第8話「海の聖獣」

 鮮烈な風が吹いた。霧を裂き、散る火の粉を蹴散らしながら突き進む。

 燃える船上も、骸骨達と戦う船員達の間も、奇妙な猫が吐いた毒さえも。全てを薙ぎ払い、黒い海面に足跡となる細波を起こした。

 ミカの目でも捉えきれない素早さ。それでも残り香にも似た緑の光が視界の中で煌めく。意識の内部で集中していたはずのレオやホアルゥも仰天し、羽衣術が解けそうになるほどの衝撃。


(風の聖獣でしゅか!?)

(な、あのやかましさだけが取り柄みたいな奴が、どうして!?)

「理由はわからないけど、道が開けた!!」


 迫っていた溶解液が吹き飛ばされ、細かい粒となって甲板の腐った木の板へと降り注ぐ。転がっていた碧玉エメラルドを飛び越えていき、笑いが消えた猫へと手を伸ばした。

 牙を向けてきた海蛇の尾を掴み、縄のように引っ張る。転化術で左目に灯った輝きが強くなり、滑る体表に触れた右手の平から瘴気が精霊へと変わっていく。

 ミカの体よりも大きかった猫は、手で抱えられるくらいに小さくなった。年老いた猫が緩く瞼を閉じていく。鼠捕りのために飼われていた茶色の猫は、ようやく役目を終えた。灰の塊のように体が崩れていき、船の崩壊と共に海へと沈んでいく。


 白い触腕が三つになり、猫が守っていた船を破壊していく。その破片を足場に、ミカは上空へと飛んでいく。背中から燃え上がる炎の二枚羽根を操って、最後の補給船へと向かった。

 最初の船が魔人を作るための素体保管庫。猫が守っていた船は宝物庫。ならば最後の船で待ち構えている物は決まっていた。それはミカから見ても解決が難しい、けれど放っておけない類いだ。

 白いレースが至るところで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。ミカの視界で捕らえた場合は、薄ら寒い白に広がっている光景だ。

 しかし普通の人間の目には、なにもない船だ。


 寂しいくらいにからの船。


 その正体は嘆き悲しむ魂達が詰め込まれた貯蔵庫だ。降り立ったミカの明るさに誘われるように、薄い手が幾重にも伸びる。白い陣羽織の裾を掴み、首筋にも巻き付く。捕らえられたミカは膝をつくしかない。

 耳元で幾重の声が反響する。鳥肌が立つほどの懇願。

 ――タスケテ、クルシイ、タスケテ、カナシイ、タスケテ、シニタクナイ、タスケテ、タスケテ、タスケテ。


 息が詰まりそうな重みが体全体に乗っかった。縋りつく魂達にミカは瞼を閉じそうになる。しかし胸の奥が震えた。

 深呼吸を一回。そして伸びてきた幽霊の手を自らの両手で優しく包み込む。


「寒かったよな? 大丈夫……明かりを持ってきたから」


 腰に付けていた花灯りの灯篭から炎が零れていく。まるで花弁が風によって広がっていくように、その勢いはあっという間に船を覆った。

 花の匂い。それは灯篭に使われていた油の香りだ。柔らかな火が芝生のように足下を埋め尽くし、海上とは思えない華やかな景色へと変えていく。

 ミカの金色の目が和やかに細められた。両手で火を掬い上げて、息を吹きかける。綿毛が飛んでいくように炎の明かりが道となって空へと続いていく。


「太陽や月が見えない霧の中でも、火は照らしてくれる。ほら、星よりも明るくて綺麗だ」


 ミカが指差した先では、幽霊達が炎を辿りながら空へと昇っていくのが視えた。遠すぎて光が届かない星では心細い夜、身近で体を温めてくれる火は生きていた頃の姿を思い出すには充分だった。

 朧だった白が、人の形に戻っていく。多くの船員が嬉しそうに駆け出し、母親と父親が子供の手を引いていく。寄り添い合いながら恋人達が手を繋ぎ、前だけを見て歩いて進んでいた。

 今度こそ船は空になった。同時に四本の触腕が叩き潰そうと襲いかかってくる。


「さあ、今度は助けに行こう。無力じゃないって、胸を張りながらね」

(っ、はいでしゅ!)


