第7話「熱い夜」
何度声を張り上げても轟々と唸る炎に掻き消されてしまう。熱い、熱い、熱い。死んでしまう、もう終わりだ。けれど、まだ生きている。木の床に倒れた死体を避けながら進む。走る元気などなかった。よろめきながら歩き続ける。
小さな魂が宿った樹だったけれど、この船の一部として生きてきた。嵐の日は船内を駆け回って危険を知らせた。約束したから。必ず岸に届けるって。一方的で、届かない誓いだけれど。守りたい願いだった。
膝が折れそうになる。幾度となく駄目だという諦観が頭を揺さぶってきた。息絶え絶えの乗客が、理解できない様子で鼓動を止めていく。助けられなくてごめんなさい。岸に届けられなくてごめんなさい。届かないと知っているけれど、嗚咽のように零れる声。
炎の中から現れた黒い巨体。視線がこちらを向いている。同時に身の毛がよだつ悍ましさで吐き気を覚えた。狂ったように喚いて、突進を試みた。思い出すたびに、意味がないと思い知らされる。それでも止められなかった。
男の背後で母親が赤子を抱えて逃げていた。気付かれてはいけない。まだ生きている。諦められない。岸まで届ける約束だけが、逃げ出したくなる心を奮い立たせる指針だった。両腕で男に掴みかかろうとした寸前。体になにかが埋め込まれた。
大砲よりも小さな発砲音。男の手には見たことがない武器。妖精の体を貫いたそれに、身が灼かれるような痛みに襲われて絶叫した。四肢を痙攣させながら伸ばして、木の床を全ての爪を使って引っ掻いた。なのに一向に治まらない。
胸を掻き毟って、あるはずのない心臓を引きずり出したい心地に襲われた。喉も、肌も、体の全てを引き剥がしてしまいたい。それだけの痛覚が全身を覆い、内臓全てを吐き出すように叫び続けた。
揺れる視界。男が逃げる母親を見つけた。嫌な笑みを浮かべて男は武器を母親に向ける。剣や槍とは違う。弓に近いその武器に距離は関係ない。そこから先は感情や思考が追いつかなかった。全身が千切れていくような痛みの中、無理矢理体を動かしていく。
男の太い腕に飛びかかり、我武者羅に噛みついていた。発砲音がしたが、母親は肩から血を流しながらも後ろを振り向かないまま立ちはだかる炎を突き進んだ。獣のように男の顔面や胸に爪を立てたが、逆に激しい痛みが増長するだけの結果。
腕の一振り。それだけで体は宙に投げられ、熱で割れた窓硝子から真っ黒な海へ落ちていく。腕を動かして浮かぼうにも、無力なまま沈んでいく。 約束も守れず、親子を逃がすこともできず、木っ端微塵よりも惨めな消滅へ向かうのだろうか。
敵が強すぎました、ごめんなさい。そんな言葉がお似合いの最期を迎える。赤く燃える海面から海賊旗がぼやけて見えた。骸骨が笑っている。小さく、粗末で、哀れな。少女程度の大きさしかない妖精を嘲笑している。
体は精霊とは違うなにかで蝕まれていき、魂に到達するまで然程かからないだろう。海に消えることも叶わないかもしれない。朝日は訪れない。あの眩しい太陽には二度と巡り会えない。港で笑い合う人間の顔も眺められない。
誰にも知られず消えていく。最中、錆び付いた蝶番に似た声を聞いた。
暗い海よりも黒々とした体。月光よりも強い白の模様。目の前にいた聖獣に驚きを隠せないまま、聞こえた声に集中する。
(船妖精としての死を選べ。代わりに別の道を示そう)
もうこの体は終わりだ。船妖精として生きていこうにも、本体である船はいずれ燃え尽きて海の藻屑となる。選択肢はそれしか残っていない。痛みとなにかに蝕まれ続ける体に鞭打ち、手を伸ばす。
死の先に、他の運命が待っている。それが希望か絶望かはわからない。けれど消滅以外の道があるならば、それに賭ける。まだ生きている。終わっていない。終わらせてたまるものかと、歯を食いしばる。
声も出せなくなった妖精にとって、手を伸ばし続けることでしか気持ちは表せない。それを承知で聖獣は
船妖精の小さな体を分解する。大地に愛され、海を慈しんだ船妖精は死んだ。瘴気に蝕まれていた木の精霊を海面から弾き飛ばし、残った柔らかい魂に船を燃やす火の精霊を集めていく。
少女のような大きさにまで体を構成するには時間がかかる。しかし船の生存者は零。その全てを見捨て、哀れな船妖精を救う。それだけに集中していた海の聖獣は、水面を泡立たせる落下音を聞いた。
次に赤子の声。海面を突き破る瘴気が込められた弾丸が回生術の邪魔となった。体をくねらせて避ける聖獣は、砲丸よりも小さな弾に驚く。こんな物を使う武器は見たことがない。自らが発した音波で確認すれば、船上から男が赤子を狙い続けている。
