第6話「ファータ・モルガナ」

 トンカチの音が聞こえる。カンカンコンコン。産声だ。船が生まれた。多くの人を乗せて遠くまで旅立てよと、木目をなぞる生みの親。もちろん。それが生まれた理由だもの。潮風を受けて、日光を浴びて、嵐を超えていく。白波に揉まれても大丈夫。

 上も下も青い世界。そうだ。これが世界の色だ。でもこれだけじゃない。だって太陽が赤くなれば、海も真っ赤に染まる。視界全てが星空になる夜は、まるで空を飛んでいるみたい。

 船首の上に乗って、両腕を広げる。何度も大声を上げる。ありがとう、ありがとう。小さな魂が宿った樹だったけど、こんな大きな船の一部にしてくれて。届かないのは知っているから、代わりに願いを叶えるよ。


 必ず岸まで届けるよ。どんな姿になっても。絶対に。




 五里霧中。まさにそんな状況であった。霧が夜の海を漂い、船を覆う。灯台の明かりも見えず、幽霊船が何時襲いかかってくるかわからない。それでも火を絶やさず、甲板で動き回る船員達。

 船長であるホサンは航海士に波の状態を確認し、望遠鏡で星を見つけようと躍起になる。方位磁石も針が狂っていて役に立たない。ただならぬ様子に起こされたばかりのホアルゥは花灯りの灯籠カンテラに火を点すようにアニーにお願いする。

 懐から花灯り用の油と火種を出したアニーは、淡く灯る灯籠に安心感を覚えた。疲れて動けないミカも、金色の瞳に炎の輝きを映す。冷たい潮風もわずかに払う温もりが小さな妖精の意識を覚醒へと近付けていく。


(幽霊船に火縄髭の男……最悪でしゅね。しかもアニーしゃんの母親らしき骸骨って、悪夢じゃないでしゅかぁ!!)


 しかし目が覚めた花灯りの妖精は頭を抱えて左右に激しく振る。手の平サイズの少女が灯籠の蓋から身を乗り出して暴れていた。その光景を目撃できるのはミカ、オウガを含めた従者三人組に氷水晶の妖精アトミス。そしてアニーだけである。

 妖精は姿を見せる相手を選ぶことができる。たとえ精霊を目視できる才能を持つ天才精霊術師のヤーでさえも、妖精に関しては妖精側が許可しない限りは姿を見るのは叶わない。代わりに妖精が納得すれば、精霊が視えないオウガやクリスなども視認できるのだ。

 例外は現在ただ一人。内部にある魂まで視通してしまうミカだけだ。それも太陽の聖獣であるレオンハルト・サニーが前世という獣憑きなどの事情持ちという特異性から来ている。


「髭男なんてどうでもいいの! で、こんな小人がなんの役に立つの?」

「小人じゃなくて妖精だよ。えーと、俺が飛んでたの見た?」


 疑い半分でミカを見つめるアニーに対し、ミカは苦笑しながら尋ねる。もちろんと頷く。赤と黒を基調とした上質な服から、海月をイメージしたような白い服をまとって羽根を生やした彼は夜の海上を飛行していた。


「実は妖精の力を借りて飛んでたんだよ。姿を見せたくないってアトミスが言うから、紹介はできないんだけど」

「……あんちゃん、それは美人の話か?」

「え? アトミス? んーと、美人かな。うん、俺は綺麗だと思うよ」


 気負わずに出てきた言葉に対し、宙に浮かんでいたアトミスが甲板へ墜落しそうになった。性格には難ありだが、地面に届きそうなほど長い銀髪の三つ編みに深海の色を宿した瞳。背中には氷水晶の四枚羽根が花開くように広がっている。

 色味自体が冷たい類いではあるが、それは一種の美しさへと昇華している。ミカが見てきた造形の中でも上位に入る美しさであるのは間違いない。しかしアトミスは青年の姿だ。つまり美人と言うよりは美形を使う方が正しいだろう。


