7話「ヒールなウルフにお仕置きを」

 青い空と白い雲。太陽の光を反射する硝子の塔が幾つも立ち並ぶ中、黄色の向日葵がそれらを見上げている暑い日。縁側で金魚柄の風鈴が涼やかな音を鳴らす。

 薄い茶色の簾で日陰を作り、その下で赤い西瓜を食べる。白と黒の種も飲み込むと、皺くちゃの手で荒く撫でられる。臍から西瓜が生えてしまうぞと、曾爺ちゃんが笑っていた。

 俺はそれで良かった。そうすれば毎日甘い西瓜が無料で食べられる。大家族でも全員がお腹一杯になるほど生えてくればいいと返事すれば、今度は違う手で優しく撫でられる。


 種は消化に悪いから、好きな物が食べられなくなってしまうよ。優しいナレッジ爺の言葉は正しいと思った俺は、その後の種は全部飛ばすように吹き出す。

 庭に落ちていく白黒の種が、いつしか皆が幸せになるくらい大量の西瓜になればいい。そう思って向日葵が生えている花壇が届くように、少しでも遠くに吹き出すため頬を膨らませる。

 食べるのは美味しい。食べると満たされる。食べると幸せになれる。ずっと、ずっと食べていたい。こうやって大好きな人達に囲まれて、ずっと食べ続けたい。


 大和だいわヤマトという人間、つまり俺はそんな子供だった。そんな性格のまま成長して、今も食べ続けている。幸せを得るために。


 どうしてあの人は食べ物を残してしまうのだろうか。こんなにも美味しいのに。お腹が満たされるのに。これほど幸せなことはないのに。

 勿体ない。それを手に入れたくても、届かない人が一杯いるのに。代わりに俺が食べようかと提案しても、それを譲ってはくれないのに勿体ない。

 飢える。知れば知るほど飢えていく。少しでもお腹を満たそうとして食べ続けても、むしろ飢餓状態に陥っていく感覚。足りない、まだ足りない。


 どうしてあの人は幸せになれないのだろうか。こんなにも安全なのに。満たされた生活の中で育った人なのに。これほど幸せなことはないのに。

 勿体ない。それを手に入れるために、死ぬほど努力した人が一杯いるのに。代わりに俺が無料で貰い受けようとしても、それは譲ってくれないのに勿体ない。

 不幸せ。知れば知るほど不幸せになる。少しでも幸せになればいいと願うのに、むしろ不幸は増えていく錯覚。足りない。まだ足りない。


 俺の周囲は幸せに満ちていた。たくさんの家族に囲まれて、皆で笑って、好きなだけ食べ物を口に入れることができる。けど俺が持っていない物を持っていても、不幸せな人は一杯いる。

 結局白黒の種が西瓜を実らせることはなく、土の中に消えてしまった。それはきっと俺が実らせる努力をしなかったから。幸せを手に入れるには、満足するほど食べるには、努力しなくてはいけないのだ。

 働ける年齢に達してすぐにバイトを始めたのは、そんな理由。努力すれば幸せが手に入る。お腹一杯食べられる。曾爺ちゃんだってそうだった。手に掴んだ物を離さずに努力したから、幸せなまま瞼を閉じた。


 俺もああなりたい。曾爺ちゃんのように、それ以上に。多くの人を幸せにできるよう努力しなければ。だからそれが俺のできる最善なら──。


 暗い路地裏で、震えた両手で赤い液体が入った注射器を握る少女がいた。一目でわかる。努力をしている人だ。善悪は関係ない、幸せになろうと頑張っている人だ。

 俺は彼女に自分の二の腕を差し出す。注射くらい怖くない。もしこれでナレッジ爺が目の前から消えたとしても、俺は曾爺ちゃんのように見つけ出すよ。向日葵畑の向こう側でも、茸雲の中でも。

 大丈夫。彼女が俺に注射器を打てば、一人幸せになるだけだ。誰かの心を満たせる。飢えがなくなる。それは良いことなんだと思う。多分、ナレッジ爺も褒めてくれるんじゃないかな。


 昔のように頭を撫でてさ、仕方のない子ですねって。俺はいつまでも曾爺ちゃんの曾孫だから、ナレッジ爺にとっても曾孫みたいなもんだからさ。西瓜みたいに甘くしてくれると思う。