船の縁には何発もの弾丸を体に撃ち込まれた母親が倒れている。樽の中で泣く赤子の横には花灯りの灯籠があった。明かりが点されたそれのせいで、男は赤子を見失うことはない。誰かに見つけて欲しいという願いが、赤子を危機に陥らせている。
たった一人の赤子。脆弱な存在。小さな樽の船ではきっと岸には辿り着けない。冷酷に見捨てようとした聖獣の傍らで、生まれ変わった妖精が樽の船に向かって浮上する。約束は潰えていない。
火の妖精として、赤子の顔を照らす花灯りの灯籠に宿る。中断された回生術のせいで、体は大人の手の平に載るほど小さくなってしまった。それでも昔取った杵柄、どんな小さな船でも動かし方は心得ている。
懸命に樽の船を動かして弾丸を避ける。それに苛ついた男が手を上げた瞬間、燃える船の奥から突き出た白い触腕が行く手を遮る。壁であり、巨大な質量。叩きつけられると理解した。どんな立派な船でも、真っ二つに両断できる。
生まれ変わっても無力なのか。ひたすら抗って奇跡を掴んでも、すぐに潰される。無力な自分が悪いのではなく、ただ状況が残酷なほど正確な結果を叩き出す。泣き続ける赤子の胸に立ち、無意味とわかっても両手を広げた。もう謝罪を口に出したくない。
ごめんなさいと罪悪感を背負い続けるよりも、最期まで体を張って守りたい。誰にも知られない心意気だとしても、生まれ変わって最初に抱いた矜持だった。振り下ろされる腕から視線は逸らさない。
白い触腕に黒い巨体がぶつかる。聖獣が猛烈な速度で迫り、自らの体を海面から打ち上げて突進したのだ。巨大な二つが倒れていき、高い波が樽の船を押し上げて遠くへと運んでいく。
(行け、小さき者よ。約束を果たすのだ!)
波に呑み込まれないように樽の船を動かしながら、聞こえてきた声に何度も頷く。夜明けも遠い空の下、懸命に岸を目指す。遠ざかっていく争いの音、炎の輝き、男の嘲笑。全てを背負いながら、泣く赤子の頬に触れる。
温かい。元気な女の子だった。花灯りの灯籠内部で燃える炎を絶やさない。星の明かりが届かない夜。押し潰されそうな不安を振り払うように、慣れない火の精霊術で灯し続ける。
近寄る小舟。少しだけ見覚えのある男が安堵したように赤子と灯籠を抱え上げた。樽の船はそこで役目を終えたように沈んでいく。使命を果たした樽を見送りながら、妖精は――ホアルゥは涙した。
助かった。赤子は岸に辿り着く。多くの物を見捨てた先で、ようやく果たした。
花灯りの灯籠。その中でホアルゥは眠り続けることにした。もう二度と真っ赤な夜が来ないようにと祈る。本当は海の聖獣を助けたかったが、大人の手の平程度の大きさしかない妖精が救えるなど思えなかった。
船底の宝物庫で息を潜め続け、瞼を閉じる。約束は果たした。悔しさと助け出したい想いを押し殺しながら、意識を沈めた。誰にも知られなかったことだ。このまま抱えておけば、あの赤子は笑って生きていける。
無力だ。ホアルゥが一番自覚している。ならば余計な真似は止めておこう。十四年間そう考え続けていた。
「海の聖獣……あー。だからかな」
ミカの暢気な、それでいて納得した声にホアルゥは脱力を味わう。ホサンやアニーなどは船火事の裏側を知って衝撃を受けて言葉をなくしていた。最近発覚した魔人や魔物、そしてユルザック王国で信仰の対象となっている妖精と聖獣。
あらゆる要素が絡み合った夜。その再現と言わんばかりに濃厚な霧が視界を漂っている。
「あの触腕は多分
「そういえばそうね。十本全てを使って攻撃していたら、こちらを確実に全滅できたのに」
「揺れ動く視界だったから自信はないけど、二本はあの燃える幽霊船を支えていた。三本は貯蔵庫……船団の残りの船を操作していたみたい」
「遠目で見た時に他の船があったのは、そういう絡繰りかよ。残りの四本は?」
「海の聖獣を捕らえてると思う……ただ海底に伸びていて、ホアルゥの証言を頼りにした憶測だけどね」
港町から今までのこと全てを思い出しながら、相手の脅威を推し量る。もちろん触腕一つだけで大抵の船は破壊できるだろう。しかしまだ対処できない事態には陥っていないと判断できた。
他の船員達と共に船の周囲に気を配るクリスは、波の音の穏やかさに身震いする。あまりにも静かすぎて、一瞬の後に海に沈んでいるのではないかという恐怖。大地の上を走っている時には感じない類いの不安だ。
「もしも先程の
「あれは燃える船と霧を利用した幻だから、条件を乱してやれば簡単よ。それでホアルゥが必要なんでしょう」
(どういうことでしゅか?)