「んだよ、あんちゃん……ぼんやりした顔でやるじゃん。そこの二人も上玉だって言うのに、まだ美人を抱えてるとか抜け目ないね」


 ヤーとクリスに視線を送りながら、肘でミカの胸元を突くアニー。横で話を聞いていた船員の一人が見えない美人がいると上機嫌で他の船員に伝えに行く。その頃にはアトミスは浮かぶ気力もなく、甲板の床板に這いつくばっていた。顔を隠す姿勢は、脱力と羞恥からだ。

 オウガは笑いを堪えようと咽せかけており、ヤーも頬に空気を貯めて笑わないように必死であった。しかしクリスだけがミカの言葉に同意するように何度も頷いていた。幻想ファンタジー好きの彼女にとってミカの言葉に嘘は一つも含まれていないのだから。


「なんか話が少し逸れた気もするけど、まあいいかな。とりあえず俺は妖精の力を借りるんだけど、次はホアルゥの力が必要なんだ。そこで一つ確認したいんだ、ホアルゥ」

(なんでしゅか? ミカちゃまならホアルゥはなんでもお答えしちゃいま……)

「ホアルゥって生まれて百年だよね。本当に花灯りの妖精なのかな?」


 両手を広げて笑顔を見せていたホアルゥが一瞬で灯籠の中に隠れた。灯籠の蓋が閉じる音でアニーはようやく妖精が姿を消したのだと気付く。ミカの問いに、ヤーが目を丸くした。そして改めてアニーが持っている花灯りの灯籠を凝視する。

 華やかで繊細な細工を施された手提げ灯籠。六角形の筒型で、鉄枠に硝子の風除け。硝子の下部には蔓と花の形を薄く切り取っており、そこだけは明かりが強く浮かび上がるようになっていた。硝子の表面だけを細工する技術は驚嘆の一言だ。

 その軽さも貴婦人が持つことを意識されており、古今東西を回ってもここまでの職人は少ないだろう。しかしヤーが注目したのはそこではない。花灯りの灯籠に使われた技術もそうだが、少し古ぼけた外観から判明した。


 妖精ホアルゥが宿る花灯りの灯籠は百年も経過した品物ではない。


「俺は目利きとかそういうのはできないんだけど、ちょっと変だと思って」

「まさか連結術リ・ンクで妖精として切り替わったの!?」


 連結術リ・ンクは術を使用した者と同じ体質に変えるもので、妖精の高位存在である聖獣などの一部が使うことが可能だ。太陽の聖獣が水の妖精を太陽の妖精に変化させたい時に行う。

 実際にこの術でヤーを含めた従者三人組はミカと同一、つまりウラノスの民の体質になっている。ただし個人の才能などは引き継がれないため、体の仕組みを変更するだけだ。そうするとホアルゥを花灯りの妖精に変えた、花灯りの聖獣が存在するのではないか。

 妖精の研究は難しい。その一助とも言える貴重な体験をした妖精が目の前にいることにヤーは目を輝かせたが、ホアルゥは灯籠の中に閉じこもってしまった。アニーが雑に灯籠を縦に振るが、一切反応しない。


「いや、連結術じゃないと思う。ちょっとレオに相談したいから、少しの間任せ」


 意識内部に存在する太陽の聖獣レオンハルト・サニーと会話しようと考えたミカだったが、船が大きく揺れたことで言葉半ばに立ち上がる。クリスとオウガは既に長槍太刀パルチザン儀礼槍クーゼを構えていた。


「幽霊船が霧を引き裂いて来やがった!! あいつら、俺達を仲間に加えたくて歯を鳴らしてやがる!」

「誰がそんな報告しろつった、ボケがぁ!! 全力で迎え撃て!!」


 灰色の霧に浮かび上がる巨大船の影。数多の砲口が向けられ、破壊するべく無造作に弾丸を飛ばす。燃えていようが、骸骨達が笑っていようが、船体を壊されてしまえば全てが海の藻屑。海底に沈むだけだ。