 それなのに注射器の針が届く前に視界が揺れた。正確には体全体が揺れて、遅れて痛みがやってきた。同時に抗えない眠気に襲われて、瞼が重くなって動けなくなる。

 死ぬのかと思った。どうしよう。曾爺ちゃんみたいに長生きして、色んな人を幸せで満たせる男になりたかったのに。それに眠ったら、お腹一杯食べられない。それは嫌だった。


 瞼が閉じる前に見えた光景は、今にも泣きそうに歪んだ少女の顔。ああ、飢える。不幸せになる。満ち足りない。空腹で死にそうなほど辛い時と同じだ。俺はただ──。


「ナレッジを返せ、そいつはヤマトの家族だ!!!!」


 サイタの兄貴の声が聞こえる。どれくらい寝ていたのか。ひたすら体が重くて動かない。泥水の中に沈められた後のように、指先一本動かすのも億劫だ。

 瞼が開かない。胸の上になにかが乗っている気はするけど、その正体が掴めない。ただ鈍い思考の中で、聞こえてきた名前に反応する。ナレッジ爺が、どうしたんだろう。

 助けなくちゃ。ナレッジ爺が困ってるなら、曾爺ちゃんの代わりに俺が助けないと。俺、知ってるんだ。思わず立ち聞きしちゃったけど、曾爺ちゃんが死ぬ前にナレッジ爺が話したこと。


 知ってるから。俺はなにも知らない子供じゃないよ。知らないことは多いけど、それが全てじゃないんだ。ナレッジ爺がずっと苦しんでいること、知っているんだ。

 だから曾爺ちゃんのように助けなくちゃ。顔も知らない曾婆ちゃんみたいに声をかけなくちゃ。知識の魔人だかなんだか知らないけど、サイタの兄貴が言ったとおりだ。

 ナレッジ爺は俺の家族だよ。俺の大好きな家族なんだ。お腹一杯になって幸せになるために必要な存在なんだ。じゃないと飢える。不幸せになる。満ち足りない。


 それはとても嫌なんだ。





 正直に言えば本物の重火器を舐めていたと言わざるをえない。俺こと、雑賀さいがサイタはすぐさま後悔していた。目の奥まで届く閃光に恐れて、体が動かない。

 体を震わせるほどの発砲音も、きな臭い火薬の香りも、全部が俺の神経をとがらせて体の動きを鈍くする武器のようだった。汗だけが体の表面をなぞって、夜風で冷えていく。

 銃弾は全て俺の足元、コンクリートに埋め込まれる形で撃たれていた。威嚇なのだろうか。全部当たっていれば、俺の固有魔法でも防げたかわからない。でも臆したままじゃいられない。


 目の前にいる都市伝説、赤ずきんの手の中には金色の輪っか。あれは知識の魔人ナレッジだった物だ。どういう原理かは知らんが、目の前で起きた光景が全てを証明していた。

 しかもまさかの都市伝説が俺のことを先輩呼びする女子中学生の大神おおかみシャコだった。どうやら大家さんがこれまた黒幕的な人だったらしい。確かに前から危なそうな金に煩い人だと思っていたが、なんでそんな身近な人がこんな厄介事に関わっているんだよ。ふざけんな。

 傲慢野郎としては、本物の重火器を持っているとしても女子中学生に負けるわけにはいかない。なにより大和ヤマトの家族をさらわれているのを黙っていたら、そんな俺自身を俺が殴るところだ。


 無関心、無関係を貫きたい気持ちはまだ残っている。それ以上にここまで関わっておきながら見知らぬふりをするのは、心底胸糞悪かった。俺が嫌いな童話一位、人魚姫。努力した奴が報われない話。

 そんなの認めて涙を流してやるほど、俺は優しくねぇんだよ。絶対そんな話を認めてやるもんか。人魚姫は幸せになるべきだった、と力説するくらいには俺はあの童話が嫌いなんだ。