 穏やかな炎に包まれた船ごと沈んでいく。しかしミカの口元には笑みが浮かんでいた。

 精霊術の火を防壁に、船は海中へと潜行する。海面で大きな水柱が立とうとも、大量の泡が発生するだけで破壊には至らない。

 海底で巨大な目玉が二つ、こちらを睨んだ。不気味なくらいに白い巨体の横に、ぐったりした様子で捕らえられているのは海の聖獣だ。四本の触腕に絡め取られ、動くこともできそうにない。

 帆柱にしがみついているミカの目には、体を構成する精霊を使いながらも瘴気の浸食を止めているのが視えた。まさに身を削る行為だ。それでも生き存えているのは聖獣という破格の存在だからだ。


 精霊術で船を動かしているが、海という環境下で火はあまりにも儚い。一瞬で消えそうな状況で、莫大な炎を生み出しながらその勢いで押し潰してくる海水に対する層を作っているに過ぎない。

 長くは保たない。背後から追いかけてくる四本の触腕ですら触れない熱は、今すぐ冷めてもおかしくない最中。

 最後の力全てを表すようにミカの背中にある二枚羽根が燃え盛った。


 それは船を覆う炎へと広がり、二翼を携えた。暗かった海中を激しく照らす炎に、巨大な烏賊イカ、クラックは悲鳴を上げた。烏賊にも瞼がある種類とない種類が存在する。しかし暗闇に慣れていたクラックにとって、明かりは痛みそのものだった。

 瞼を閉じても、痛みは消えない。捕獲用の触腕で光を遮る。解放された海の聖獣が逃げることなど気に留めず、エディ・ターチの燃える幽霊船を支えていた触腕も自らの身を守るために使う。

 ミカの船を潰そうとしていた四本の触腕を目的もなく振り回して威嚇し、淀んで重みのある声で叫ぶ。


「う、あ、ああああ!!!! 止めろ!! 止めろ!! 痛い、痛い、痛い!! 痛いのは嫌いだ! 俺様は従っただけだ!! 俺様は悪くない!! なにも悪くない!!」


 振り回された触腕によって船の帆が一部破壊された。突き破られた箇所から海水が押し寄せてくるが、ミカは息を止めて真っ直ぐ見据えるだけだ。


「エディ!! エディ!! 俺様を助けろ!! お前は俺様の配下だ!! 海の聖獣は道具でしかない!! 俺様を助けられるのはお前だけだ!! なあ、エディ!! エディ!!??」


 狂乱の声が海中に波紋を描く。しかし応じる者はいない。

 照らされた海底には船の残骸が転がっていた。それを寝床とした魔物にとって、船とはそれだけの物であった。死体や宝は再利用できるにしても、船は破壊されたら終わりなのだと。

 無力を否定するように、炎の船が魔物に激突した。視界を埋める大量の泡、肌を焼く熱、突き刺さった破片に苦悶の声を上げる。


 だから少年の手が触れた些細な感触など、クラックは気付かなかった。


(まあ詳しい事情はわからないけど)


 意識内部で独り言を呟きながら、ミカは左目の炎を強く輝かせる。


(ここで終わりだよ)


