第5話「灰色の霧と燃える船」

 船の甲板に戻ってきたミカとクリスは、青い顔で空を見上げ続けているヤーにまず視線を向かわせる。出航前から死人のような姿に、これで船を出しても大丈夫だろうかと心配する。その横で右舷に寄りかかりながら海を眺めていたオウガは白い息を吐いていた。

 頬を撫でる潮風は冷たい。クリスの頬も赤味を増し、ミカも鼻を啜る。痺れるような寒さが少しずつ増しているが、曇り空から雪が降る様子はない。季節的にはもう雪が降って積もっていてもおかしくないのだが、北の領地以外で降雪の情報はいまだ耳に届かない。

 南の領地、港町のネルケ。他の領地に比べれば暖かい方かもしれないが、冬が迫る中で雪の気配がないことにミカは首を傾げた。しかし雪が降ったとなれば王城に置いてきた形見の黄色の薔薇を室内に移動させなくてはいけない。ミカの侍女である二人がオウガから世話を頼まれていたので大丈夫だとは思うが、少しだけ気がかりである。


「ミカ、あのホサンというおっさん気をつけた方がいいぜ」

「どういうこと?」


 背中を向けたまま近付いてきたミカに声をかけたオウガ。忠告に近い発言にミカは問いかける。魂を視ても違和感を覚えていたが、それ以外でも異変があったのか。船が海に出ればほとんど密室に近い状態が続く。逃げ場がない船上で問題が起きれば、ミカ達でも手の施しようがない。


「ずっと俺達を警戒しているんだよ。視線が背中に突き刺さってくる。怯えている奴の気配だよ」

「振り向いてもいい?」

「……まあ大丈夫だろうがよ、あまり長く視線合わせない方がいい」


 オウガの言葉に頷きながら、ミカは視線の出所へと振り向く。船員達に指示を出しながら横目で様子を窺っていたホサン。その黒い瞳に金色の瞳が間違いなく映り込んだ。灰色の曇り空の下でも太陽のように輝く色彩に、他の船員達も目が惹きつけられた。

 思いっきり視線を合わせてしまったミカは、誤魔化すように柔らかい笑みを浮かべながら小さく手を振る。子供がするような他愛ない動作につられ、ホサンの近くにいた船員も笑みを浮かべて手を振り返す。その頭をホサンは軽く小突き、早く仕事に戻れと急かす。

 夜になれば船を動かすのは難しい。灯台の明かりを見失わないように操舵しつつ、波に揺られ続ける。限られた人数で見回りと巡視を行わなくてはいかず、急な嵐が起きたら仮眠している者を叩き起こさなくてはいけない。しかし今回の目的は幽霊船の発見、及び対処法を探ること。


 必然的に夜を中心に動かなくてはいけない。昼間の内に睡眠を確保している者も多く、今働いている船員達は夜に仮眠をとるか徹夜するかを求められている。また夜には明りの油を多く使うため、その消費を抑えるためにも食堂や娯楽室など大人数が収容できる部屋に起きている者を集めるなどの対策をしなくてはいけない。

 無駄にする時間は少しもない。徹夜をしたいのならば早く仕事を終わらせて仮眠をとる必要がある。ホサンは周囲にいる船員の士気を上げるために大声で指示を出し続ける。帆の準備、縄の予備、商品部屋にある貴重な胡椒袋を倉庫へと積んでいくこと、やるべきことは沢山ある。

 船員の一人が幽霊船に大砲は効くのかと怯えた顔で問いかければ、幽霊だって船を壊されれば沈むだろうと怒鳴る。遠くへは飛ばないが破壊力のある重みの弾丸を用意するように指示し、火炎瓶は投げ返されたらこちらが危ないと数を少なくしろと告げる。その手慣れた様子に、ミカは改めて海を眺め続けているオウガへと振り返る。


「ホサンさん、船上での戦いに慣れてるみたい。商人って言ってたけど、海賊との交戦経験が豊富なのかな?」

「馬鹿ね。商人は海賊とは戦わないわよ。命あっての物種。抵抗せずに商品だけを奪われる。そして次の商売で損失を取り返す。それが基本よ」

「ヤー殿の言う通りです。商船に限らず、多くの商売を担う者は戦闘を避けます。そのために護衛を雇い、彼らを盾に移動するのです。本来ならば護衛船を引き連れるはずなんですが……」