「火が大事なんだ。こんな闇夜と霧じゃあ、月や太陽の力は期待できないからね。さあ行こう、ホアルゥ。一発逆転の鍵は君なんだ」
伸ばされた手に、ホアルゥは恐る恐る触れる。誰もが無力だと笑うようなホアルゥを求めてくれた。それだけで燃え上がる心があった。
燃える赤い羽根。それは鳥の翼に似ていた。炎から零れた火の粉が抜け落ちた羽根のように宙を舞う。雛鳥が一人前だと示しているが如く、数多の火花が羽ばたきの音と共に煌めく。
真っ赤なマフラーが風に靡く。鳥の尾羽に似た上着の裾が霧を裂いていた。真っ白な陣羽織へと変化した服。赤い模様が服の表面を蔓の形となって浮かび上がっている。腰には輝く花灯りの灯籠を吊り下げていた。
一羽の海鳥のように突き進んだ先に幽霊船。二枚の羽根を背中に、ミカは周囲に炎をまき散らしていく。熱によって作られた霧は払われていき、海中の様子がわずかにのぞき込めた。金色の巨大な目玉が船底に隠れた。眩しいのを嫌っている存在がいる。
「見つけた! エディ・ターチ!!」
「……ほお? 俺の名前を知っているとは、田舎でも悪名は届いていたということか?」
炎に包まれた幽霊船の甲板で笑う黒髭の男。その髭に絡めた火縄から黒い煙が立ち上っている。いつでも大砲を撃てる準備をしている男は、空の酒瓶を噛み砕いた。林檎を食べるように硝子の破片を味わう。
「ホサン船長から聞いたよ。死んでるはずの人間……」
「いいや! 俺は死ななかった! 首を切られても尚、泳ぎ続けたさ! この海を!」
「瘴気によって魔人にされた……魔人製造工場船の第一号じゃないかと俺は睨んでるよ」
「……くくっ、はーはっはっはっは!!!! なるほど! 第五王子ってのはお前か!! クラックが用心しろと言うわけだ!!」
ボサボサだった金髪の一部が伸び、その毛先が桃色に染まっている。一直線の傷がある左目に宿るのは赤い輝き。木の枝に留まるように帆の支えに着地するミカは、足場や周囲の炎など物ともしなかった。
むしろ魔術によって襲いかかってくる炎の塊を一瞥だけで打ち払う。転化術によって瘴気は精霊へと変化し、意識内部にいるホアルゥによって火の精霊術を扱う。あらゆる熱、炎、明かり。火に関する全ては羽衣術でホアルゥを纏ったミカにとって脅威とはならない。
「ひゅー。驚きだ。まじで魔術が効かねぇ。瘴気も意味を為さねぇ。だけど長続きはしないだろう? クラックとの戦い方を見てたからな。短期決着向きだ」
「正直、魔人相手に羽衣術は不向きだと思うんだけどね。海の上では近寄ることもできない。燃えてる船上なら、アトミスよりホアルゥが適任だった」
「ホアルゥ? 誰だそれ?」
「かつて襲った船にいた妖精だよ。一度、そっちが殺した相手だ」
「わりぃな。そんな弱っちい無力な奴は覚えている趣味はねぇんだよ」
甲板に降り立ったミカは、エディのふざけた態度と酔うしを目の当たりにした。大柄な体の男で、海賊コートを肩にかけており、上半身は裸。頑強な胸板にも濃い体毛が生えている。右手には使い込まれた鉤手を。
腰には赤い腰布と剣を携えるためのベルト。しかし剣は見当たらなかった。代わりに小さな荷物袋と六つのポーチが括り付けられている。使い込まれたズボンと革靴には落とせない焦げ跡と血染め。
黒い瞳は野望に濡れていた。豊かな黒髭は剛毛で、火縄を編み込むには充分な長さと強さが備わっている。顔は全体的に平らで大きい。若干、粗野と不潔さを抱かせる身嗜みでもあった。
意識の奥底で、歯軋りの気配を感じ取る。必死の抵抗さえ、無意味だと断定された心地。名乗りはしなかった。それでも記憶の端に覚えているだろうと、忘れられない夜が脳裏に生々しく蘇る。