 船員達も声高に着火と装填を急げと鼓舞し合っていた。膝で立つのが精一杯なミカは揺れる甲板で滑らないように手をつく。海水が跳ね上がっては木の板を濡らしていく。なにかにしがみついていないと、あっという間に投げ出されてしまう。

 ヤーは帆柱へと抱きつき、アニーも柱に括り付けた縄を握って耐えている。オウガとクリスも船の縁を掴んで様子を窺っている。何時、霧の中から化け物みたいな触腕が攻撃を仕掛けてくるかわからないからだ。


「ちぃっ、しぶとい幽霊野郎……」

「違う!! ホサンさん、それは幽霊船の影だ!!」


 舌打ちをしたホサンの耳にミカの声が突き刺さる。撃ち込んでいたのは着弾した瞬間に爆発するような代物ではない。純粋に重く、壁を壊すための鋼鉄の塊。それは霧に飲み込まれても、幽霊船を破壊するはずだった。

 しかし木が壊れる音も、悲鳴も、なにも聞こえない。幾度も水面になにかがぶつかる音が響き渡るだけ。恐怖を吹き払うために船員達が声を張り上げていたのも逆効果だった。波が大きく揺れ、船体を傾ける。

 慌てた様子で灯籠の蓋から姿を現したホアルゥが、突然の事態に目を回した。それでも忘れないようにと大声を出した。


モルガナのお化けファータ・モルガナでしゅ!! あの夜と同じ、海峡蜃気楼戦法できやがったでしゅよ!!)

「蜃気楼!? じゃあ本体は何処に……」

「ミカ、アトミスの指輪をアタシに投げて! ちょっと無茶するから、全員気張って耐えなさい!」


 不安定な足場のせいでかなり的外れな方に飛んでいった氷水晶の指輪だったが、海に落とされてたまるものかとアトミスが精霊術を使い、空中で弾きながらヤーの手の平へと吸い込まれていった。


(具体的になにするつもりなのさ?)

「逃げの一択に決まってんでしょ! 相手の不意打ちを食らって、無防備状態なんて最悪! しかも相手は海中からの突き上げだってやり放題。じゃあやることは一つよ!」

(相手の動きも止めて、なおかつ距離を取るって欲張りすぎじゃない? まあいいけどね。そこのおとぼけ妖精に、ウラノスの民に協力した妖精の底力を見せてやろうじゃないか)


 海月の足が水中で揺らめくように、アトミスの三つ編みが軽やかに浮かぶ。冬の冷気よりも冷たく、全てを凍らせていく。海面に広がる水晶の輝きが灰色の霧を押し返していく。霧の中で狂う火の精霊達が荒れても、溶かすことができない。

 船底さえも凍り、下からの衝撃に負けずに空中へと浮かんだ。一瞬、なにが起きたかわからなかった船員達は霧を抜けた事実にさえ理解が及ばなかった。目の前に広がる夜闇。星の海。灯台の明かりが遙か遠くで帰りを待っていた。

 船の脊髄とも言える竜骨を壊そうとした白く太い触腕が戸惑うように先を丸めた。しかし気を取り直して船体を横から叩き壊そうと腕を振り回す。巨大な吸盤が迫っていること、体が浮いている事態。その全てに頭が追いつかないホサンが目にしたのは、星よりも小さく輝く精霊の青い光。


(気持ち悪いんだよ、僕に触れるな)


 精霊術は魔人や魔物を構成する瘴気、魔素と相性が悪い。術に必要な精霊が狂わされてしまい、思うように発動できないからだ。それは妖精も変わらない。しかし精霊術師と違い、妖精はいわば一点特化スペシャリストである。

 大量の水の精霊がアトミスの前に集まる。ヤーはその精霊を指先に集め、文字を空中に描いていく。思い出すのはヘタ村で精霊術を使おうとして狂わされたこと。衝撃が自身へ跳ね返ったのは体が痛いほど覚えている。

