第7話「目覚まし時計」
海面を飛び跳ねて、炎よりも鮮烈に飛び立っていく。
遠くに広がる大地を背に、世界を覆う風の膜を突き抜けて。
重みが消えた新たな世界へ。三百六十度の闇の中に、光が散らばった場所。
燃える岩を足場に跳躍し、月も太陽も過ぎ去った先へ。
常人では見えない精霊の奔流は輝き、その波に乗れば彼方へ届きそうな勢い。
太陽の聖獣は振り返る。同じように楽しむ月と闇の聖獣が、精霊を食む。
「星の彼方、光も届かない場所に我らが行こう! 太陽と月の威光で溢れさせるんだ!」
「ああ。そのために闇鴉を呼んだのだからな」
「いい迷惑です。だがなんと胸が躍るのでしょうか」
金色の獅子が率先し、銀毛の狼が負けじと四肢を動かす。その周囲を漆黒の鴉が旋回する。
背後で目前の獅子より色褪せたレオが、顔を俯かせていた。
彼を抱きしめたままのミカは、周囲の星空よりも三匹のはしゃぎ方を面白そうに眺めていた。
(レオって、あんな感じだったんだね)
(若気の至りだ!!)
(長生きなのに?)
記憶を見ているせいか。三匹の聖獣の言葉がいつもとは違うように聞こえた。
倣うようにミカ達の声も変わっている。普段とは逆に、ミカ達が目に見えない妖精になった気分だ。
聖獣達の旅に追従するように体が動いていく。銀河。光が集まる河。それらを初めて見たミカは、金色の瞳に満天の星を映した。
「もっとだ! 誰も到達できなかった場所へ! そこにミカミカミがあるはずだ!」
少年の腕に抱かれているレオが、体を一際大きく震わせた。
前脚で頭を抱えており、この後に起きることを直視しないように瞼を強く閉じている。
あらゆる星を見た。全てを吸い込む穴も遠くから眺め、年老いたものが爆発する瞬間も目撃した。
星系という単語も知らず、どんな望遠鏡でも捉えられない天空を泳ぐ。
凱旋のように、高らかに謳いながら三匹は進み続ける。世界に果てなど存在しないと、無邪気に信じていた。
光よりも速く走り、時には空間の法則を無視して。三匹の聖獣は止まることはなかった。
「ミカミカミとはどんなのだろうか?」
「きっとこの世の全てが集まる場所だ! 常世の春を謳歌する妖精界よりも素晴らしいだろう!」
「見ればわかるでしょう。そうでなければ笑い話です」
時折、そんな風に談笑している。気の置けない友人みたいに、遠慮などなかった。
無言の時でさえ、柔らかな雰囲気で居心地がいい。恐れるものなど、なにもない。
「なあ、闇鴉! お前が教えてくれた五文字のおかげで、我々は――」
獅子が漆黒の鴉を見た瞬間、光が視界を埋めていた。
光の中で収縮していく黒い影。それが点まで小さくなり、塵の一つも残さずに消失した。
足が止まる。狼と獅子は星空の中で友を探すが、直感で理解していた。
闇の聖獣が死んだ。
真空の世界。だが不思議な音が聞こえた。
かち、こち、かち……人間が作った品の一つ、時計の針が進む音。
それは周囲から聞こえていて、方向が掴めない。三百六十度全てを見渡せる場所で、根源がわからない。
「警告する」
機械的な声。レオが顔を上げた。忘却の末に、見逃していた存在。
それは人の形をしていた。跳ねた金の髪に、瞳孔が開いた緑色の目。服は茶色を基礎としていて、北国の装いだ。
しかし注目するべきは時計盤を回転式弾倉とした、小型の大砲のような拳銃だ。
「
一人の少年が、二匹の聖獣と対峙していた。
到底、人間が生きていける環境ではない。しかし人の形をしている少年は、銃口を二匹に向けるだけだ。
