第8話「締め切り間近」

 陶磁器をなぞる水滴のように、涙が頬を伝っていく。

 淀みなく流れてしまい、手の甲に小さな水溜まりを作ってしまう。

 化粧も崩れ落ちた有様で、ハリエットは泣き続けていた。

 

「王子、お助けください……どうか、どうか」

 

 少年に縋る女研究者は、まるで物乞いのようだった。

 それでも彼女には他の方法が思いつかなかった。驚くべき知識を披露してくれた第五王子ならば、救ってくれるのではないか。

 そんな淡い期待を胸に抱き、テーブル越しにミカの顔を見つめる。

 

「……」

 

 困惑だけが靄のようにつきまとい、振り払えずに笑って誤魔化す。

 そう――ミカは彼女についてなにも知らないのである。奇妙な初対面だ。

 意識が砕けていた間、レオが体を動かしていた。ハリエットが出会ったのは、別人といっても差し支えない。

 

(レオ、起きて!)

(……へぷー)

 

 意識の内側で気持ちよさそうに眠る獅子は、可愛らしい寝息で返事した。

 しかし起きる気配はなかった。あまり意識の内側に構っていると体が動かせない。

 ミカはやむなく女研究者に向き直る。テーブルにはヤーやクリス達も同伴していた。

 

「なにがあったのよ、ハリエット」

「私達で解決できる問題なのですか?」

 

 少女二人が優しく問いかけても、ハリエットは譫言の如く少年に助けを求め続ける。

 ミカが困っていると、横に座っていたオウガが肘で小突く。他には聞こえないように配慮した声で、助言も添えて。

 少しためらったミカだったが、背もたれに体を預ける。脳裏には穏やかな物腰の第四王子と、厳格な第二王子を思い浮かべた。

 

「泣きやむまで話は聞けないな」

 

 突き放すような言葉になってしまったが、それはハリエットの胸に突き刺さった。

 内心では「やってしまった」と焦るミカとは反対に、目元の涙を拭う彼女は冷静さを取り戻していく。

 眼鏡のレンズを乾いた布で拭き、涙の跡を消していく。深呼吸で胸を膨らませ、見えない圧迫を取り除いた。

 

「失礼しました。実は――」

 

 淡々と話していても、最後には声が震えていた。

 打ち明けられた事情を前に、ミカの反応だけが遅れる。ヤー達は揃って驚愕し、わずかに怒りさえ滲ませていた。

 

「盗まれた!?」

「あんなに頑張っていた研究をですか?」

「ひでぇ話だよ……」

 

 三人の言葉を摘み上げ、構築する。

 どうやらレオは彼女の研究に簡単な手助けを施したらしい。

 その結果を失い、途方に暮れている。彼女にとっては夢や希望が詰め込まれた研究だったようだ。

 

「今の私に他の研究を進める余力や時間はありません……けれど王子ならば」

「うーん」

 

 無理である。それを告げるのは一瞬で、簡単なことだ。

 本職の人間が専門外に助けを求めるのも変な話なのだが、目元の疲労が濃い彼女にとっては藁にも縋りたいのだろう。

 ミカとしても追い討ちをかけるのは気が引ける。それだけ女研究者の憔悴した表情は痛ましいものだった。

 

「犯人も突き止めたいけど、報告会が目前かぁ。ヤーでも一から作るのは無理?」

「当たり前でしょ? 馬鹿なこと言ってんじゃないわよ」

 

 殺されそうな勢いで睨まれてしまう。

 論文にほとんど縁がないミカにとって、学者の研究時間はわかりづらい。

 ただ天才精霊術師であるヤーが無理ならば、目の前のハリエットなどは絶望的な話だろう。

 

「光は……」

 

 テーブルの上で強く拳を握りしめたハリエットは、苦しそうに呻く。

 

「私の夢でした」

 

 奥歯を強く噛み締めて堪えても、目だけはどうにもならない。

 目蓋を閉じれば涙が押し出されてしまい、桃色の瞳に戻ることもできずに落ちていく。

 

「悔しい」

 

