、塵収集車に放り込むぞ、と脅しとけ」

「それで言うこと聞くようにも見えないんですけど」

「あいつは昔塵収集車に放り込まれてな。その時の恐怖は今も覚えているはずだ。効果は抜群だ」


 なんか、今流れるように恐ろしいことを言われた気がするぞ。というか塵収集車って人が放り込まれたら死ぬ構造じゃなかったか。なんでそんな所に大神シャコが放り込まれているんだよ。というか考えてみれば大家さんの親戚、というのも今となっては怪しいよな。


「圧縮式収集車に押し潰されたんだよ。虐待親父から逃げ出すために小さな体を塵で隠して、箱の中に。清掃員がそうと知らずに放り込んだ結果、ぐしゃり、という具合だ」


 朝ごはん食べる前でも嫌だが、食べた後だと吐き気が重い。笑いながら話す大家さんの正気を疑うほどだ。しかしこの人、いや人外は青い血をしているらしい。血も涙もあるけど、流れてるのは青い血って良く似合うな。

 しかしそうだとすると大神シャコは死んで……いや、違う。固有魔法だ。大神シャコの固有魔法は赤いフードマントを身に着けることで、受けるダメージ全てを赤いフードマントが代わりに受ける。けど無敵じゃない。ダメージを受ければ受けるほど赤いフードマントは削られて、最終的には消える。


「くくっ、塵収集車ってのは少しでも詰め込むために内容物を押し込んでいく。冷蔵庫すら壊す圧縮式の最初の一撃を免れても、その後は増えていく塵に押し潰されたはずだ。少しずつ赤いフードマントは削れていき、いつ塵に圧死されてもおかしくない状況……忘れられないだろう?」


 それを嬉々として語るのはどうかと思うけどな。そういえば大神シャコと戦った時に、泣き叫びながらぐっしゃんぐっしゃんとか言ってたけど、それはそういうことか。知りたいか知りたくないかと言われたら、知りたくなかった事実だ。

 というか大神シャコの過去とか背景が重すぎる。その割に本人の行動は馬鹿と阿保と間抜けの三角構造を混ぜ合わせつつも死の危険性がある騒ぎが多すぎて、印象がどんどんズレていく。そして大家さんのことを恩人外とか言ってたけど、今無事に中学通えてることから日常生活の面倒はちゃんと見てるんだな。

 微妙に大家さんに対する善悪がよくわからない。しかし今さら大家さんは悪くない、とは絶対に言えない。むしろ悪人か極悪人か、の二択じゃないだろうか。いやまあ人外らしいから、人、を使うのは気が引けるんだが。


「なんにせよ、あの馬鹿の躾は飼い主の責任でもあるし、もう少し注意はしとくが……どうやらお前のことは気に入っているみたいだし、ある程度は付き合ってくれや。なんだかんだで年頃の娘だしな」

「大家さん……タダで子守を俺に頼んでますね、それ!!」

「お、わかるようになったじゃねえか。感心感心。まあ本気でタダでとは言わねえよ。このマンションは俺の財物であり、俺の支配地域だ。少なくともここにカーディナルも錬金術師機関も手出しできねぇよ」


 つまり私生活の保証をする代わりに大神シャコの面倒を見ろってことだよな、それ。しかし考えてみればかなり最初、俺が針山はりやまアイに襲われた日に遡ると、確かに自宅に戻った後はなにも起きなかった。ということは、あれは大家さんの影響力のおかげだったのかと、今更ながらに気付く。


「あと回覧板な。条約改正による塵出しの細かい分別が変わる。よく読んどけよ」


 どこにでもあるビニール袋に入れられた回覧板を俺に渡して、あっさりと去っていく大家さん。なんというか、独特というか、やっぱり変な相手だ。一昨日銃を向けたことすらも忘れているような自然体に、俺の方が戸惑ってしまうくらいだ。

 試しにその場で回覧板を閲覧してみれば、大家さんの手書きの紙が挟まっている。といってもマンションの住人全員に向けた内容で、マンションで少しでも異変があれば相談するように、というものだ。最近のニュースが都内に集中していることを懸念しての、大家さんとしては当たり前の文。

 しかし俺の視線は一番下。大家さんの名前。今まで大家さんで誤魔化してきたが、考えてみれば人間に混じって生活するならば名前は必須だ。そして今まであまり意識していなかった大家さんの名前がクレイジー・ブルとあった。