「今回はこの船一つで幽霊船探しかよ。しかも沈ませる気満々ときた。血気盛んと言うには、あのおっさんは冷静すぎる。この船も最初から戦うこと目的に作られていやがるし、まるでこちらが海賊の船みたいなもんじゃねぇかよ」


 三人の推測に、そういうものなのかとミカは少し驚く。幼い頃から十六貴族のブロッサム家と親交があり、彼らが語る海戦を聞いていた身としては船は戦う乗り物だという認識だった。正当防衛として武器や大砲を積み込むのは普通だが、それがこのグロース・シレーヌ号は過剰だということだ。

 速さに特化した船体。しかし速さを追求するにあたって一番重要なのは軽さだ。少しでも軽くするために積み荷が多い商船は大砲などの数を少なくする。しかしこの船はそんな気配がない。むしろ戦う前提の多さであり、オウガが言ったように海賊の船と似ている装備だ。


「歴史外の神世では拳銃というのがあったらしいわ。船上で大活躍だったとか。ただ発展しすぎた武器であるため神の怒りに触れて、その技術は失われたらしいわね」

「なんだよそりゃあ?」

「手の平に収まる大砲みたいな?殺傷能力は一人に限定するならば剣よりも強く、誰でも片手で扱えた。利便性と殺意を追求した武器らしいわよ」

「それは恐ろしい武器ですね。しかし神によって失われた武器……浪漫ロマンがありますね」


 幻想ファンタジー好きの血が騒いだらしく、クリスが少しだけ目を輝かせた。オウガ辺りは小型の大砲だとするならば砲口を射線から逸らせばなんとかなるかと、具体的な対策を考え始めている。普通は大砲のような小型武器と聞いて恐れるものだと、ヤーは深い溜息を吐いた。

 ただしヤーも詳しいことまではわからない。伝承止まりの武器。その恐ろしさだけは語り継がれているが、どういった目的で製造されたかまではわからない。理解できるのは、その武器は歴史の外へと放り出されたこと。今生きる時代では現存されていないということだけだ。

 しかしミカだけは違う方向へ思考を動かしていた。三人の目には映らないため、自分だけが視える海面を漂う幽霊の動きを観察する。狭い箱に人という肉を押し込めて融解させたらこうなるのだろうかと、最早人としての原型も失い始めた彼らの呻き声に耳を澄ます。


 大抵は言葉として機能していない。聞こえてきたとしても、タスケテ、シニタクナイ、イッショニ、といった言葉だ。考えることすらも放棄し始めて、目前の欲求を壊れたように金切り声で叫び続けている。耳が痛くなるほどだが、塞いだとしても意味はない。

 ただ一つだけ助かったと思うのは、幽霊は船に上がってこれないのだ。物理的な高さが適用されるらしく、どんなに手を伸ばしても船の側面を透明な指先が引っ掻くだけ。傷をつけることもできず、そのまま波にさらわれて海面を漂う。

 認識できない人間が集まっていると、それだけで幽霊は無力化してしまうらしい。問題なのは船にいる全員が幽霊を認識できた瞬間に、舟が転覆するのではないかという恐れ。幽霊とは認識された瞬間に、お互いに干渉できるようになってしまう。今は二枚の紙が重なっているような状況で、隣にあるが認識という境によって別というだけなのだ。


「……ヤー、水の中でも息できる精霊術ってある?」

「あるにはあるけど……アンタまさか」

「うん。俺……泳げないんだ」


 ミカの小声で呟かれた言葉に、空気の重さが変わった。普段から王城で暮らしており、庭で駆けまわることも幼い頃にはしていた。十歳からの五年間は人形のように動けなくなったが、それでも運動神経に関しては人並みにあって動ける方である。

 しかし泳ぎの練習だけはしたことがない。王城にあると言われる王族御用達の大浴場にも入ったことがなく、ヘタ村の時は手足を動かしただけで泳げたわけではない。大体は渦に巻き込まれて抵抗しただけで、溺れていたようなものだ。