 手の平に刻み込まれる痛みでは誤魔化せない感情。

 じくじくと血が暴れるのを感じながら、皮膚に強く爪を立てる。

 積み上げた努力は報われるだろう。ただし彼女以外の誰かが笑うだけだ。

 

「……」

 

 目標に向かって真っ直ぐ突き進んだ女性。

 その魂から輝きが失われていく。石灰の丸石のように変化していき、今にもぼろぼろになって崩れそうだ。

 視た。聞いた。初めて会った女性だが、嘘偽りないことを彼は知った。

 

「ハリエットはどうしたいの?」

 

 奪い返したいのか、捕まえたいのか。

 

「今、決めました」

 

 強い決意が魂に灯る。それは頼りないが、確かに輝きだった。

 金色の瞳を真正面に見据えて、ハリエットは揺るぎない声で告げる。

 

「見返したいです」

 

 研究者の意地が、弱気な彼女の本質よりも勝った。

 ヤーが呆れて深々と溜め息を吐くが、唇の端が吊り上がっていた。

 なによりミカが満面の笑みを浮かべていた。その答えに満足し、望みを叶えようと立ち上がる。

 

「じゃあ目に物見せてやろうか」

 

 

 

 精霊術研究所の地下は、地上に比べて野暮ったい雰囲気だ。

 無理やり穴を掘って煉瓦を埋め込み、完成してからようやく明かりの問題に気づいたくらいである。

 今でも増築と改装を繰り返しており、全容を把握しているものは数少ない。

 

 茶色の四角い通路と、壁に立ち並ぶ鉄製の扉。重々しい空気が充満し、鎖で吊り下げられた調光器具は角まで照らさない。

 しかし鼠や虫が出てくる汚れや不気味さはなく、むしろ底冷えするほどの室温に身震いするくらいだ。

 夏でも寒々しく、冬になれば防寒具は必須。けれど精霊術師にとっては自らを守る術があり、ヤーなどは最低限の装備だけで動きやすさを求めている。

 

 早足で向かうのは巨大な部屋。工房と称してもおかしくない場所。

 鉄製の扉を半ば蹴り破るように開けて、困惑するハリエットを背後にして大声を出す。

 

「カロン! 頼みがあるわ!」

 

 天才精霊術師。ササメ・スダが育てた少女。現在において注目株第一位。

 そんなヤーがカロンに助けを求める姿など、他の研究者は見たことがない。

 大抵は自分の力で解決し、無理な時は見込んだ相手にしか声をかけないのだ。

 

「なになに!? お兄ちゃんでよければ……」

「実は――」

 

 転送精霊術は陣から道具へと進化していた矢先だ。その研究に心身を捧げている研究者達は絶句する。

 持ち込まれた内容に分厚い辞書のような資料が落ちた。頰がこけるほど疲れていたカロンにとって、前代未聞のお願いである。

 背後では完成に近い天球儀の模型が、天井や壁を圧迫していた。一度解体して、報告会で再度組み立てなくてはいけない問題が発生している最中だ。

 

「い、いくらなんでもそれは……」

 

 頭痛に悩まされながら断ろうとした、が。

 

「お願い、カロンお兄ちゃん」

 

 舌打ちしそうな不機嫌な顔だったが、両手を組んでの懇願。

 愛しの妹が頼ってきた。その事実だけで、カロンは勝利を確信できた。

 古今東西、あらゆる良薬を凌駕する即効性と疲労回復。これが泡沫の夢だとしても後悔はないほど、カロンは晴れやかな気持ちだった。

 

「任せて! お兄ちゃん、頑張っちゃうよ!」

 

 周囲の部下達は主任の妹愛に呆れ、目の前の課題に嘆き、やりきれない気持ちを拳に宿して壁や床を殴った。

 なお数分後には解消できなかった憤りは丸めた紙に注ぎ込まれ、石投げの要領でカロンへと降り注ぐのである。

 

「そういうことで、ミカに伝えて」

(妖精を伝書鳩扱いとは……)

 