「……先輩。シャコは良い子におつかいをしただけだよ?それなのに邪魔をするの?先輩も悪い狼さんだったの?」


 ぼろぼろになった赤いフードマントを被った大神シャコの声に、寒気を感じる。なんというか、やばい宗教にはまっている奴特有の声というか、融通が利かなさそうな気配。


「悪い狼さんは殺さなきゃ。お腹を裂いて石を詰めて水に沈めて……それだけじゃ足りない。だって悪い狼さんは一杯いるもん。シャコのパパもそうだったよ」

「……お前がなにを言っているかわからんが、いいからその金色輪っかを返せ!」

「悲しい。先輩のキーマカレー美味しかったのに。でもそれもシャコを食べるためだったのかな?ねえ、先輩。どうして先輩の身長はそんなに低いの?」

「人が気にしていることを堂々と指摘するなっ!?」


 後ろから誰かに引っ張られた直後、俺が居た場所を埋めるような銃弾の嵐。鼓膜が痛くなり、頭が揺れ続けて吐き気を催すくらいだ。そういえば忠義の魔人であるフェデルタのことを忘れていた。

 なんだかんだで助けてくれたフェデルタだが、目つきが怪しい。熱射病で今にも倒れそうな人の顔に近い。どうやらさっきの茨攻撃の影響が残っているようだ。それくらい魔人の魔法とかでパパッと治せないのか、こいつは。


「ありがとよ、フェデルタ。けどお前はヤマトを連れて逃げろ。ナレッジは俺がなんとかするから」

「……はぁ。信用できない」

「悪かったな!!いいから言う通りにしろよ!!忠義を見せろ!」


 何度も溜息をついたフェデルタに苛々しながらも指示を出す。ナレッジが我が身をかけて守った奴を、俺のへまで怪我させたら申し訳ない。それくらいの良識は俺の中にもあるんだぞ。

 その間に大神シャコが重火器を持ち替えた。というか、あれってスクールバッグに入る長さじゃない奴だよな。組み立て式の大鎌ってどういうことだ。そのバッグは夢の四次元構造なのか。

 フェデルタなど無視して俺に向かってくる大神シャコに対し、俺にできたことなど体全体に青い鱗を生やすくらいだ。砕けない、割れない、防御に関しては一級品と自慢したい固有魔法の【小さな支配者リトルマスター】だ。


 それも振るわれた大鎌のせいで壁まで飛ばされたことにより、刃を防いだ左腕の分と、壁に打ち付けられた背中の分は空中に散らばってしまう。どうにも接合力というか、吸着力が弱いのが欠点だ。

 一番の欠点はこうやって肌から剥がれた鱗は、一度消すまでずっと肌に付着しないということだ。代わりに操ることが可能で、銃弾みたいに飛ばすことはできるが、威力は良くてゴム弾くらいだ。

 軽々と自分の身長よりも大きい大鎌を振り回す大神シャコの立ち姿は、赤い死神少女だ。安物ラノベに出てきそうな姿に、同級生の西山トウゴは大はしゃぎ……しないな。アイツは二次元至上主義だから。


「悪い狼さんの身長が低いのは、シャコの攻撃を避けるためだったんだね。じゃあ先輩……どうして先輩の魔法は鱗なの?」

「俺が知るか、っどぉわっ、わっ、ぐっ!!??」


 大鎌の連撃に二回は避けたが、三度目は受け止めるしかなかった。ただし体に生えた鱗ではなく、空中に散らばった鱗を一枚の盾として操作した。それもすぐに散らばり、俺は少しでも距離を取ろうと後ろ向きに走る。

 あんなの体で受け止められるか。受けた瞬間に鱗が散らばって、少しでもズレたら体を両断される。それにしても大神シャコは固有魔法所有者だとして、一体どんな性質の魔法を使っているんだ。

 大きな鎌を難なく振り回していることから、身体強化なのだろうか。そうすると多々良ララの【灰の踊り子サンドリヨン】と似ている気はするが、あの赤いフードマントも魔法の一部なのか。


「悪い狼さんの魔法が鱗なのは、シャコの攻撃を防ぐためだったんだね。じゃあ先輩……どうして先輩の声はシャコに優しく響くの?」


 フードから覗いた顔は泣きそうな少女だった。思わず動きが止まりそうになったが、真上から落ちてくる刃を避ける。だけどわずかに反応が遅れて、右足の鱗が切り裂かれたズボンの裾から零れた。