動揺し、言葉が出てこない。そんな狼に対し、獅子が声を上げた。
「進むぞ、ヴォルフ!」
「っ、レオ!?」
少年に背を向けて走り始めた獅子。一切振り向かず、ただ前だけを見ていた。
その後を遅れて狼が追いかける。何度も少年の動きを見つめ、用心する。
「何者かは知らんが……この先にミカミカミがあるはずなんだ!」
「そんなものはない」
「あるんだ!! でなければ……闇鴉を何故殺した!?」
「星の一部だからだ。月や太陽よりも、その重要性は高い」
距離を開けているはずなのに、声が離れない。
焦る獅子は星空の先しか見ていなかった。少年の答えにも、まともに受け止めていない。
「邪魔が入った。ならばこれが正解だ! 闇鴉がいないのだとしても、我が代わりに――」
「レオ、待て! 本当にそうなのか? 私には違和感が」
「……目を覚ましてもらうぞ」
ジリリリリリリリリリリリリリリ。
鳴り響く鐘の音。聖獣達にとっては初めて聞くものだった。
あと少し。そう思った獅子の背中に強い衝撃が走り、方向が逸れる。
背中を押し除け、獅子がいた場所に狼が浮かんでいる。
「ヴォル、フ」
「私は」
狼の言葉が光によって遮られた。彗星にも似た膨大な光の線が聖獣を呑みこみ、その姿を黒い小さな点にしていく。
光が消えた後には月の聖獣の姿は跡形も残っていなかった。呆然とする獅子の耳に、止まない音が届く。
ジリリリリリリリリリリリリリリ。
「我は、間違って」
光が体を襲った。痛みはないが、消えていくのを味わう。
足先から。腹、胸、首、頭。ぼろぼろと崩れていく体が、一瞬で灼かれていく。
その光景を最後に意識が途切れる。後悔も、挫折も、謝罪も残せないまま。
太陽の聖獣は呆気ないほど軽く、死んでしまった。
(う、あ、ああああああ!!)
全てを思い出したレオが絶叫した。四肢を荒々しく動かし、もがき苦しむ。
その体を抱えているミカは慌てふためき、腕に力を込めてみるが効果はない。
牙を剥き、爪を尖らせ、記憶の中に立つ少年に襲いかかろうとしている。
(貴様さえ、いなければ――我々は!)
「……驚いた。記憶から意識の領域に足を踏み入れるとは」
星空が残っている。拳銃を手に構えたまま、少年がミカ達の方を振り向いた。
目を丸くするミカだったが、その腕からレオが抜け出した。狂乱といった様子で少年へと駆け出していく。
止めようと手を伸ばすが、進み方がわからない。不格好な泳ぎ方で試みるが、意味がない。
(貴様は何者だ!?)
「
簡潔に答え、握っていた拳銃の銃身で獅子の横顔を殴る。
星空の中を獅子が吹っ飛ぶという奇妙な光景を目撃しながら、ミカは目の前の少年の不可解さに悪寒が走った。
瞳が少年の魂を捉えている――はずなのに。
(時計型の……魂?)
奇異だった。魂には様々な輝きや形などの違いが存在するが、大抵は自然物のような感覚があった。
しかし少年のは人工物。明らかに手を加えられた痕跡。白い時計盤に黒い針が正確に動いている。一分一秒の狂いもない。
記憶を見ていたはずなのに。何故、干渉できるのか。どうやってこちらを認識しているのか。
「気づいていないのか? ここは意識領域。その深層。無意識との間に横たわる」
(……わ、わかりやすく)
気絶してしまったらしいレオの方へと泳ぎながら、ミカは苦笑いしながらもう一度を頼む。
無機質だった少年の瞳に、怪訝そうな感情がようやく浮かんだ。
「これ以上なく明確な表現をしたつもりなのだが」
(俺より年下そうなのに難しいんだもん!)