 ぼやきながらもアトミスは壁をすり抜ける。本体である氷水晶の指輪はヤーが所持しているが、ある程度の距離までは離れられる。

 ヤーやカロン、ハリエット達がいるのは精霊研究所の地下製作場だ。大型の道具を作る時に使用され、工房のように広い部屋が複数存在する。

 頑丈な煉瓦に囲まれた部屋や廊下を通り抜け、地上へと昇っていく。物質の密度などは精霊と魂で構成された妖精には無縁な話だ。

 

 白い壁に穏やかな光が満ち溢れ、清潔さを際立せる地上階。

 ハリエットの研究室を眺めていたミカは、オウガとクリスの家探しを見守っていた。

 

「オウガ殿、こちらには化粧品の山しかありませんでした」

「こっちも瓶に隠したお菓子しかねぇな」

 

 美しく理知的な女研究者の秘密を暴いている気がして、ミカとしては若干居心地が悪い。

 ヤーの部屋は散らかっていたが、ハリエットの部屋は神経質を思わせるほど整理整頓されていた。

 資料はそのまま箱に詰められそうなくらいに整えられ、本も背の高さ順で棚に並べられている。

 

 簡素な机とベッド。それ以外は本棚。窓はなく、天井で輝く精霊術の光だけが室内を照らしていた。

 ほぼ白一色の部屋は味気なく、むしろ必死に隠している気配さえ感じられる。

 しかし探せばお菓子や化粧品も見つかるので、意外と脇が甘いという印象が親近感を滲ませていた。

 

「やはり犯人に繋がる手がかりはなさそうですね」

「逆にわかりやすくなったじゃねぇかよ」

 

 瓶に保存されていたクッキーを摘まみ食いし、オウガはミカへと振り向く。

 

「うん。犯人はハリエットをよく知る相手だね」

 

 綺麗に痕跡を残さない。それは見ず知らずの犯行では無理だ。

 いくらハリエットの部屋が整理整頓されているとはいえ、彼女が部屋から離れたのは昼食の間だけだ。

 いつ帰ってくるかも不明な状況で、短時間で研究資料全ての盗みを行うのはリスクが高すぎる。

 

「問題は誰かだけど、すぐにわかっちゃったしなぁ」

 

 オウガから差し出された瓶に手を入れ、クッキーを一つ出す。

 噛めば軽快な口応えと広がる甘み。素朴な味わいに舌鼓を打ちつつ、ミカは十分前に見た出来事を思い出す。

 

 ハリエットの研究室に向かう最中、あまり人が通らない廊下で言い争う二人を発見した。

 紳士的な見た目の男性が、責めるように怒鳴っていたのだ。相手は若い男で、誤魔化すように苦笑を浮かべていた。

 遠くで会話が聞けなかったミカ達に代わり、手に持っていた花灯籠からホアルゥが近づいた。

 

 花灯りの妖精ではあるが、ホアルゥは体が手の平に載るほど小さい。

 そのため火の精霊が固まって動いていたとしても、アトミスほど目立つものではなかった。

 研究所ではアトミスの存在に感づく研究者は多かったが、ホアルゥは気に留めるほどではなかったのである。

 

「どうだった?」

(紳士風はバロしゃんというらしいでしゅ。ハリエットしゃんの上司でしゅね)

 

 しっかり会話内容を聞いたホアルゥは、灯籠の蓋に腰をかけながらミカ達に報告する。

 

(若い人はラルクしゃん。ハリエットしゃんと同期の精霊術師で、どうにも怪しいと怒られていたでしゅよ)

「へー」

 

 目を細めたミカに対し、ホアルゥは背中に生えた羽根が大きく震えるのを我慢できなかった。

 鳥の翼にも近く、鮮やかに燃える赤い炎の羽根。それが陽炎のように揺らめき、不安定な心情を表現してしまう。

 

(怒ってましゅ?)

「うん、ハリエットは頑張ったみたいだからね」

(ミカちゃまの笑顔が好きでしゅよ)

「ありがとう。まあ大丈夫だよ。仕返しが本題じゃないからね」

 

 ミカの肩までよじ登り、頬にすり寄ってくるホアルゥの頭を撫でる。

 嬉しそうに身を任せる妖精は、地下から迫る気配に気づいた。

 

(自意識過剰マン、バッチリでしゅか?)