「どうして?ねえ、どうして?シャコを騙すため?シャコを叱るため?シャコを貶めるため?どうしてどうしてどうしてどうして!!」


 最後は悲鳴だった。大鎌が風を切る音よりも耳の奥に残るような、胸の苦しみが喉に伝わるように呼吸が難しくなるほど、感情が込められた声。

 俺だってわからないことをどう答えろって言うんだよ。だって俺にとっては出会ったばかりの女子中学生だぞ。詳しいことはなんにもわからない。

 けど……キーマカレーが美味かったという一言を思い出す。俺の料理を美味いと言う奴には優しくしてやりたい、というのが一応本音なんだが。仕方ない、効果があるかはわからんが、声をかけるか。


「大神!お前はどうしてほしいんだよ!?助けてって言えば助けてやらなくもない!大家さんが悪い奴って言うなら、なんとか……」


 俺の声が届いたらしく、大神シャコの動きが止まる。やっぱり大家さんが元凶なのか。外見通りなのか、それ以上に危ないのか。なんにせよ、これで──。





「悪い狼さんの声が優しいのは、シャコを馬鹿にするためだったんだね。シャコが一番困ってる時に助けてくれなかったくせに、命の恩人外まで愚弄するなんて。お仕置きだね」





 選択肢を間違えたらしい。足元に転がってきた、パイナップルというよりは食べ尽くしたトウモロコシが膨らんだような形の爆弾。手榴弾って実物はこんな感じなのか。

 爆発と、音と光に臭い。体全体が衝撃で吹き飛ばされて、感覚が全て支配される。熱さと痛みが交互にやって来て、上下左右がわからない。吐き気で喉が詰まりそうだ。

 視界の半分以上が黒くて、今どこにいるのかすらわからない。生きていることは確かだけど、これは潔く死んだ方が楽な気がするぞ。体全ての鱗が剥がれて、空中を漂っているはずだ。


「お腹を裂いて、瓦礫を詰めて、下水道に沈めて……ううん、もっと別な方法がいいな。海の底が良いかな?ねえ、先輩。最期に言うことありますよね?」


 耳元に聞こえてきた少女らしい甘い声。どうやら横倒しに倒れている俺の上に乗っかているのか、火傷で痛む頬に細い髪先のくすぐったい感覚。

 そして腹上の皮一枚に感じる大鎌の刃先。それが異様に冷たくて、体の芯から震えがやってくる。脇腹を少女らしい手が撫でているのか、柔らかい感触。

 だけど触れる全てに電撃のような痛みを感じる俺にとって、今は拷問のようだった。多分、ここでシャコが望むことを言えば、この痛みから解放されるんだろうな。


「先輩。ごめんなさい、は?」


 優しくて甘く蕩けるような声。その言葉を口から吐き出せばいいのか。痛みで指先一つままならない俺でも、それくらいは簡単だろうな。だったら決まっている。


「いやだね」


 六文字より四文字の方が楽だろ。傲慢野郎と言われ続けた人生舐めんな。素直になれる性分だったら、こんな厄介なことにはなってねぇんだよ。

 臍に食い込む刃先を感じ、痛烈な刺激は奥歯を噛み締めて我慢する。冷たいと思ったら、熱さと痛みで血が沸騰しているような感覚。多分一センチも食い込んでいないのに、こんなに痛いのか。

 しかし刃先がそれ以上進むことはなかった。体中に汗を流しながら、俺は笑う。視界にぼやけて映る青い膨大な流れ。まるで津波のように輝く鱗が動き回っている。


 俺の固有魔法はまだ消えてねぇんだよ。青い蝗の大群みたいにしつこいからな。ゴム弾の威力で爪と同じくらいの大きさの鱗が数千枚。女子中学生の体を吹き飛ばすには充分だろう。

 体の上から重みが消えたことを確認し、俺はもう一度奥歯を噛み締めて腹に突き刺さった大鎌の刃先を抜く。よく侍とか武士は切腹できたな。俺には絶対無理だ。血も出ない浅い傷でも、痛みを感じで汗が止まらない。

 両手で体を支えながら起き上がる。少しずつ視界の鮮明さが戻ってきた。そして赤フードマントの姿は消えていた。大神シャコが大の字でコンクリートの上に倒れてる。スカートの中見えるぞ、もう少し慎ましく倒れろ。


「う……」


 大神シャコが声を出した。まじかよ。結構加減なしで鱗を力の限りぶつけまくったんだぞ。よく見れば掠り傷一つ見当たらないって、もしかしてあの赤フードマントはこいつの防御と身体能力を高める限界値を表わしていたのか。