ミカの年齢は十五歳。しかし少年の姿は十二歳程度だ。
義妹より少し年上くらいの少年を前に、わけがわからないと混乱だけが広がる。
苦労してレオの体を抱きしめる頃、少年が拳銃に付属する時計盤を回転させた。
「……まあ、君は星の眠りを妨げることはなさそうだ。今のところは、だけどね」
(う、うん)
「それでミカミカミだっけ? 意識領域から接続できる場所に、それと該当された事例がある製品は存在するけど」
(……うん?)
少しラフな口調になった少年が、世間話でもするように告げた内容。
理解が追いつかないミカは、首を傾げるしかなかった。もう一度尋ねるのも若干躊躇われる。
「
(……そ、その前に)
「なんだい?」
(俺はミカルダ・レオナス・ユルザック。ミカでいいよ。で、こっちの獅子はレオンハルト・サニー。君の名前は?)
困惑する頭が、現状で一番先に答えが出そうな問題を選ぶ。
少し逡巡した少年だったが、さして気にした様子もなく応じる。
「この体に与えられた名前はベル・クロノグラフ。体を借りて、星を守るのが――目覚まし時計だ」
名前は判明したが、少年の謎は解けそうにない。
この場にヤー達がいてくれたらと思うが、潔く諦める。
(えっと……じゃあベル。見学したいんだけど、案内してくれない?)
「わかった。では手を借りるよ」
拳銃を背中の方にしまい、分厚いコートで隠すベル。
まるで国王が儀礼の時に着用するマントのような服装に、ミカは少しだけ興味をそそられた。
しかし片手を握り締められた後、視界が回った。星の光が幾重もの円を描き、気持ち悪くなるほどの速さで遠ざかっていく。
レオの意見を聞けばよかった。後悔の隙もなく、転送精霊術陣で味わったような吐き気を覚えるのであった。
からからと水車が回る音。
花の香りで満たされた大地。白い空にはわずかに桃色が滲んでいて、風が動くと揺れている。
花畑の上で横たわりながら、ミカはレオを抱きしめていた。体の重みも、指先の感覚も現実と変わらない。
「起きたかい?」
「目は覚めていないけどね」
抱きしめている存在は意識の中でしか会えない。
そういった意味で返事したのだが、少年はわずかに笑った。
「そうだね。僕がいるのに目覚めていないとは、中々だ」
「えっと、ここは?」
起き上がれば、花畑だけではないとわかる。
巨大な川の周囲を埋めるように花が咲いている。花弁を眺めれば、まるで硝子のように透き通っていた。
試しに触ってみると、誰かの視点から覗く風景が見える。楽しそうな家族の団欒が、花弁に映し出されていた。
「浄水場。全ての魂はここで一度洗われて、新たな
ベルが指さした先に、巨大な水車が回っていた。城ほどの大きさで、一番上は雲にかかっている。
その雲の中には星のように輝くものが散らばっていて、雨粒みたいに水車へと落ちていく。
それは見覚えがあった。ミカの瞳で視える――魂そのものだった。
「そしてミカミカミとも呼ばれる一例ではあるけど、まずミカミカミ自体が詐欺みたいなものさ」
「詐欺?」
「そんなものはない、と答えただろう」
戦慄が走る。一が零へと反転し、否定だけが頭を埋める。
考えないようにしていた。多くの犠牲者が出ているのだから、それは確実にあるものだと思い込んでいた。
でなければ――報われない。
「……いやでもね、僕は人に可能性を感じているんだ」
落ち込むミカを前に、少年は淡々と告げる。
「君達は作れるだろう」
風が頰を撫でた。涼やかな空気と、花の匂いが流れていく。