(名前で呼んでくれ。ヤーのことだ、当たり前だろう)

 

 準備が整ったと知り、オウガとクリスを手招きする。

 空になった瓶を丁寧に机の上に置き、背を向けた。静かに扉を閉じ、鍵をかける。

 次に向かう部屋は決まっている。すなわち「犯人」の部屋。

 

 探偵も真っ青になる速度で正体を掴む黄金の瞳。

 それから逃れるように廊下の角に隠れていた者は、視線を逸らせていることにほくそ笑んだ。

 

 

 

 当然ではあるが、犯人の部屋には鍵がかかっていた。

 オウガとクリスが力ずくで開ける方法を提案してきたが、どうやっても痕跡がバレてしまう。

 

「ホアルゥとアトミスに忍び込んでもらうしか……」

「王子。妖精をそういう風に扱うのは良くないと思われるが」

 

 静かな声だった。無機質で、硬い。銀色の金属製品が頭に浮かぶ。

 あまりにも淡々としていて、ミカとクリスはとっさに振り向けなかった。

 オウガだけがあらかじめ知っていたように相手を見つめ、出方を窺っていた。

 

 五十代の男だった。グレーヘアーとも呼ばれる白と黒が混じった髪を整髪油で整えており、銀縁眼鏡越しの青い目が真っ直ぐ相手を捉えている。

 顔や体格などは研究所のように四角い印象だが、体格はそれほど大きくない。ミカよりも多少背が高いくらいだ。

 しかし凝縮された圧を感じる。知識、探求、冷徹、頑固、威厳。そういった雰囲気を圧縮し、体という箱に閉じ込めているようだった。

 

「いや、その……どなたですか?」

 

 狼狽したクリスが尋ねると、男性は平坦な声で答える。

 

「私はササメ・スダ。しがない研究者だ」

 

 丁寧だが、親切さは感じない。むしろ機械的な仕組みのような受け答え。

 だがミカ達は驚きのあまりすぐに声が出なかった。ヤーの育て親であり、カロンの実父。そして研究所で一番の権威。

 思わず頭の頂点から足先まで視線でなぞってしまう。特に比較対象がカロンのせいで、親子とは到底信じられなかった。

 

「愚息と義娘が世話になっているようで。しかし先ほどからなにを探っている?」

 

 迷わず直球。遠回しなど面倒で手間だけの無駄な行為と言わんばかりの内容。

 ヤーが時折見せる直球言動は彼の影響かと、ミカは大いに納得した。

 

「た、探検?」

「妖精を使って研究室に忍び込むのは犯罪行為だが」

 

 誤魔化そうとしても全く通じない。王族相手でも一切怯まない態度。

 ミカが魂を視れば、これ以上ないくらいの四角い銀塊だった。潔癖なほどに輝き、叩いても曲がる気配が皆無。硬質な銀は重みさえ感じる。

 そして研究所の形によく似ているのだ。もしも精霊術研究所が擬人化したならば、彼がそのまま投影されるのではないか。

 

「研究の邪魔はしないでもらおうか」

 

 その一言だけに込められた意味を三重にも理解してしまう。

 おそらく最も国王に近い第二王子相手でも、彼は同じ言葉を突きつけるだろう。

 優先順位は精霊術の探究が一番。それ以外の事柄は全て二番と考えている可能性が高い。

 

「……一つだけ」

「なんだろうか?」

 

 疑問に対して答えるのは研究者としての性質なのか、彼自身の性格なのか。

 ミカの金色の瞳を臆さずに真っ直ぐ見つめ返すササメに、指先で「犯人」の部屋を指し示す。

 

「どうするの?」

「適切な処置を行う」

 

 魂に一切の変化なし。ただ言葉だけを相手に悟られないように言い換えている。

 それを聞いてミカは安心した。外見は怖そうなおじさんという印象だが、中身はヤーをがちがちの潔癖堅物系に組み立てた感じである。

 道理で彼女が懐いているし、尊敬しているわけだとミカは微笑ましい気持ちになった。

 