 茨に吹き飛ばされる前と、さっきまでの赤フードマントを比べるように思い出す。そういえば茨に吹き飛ばされる前もボロボロだったが、明らかにさっきの方が面積が小さくなっていた。

 つまりこいつの固有魔法は、俺と多々良ララの固有魔法を半分ずつ組み合わせたような内容か。赤フードマントがある限りは身体能力も高くなり、ダメージも受けない。全て赤フードマントがダメージを引き受けるんだ。


 だけど無限じゃない。限界値を越えると本人の意思に関係なく固有魔法が消える。そして今すぐ出せないところを見ると、もう少し発動条件が重なるみたいだな。

 つまり都市伝説の赤ずきんが使う固有魔法は、どんな重火器も使用できる耐久力と身体能力を与えてくれる赤フードマントを身に着けること、か。

 印象付けるために赤フードマントを身に着けたのではなく、固有魔法の性質上どうしても目立つ容姿になってしまった、というわけだな。いいのか、それで。


「う、ひっく、うぁ……うぁあぁぁあぁあああああああああああああああああああああんんんんんん!!!!!!」


 そしてこちらの鼓膜が破れそうなほどの泣き声。赤ん坊でももう少しましな泣き方をするぞ。両手は拳にして目元を隠し、両足を上下に動かして怒りを表現しているようだ。

 だからそんなに暴れるとスカートの中が見えるんだよ。いくら健全な男子高校生でも、泣き喚く女子中学生のスカートを覗き込むなんて色気のないことはしないからな。


「狼さんの悪人!意地悪!!極悪!!!鬼畜!!!!嫌い、先輩なんて大嫌い!!シャコは良い子におつかいしただけだもん!!悪くないもん!!」

「人を殺せるレベルの武器を使ってなにを言ってやがる!?いいから、負けを認めたならナレッジを返せ。それさえしてくれれば、もうなにもしねぇよ」

「やだぁああああ!!おつかいができない悪い子は狼さんに食べられちゃうもん!!ゴミ袋に詰め込まれて、ぐっしゃんぐっしゃんってなるもん!あんな痛いのはもういやだぁあああああああああ!!!!!!」


 駄目だ。妹二人いるからわかる。これはもうこっちがなにを言っても耳を貸さないレベルの癇癪だ。これがいずれ女のヒステリーに進化するんだもんなぁ。怖い。

 こういう時は勝手に用事を済ませてしまうのが一番手っ取り早い。仕方なく暴れて泣きまくる大神シャコを見下ろし、スカートのポケット部分に小声で謝りながら手を入れる。

 左にはなかったので、仕方なく右ポケットも探す。そして狙い通りの感触。取り出せば細長い金色の輪っか。これで大和ヤマトの家族を取り戻せた。思わず微笑む。




「女子中学生のスカートに手を突っ込んでにやにや笑う悪趣味はどうかと思うぞ」




 多大な誤解を招きそうな言葉に、俺は反論することを忘れた。背後から香る煙草の臭いに、機嫌の悪そうな声。そして俺の手から離れていく金色の輪っか。

 よく知っている。月に一度は必ず会う相手だ。なにせ俺が住んでいるマンションの大家さんだ。前から危ない仕事をしていそうだとは思っていたが、今はそれ以上に危険を感じる。

 大神シャコまで泣き止んでいる。そして顔を真っ赤にしてスカートを両手で抑えているが、俺的にはもう遅いと思うぞ、その仕草。なんにせよフェデルタが大和ヤマト連れて消えた今、俺に残された手段はなんだ。


「抵抗するな。殺すぞ。こちとら大事な商談を終わらせた後、間抜けの始末にわざわざ足を運んだんだ。これは俺が入荷した商品だ。お前の手垢をつけるな」


 入荷ってなんだよ。後頭部に触れる冷たい金属の感覚も忘れて、頭の中が沸騰しそうになった。そいつは大和ヤマトの家族だ。人間じゃないかもしれない。でも犬猫に金魚さえも家族とする大和ヤマトの性格ならば、間違いじゃない。