だがエディにとって、取るに足らない出来事だった。耳が痒かったのか、太い小指で耳の穴を雑に掃除するエディの姿に沸騰に似た感情が湧き上がる。そんなホアルゥの意識を身近に、ミカは冷静に努めようとした。
「海の聖獣は?」
「ん? あの
「そう。じゃあ安心だ」
「あん?」
歯を見せて笑ったミカの表情に、エディは訝しむ。同時に燃える幽霊船に叩き込まれた砲丸が、二人が立つ甲板を大きく揺らした。ミカは揺れると同時に再度空へと飛び立つ。目指すは幽霊船の陰に隠れていた魂と瘴気の貯蔵船。
「あの烏賊を先に消して、海の聖獣を助けるのが俺の役目。足場くらいならあっちの船の方がいいからね。エディ船長はホサン船長に任せるよ」
「ちっ! クラック!! そいつを引きずり込んじまえ!」
舌打ちしたエディの声に呼ばれ、海面を突き破って巨大な触腕が襲いかかってくる。先程の転化術などで壊したはずだが、その痕跡すら消えている。異様な回復力の正体に気付いているミカは二枚の羽根で素早く飛んでいく。
まずは一隻目の貯蔵船。濃厚な瘴気と数多の骸骨が詰め込まれていた。幽霊船と言うには生々しい死の臭いが強すぎる。木の床を打ち鳴らして現れたのは骸骨の船員。魔術によって操られた死体。
「全開で行く! レオ!! ホアルゥ!!」
(ああ、任せろ!)
(はいでしゅ!)
意識の内側にまで届くように声を出し、左目に宿った赤い輝きを強くしていく。背中の羽根が勢いよく燃え立ち、火の粉を船全体に散らした。帆、柱、甲板、船体。あらゆる場所で火の手が上がり、瘴気を精霊へと転化させていく。
火に触れた骸骨は糸が切れたように崩れ落ち、炎の中で沈黙する。ミカの目には解放された魂が煙に乗って空へと登っていくのが視えた。それは意識の内側にいるホアルゥも眺めていた。
見知った顔があった。かつてホアルゥが宿っていた船に乗っていた航海士だ。彼は安堵したように迷わず空へ向かう。霧に邪魔されることはない。それよりも濃い炎が巻き上げた煙が道になる。
船が焼けると確信したのか、竜骨を砕いて二本の触腕が伸びてきた。その手から逃れるために飛び立つ。一度でも捕らわれてしまえば力尽きる危険性が高い。残る船は二隻。その内の一隻は豪華客船であったらしく、堂々とした大きさだ。
泡を立てながら沈む船を背に、隣の船へ。フジツボと藻が張り付いた船内。自然の産物と共に宝石や金貨が飾られていた。宝剣によって胸を貫かれた骸骨の眼孔には大きな
悪趣味な宝箱内部に迷った気分でいると、今度は巨大な猫が現れた。滑る体表と怪しく光る眼は蛸、尖った牙と爪は鮫、伸びる尻尾は海蛇。番犬ならぬ番猫である。魔術によって作られた歪な生物に手を伸ばす。
身軽な動作で跳躍した猫は傾いた帆柱にしがみついた。笑う声は
横に避けたミカの目には溶けた木の床。腐った生卵の臭いを吸うだけで、頭に鈍痛が走った。慌てて口と鼻を押さえ、次々に飛んでくる溶解液を躱していく。近寄ることも叶わない状態で、船体を押し潰すように二本の触腕が海面から襲いかかってくる。
重い海水の塊を被り、体勢を崩す。そして眼前に一際大きな赤の溶解液が迫っていた。転化術で消滅させることも、火の精霊術で燃やすこともできない。笑う猫の声が耳に木霊した。
エディが乗る幽霊船に重さを追求した砲弾が撃ち込まれ続けていた。だがエディが片手を動かすだけで、多くの骸骨達が火炎瓶を自らの体ごと落としてくる。ヤーの目の前で骨が砕け、それでも立ち上がる骸骨が炎に包まれた。
焼かれながら動き回る骸骨が、手近にいた船員に向かって両手を広げた。悲鳴が上がる中、一足早くクリスが儀礼槍で炎を貫く。刃が骨の隙間を通ったことを確認し、体全体を使って振り回し、海へと叩き落とした。
「オウガ殿! 相手は捨て身の戦法を選んだようです!」