 転化術で光となって消えていく魔物は、理解した。あまりにも体が大きすぎるが故に、一瞬で消失はしないのだと。

 暴れようにも少年の手が触れた箇所、頭から感覚が薄れていく。末端に指令を送ることもできず、痙攣したように触腕を震わせるだけ。

 しかし初めて感じる心地よさがあった。暖かい。冷たい海水で生きてきた身にとって、淡い痺れにも似ていた。痛みもなく、静かに意識が遠ざかっていく。


「そういえば」


 ――優しく触れられたのは初めてかもしれないなぁ。

 その言葉を出す前に、クラックの体は消えた。非道な行いで大勢を苦しめ、死に至らしめた魔物としては呆気ない幕引きだった。


 船の破片と一緒にミカは沈んでいく。意識が途絶え、羽衣術すら解けていた。クラックが消えたのを見届け、そこで限界が来たのである。

 花灯りの灯篭に戻ったホアルゥが声を上げても、最早反応すらない。どれだけ海底で明かりを灯そうにも、小さな妖精に海水に打ち勝てる術は残っていなかった。

 しかし全てが無駄ではなかった。ゆっくりと、呼吸を取り戻したように、巨大な黒い影が近付いていたのだから。




 炎に照らされた刃が銀の筋を作る。高速の動きで残像と光が取り残されているように、オウガの攻撃は凄まじかった。

 瘴気が満ちる船上で、息つく暇もない連撃。長槍太刀パルチザンの利点を遺憾なく発揮し、次々に間合いを変えていく。


「はっ、部下にしてやりてぇくらいの良い動きだぜ、小僧!」


 返事はしない。無闇に呼吸を増やせば、体の動きが鈍っていく。

 銃口を向けられ、臭いを探る。燃えた船の上だが、火薬の臭いは独特だ。嗅ぎ分けられる。脅威は形であるが、それに惑わされていては戦い続けるのは難しい。

 弾の装填も火薬も追加されていない。動きながら拳銃に必要な物を見極めたオウガにとって、次に用心するべきは隠されている手だ。


 エディの左手が別のホルスターへと伸びている。拳銃がしまわれたそれらの数は合計六つ。

 攻撃を避けながら、弾の装填と火薬の補充をするのは容易ではない。たとえ髭の火縄で点火の準備ができていても、発砲は不可能だ。


「バァッン!!!!」


 しかし声だけの発砲音にオウガは敏感に反応し、やむなく動きを変える。真正面から突きつけた刃を振るい、体全体をひねらせる。横手から袈裟切りしようとしたが、それよりも先にエディの左手に弾丸が込められた拳銃。

 奥歯を噛みしめて、さらに体をひねっていく。負荷の激しい連続回避に骨が悲鳴を上げたが、構っていられなかった。服を掠めた弾丸は木の床を貫通した。

 体勢を整えるために距離を取り、船の縁へと足をかける。頭の頂点から大量に零れてくる汗を拭い、大量の息を吐く。比例した空気を吸い込めば、臓腑が焼けるような痛み。胸元を押さえ、顔を歪める。


「いやー、武人ってのは正直者だな。こんな手に引っかかってくれる。ありがたいことだぜ」

「……っ、はっ、ぜぇ……」

「言葉も出せないくらいに苦しいか? まあこれだけの瘴気を浴びて動ける方が驚きだ。うんうん、依頼人クライアントもこいつなら満足だろう」


 一人納得したように頷くエディ。その会話をしている間に拳銃に火薬や弾丸の装填などの準備を整えていく。それをオウガが黙って眺めていたのは、体が充分に動かせないからだ。

 偏頭痛で倒れてしまう。それだけの痛みが頭に直接訴えるのだ。しかも体全体が同じであり、気を緩めた瞬間に意識をなくす可能性が大きい。

 先程の激しい風で一瞬だけ瘴気が薄まった気はしたが、結局は風。永続的な効果は見込めず、時間をかければかけるほど不利になっていく。


 オウガができることは一つ。必殺を叩き込むための、隙を見定める。


「というわけで、お前はこれからこの工場で魔人に仕立て上げる。強くなれるぞー」

「……ふ」


 短く笑った。やせ我慢ではない。


「今更だな」

「あん?」

「俺を見出すのが遅すぎる。残念だが、俺はもう仕える主を決めたんだよ」


 海面が突き破られた。巨大な黒い尾が打ち上げた身体が、燃え盛る甲板へと落ちてくる。大量の海水が豪雨となって降り注ぐ中、炎に照らされた金髪にエディの目が奪われた。

 炎によって焼かれていた帆に濡れた身体を打ち付け、火が移る前に木の床へと叩きつけられた。その衝撃で体内から水を吐き出し、咳き込みながら起き上がった少年の左目は輝いていた。

 船上に満ちていた瘴気が一瞬にして精霊へと変わって霧散する。狂った仕組みで動いていた幽霊船も、魔術に必要な瘴気を失えばただの船火事だ。長い年月を彷徨っていた船に炎が耐えられるはずもなく、大きな軋みを上げて揺れた。


「ちっ、クラックめ! あっさりやられやがっ」


 言葉が途切れる。

 瘴気が消えた戦場において、オウガの不利はなくなった。音が置き去りにされたのではないかと思うほど、その動きは静かで素早かった。

 体全体を弓矢のように。筋肉をバネにして、視線は鏃の如く鋭く。両手で握りしめた長槍太刀の勢いを上げるために体全体を沿わせながら真っ直ぐに。


 狙うは首。喉仏すら穿ち、刃で肉を断ち切る。

 切り離された胴体が木の床へと沈んでいく最中、右手と左手が勝手に動く。黒髭を揺らして首だけのエディは笑う。体だけでも船の周りを三周泳いだ。その狂った伝承通り、ホルスターから二つの拳銃が抜き出された。