 あまりのダサい名前に、大家さんと呼んでおこうと俺は決意した。




 朝から疲れた俺だったが、一日ぶりに登校した教室は大騒ぎだ。動画で例の事件を見ただの、現地で茨が動くのを見ただのと、自分がどこまで事件に差し迫ったかを競い合っていやがる。平和な光景と言えばそうだが、実際に中心地にいた俺からすれば暢気すぎてうんざりする。

 深山カノンは死にかけたし、大和ヤマトは家族を失った。俺なんか謎の魔法で完治したとはいえ、両腕を骨折したというのに。なんかもうなにも考えたくなくて、机の上に座ってすぐに額を机に預ける。日常に帰った気がしない。俺は今、違う場所で眠っていて夢でも見ているのではないかと思った矢先。


「さ、雑賀くん」


 桃色の縁眼鏡。気弱そうな声に、それに見合った姿。同じクラスの岩泉ノアだ。そういえば俺はこいつの忠告を無視してしまったな。謝った方がいいのか、それとも無視を決め込んだ方がいいのか。ただ気弱なりに勇気を振り絞ったであろう姿には心動かされた。


「おはよう」

「あ、うん!おはよう……あの、フェデルタさんはどうだった?本当に昨日色々動いたみたいで、叔父さんが携帯電話片手に忙しそうだったから」

「フェデルタは無事だと思うぜ。あの野郎、俺が鍵になると言ったら断ってきやがった」

「?鍵とかよくわからないけど……フェデルタさん、姿を自在に変えられるから逃げ切ったのかな?」


 初耳だった。俺が見た時はどちらも銀髪の少年で、夏だというのに全身黒の装束を着ていて暑そうだなと思っていた。しかし考えてみれば錬金術師機関やカーディナルから逃げるには、確かに変装に似たなにかが必要なんだろう。


「でね、叔父さんが雑賀くんに伝言だって。一昨日の件に関しては該当する固有魔法所有者の情報に辿り着かないように工作するから、とか」

「どういうことだよ?」

「誰が賢者の石で暴走したか。それを内密にするんだって。だから私も詳しくは知らなくて……でもなんか警察の方でも行き当たるのは難しいとかなんとか。大きな力が動いてるみたい?」


 岩泉ノアが疑問形を付けたまま話していることから、あのおっさんも神経質に情報をどこまで出すか気を遣っているらしい。しかしテレビのニュースでも暴走した固有魔法所有者に関しては調査中とあって、いまだに誰なのかという点に関しては明かされていない。

 しかも茨が生えたといっても建物の被害を出したのは大神シャコの方だったしな。あれだけ生えた茨だったけど、実は建物被害は零だ。童話でもそうだったけど眠りの森の美女の城は茨で守られていた。茨の壁が拒んだのは侵入者だけ。もしかすると茨が守っていたのは大和ヤマトだった、なんてな。

 だけど俺は少しだけ安心した。要は大和ヤマトの固有魔法が暴走したことについては不問となる。特に大和ヤマトは自ら進んで暴走したわけでもない。悪いのは錬金術師機関とカーディナルだ。しかしそんな俺の思考を途絶えるような言葉が一つ。


「そういえば現場に残されているはずの賢者の石が入った注射器が一つなくなってたんだって。未使用のだから、誰かが持ち去ってたら大変みたい」


 背中がざわついた。予感しかない。決定的な物を見たわけでもない。けど脳裏を掠めたのは今もマンションの自室でぐうたら過ごしているであろう枢クルリの顔だった。そういえば一昨日の夜からまともに奴の顔を見ていない。俺が違和感を覚えたのはそこだ。


「あ、授業始まっちゃう!じゃあまたね、雑賀くん」

「おう……」


 そうか。岩泉ノアの言葉で感じていたことが明確になった。日常に帰って来てないような感覚。まだ終わっていない、そんな予感が胸をざわつかせている。行方不明の賢者の石。固有魔法所有者を暴走させる危険な薬物。

 これはまた続いている。めでたしめでたしで終わるわけでも、最後の頁というわけでもない。だけど上下巻の内、上巻だけ読み終えたような状況。続きを読もうにも下巻を買い忘れていたような、そんな気分だ。


 暴食が築き上げた茨の壁は未知なる危機を阻んだ。同時に多くの物を呑み込んだ。無尽蔵の胃袋のように、際限なく。日常も、非日常も、全てを胃液で溶かして混ぜ合わせた。だからその時は気付かなかった。今は動く時ではないと、しかし布石を踏んだ者が一人。日常と非日常が混ざり合ったあの時に、手に入るはずがない物を手にした。


 残る大罪は二つ。しかし彼らが集まらずとも事態を解決したいと考える怠惰が、全てを終わらせようと画策していた。

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