レオを抱えたまま、ミカは立ち上がる。金色の瞳に、瞳孔が開いた緑の瞳が映し出される。
「きっとこの世の全てさえ、君達の手にかかればミカミカミになってしまうんだ。僕はそれが単純に面白いし、人間の体を借りるたびに痛感するよ」
かち、こち、と少年からは絶え間なく時計の音が聞こえる。
それでも人の形をしており、柔らかく笑う仕草は少し大人びていた。
「まあ魔人はどうかと思うけどね」
「どういうこと?」
すぐに表情を消したベルが、小声で呟いた言葉。
聞き逃せない単語があり、ミカがおそるおそる尋ねる。
「彼らは神、もしくは王を作りたいんだ。そのために多くの魂が必要らしい」
「魂ってことは、ここをミカミカミと想定しているの?」
雲から流れ落ちる魂は、水車によって洗われていた。
黒く染まった刺だらけの魂でさえ、川に流される頃には白い玉砂利のように綺麗になっている。
大きな水車は一つだけではなく、等間隔を開けて存在していた。そうやって機械的に浄化している。
「だから君が必要なんだろうね。なにせここの記憶を有しているのは、君の魂だ」
「……レオの、記憶?」
「それだけでは不完全だ。言ったろう。驚いたって。君の瞳が僕を視てしまった」
指をさされたのは傷がある左目。魂まで視通す特異な才能。
この『視る』という点だけで、世の中を綱渡りしている状況だ。できることは増えたが、問題も増大している。
「記憶を見るまではいい。意識領域に辿り着くなんて、普通じゃない」
「あ、あはははは……」
「笑いごとではない」
誤魔化そうとしたミカに対し、容赦ない一言。
思わず第二王子の顔を頭に浮かべてしまい、少しだけ泣きたくなった。
「結果として、君は魔人が望む素材になったわけだ」
「えっ?」
「そうしたらそちらの
「ん、んー?」
優しいのか、突き放すのか。年下と思うと、強く出られない。
もう少し詳しく聞こうと考えた矢先、腕の中で獅子の体が動いた。
「むぅ……頭が痛い」
「レオ!? 大丈夫……」
「ぬなぁっ!? 貴様はあの時の! そしてさっきの!!」
心配するミカを他所に、起きた直後に歯を剥き出しにして唸る。
しかし先ほどの一撃が強烈だったらしく、威嚇だけに抑えている。
「えっとね、彼はベルっていう名前で、色々事情を知っているみたいだから」
「そろそろ僕は去るつもりだけど」
「帰れー! いや待て、一回は噛ませろ!!」
「両方とも待ってー!!」
暴れる獅子を必死に抱きかかえるミカは、涙目でベルを見つめる。
しかし懇願の表情など全く意に介さず、少年は背を向けてしまう。
そんな彼らの頭上を巨影が通り過ぎた。花々が突如の強風に煽られた。
「……モルテ・タナトス」
遮る巨大な梟。馬車よりも大きく、羽毛は闇夜に近い暗褐色。
瞳だけが星の光を散らした灰色。黒い嘴を鳴らす仕草に、レオが大袈裟に怯える。
「退いてくれないか」
「駄目だ」
「何故?」
「彼らへの説明が終わっていない。私には荷が重い」
淀みはないが、盛り上がりも皆無な会話。ただし少年が溜め息を吐いた。
膨らんだ体毛に隠れた足を使い、器用に歩くモルテは川へと身を浸した。
頭を水面に突っ込み、水飛沫を全身に浴びる。すると墨汚れが流れていくように、体色が変化していく。
雪の日に見つける樺の木に近い灰色。嘴は年季の入った琥珀のように艶やかになり、瞳だけが変わらない。
体を洗い終えた死の聖獣は美しい梟だった。花畑に水滴を落としながら、ミカ達の方へと歩み寄っていく。