 癖の強い黒髪を掴んだオウガの心臓。そこへ照準を合わせた二つの銃口が火を噴くはずだった。


 這いずるように進んだミカの手がエディの体に触れる。


 瘴気で作られた体は溶けるように消えた。二丁の拳銃は音を立てて床に落ち、ホルスターが括り付けられたベルトを含めた衣服も崩れた。

 揺れ続ける船。崩壊が進む中、ミカは直感だけを頼りに拳銃を一つ掴んだ。オウガは愛用武器である長槍太刀を一足先にヤー達が戦い続ける船へと投げ、空いた片手でミカの体を抱え上げる。


「歯を食いしばってろよ、ミカ!」

「う、うん」


 力強い跳躍で、霧が薄れた空を浮遊する。落下したと思った矢先、着地の衝撃で内臓が全て揺れたような感覚に襲われた。瘴気を浴びていたオウガの体力は削れており、足を着けた直後に膝を折る。

 息を乱すオウガの頭上に骸骨が振るった剣の刃が近付く。あと少しでかち割られるという状況だったが、手荒に投げられた小さな樽が剣と骸骨、その二つを粉々にした。


「遅いわよ、アンタ達!! 粗方はアタシ達がやっつける羽目になったじゃない!!」

(正確にはクリスだな。三体まとめて槍で突き刺した時のは見応えがあったよ)

「アトミス殿に褒めていただき光栄です。しかしヤー殿も今の動きは光る物がありました! いつかは武術など嗜まれても良いかと存じます!」

「アタシは精霊術師なんだけど!?」


 相手が魔人や魔物、魔術であるが故に肉弾戦を強いられていたヤーは声を張り上げる。槍の刃先に突き刺さった髑髏が笑っていたのを見たクリスは、一礼した後に甲板の床へと叩きつけて黙らせた。

 女子二人が予想よりも逞しい光景に、ミカは若干苦笑いになった。残った骸骨達が自ら海へと身投げしていくのを音で聞く。違和感を覚えたが、それよりも先に確認することがあった。


「まあまあ。魔物は倒したし、魔人も首だけを持ってこれたから大収穫だよ」

「首? はぁっ!? あ、アンタなんてものを持って来てんのよ!?」


 ようやくオウガの片手に掴まれているエディの生首を見て、ヤーは指差しながら驚く。そのしぶとさも驚天動地だが、不敵に笑う黒髭の顔は粘ついたいやらしさが染みついている。


「研究対象としては充分だけど、保存はどうするのよ!?」

「そこかよ」

「ペタンコ嬢ちゃんよりは、そっちの勇ましい貴族ちゃんの胸が好みだわ」

「……保存は無理ね。潰しましょう」


 研究者根性より、身体的特徴を理由に比べられた怒りが勝った。少し大きめの樽を頭上に持ち上げたヤーを、クリスが慌てて羽交い締めにする。


「駄目です、ヤー殿! 今の位置ではミカ殿が潰れてしまいます! まずはミカ殿を安全地帯に運んでからやりましょう!」

「……俺は?」

「オウガ殿ならば耐えられると信じておりますとも!」

「純粋な信頼が辛いんだがよ」


 迷いなき真っ直ぐな言葉。後光さえ射しそうだ。

 気味悪い笑い声を上げるエディは、にやけながらオウガを見上げる。それが首だけになった男にできる最大限の嫌味だった。その表情を、ミカは横目で見つめる。

 見透かすように、魂まで。金色の瞳に自分が映っていると気付いたエディは一瞬だけ笑みを消したが、隠すように嗤い続ける。近付いてきた船員の中に、老いたとはいえ知っている顔があったからだ。