「魔人から見れば捨て身にもならねぇだろうよ。元凶を討つ。ホサンのおっさん、鉤縄を借りるぜ」
返事も聞かず、オウガは鉤を重心として縄を振り回す。遠心力で勢いを増した鉤手が燃える幽霊船の帆柱に巻き付き、外される前にオウガが跳躍した。
「俺が相手だ、幽霊船長。一度、俺の実力が人外に通じるか試してみたかったんだよ。アンタは丁度良い獲物だ」
「はんっ、小生意気な餓鬼が。一丁前に悪役っぽい台詞を吐きやがって」
歯を見せて笑うオウガの頭上から蛇の形となった炎が首をもたげながら落ちてくる。それを避けた矢先、息苦しさを味わう。幽霊船の甲板には視えない空気が充満しており、体に重石のようにのしかかってくる感覚。
これが瘴気かと、寒気が治まらないのを知る。頭上から脂汗が流れ、体中に鳥肌が立っている。一瞬で体調が最悪になった。長槍太刀を杖のように木の床に突き立てる。膝が笑い、目眩がする。
呼吸を繰り返すたびに進行していく症状。魔人と戦うということは、最初からハンデを背負うのかとオウガは学習した。その隙をエディは逃さない。腰に括り付けていた小袋の中身を飛散させる。
黒い粒が空中を舞う。それは火に触れた瞬間に膨れ上がり、弾けた。
爆発から逃げるように足を動かしたオウガは、煙の中から無策に飛び出る。黒煙が晴れた先には見たことない武器が額に押しつけられていた。小さな大砲が魔神の手に。勘と条件反射だけで体勢を低くしたオウガの耳につんざく音。
一瞬、目の前が暗くなるほどの破裂音。背後で木の床に埋め込まれた物を見る。鉄の玉。初めて目撃する道具だった。それが木を突き破るほどの破壊力を与えられた。笑うエディから距離を取ったオウガの脳内にヤーの言葉が蘇る。
歴史外の神世で消えたはずの武器。対策は頭の中で描いたが、実際に遭遇すると予想外ばかりだ。臭いも、音も、質感も。警戒心を強めていく。相手はオウガの想像を超えた魔人であることを認めた。
「黒色火薬に拳銃……本当、狂ってるな。魔人ってのはよ」
「お褒めにあずかり光栄だ。まあユルザック王国なんていう田舎が遅れてるんだよ。わざと情報規制して、武器の輸入を阻止しているんだからな」
「……ははっ、アンタ王族嫌いだろう? 俺と似た気配だ」
「イエース。特に女王ってのは気にくわねぇ……死んでも忘れられないくらい、殺してやりてぇ」
燃えながら笑う海賊旗を背に、エディはもう片方の手で二丁目の拳銃を取りだした。腰にある六つのポーチ全てが拳銃のホルスターであることに、オウガは舌打ちする。大砲ならば一発撃った後は装填の準備が入る。それを複数用意することで隙間をなくす。
エディも拳銃で同じ準備をしていたのだ。黒色火薬の爆発、その勢いを利用して鉄の弾丸を撃ち出す。硝煙の臭いなどでオウガはそこまで推測した。銃口の向きで大体の攻撃軌道は読めるが、射撃の後は目で追う真似は不可能。
激しく揺れる船上で、オウガは荒々しく汗を拭う。そして獰猛な笑みで敵を睨んだ。勝利の手順に必要な物事は理解した。後はそれを行動に移すだけ。一瞬でも間違えれば死ぬ境目など、彼にとって慣れた物だった。
「悪いが、アンタの死後に付き合っているほど人生は暇じゃなくてよ。ここで始末させて貰う」
「やれるもんならやってみやがれ」
幽霊船の男は笑う。死後に生はなく、生前と変わらずに命を奪う。悪名高き海賊として、無謀な挑戦者の挑発には喜んで乗るだけだ。
火炎瓶がなくなったのか、今度は武器を持った骸骨達が船へと落ちてくる。頭が割れ砕けても動く骸骨。痛みも恐れも知らず、その姿は恐怖の対象だった。クリスが儀礼槍を使って薙ぎ払うが、増える数が圧倒的に上回った。
アニーを背中に庇いながらホサンも剣を振るうが、勢いに押されかけていた。最中、ヤーが帆柱に括り付けた縄を引っ張り、走っている骸骨の足を引っかける。倒れた骸骨の足、そこを重点的に棍棒で砕く。