水滴には汚れも付着していたが、それが地面の上を跳ねると花が咲く。硝子の花弁を開き、風に揺れると誰かの記憶を映し出す。
「死の聖獣……その身に悪徳なる魂を永遠に宿し、消化し続けていると噂の」
「それは間違いだ。詳しく問えば、聖獣とも違う。だがこの姿が適しているだけにすぎない」
身震いして身体中の水滴を飛ばすモルテ。滴の一つが肌に触れた瞬間、知らない人生の一部が目に浮かぶ。
男が一人。赤子を前に立っている。動かない赤子の腕にナイフとフォークを礼儀正しく使い、足と腕を交換した後に、その体を――。
レオのことも忘れ、花畑に膝をつく。両手で口元を押さえ、込み上げるのを我慢する。
「私は浄化しきれないものを消化する役目を担う」
「ミカ!?」
「私の体躯が汚れるは必然の業が、この世には存在している。それに沈んだ魂は一度分解しなくてはいけない。微生物……といっても理解は難しいか」
「……その、魂は?」
天に昇れなかった魂を何度か視ている。
その先など想像しなかった。けれど触れてしまった今は、恐ろしくとも尋ねてみたかった。
「魂魄を精査し、痕跡を徹底的に洗う。そして他の魂と同じく、旅立つ」
「それでも足りない時は煉獄や地獄という星を経由させ、摩耗させたりするんだけどね」
モルテの言葉を補足したベルは、立ち上がれないミカの前へ跪く。
顔色を窺うように顔を近づけ、淡々とした調子で囁く。
「最終手段は消滅。記憶や記録だけは万霊記憶盤に保存される」
「……」
「僕は人ではないから致命的にズレていると言われるのだが」
少年がしどろもどろに告げる。
「美しいものは君の心がわかっているだろう」
慰めた本人が一番要領を得ていないらしく、困惑の表情だ。
脳裏に浮かんだ親しい人々の笑顔。それが崩れそうな思考を支える。
両手を膝に置き、力を込めて立ち上がる。金色の髪が風に揺れた。
「ありがとう、ベル」
「お礼を言われるような内容ではない」
ミカの足元を守るように擦り寄る獅子は、少年への警戒を解いていない。
しかしわずかに微笑んだ少年が、今までとは違う人間らしさを漂わせている。
肩透かしをくらい、戦意が削がれていく。人の形を得た時計は、借り物から強く影響を受けたようだ。
「で、足りない説明ってなに?」
「本来、魂はここで洗われて記憶は引き継がれない――が、例外は発生する」
「聖獣に選ばれると知らずの内に魂魄に改変が加わる。魄に体の情報を追加し、魂には記憶を保有する容量を増やす」
「そうなのか!?」
元聖獣は動揺するが、モルテとベルの視線は冷ややかだった。
「獣憑きってつまり……」
「仕様上の間違いと言えるだろうね。前世の記憶を保持程度なら問題ないが、君みたいに変な才能が開花すると特殊事案扱いになるんだ」
「しかも魔人の一人が獣憑きのせいで、物事が危険な方向に進んでいる」
さも当たり前のように告げられた内容に、レオは思考を放棄しかけた。
ミカなどはすでに理解できていない。その気配を感じ取ったベルが、胡乱な目になった。
「これ以上は意味がなさそうだ。残りは自らの力で探求するといい」
「待って!」
「なんだい?」
厚手の手袋が、握ってきた手の体温を遮る。
それでもミカの手が温かいと感じ、少年は不可解さに眉をひそめた。
「レオ達を殺したのは、星を守るため?」
真剣な表情。金色の瞳に映る自分自身を、ベルは見つめる。
「そうだ。太陽は星を照らす。その恩恵は計り知れず、身勝手に放棄していい役目ではない」
「……俺はレオ達を殺したのは許せそうにないや」