「……親父」

「よお、名前も忘れたけど元部下。いや、出来損ないか? 今は船長とか、世の中わからないもんだな!!」


 陽気に、それでいて見下しながら。旧知の友人に出会って侮辱するに似た挨拶だった。聞いているだけで嫌悪が勝り、エディを囲む船員達は怪訝な表情を浮かべる。

 ホサンの横で立つアニーもそうだった。特に彼女の場合は母親が死んだ元凶ということもあり、衝動のまま言い返そうと動き出しかけた。それを片手で止めたのはホサンである。

 皺だらけの顔を歪ませて、皺を増やしていく。苦悩を絞るように、ホサンは苦々しくも問いかける。


「やっぱり俺はアンタの息子じゃねぇのか?」

「……ははっ。極悪人の子供になりてぇ馬鹿なのかよ? 頭イカれてるな」


 ホサンは拳を作り、強く握りしめた。心の片隅でずっと残っていた疑惑。確かめられる相手が死んだと聞いてから、放置するしかないと決めていた答え。

 曇り空の夜明けのように淀んだ心地を味わう。ホサンが暗く落ち込む中、ミカは少し考えてから告げる。


「本当の親じゃなくてもいいんじゃないかな」

「……あ?」


 エディから感情が読み取れない疑惑の声が上がった。それは彼にとって予想外の言葉がミカから出たことを表していた。


「だってホサン船長とアニーは親子だろ? ううん、この船に乗ってる皆がまるで家族みたいだ。血が繋がってても殺し合ったりする親族もいるんだし、無理して本当を求めなくても良いんだよ」


 抱えられた体勢から起き上がり、ミカは船の揺れで覚束ない足取りながらも立つ。しかし視線だけがエディから離れない。金色の瞳で何一つ逃さないように用心深く見据える。


「ただ一つだけ。エディは一度も否定してないよ。だから嘘を吐いているかどうか俺にはわからないんだ」


 少しだけ光明が差した。そう感じたホサンが顔を上げる。はぐらかされていただけ。肯定も否定もせず、ただ嗤った。

 今までの言葉に嘘がないとしても、全てが真実ではない。


「……どうなんだよ? もう死んでんだろ? 墓場にも入らず、みっともなく動きやがって……白状して恥ずかしいことなんてないだろうが?」


 憎まれ口を叩きながらもう一度問いかける。

 すると神妙な顔をして、エディは呟いた。


「俺にもわからねぇんだよ」

「は?」

「そりゃあ港に寄れば関係を持った女は幾らでもいるさ。それこそ同意ありなし関わらずにな。だが身籠もったのが本当に俺の子かなんて、俺にはわからねぇ。母親のみぞ知るってやつだ」


 鼻息を出しながら一気に説明したエディは、うんざりした様子だった。

 目を丸くしたホサンは、光明がいきなり雲隠れした気分である。なにせ真実を知っているであろう母親は他界している。彼女が残した言葉の真偽はもう計れない。

 そしてエディの言葉が正しければ、ホサンと同じような子供が何人もいたことになる。真実を探るのも諦めるほどの数に上るだろう。


「でもまあ他に寄る辺がねぇって頼ってきたガキを放り投げるのももったいないしな。小間使いとして船に乗せてたわけよ。けどお前はマジで役に立たねぇし、早死にしそうだからこんな田舎に降ろしたんだろうが」

「……」

「えっと……残念だけど、全く嘘を言ってないよ」


 凝視してくるホサンに対し、気まずそうにミカは答える。どれだけ見つめられても、変わらない。

 エディの魂にはなんの変化もないのだ。魔人らしく歪んで、黒く汚れ、鈍い光だけがぎらついている。しかしどんな魂でも嘘を吐けば異常が出る。それがエディの魂には表れない。

 魂を偽装するという芸当でもしない限り、誤魔化すのは無理だ。そして魂まで視るなどミカくらいのもので、わざわざそんな手間暇かける必要性がない。それよりも他の物事に力を注いだ方が有益だ。


「……まあ、なんだ。大きくなったな。俺よりも年老いやがって」

「アンタこそしつこすぎるだろ。いい加減くたばれよ、馬鹿野郎」

「はんっ、言われなくても限界だ。瘴気もなくて、斬られた箇所から崩壊が始まってる。朝焼けは拝めないだろうな」


 憎まれ口を嬉しそうに受け取りながら、エディは冷静に告げた。既に太陽の気配がにじり寄っている。わずかに東の空が赤に染まりつつあった。それだけ灰混じりの霧が薄まっている証拠だ。

 残された時間が少ないことを理解したホサンは、言葉を続けようとした。しかし船が大きく揺れた。まるで岩盤にぶつかったような衝撃に、ミカは背中から倒れてしまう。ヤーはクリスにしがみつき、オウガは掴んでいたエディの髪が引き千切れていく感触を味わう。