 アトミスの力を借りて集めた精霊はヘタ村時の十倍。その全てが白い触腕が触れただけで荒れ狂っていく。船の横に発生した大量の水が破裂した。強風を伴い、船が広げていた帆に力を送る。


 弾けた水が届く前にミカ達が乗っている船は夜空を飛んだ。落ちそうになった船員達はアトミスが甲板を濡らした海水を氷水晶に変え、凍らせて動かないように固定した。足下が凍り付き、空から自由落下する船に数多の悲鳴が轟いたのは言うまでもない。




 一時的とはいえ霧から抜け出した功労者のヤーは海面に向かって吐いていた。なんとか着水した船だったが、その大きな揺れに体が耐えきれなかったのである。アトミスなどは空中で土左衛門の如き体勢で浮いている。

 

「うぉえっ……やりすぎたわ」

(全くだよ。ミカ、悪いけど僕にはもう期待しないで。さっきので精霊術を使いすぎた上に、瘴気を浴びすぎた……気持ち悪い)


 出番がなかったオウガは少し苛ついていたが、横では船が空を飛んだことに幻想好きの血が騒いだクリスが大はしゃぎしていた。しかし船員達の多くが、命が二つ以上あっても足りないと辟易していた。

 アニーなども呆けてしまい。花灯りの灯籠を抱えて動かない。唇を閉じることも忘れており、尻餅をついたまま夜空を見上げる。ホアルゥも頭に灯籠の蓋を乗せ、隙間から四枚の羽根を持つアトミスをずっと眺めているだけだ。

 そしてミカはというと、人形のように動かなくなっていた。それは意識内部にいるレオと会話をしているからだ。無防備な彼を守るためにオウガは常に周囲へ気を配っている。ホサンが悪い夢だと何度も呟いていることにも気付いていた。


「――なるほど。ホアルゥを説得しないと進まない訳か」


 その囁きだけで圧力がのしかかる感覚。思わず肩を跳ねさせたアニーは座ったままのミカへと視線を向ける。どこか掴み所のないのんびりした少年という印象だった彼が、傷がある左目に光を宿していた。

 揺らめく光は橙色の炎にも見えた。鮮やかな金色を隠し、少年の雰囲気を一変させている。ぼさついた金髪さえ、今では獅子の鬣だと錯覚しそうになる。まるで別人が乗り移ったのではないかとアニーはわずかに怯えた。


(れ、レオしゃま!?)

「あまり表に出てくる気はなかったが、ホアルゥについては我が問い詰めた方が早いだろう。なによりホアルゥの妖精としての在り方についても説明でき……」

「あんちゃん、頭打ったか?」


 あまりの変わりようにアニーが恐る恐る口出しした。体はミカだが、意識は元太陽の聖獣レオンハルト・サニーであった。それを説明するべきかどうか迷ったレオだったが、時間が惜しいと渋い表情になる。


「……二重人格でな。思慮深いのは我で、レオと呼ばれている」

「やべぇ、まじで頭打ってイっちゃったか」


 違う納得をされてしまったが、もうそれでいいかとレオは話を続けると決めた。


「とにかく。ホアルゥは花灯りの妖精に途中で変化したのだろう。回生術リ・メイクと言って、連結術より難しい精霊術だ。まず普通の妖精では体が崩壊し、魂が離れる。相応の理由がない限りは死の危険性が高い」

「なんで連結術じゃないのよ?」

「要は根本から違う、ということだ。例えば我が太陽の聖獣であった頃に氷水晶の妖精であるアトミスに船妖精に変わりたいと願われた場合、今述べた回生術を施す。体を構成する精霊の質を変えるのではなく、一度分解して再構築するという違いだな」

「妖精って体が人間でいう精神と魂だけの状態でしょ? その中でも魂を繋ぎ止める精神、体を形作る精霊を分解なんて危険ってもんじゃないわよ!? 人間は肉体があるから生きた屍になるようなもんだけど、妖精は消滅と同じよ!」