次に這いずる骸骨の手。年月が経過した骨に、衝撃に耐えるほどの密度はなかった。少女の力でも砕けることを目の当たりにした船員達が、剣を鞘に収めて構える。斬撃より打撃が有効だと理解したからだ。
「幽霊は駄目だけど、死体なんか怖くないわよ!! 天才精霊術師をなめんじゃないわよ!!」
「ヤー殿! 流石です!!」
「なんでかしら!? ツッコミが欲しかったわ!」
素直に賞賛するクリスに対し、微妙な感慨を味わったヤー。八つ当たりと言わんばかりに近くにあった樽を横倒しにし、転がしていく。ぶつかった骸骨は、倒れてすぐに轢き潰される。
人間では通じない戦い方が骸骨には適用される。小型の樽を抱えたアニーが倒せそうな骸骨を探していた矢先、ホサンが息を詰まらせた。彼の視線の先。そこには華やかなドレスを着た骸骨が立っていた。
「おふくろ……?」
それはアニーにとって母親との再会だ。腕に残る火傷と同じ模様のブローチが船灯りに照らされている。しかし感動など存在しない。死んだ母親が自分を殺しに来た。今の状況から導き出される答えは恐怖だった。
ナイフを片手に母親の骸骨が向かってくる。ホサンがなりふり構わずにアニーを抱え、骸骨に背中を向けた。肩越しに振り下ろされる刃先が、アニーの瞳に克明に映し出された。鋭い刃が体を貫く。
「……?」
「親父……大丈夫だ」
母親の骸骨は横から迫っていた骸骨を刺し、引き倒していた。自分の手が砕けるのも構わず、仲間の骸骨を粉砕している。貴婦人とは思えない荒々しい動きに耐えかねて、ドレスからブローチが零れ落ちた。
それを拾い上げたアニーは、安堵の息を吐くホサンの袖を摘まむ。本物の父親ではないことを知った。それでも理解できた。振り向かない母親の骸骨に対して、アニーは声をかける。
「おふくろ。アタシ、アニー・スー。親父が名付けてくれた……大事な名前だ」
「アニー?」
「アタシの大切な親父。頑固で、怒りん坊で、がめつくて、喧嘩もよくするけど」
「おい」
「アタシの……本物の家族だ」
大きな手を握り、アニーは精一杯の笑顔を向ける。立ち上がった骸骨の眼孔は空っぽで、声帯もない。それでも小首を傾げる動作が優雅で、どこか微笑んでいるように見えた。
「ありがとう……アタシ、ちゃんと幸せに育ったよ」
母親のドレスに空いた穴は複数。襲撃者から何度も攻撃を受けながら、赤ん坊を必死に逃した女の努力は報われた。母親の骸骨はゆっくりとホサンへ頭を下げる。言葉にならない御礼が贈られ、ホサンは涙を零した。
そして母親は最後の意地を見せる。二人の親子に近付いた骸骨達へと突進し、共に海へと落ちていく。手を伸ばしたアニーの肩を掴み、ホサンは奥歯を噛みしめた。生前も死後も、変わらずに母親は娘を守ったのだ。
「親父。傍にいて。ずっと……長生きして」
「無茶言うな。かなり老いてるんだぞ、こっちは……ちゃんと老後の面倒見てくれよな」
「……当たり前だろう。アタシは立派な船長になって、親父の跡を継ぐんだ。それくらい楽勝だってんだ」
母親の形見であるブローチを胸元にしまい、アニーは小さな樽を近くの骸骨に向かって投げつけた。ホサンも鞘に収めた剣を振り回して骸骨を袈裟切りのように叩き壊す。背中合わせになった親子は、よく似た笑みを浮かべる。
「そんじゃあこの大波を乗り切るぞ、馬鹿娘!!」
「合点承知だ、くそ親父!!」
悩みを振り切った二人は脅威へと勇んで立ち向かう。その姿に発破をかけられた船員達の士気が上がり、数の劣勢を覆し始めた。それは濃霧漂う夜の終わりが近いことを示しているようだった。
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