「で、俺が万が一倒された時用の仕掛けが動き出すわけだ。残念だったな、お前達! 俺と一緒に海の底へ沈む準備はできているか?」

「せ、船長!? 船体に……透明な人間が幾重にもへばりついている!!」

「はぁ!? なにをふざけたことを……嘘だろ?」


 転がった生首を拾い上げたホサンは、慌てて船員が指差した先を眺める。そこには確かに半透明な白い人間、幽霊がしがみついていた。それこそ藤壺のように気持ち悪い数が爪を立てている。

 今度は別の意味でクリスに抱きついて離れないヤーだったが、幽霊を一度目撃したいとクリスが歩き出してしまうので涙目で止めてと懇願する。仕方ないのでアトミスが空中から様子を窺う。


(ミカの視界を借りた時と同じ……まずいぞ、この船全ての人間が幽霊を視認できる状態だ!!)

「なんで!? 霊感だって精霊を視る才能と同じで……違う。感覚だからだ!」


 思い出したようにミカは言い直す。

 才能と感覚は違う。霊感は認識によって万人が共感できる類いだ。熱いと言えば、本当に熱を感じるように。針で刺すと口にすれば、それを聞いた全員が同じ痛みを想像できる。程度の差異はあれど、誰でも思い描くことが可能だ。

 既に状況は狂っていた。甲板の床で嗤う生首へ視線を向ける。これが仕掛けと言うならば、なにかしらの目印があるはずだ。


「アトミス、ホアルゥ、どちらでもいい! 俺、と、え……?」


 立ち上がったミカだったが、すぐに膝をついた。糸が切れた人形のように倒れ、力が入らない指先で木目を引っ掻く。意識の内側で声がする。


(限界だ、ミカ。我も、アトミス達も、お前自身も。羽衣術だけではなく、転化術も満足に使えない)


 疲れ切ったレオの声に、奥歯を噛みしめる。ここまで来て、無力を味わっていた。熱さと虚無感と苦さ。それらを詰め込んで煮えたならば、喉が震えるほどの感情だ。

 腰に括り付けていた花灯りの灯篭から顔を覗かせたホアルゥ。疲労感を隠しきれない青ざめた表情。手の平に載るほど小さな彼女は、アトミスよりも羽衣術の負担が大きかったのだ。


「エディだ、けでも……あれが目印なんだ……」

「おうよ! よくわかってんじゃねぇか! けど俺はここでおさらばさ! 俺が消失した位置をあいつらは目指す。なんとかしたかったらあの船幽霊全てを天に昇らせるんだな!」


 首から霧散していくエディは最後まで笑っている。誰かが叩き潰そうと棍棒を掴んだが、ホサンが静かに制止の合図を送った。死体に鞭打つのは一度で良い。もう既にエディは非道な処刑を味わっているのだから。


「最後までろくでもねぇ親父だったな。あばよ。あの世でせいぜい苦しんでろ」

「はっ! そうするぜ……ゆっくり過ごすさ。まあ暇になったら地獄で暴れてやるさ! はーはっはっは!!」


 命乞いせず、終わりまで邪悪に明るく。エディ・ターチは消えた。瘴気によって囚われていた魂が空へと昇っていった。

 ミカはもう一度目撃する。死の聖獣。それが音もなくエディの魂を呑み込んだことを。

 しかしこちらを見向きもしないで姿を消した。死の聖獣は人間を助ける類いではないのだと、改めて思い知らされる。


「おらぁっ!! 呆けてる場合じゃねぇぞ!! 船を進めろ!! 船幽霊だがなんだが言っても、死人に殺されてたまるかってんだ!! 帆を張れ!! 櫂を漕げ!! 操舵輪を回して振り切っちまえ!! 羅針盤は正常になった!! 北を目指せ! 星が消える前に、早く!!」


 ホサンが恐怖を払うように大声で指示を出す。霧は薄れ、星の明かりが少しだけ見えた。しかし白くなりつつある東の空によって、輝きは少しずつ失われている。

 船員達は慌ただしく動き、這い上がってくる幽霊に対しては無視した。岸に辿り着けば沈む心配はない。武器や道具がそこらに転がっている。迎え撃つならば陸であると自らを鼓舞していく。


「ヤー……駄目、だ。港にこの船が到着したら……」

「へろへろのくせになに言ってんのよ!?」


 なんとか手を伸ばすミカに対し、心配して戻ってきたクリスの腰に抱きついたままのヤーが怒鳴る。オウガもまともに動けない状況で、幽霊と戦闘なんて考えたくないと不安を紛らわしているに近い。