「ああ。名高い聖獣でも成功率など五分の一にも満たない。それだけの覚悟を抱いて、ホアルゥは変わったということだ。悪いが、ミカの目は魂まで視通す。アニーのために何故そこまでした?」


 蓋に頭を乗せたまま、ホアルゥは俯く。驚いたのは灯籠を抱えたアニーの方だった。小さな妖精が自分のために死ぬ危険性を犯してまで変わった理由。思い当たることが全くない。

 レオは船の上を動き回る船員達に目を向ける。そして砲弾の確認や火薬の残量を調べるようにと指示しているホサンに目を留めた。視線に気付いたホサンが振り向く。目が合ったミカの雰囲気が一変していることに驚き、生唾を飲み込んだ。


「ヤー。あのホサンという男、わずかだが精霊が視えている。たまに視線が精霊の流れに沿っているからな」

「なんですって!? き、気付かなかったわ……」

「アニーもだがな。視えていても、それが精霊と理解するのにも才能が必要だろう。なにせ生まれた時から視界に光が溢れているようなものだ。他人も同じだと疑わなければ、そういうのだと納得するからな」

「まあ、精霊が視えるってのは珍しいことじゃないけど」


 微妙に飲み込みきれないヤーだったが、試しにと一つ質問をする。


「アニー、ミカってどういう風に見えるの?」

「装飾品少ない割に金持ってそうな坊ちゃん。金髪がキラキラしてんのか、全体的に人目を引く輝きをまとってるな、って」

「ちなみにここにアトミスがいるんだけど、見える?」

「噂の美人さんか!? いやでも全く……あんちゃんが常人より輝いてんのか、金色の光が妙に集まってんのはわかるんだけど」


 確信する。アニーは精霊が視えている。ただしそれを精霊と認識できるほどの才覚ではなく、視界に違和感を覚える程度のものだ。そして一番の原因はミカだろう。精霊は強い魂に惹かれる性質がある。前世が聖獣であったミカは一際強大に精霊を集めてしまう。


「ということは、ちょっと船長のおっさん! この灯籠に集まる火の精霊に気付いてたんじゃないの!?」

「ああん? 忙しい時になんだ? そう視えるからって、なんの解決にもならねぇだろうが!! 嬢ちゃん、わかってねぇようだから教えてやるよ。そのちっぽけな灯籠は無力だ!!」


 苛立った様子でホサンは、近くにいた船員に指示を任せることにした。霧を抜け、灯台の明かりが視認できる今ならば港へと近付ける。この好機を逃す術はない。船上では幽霊船が有利だとしても、地上ならばまた話が違ってくる。

 恐れるように撤退の準備を押し進めるホサンは、空気を読まないヤーの言葉を否定するために大股で近付いてくる。アニーだけでも無事に逃がさなくてはいけない。嫁入り前の娘を海で亡くすわけにはいかない。


「明かりを点すだけの役立たず! 砲台の一つも動かせない! そんな道具に意味なんかない!!」

「じゃあなんで大事にしてたのよ!? 考えてみればアンタは最初から違和感だらけよ! この船も、アニーのことも、アンタ自身さえ!! 十六貴族との繋がりだって、普通の商人が気軽に持てるもんじゃないわよ!」


 ヤーとホサンがお互いに負けじと怒鳴り合う中、灯籠の蓋を頭に乗せたホアルゥが耳を塞いでいた。それを横目で確認したレオは深々と息を吐き、瞼を一度閉じる。左目に集まっていた光は散り、再び開いた時には鮮やかな金色の瞳がホサンの姿を捉えた。


「ヤー。俺が話すよ」

「レオ、じゃなくてミカ!?」

「おい、ミカ王子! このまま地上で戦うに変更して良いだろう? 海の上はあちらが有利すぎる!」


 迫る二人の勢いに若干押されつつ、ミカは苦笑いになる。意識の内側から全てを見ていたが、なに一つ好転していない。各々が抱く隠し事が多すぎるせいだ。そして最も鍵となる相手は決まっていた。