「別に。これは僕の役目であり、贖罪行為ではない」
「うん、でも……」
「大体、そこの獅子が調子に乗りすぎたのも要因の一つだ」
少年の言葉は、レオの胸を深く突き刺した。いじけた獅子が花畑に寝転がる。
その様子を眺めながら、モルテは嘴をかたかたと鳴らす。面白いと笑っているようだった。
「こんなこと言うのも変なんだけど……星を守ってくれて、ありがとう」
すぐに言葉が出なかった。役目に沿った行動をしただけ。
恨まれることは多数あれど、気に留めなかった。星を守るためならば、どんな相手も敵に回した。
だからこそ――。
「本当に、変だね。でも君の言葉は嬉しかったよ」
体の持ち主であれば言いそうな内容を、目覚まし時計は告げる。
時計の音が止み、少年の姿は霞のように消えてしまった。最後に浮かべた苦笑さえも、淡く、朧にしか捉えられなかった。
「ミーカー。あんな奴にお礼を言うなど、我に対して失礼だと思わんのか?」
「まあそうなんだけど、ベルにはここについても教えてもらったし……」
「ふん。今回だけだぞ。それでモルテ……我々はどうやって戻ればいい?」
頬を膨らませて拗ねているが、レオは死の聖獣を見上げる。
梟の首は可動域が広い。九十度近く傾いた顔にミカが驚くが、獅子は平然としていた。
「え?」
しかし梟はさらに首を傾げた。百八十度回転に近い。
巨大な姿のせいで異様さが増しているが、獅子にとって重要なのはそこではなかった。
「知らんのかぁっ!?」
「だって私と違う入り方だし、考えてみれば記憶を辿ってこの領域に来るとか……怖っ!」
「怖いのは貴様の方だ! 死を司ってるくせに!」
「だから微妙に差異があるのだが。なんにせよ記憶を辿ればいいのでは?」
首の位置を元に戻し、梟は両翼を広げる。強風を発生させながら、白い空へと飛び立っていく。
優雅に、素早く去っていくモルテを見送る。水車がからからと回り、絶えず魂を洗い続けている。
獅子の口では歯軋りが難しいらしく、レオはひたすら唸っている。
「じゃあ戻ろうか。俺もヤー達に会いたいや」
「……そうだな。きっと驚くぞ」
「うん! あ、なんかあった?」
「一つだけは我の秘密だ」
にやにやと笑う獅子を抱きかかえ、ミカは歩き出す。
ヤーに告白された内容は伏せながらも、意識が砕けていた間のことをレオは優しく語る。
歩いている内に霧が発生し、通り抜けたと思えば一面が空の場所へ。
青い空に白い雲と金色の光が散らばり、白の大地には薄い水面が張っている。
巨船が悠々と佇んでおり、レオはその船を寝床代わりにするため、ミカの腕から降りる、
花の匂いも、水車が回る音も消えた。けれど朝の気配を感じとる。
(じゃあ俺は起きるよ。ありがとう、レオ)
(ああ。我はここでゆったり眠るとしよう)
もう閉じ込める必要はない。ようやく少年は正しく向き合えた。
己の醜い部分も、怖いのを隠していた前世とも。そして聖獣が忘れようとしていた記憶、その正体も。
ミカミカミ――この五文字にまつわる真実の一端にも触れた。
けれどミカは目覚まし時計の言葉を思い出す。
人は作り出せる。この世の全てさえミカミカミにしてしまう。
ならば五文字は自由なのだ。誰もが希望の象徴にも変換でき、絶望の対象にもなれる。
(ねえ、レオ)
(なんだ?)
浮上する前に、少年は快活な笑みで言う。
(ミカミカミってさ……面白いね)
獅子はしばし戸惑いを見せたが、無邪気な発想に大笑いした。
(ああ、我々が求めたのは……そういうものだ!)