 それを勝手に物扱いして商売しようってか。何様だよ。青い血とか人外とか、聞こえてきた単語の断片を思い出しても、一切納得できることなんてない。

 抵抗するなだって。笑える話だ。最初から抵抗しない優しくて素直な性格なら、こんな傷だらけになってないだろうな。だから俺の性格は傲慢野郎一択だ。


 鱗が空中から消える。同時に俺の体表面全てを覆う青い鱗。発砲音がした後、後頭部を覆っていた鱗は散らばった。頭には今まで味わったことのないような衝撃と痺れ、そして痛み。

 体が崩れ落ちる。けどこれで充分だ。散らばった鱗を銃口に付着させて、振り返る。そんな俺の目玉を狙う銃口。もう一丁あったらしい。抜け目ないな、おい。


「死んどけ。想い叶わない人魚らしくな」


 そうだな。ここで大家さんの背後で足を振り上げるOL風美女がいなかったら、そう覚悟したわ。その気配を感じ取った大家さんが舌打ちして横に避ける。

 強烈な踵落としの風圧が俺の鼻先を掠めた。黒い艶やかな長髪をバレッタでまとめながらも背中に流し、埃一つないスーツを着こなしている。巨乳が白シャツを押し上げているのは絶賛しても良いだろう。

 なんだか椚さんみたいな思考になっているなと思った矢先、当の本人が汗だらけでかがみテオをおんぶしながら現れた。そういえば今東京大混乱だったな。そんな状況でこの二人が鏡テオの元に集まるのは自明の理だ。


「不肖この梢、坊ちゃんの恩人を助けに参った所存!!大家さん、銃刀法違反は見逃してあげましょう!!しかし殺人は御天道さんが見逃しても、御月様が全て見ています!!」

「きょ、梢ちゃん……雲で隠れてるよ……ぜぇっ、はぁ……」

「だまらっしゃい、椚!!坊ちゃんの危機に気付くのが遅れた上に、普段お世話してくれている恩人の方がこんなになるまで放置して!!あとで折檻です!!」

「俺的には巨乳が当たる感じでおねが……ちょ、坊ちゃん抱えているから瓦礫投げないで!サングラスが、結構いい値段したサングラスがぁああああ!!」


 うーん、なんか悪い意味でムードブレイカーな人で助かる。毒気が抜かれたように大家さんは肩を落として、新しい煙草を取り出して火を点けている。

 なんだかんだで瓦礫が当たった椚さんは鏡テオを降ろし、地面に落ちて割れたサングラスを手の平に乗せて落ち込んでいた。そんな中、いまいち状況を把握していない鏡テオ。

 いつものぽややんとした表情立っているだけ。しかも無傷。こいつはあの茨の群生の中でも怪我一つないって、どういう強運構造しているんだ。しかし今はそのおかげで命拾いした。


「サイタ、大変だよ!カノンが緊急手術で、ララとクルリは病院行ってるよ!僕達もお見舞いに行かなきゃ!!」

「それ以上にこの現場が大変なんだよ!!目的を忘れたのか!?ナレッジが大家さんが持っている金の輪っかになっちまって、商品扱いされてんだよ!!」

「え?じゃあ買えばいいんじゃないの?」


 俺の体全てから力が抜けた。なんだろうな、このパンがなければケーキを食べればいいじゃない、みたいなノリ。そういう問題じゃないんだよ、倫理的に。

 どうしてよりにもよって常識がある多々良たたらララと思考回路的には頼りになるくるるクルリがここにいないんだ。深山みやまカノンが一大事なのはわかる、それが重要なこともな。

 けど鏡テオだけがなんで残っているんだよ。こいつの特殊な幼少期を思えば、常識なんかないに決まっている。深々と大家さんが紫煙を吐き出して余裕の体勢。大人の余裕なのか、呆れているのか。


「良いところ突くじゃねぇか。さすがはエーレンベルク家の御子息だ」

「えへへー。褒められてうれしいなぁ。で、何円なのかな?それともドル?」

「円相場に変換して、一億スタート。悪いが、買い手は複数いてな。早い者勝ちのオークション制度だ」

「ぼったくりかよ!?というか、買い手が複数って……」


 まさかの鏡テオからの切り口による新しい可能性と、嫌な予感。それを裏付けるように不敵に笑う大家さんが告げる。


「錬金術師機関とカーディナル。最高に馬鹿な顧客だ。五百年越しの悲願達成のために、金は惜しまないからな」

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