 元太陽の聖獣であるレオの力を借りて、転化術を使って水の中にあった瘴気と精霊を交互に爆発的に増加させて狂わせた。それによって水を散らしたことさえも、あのままでは水底で溺れたままになるからだと判断したからである。


「いやまあ俺だけじゃなくて、多分船全体が危機に陥るだろうからそのことを考えるとヤーの精霊術が頼りなだけなんだ!でも俺が海に放り出されたらお願いね!」

「お願いね、じゃないわよ!!!!この馬鹿!アトミス!!ちょっと耳を貸しなさい!!」


 苦笑するミカに対して怒鳴りながら、ヤーは彼の右手の親指に着けられている氷水晶の指輪に声をかける。すると船の底から浮遊してきた妖精アトミスが、床をすり抜けながら現れた。初めて見る船内を冒険していたらしく、興奮で頬を赤く染めていた。精霊の体では物理的な壁はあまり意味がないらしい。

 下手するとユルザック王国の中心とも言える王城カルドナの裏話を沢山抱えていそうだが、アトミスは人間を観察するのは好きだがその事情には深く関わりたくないと思っている。基本的に人間は見下したい、という素直じゃない性格なのである。

 氷水晶の指輪はアトミスの本体であり、これを中心にアトミスは行動している。そのため指輪に話しかければ、そのままアトミスの耳に言葉が届くらしい。この本体と妖精の体についてはヤーでも謎が多いらしく、アトミスなどもそういったものと割り切っている。人間が生まれながらに歩こうとするのをおかしいと問うのか、と鼻で笑うくらいだ。


(なんだい?猿の交尾を目撃しそうになったところだから、そこから離れるには都合が良かったけど)

「ミカが泳げないとか馬鹿言ってんのよ!いざとなったらアンタの精霊術でなんとかしなさい!」

(というか羽衣術を使えば飛べると思うんだけど。まあ体力消耗は激しいから、奥の手か。いいよ。ただし僕の本体である指輪を手放さないでよ!!いつもいつも隙あらば外そうとするんだから!!)

「う、そ、装飾品って慣れなくて……首飾りや耳飾りも苦手だし……」


 王族として堅苦しい衣服を着るのは慣れたが、第五王子という王位継承権がない身分であるため装飾品の類にはあまり縁がないミカ。氷水晶の指輪も壊したり失くしたりするのは嫌だと、なるべく安全な場所に置きたくて外すのだが、そのことに関して毎回アトミスに怒られているのであった。

 ヤーとアトミスに怒られているミカの横で、クリスとオウガが視線を合わせて今の会話を反芻する。確か船内には女性はホサンの娘であるアニーだけ。それ以外は屈強な男達ばかりだったと記憶している。いくらなんでも船長の娘を襲おうという馬鹿はいないだろうし、アニーがそういった行為に興味があるとは思えない。

 となるとアトミスが目撃しそうになった猿の交尾とは。あまり深く考えてはいけないと、オウガは顔をしかめ、クリスは首や耳まで真っ赤にして俯いた。ちなみにミカは怒られつつも、アトミスに対して人間を猿と呼ぶのは止めてくれとお願いする。が、それも指輪を外さないなら考えると一蹴されていた。


「ちなみにクリスとかヤーは泳げるの?」

「精霊術があるから平気よ」

「つまり泳げないのを誤魔化せると」

「うっさいわね!!アンタは自分の筋肉で沈んだりとかしないの?」

「俺は武器を持ったまま衣服着用でも動けるように……鍛え……られた……からよ」

「オウガ殿、顔が真っ青ですが大丈夫ですか?あ、私はオウガ殿みたいに武器を持ったままは無理ですが、人命救助のため溺れた人を抱えて泳ぐくらいはできます」


 昔のことを思い出してオウガは膝を抱えて座りそうになるのを堪えるが、顔には大量の脂汗が浮かんでいる。クリスは心配しつつも武器を持ったまま泳ぐのは大変だと感心していた。ミカはヤーを仲間だと見つめるが、それが気に食わなかった彼女に脇腹を軽く殴られてしまう。