「幽霊が視認できる状態になれば、街の人達も幽霊が視える……つまり幽霊が押し寄せて、壊滅するかもしれない」

「は?」

「魔人製造が失敗した時、幽霊を使って目撃者を含め大勢の犠牲者を出すつもりだったんだ……港は駄目だ!! もっと人のいない場所に!!」


 ミカの予測に、ヤーは言葉も出なかった。船が帰る場所は港しかない。少なくともこの状況で安全な岸部を探しながら逃げ続けるのは無理だ。

 しかし港町ネルケは南の貴族ブロッサム家の管轄であり、他国からの貿易商も多く滞在している。もしも幽霊達によって壊滅状態に陥った場合、責任問題を問われるのはユルザック王国だ。

 下手すれば西の大国との緊張状態が破られるだけではない。諸外国からの海戦が始まる。国の存亡をかけた戦争へと発展すれば、後戻りは不可能だ。


「おい……空気が変だ」


 オウガが口元を押さえながら、苦しげに呻く。生温い風が頬を撫でるが、体が冷えていく。冬の風と呼ぶにはあまりにも異様だ。

 それは船の内部で動き続ける船員達も感じ取ったらしく、何人かが倒れかける。


「この気配……知っている。十年前の「国殺し」と同じ。流行病が広がる時の風だ」

「はぁっ!? あ、まさか精霊風しょうろうかぜ!?」

「それは一体なんですか?」

「死を運ぶ厄災を精霊術師ではそう呼ぶの。主に疫病のことを指すけど、死という概念に精霊が宿るとしたら。そういった類いの現象が形になるのではないかと。だから精霊の名前を使っているの。東ではまた違う意味になのは蛇足よ!」


 蛇足と言いつつ説明してくれたヤーに尊敬の視線を送るクリスだが、状況は悪化の一途だ。怯えたアニーがホサンの体に抱きつくが、病とは老人や幼子から襲う。

 荒波でも船の上では平然と立っていた男が、壁にもたれかかった。膝は笑い、呼吸も辛いというのを物語るように汗が流れ落ちている。


「親父!? あ、あんちゃん! なんとかできないのか?」

「なんとかしたいけど……力が入らない……」

「こ、こんな異常事態は人間の手には負えないわよ!! 港に着けば幽霊と精霊風で街ごと全滅! だからって海上にいたら今度はこっちが幽霊船よ!!」

「せめてミカ殿とアニー殿だけでも無事に帰還させたいですね」

「そこは全員帰還を目指して欲しかったわ!」


 クリスの冷静な一言に、パニック状態のヤーは無謀とは思いつつも口にした言葉。

 それに返事する声があった。


(よかろう。着地はそちらに任せる)


 軋んだ蝶番に似ていた。しかし聞き覚えのある声にホアルゥが目を見開いた。

 夜闇よりも黒い影が海底から速度を上げて迫ってくる。海面が膨らんで破裂し、大波が起きた。

 波に撒かれて幽霊達の手が少しだけ船から離れた隙に、船底を背中で押し上げる巨体に船員達が声を張り上げた。


「鯱だ! 巨大な鯱が船を移動させている!!」

「舵がきかねぇ!! おいおいおい!! どうなるんだ!?」

「霧を抜けたぞ!! 港が目前だ! けどこの速度って……」


 白と赤、そして黄色が混じった夜明けの空。その色が海面に映し出されて広がっていく中、姿を見せた太陽によって赤く染まった街並みがすぐそこにあった。

 帆も追い風を受けて胸を張っている。その勇ましい姿は速度に直結する。代わりに船員達が悲鳴のように叫ぶ。


「このままだと港にぶつかって船が壊れるぞ!」


 白い靄のように追いかけてくる幽霊達が背後に。しかし眼前には眠りから目覚めたばかりの微睡む街並み。

 木霊する船員達の悲鳴はまだ届いていないが、敏感な者は家の窓からあり得ない速度で迫る船を目撃した。


(さあ飛ぶがいい、船よ。風が其方達を待っている)


 なんの心構えも準備もしていない。しかし海の聖獣は返事も抗議も聞かず、背中で船底を押し上げた。

 船を目指して幽霊達も飛ぶ。数多の手が船へと伸びていき、しがみつく。鮮やかな朝焼けに照らされても消えぬ者達。

 その全てに風が吹いた。嵐とも間違いそうになる強烈さに、思考が追いついた者などいなかった。

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