旅立ちの時に感じた高揚感。星空の彼方まで進もうと夢見た心地。
忘却していたのは恐怖だけではなかった。確かにミカミカミを求めようと決めた日々は、楽しかったのだ。
その結末が悲惨な内容であれ、辿り着くまでの過程は否定できない。
(いつか……どんなにかかっても構わない)
少しずつ目覚めていく少年に向かい、祈るように獅子は告げる。
(我が求めた先へ――ミカミカミを手に入れてくれ)
あの日、叶わなかった夢を託す。
忘却から帰ってきた獅子は、そんな淡い想いを次の自分へ渡した。
冬の朝は少し眩しい。暗雲から差し込む陽光が、雪に反射して部屋を照らしていた。
耳には薪が爆ぜる音。鼻にはスープの香り。肌には柔らかい手の感触。久しぶりの肉体感覚に、思考が追いつかない。
ただ頬をくすぐる吐息に誘われるように頭を動かす。
同じ布団の中にヤーが寝ていた。
「ん……」
ぼやけた意識のせいか、普段よりも和やかな碧眼と視線が合う。
にへら、と笑う少女。珍しい表情を浮かべたので、ミカもなんだか嬉しくて同じ笑みで応じる。
「おはよう、ヤー」
「……おはよ……は?」
一瞬で少女は覚醒した。碧眼の眦がきつくなる。
「ふぁ、クリスやオウガは……」
「お、起きたのか……ん?」
「スープの用意ができてます……あれ?」
扉向こうから顔を覗かせたオウガとクリスは、ぽやーんとした雰囲気にすぐ気づいた。
レオであればもう少し空気が張り詰めている。だが目の前で生欠伸を零すのは、紛れもなくミカだった。
ぼさぼさの金髪は寝起きのせいで跳ね方が酷い。目元を擦る仕草さえも隙だらけだ。
「おはよう、二人とも。お腹すいたよ」
「ふぎゃーっ!!」
のんびりとした動きでベッドから降りようとしたミカだったが、混乱しているヤーに首元を掴まれてしまう。
そのまま頭を大きく揺さぶられ、目を回してしまう。声を出そうにも、少女の驚きが勢いを増していく。
「なんで同じベッド!? ふあっ!? いや、本当にミカ!? はぁっ!?」
「それは昨日帰ってきたお二人を、オウガ殿が」
「いやいや、ここは様子を見ようぜ」
昨夜。ミカの部屋に帰ってきたヤー達は、眠いと船を漕ぎ始めていた。
特にヤーは報告会の準備に追われていたためか、意識もはっきりしていない状態だった。
気を利かせた、というよりは悪戯心で。オウガは二人を同じベッドに寝かせたのだ。
今夜は寒くなるから、寄り添った方が眠りやすいだろう、などと適当な言い訳付きである。
「あれ? レオが良かった?」
「アンタがいいに決まっているじゃない!!」
何気ない問いかけだったのだが、ヤーは断言した。
それが嬉しかったミカが、朗らかに笑う。するとそれに気づいた少女は、首元を掴む手に力を込める。
「説明しなさい!!」
「は、はい! ごめん!」
「まあ、それより朝ごはんだろうがよ」
「ええ! 今朝はじゃがいものクリームスープです!」
オウガがミカの体をヤーから引き離し、クリスが寝起きのお茶を入れ始める。
まだ落ち着かない少女だったが、ミカが戻ってきた事実に小さく微笑んだ。
「あ、そうそう。レオの記憶から色々わかったことがあるんだけど」
「詳細に話しなさい。省略はするんじゃないわよ」
しかし知的好奇心が勝った。すぐさま研究者の顔になったヤーは、ミカへと詰め寄る。
差し出されたお茶を飲む余裕もなく、ミカはオウガに視線で助けを求める。
「食いながら話せよ。俺は腹が減った」
「空腹では戦えませんよ! そうだ、アトミス殿やホアルゥ殿達にもお伝えしてきますね!」
そう言って部屋から出ようとしたクリスの前に、ミミィとリリィが揃って現れる。
「王子、おはようございます」
「朝から申し訳ありませんが、お客人が……」
すぐにミカが戻ったことに気づいた二人だが、祝う前に用件を伝える。
「お客さん?」
「し、失礼します……」
少年が初めて見る女性。
憔悴したハリエットが、助けを求めるようにミカを見つめていた。
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