「火縄髭の男」


 その単語だけでホサンが目を見開いた。どんなに船が揺れても倒れなかった屈強な体が、年相応の老人らしく膝から崩れ落ちる。過呼吸に陥りかけているのか、ホサンの喉から掠れた呼吸音が吐き出されていた。


「そういえばコンラーディンおじさんが昔話として教えてくれたかもね。火縄髭の男は」

「あいつが、俺と親父のことを話すわけがねぇ!!」

「うん、ごめん。間違えた。コンラーディンおじさんが教えてくれたのは猫の髭だった」


 引っかけられた。その事実を把握したホサンの動きが止まる。オウガやヤーも、ミカがそんな手段を使うとは思っていなかったので多少驚いた。ただしミカ自身も微妙に罪悪感を抱いているらしく、渋い表情になっている。


「もう沈黙を貫くのは無理だよ。どんなに逃げても追いかけてくるんだ。それが……嘘ってやつだ」

「……っ、そんな目で俺を見るな」


 金色の瞳に全てを見透かされている心地。ホサンは奥歯をかみしめ、膝に無理矢理力を入れて立ち上がる。それも波に揺れただけで尻餅をついて失敗に終わる。アニーの手の中にある灯籠を見て、胡座をかいて溜め息を吐き出す。


「わかったよ……話せば良いんだろ。墓まで持っていくつもりだったのに……畜生」

「親父。手短にな」

「こんな時も容赦ねぇな、馬鹿娘!」


 長い話になりそうな気配を悟ったアニーの言葉に、ホサンは思わず普段と同じ言動で対応してしまう。おかげで余計な力が抜けたらしく、頬の口角を少しだけ上げた。


「俺はな……元々は海賊だったんだ」




 ユルザック王国から離れ、アイリッシュ連合王国。1718年に極悪非道の海賊が処刑されたと報じられた。それは彼に略奪と殺戮を繰り返された国々にまで届き、港町には諸悪の一つが討たれたと喜びの声が上がった。

 彼の処刑の様子は新聞で事細かに記された。首は船首で見世物にされ、胴体は海に捨てられて絶命した。だが体が首を求めて船の周囲を三周した、と誇張表現まで加えていた。それだけ彼は人々の心に残る悪だった。

 処刑された海賊の名前はエディ・ターチ。髭に大砲を使うのに必要な火縄を絡め、恐れを込めて火縄髭と呼ばれた。そして彼はホサンの父親だった。


 しかし彼が捕まった際に多くの仲間が処刑されたが、ホサンはユルザック王国で一般人として生き延びていた。それはエディがホサンを役立たずと罵り、航海の途中でユルザック王国の港に捨てていったからだ。当時、ホサンは十三歳だった。

 父親だと思っていたが、信じてはいなかった。病床で息絶えた母親に彼が父親だと教えられても、息子らしい扱いなど一度もなかったのである。挙げ句の果てに敵国に囲まれているような、閉鎖的な国に置いていかれた。

 だから新聞で父親の死が報じられ、港町が祭り騒ぎのように喜びに溢れた時は虚無感だけが体を包んだ。解放されたのとは少し違う、一抹の寂しさ。それも船員として働く内に忘れていき、心の中に残ったのは自分は元海賊で、極悪人の息子だったという事実だけだ。


 父親の享年よりも老いて、しかし所帯も持たずに船長まで上り詰めたホサンは港町に立ち寄ったルランス王国からの旅行船に感動した。時折、輝いて見える船を知っている。人でも同じようなことがあったが、船はそれ以上に光り輝く不思議な魅力を放っていた。

 その船の名前はアマリリス号と呼ばれていて、船員が嵐の日には子供の声が危ないと注意してくるのだと笑う逸話までついていた。しかしまるで誰かに守られているように船は必ず港へ辿り着く。海の神様に愛された船なのだと、乗員も嬉しそうに語っていた。