 ササメからしてみれば、いきなりにこにこと笑う第五王子を変人だと思った。

 前々からミカに関しては精霊が異様に集まると注目していたが、体自体にも変化が起きているように見受けられる。

 淡く光る体。それは従者のオウガやクリス、義理の娘であるヤーも同様だ。

 

 しかし対面で会ってみると、金色の瞳から目が逸らせない。

 左目を跨ぐ傷口。その奥に不可解な謎が隠されているようで、背中がむず痒くなるほどの好奇心に襲われる。

 なにより目の奥に獣を飼っている気配。しかし外見は十五歳の少年。あまりにも均衡が不安定で、探究心に掻き立てられる。

 

 ――第五王子でなければ、研究材料にしたのに。

 

 ササメの本心はあまりにも真っ直ぐに純真な研究員だった。

 故に人道からかけ離れた願望の言葉を持っていても、魂には目標へ直線に向かう輝きしかない。

 ただ色と形も既に白から離れ、丸よりは角ばった形になっているのでミカは気づかなかった。

 

「じゃあ俺達は他の用事があるので」

「ああ。妖精達にもよろしく」

 

 アトミスとホアルゥは苦笑いしか浮かばなかった。

 ササメに姿を見せないように気を張っていたのに、視線が二人から全く外れなかった。

 二人で別々の方向へ移動しても、意識だけ向けられている。そのせいで肌に突き刺さるような気まずさが続いていた。

 

 彼には一度も姿を見せていない。捉えられるはずがない。視えるのは不可能だ。

 しかし集まる精霊の動きだけで居場所を掴み、その量で妖精だと断定していた。

 ミカという精霊が惹かれる魂を持つ相手が傍にいても、決して見失わなかったのである。

 

(あのおじしゃん、めっちゃ怖いでしゅ)

(同感だね。知識と経験で、僕達を感知してるんだから)

 

 珍しく意見が合った二人だが、あまり嬉しくないと溜め息を吐いた。

 

 

 

 石造りの狭い階段を下りて行き、煉瓦で固められた廊下を歩く。

 目的の部屋前まで辿り着くと、室内から言い争いが響き渡ってきた。

 

「レンズはこれだけ? もっと倍率を絞れないの!?」

「一日で用意するにはこれしかないよ! 設計図を描いて、試作品を作らないと改良なんて無理!」

「まず霊的なものだけを捉えるとなると、特定の鉱石が必要なんです! 加工だって一ヶ月はかかりますって!!」

 

 一瞬、ドアノブを回す手がためらった。この先は地獄だ。

 開けてしまえば二度と出てこられないかもしれない。そんな不安に煽られながらも、深呼吸してから扉を引く。

 重い鉄をゆっくりと動かして、中の惨状を目の当たりにする。床や机を埋める資料に、その上に散らばる材料達。一歩でも踏み入ればなにかを壊しそうな危険性。

 

「じゃあ感知器の線で押し進めるわ! そのために……ミカ、なにやってんの!」

「は、はい?」

「アンタの目が必要なの! すぐに協力しなさい!」

 

 有無を言わさずミカを引きずり込むヤー。最早昨晩の告白も忘れ、研究一本で動きまくっている。

 感情の整理がついたおかげかもしれないが、それ以上に細かいことを気にしていられる余裕がないのである。

 クリスやオウガが扉前で呆然と立っていれば、カロンが弱々しくもがっしりと二人の腕を掴み取る。

 

「人手も足りないし、力仕事要員も必要! 助けて!」

「わ、わかりました。私にできることならば全力で応えます!」

「あとで手間賃を払ってくれよ」

 

 高貴なる無償の心と、しっかりと仕事として区別する割り切り方。

 二人の育ちや性格の差が現れたが、どちらにせよ待っているのは締め切りが近づいている現場である。

 この先は地獄だ。阿鼻叫喚も枯れ果てるほど、壮絶な忙しさがミカ達を荒れさせるのであった。

 

 

 

 研究所の片隅。滅多に人が通らず、限られた人間しか立ち入りが許されていない場所。

 ラルクは壁に背を預け、額に落ちてくる前髪を雑に掻き上げる。

 

「所長。俺は大事なことを聞いてただけで」

「バレるなど三流だと思わないか?」

 

 有無を言わせぬ直球。ラルクはササメのそういう部分が好ましいと思う反面、苛立ちの原因でもあった。

 今も問い詰められている最中で、言い訳さえ聞いてもらえない。立場を考えれば自然とわかりそうなことを、あえて引き出すのだ。

 

「上手くやったつもりなんですけど」

「あの女史に親しげな態度で近づいたこともか?」

 

 脳裏に浮かぶのはハリエットだ。いつも綱渡りしているような危うさを持ちながら、夢に向かって一直線に進んでいる。

 しかし本人はそれを自覚していない。ひたむきな姿勢に目が焼けるようで、不穏な感情を他人が抱いているなど知る由もないだろう。

 発想やひらめきに優れているのに、自信が不足気味。その才能を羨んで、盗もうとしていた相手さえ見逃している。

 

「仕方ないでしょう。そうしないと掴めなかったんだし」

「彼女の上司に知られて追求されていたのに白々しい」

 

 明らかな失態を指摘され、ラルクは肩を竦める。もう返す言葉も尽きた。

 なるべく密やかに行動していたのだが、勘づかれてしまえばあっという間である。

 受け流すつもりだったが、バロは当然のように説教を続けた。それから解放されたのも、ササメが声をかけたからだ。

 

「で、俺の処分は決まっているんですか?」

「当たり前だ。それも報告会が終わってからだ」

 

 面倒なことだと、溜め息を細長く吐き出す。もしも煙だったならば、ゆらゆらと揺らめいて視界を汚しただろう。

 潔癖な性格のササメは、罪を白日の下に曝け出さないと気が済まない。謎も、研究も、全てを光の下に。

 闇の中で隠しておけばいいものさえ、彼は引きずりだしたくて仕方ないのだ。

 

「本当にアンタは冷たい人だ。雪の方が温かいだろうな」

「体温は人並みだ。感情に温度を求めることが間違っている」

 

 自分の子供をほぼ全て孤児院に預けた男は、冗談さえ受け止めて真面目に返す。

 だから息子が永遠の反抗期で、才能を見込んだ義理の娘には尊敬されているのか。

複雑な家庭事情に首を突っ込みたくないラルクは、なにを言っても無駄だと諦めるだけだ。

 

「そういえば息子さん達が慌ただしいけど、助言とかいいんですか?」

「ヤーがいる。ならば問題ない」

 

 手塩にかけて育てた義理の娘を信頼している姿は、どこか歪だった。

 実の子供達に全く期待しない父親。才能と結果を見据え、確率論を優先して行動しているような印象だ。

 これで天才精霊術師がよくも良い子に育ったものだと、むしろ感心する。

 

「第五王子やハリエットさんも関わってるみたいですけど」

「ああ。第五王子か……」

 

 眼鏡の位置を直し、珍しく口角を引き上げるササメ。

 顔の筋肉が固定されていると思っていたラルクからすれば、その笑顔は鳥肌が立つほど気味が悪かった。

 明日は大雪かもしれない。ただでさえ例年よりも雪深いというのに、さらに積もることだろう。

 

「推測だがアレは希少な検体、もしくは事例と思われる。第四王子の影響さえなければ、国王に協力を申し出たものを……」

「娘さんに嫌われますよ?」

「必要な犠牲だ」

 

 眉間の皺が深くなった。意外と娘関係に関しては感情が強く出るらしい。

 本能が研究者で、後天的な感情に父性があるのだろうか。それでも彼は最後に謎解明を選ぶことは想像に難くない。

 ササメが背を向ける。これ以上の会話は時間の無駄だと判断し、自らの研究を続けるつもりだ。

 

「最後に一つ」

「なんですか?」

「覚悟しておけ」

 

 死刑宣告にも似た決定的な言葉。ラルクは笑う余裕もなく、顔を引き締める。

 真面目堅物という単語がよく似合うが、ササメの性格はそれを深刻化させたものだ。

 冗談を知らないような振る舞いに言動、そして全てが有言実行という行動力の鬼。

 