 ユルザック王国に立ち寄ったのは貴族や王族に縁のある者達で、中には生まれたばかりの赤ん坊を抱いているご婦人もいた。赤い髪が美しい婦人の顔に見惚れたホサンだったが、港町は一期一会。二度と会うことないだろうと、淡い気持ちは小さく消す。


 そしてホサンの予想通り。赤髪の婦人は永遠に港町へ戻ってこなかった。アマリリス号が出航した日の夜、水平線が赤く燃えていた。船火事だと、灯台から海を監視していた者が町中に鐘の音で知らせた。

 ホサンは慌てて双眼鏡を片手に海へ飛び出した。小型船で櫂を使って漕ぎ、ただの船火事がどうか知りたかった。生者がいるならば、救援船も出せる。そう考えていたホサンの視界に海賊旗が翻った。公ではないが、それはとある男が女王の復讐を決めた日に作った旗だった。


 王冠を被った骸骨の額に穴を開ける鉤手。エディ・ターチの海賊旗だった。


 彼の海賊旗が船を襲ったことで証明されるのは二つ。デッドオアアライブ奪われるか死ぬかである。抵抗しなければ、全て略奪されて生かされる。だが夜の海を真っ赤に染める炎を前に、生存は絶望的だった。

 死んだはずだ。そう思っても体が動かなかった。手を滑らせて双眼鏡を海に落としてしまう。炎が笑う骸骨の顔に見えた。荒れ狂った真っ赤な輝き、船が灰となって霧へと変わっていく。無惨な光景を目の当たりにしたホサンだったが、わずかな違和感を見つける。

 炎から逃げるように小さな火が近付いてくるのだ。もしかして船に積んでいた油が海面を漂い、火の手を伸ばしてきたのかと一瞬焦った。しかしそれはホサンにも見覚えがある光だった。


 花灯りの灯籠。小型の樽の中にいる赤子を照らし、居場所を知らせるように懸命に輝いていた。それはホサンが赤い髪の婦人に渡した商品だ。自慢の御当地物だと、特に良い一品を打算抜きで安く売ったのである。

 泣く赤子を花灯りの灯籠と共に抱き上げる。顔は煤だらけで、左二の腕の内側には火傷跡。そして赤子の身元を示すロケットペンダントが布の隙間から船の床板へと落ちた。泣く赤子をあやしながら、ホサンは港へと戻った。この子だけは生かさなければという使命感だけが体を動かしていた。

 そして待ち構えていたコンラーディンに全てを話した。十六貴族ブロッサム家の当主であり、悪友でもあった彼に長年の秘密を打ち明けるのはその時しかなかったのだ。赤子にはアニーと名前をつけ、育てるように命じたのはコンラーディンだった。事件の不可解さは今すぐ解ける類いではない。時を待つしかない、と諭したのだ。


 これが十四年前。1751年十二月一日、ホサンがアニーの父親となった日である。




「……これで満足か?」

「ううん。まだだよ」


 語っている途中で顔を片手で隠していたホサンの言葉に対し、ミカは首を横に振った。しかしホサンにはこれ以上の言葉はなかった。むしろ真実などなにも知らない。隠し続けてきただけだ。


「ホアルゥ。ホサンさんが勇気を出してここまで語ったのに、まだ隠れるの?」

(……ミカちゃま。なんでもお見通しでしゅね)

「そうでもないよ。やっぱり聞かなきゃ難しいことが一杯あるから」

(わかったでしゅよ。けど……ホアルゥのお願いを叶えてもらってもいいでしゅか?)

「いいよ」


 内容を聞く前から了承を口にしたミカに対し、ヤーなどは呆れたが仕方ないと小さく笑う。オウガも同じ仕草で肩を竦めており、クリスは最初からミカに従うと決めている。深く深呼吸したホアルゥは、その姿をホサンに見せた。初めて見る妖精の姿に、ホサンは声も出せなくなった。


(ホアルゥを花灯りの妖精にしてくれた、海の聖獣さんを助けてほしいんでしゅ!)

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