 もう少しバレないように動けばよかったと、ラルクは過去の自分を静かに恨んだ。

 

 

 

 ミカが意識の奥底に沈み、船の甲板で爆睡している頃。

 こっそりと表に出てきたレオは、目の前に置かれている道具に驚いていた。

 人間の創意工夫については承知しているつもりだった。しかし試作品を前に、それ以上の進化を感じて身震いした。

 

 過去の研究を土台に、自らの知識を積み上げていく。

 多くの努力で形にされた道具は、時間を超えて使い続けられるだろう。

 

「そうか。ちゃんと継がれるのか」

 

 死んで、世界が先に進む。置いていかれる孤独を恐怖と混同した。

 しかし進歩というものは過去を引き連れていくのだ。失敗も、成功も、全てを内包して組み上げていく。

 人間が子供を望む理由がわかり、レオはミカの両手を見つめる。残せない体は長い時間を生きるに最適だが、それでいいのか。

 

 聖獣としての意識としては、周囲の妖精が子供に近いものだった。

 だからレオが死んでも、他の妖精が聖獣を継いだ。今も太陽は輝き、世界を照らすのは後継がいたから。

 ではミカはどうなるのか。その稀有な才能は血では継承されないが、髪や目の色は伝わる。

 

 死の間際に後悔しないだろうか。しかしレオには戻り方がわからない。

 半ば妖精のような肉体。ウラノスの民と同じ体は、人間とは明らかに異なっている。

 困り果てたレオの背後から、呻くような声が聞こえた。

 

「ぅ……王子?」

 

 床には数多の研究者達が寝転がっている。ヤーやクリスはお互いの体にもたれかかり、オウガも壁に背を預けて仮眠していた。

 これだけの道具を作るまでに多大な苦労と力を割いたのは明白だ。その努力を推して図るべきだ。

 そして一番苦労したであろうハリエットは、長い髪を耳にかけながらレオを見つめている。

 

「今はゆっくり休んだ方がいい。報告会が近いのだろう?」

「……」

「我も少し寝る。だから」

「レオさん」

 

 穏やかな笑みを浮かべ、ハリエットはわずかな不安と確証を持って名前を呼んだ。

 それはミカとレオが別人であると認識した、好意を抱いたが故の言葉。

 

「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことはしていない」

「いいえ。貴方は私に夢を叶える理論を、ミカ王子は別の道を照らしてくれた」

「……っ!?」

 

 ようやく言葉の意味に気づいたレオが振り向けば、ハリエットが至近距離に立っていた。

 少しだけ化粧は崩れていたが、それでも元の美貌は失われていない。大人の艶を含んだ唇で、左目を跨ぐ傷へと優しい口づけを降らせる。

 身長はハリエットの方が高い。呆然と見上げるレオに対し、照れたハリエットは悪戯っ子のような笑みで誤魔化す。

 

「私、レオさんが好きですよ。いつか正体を教えてくださいね」

 

 そこが限界だったのだろう。ハリエットは魂が抜けたように床へと崩れ落ち、またもや深い眠りへと潜る。

 状況の理解が追いつかないレオだったが、即座にヤーの寝顔を確認する。涎を垂らした姿は、楽しい夢の真っ最中なのかもしれない。

 肩の力を抜いて安心する中、壁際から漏れ出た笑い声に振り向く。

 

「……オウガ、起きていたのか?」

「当たり前だろうがよ。俺は護衛だ」

 

 器用に片目の瞼だけをあげ、意地悪な笑みを浮かべるオウガ。男らしくも、目の前の出来事を愉快に受け止めていた。

 気まずいレオは誰も起こさないように移動し、壁に背を預ける。小声で牽制をかけておくのは忘れない。

 

「ヤーには黙っていてくれ!」

「昨晩について詳しく教えてくれたらな」

 

 大方の予測は立っているのに、あえて訪ねてくる胆力には脱帽するしかない。

 観念したレオは小声で話し続け、オウガにはあらかたの事情を伝えた。

 そしてミカが起きる気配を感じ取り、直後に意識の内側に戻ったのである。

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