 ヤーが使う精霊術は音声を必要としない。慌てない限りは溺れる心配もないことに安堵しつつ、やっぱり自分だけ泳げないのかとミカは脇腹を擦りながら苦笑いになる。ちなみに意識内部にいるレオに関しては獅子の姿であるため、泳げると言っても犬掻きかなと問いかけるのも意味がないだろうと諦めていた。


「そろそろ俺達も船で仮眠取らせてもらおうか。クリスとヤーはアニーに頼んだ方がいいかもね」

「何故です、おう……じゃなくてミカ殿!?私は一日中貴方の傍にいてお守りしたい所存であるのに!!」


 ミカの助言にクリスは心の底から残念そうな大声を上げる。そのせいで人目を集めてしまい、ミカは微妙に肩身が狭い思いをする。横目で眺めてくる船員達の魂を視れば、明らかな好奇の感情が赤と黄色が入り混じって表れていた。

 仮眠室は船員と共同。船員は基本男しかいない。いくらオウガが横にいるとはいえ、ちょっかいをかけられないとは限らない。クリスやヤーならば対処できるかもしれないが、無闇な問題は事前に防いだ方がいい。なにより仮眠を取るのに気を遣っていては休むことすら難しい。

 だがクリスの大声により、金髪の少年はあんな美少女に慕われているのか、と言葉以上の内容が含まれた疑惑が生まれてしまった。一日中あんな美少女に守られているとかどんだけひ弱なんだ、という感情も生まれているが実際にミカよりクリスの方が強いのであながち間違いではない。


「あ、う……く、クリスが横で寝ていると思うと、俺もさすがに緊張しちゃうかも?」

「そんな!?私では……ミカ殿を安眠に誘えないとは……」


 なんとか誤魔化そうと思ったミカだったが、クリスの誤解は大きくなっていく。オウガは面白いと言わんばかりに眺めるに徹している。顔を真っ赤にしてしどろもどろにミカが告げた言葉に、近くにいた船員が同意するように頷いていた。花の香りがする麗しい風貌の貴族の娘。それが横にいるだけで眠れないのはわかる、といった様子だ。


「ちょっと。アタシは?」

「え!?ヤーは……少し緊張するかも」

「……及第点をあげるわ。ほら、クリス。ミカは自分の寝相が悪かったらどうしようとか、男女の違いについて気を遣ってるのよ。その意図を汲んであげなさい」

「そ、そういうことでしたか。取り乱して申し訳ありません。すいません……ミカ殿を男性と見たことがなくて、つい」


 素直に謝罪を述べるクリスだったが、聞こえてきた言葉に今度はミカがショックを受けた。クリスからすれば男と言うよりは尊敬する相手、守るべき対象の王子、という意味なのだが、そうとわかっていても男扱いされなかったことに年頃の少年心は大きく揺れた。

 そのことに気付いたヤーは遠慮なく吹き出し笑い、即座に堪えるが腹を抱えて蹲ってしまう。オウガも吹き出すまではいかなかったが、肩を大きく震わせて顔を逸らしていた。空中に浮かんでいたアトミスなどは雌雄の区別って面倒だと呆れている。

 周囲の船員から一転して同情の視線を送られたミカは、とにかく仮眠を取ろうと気持ちを切り替える。笑いを堪えながら歩き出したオウガに慰めとして肩を叩かれるが、外見的に男性らしくて勇ましい青年をミカは羨ましそうに見上げる。残念ながら身長の面でもミカはクリスよりも低かった。


 ただ一つ。クリスはオウガに関しても男性と見ていなかった。同じ従者仲間であり、武力で王子を守る相方という認識であること。それを後にアニーの船室に案内されたヤーが聞いて、クリスの男女観は幼いという事実に気付くのであった。




 夜。霧が這い寄るように町を覆い、夜闇の下でも視界を白くしていた。時折灯台の明かりが届くが、拡散されて弱々しい光となっていた。甲板であまりの寒さにマフラーに顔を埋めようとしたミカは、尋常じゃない背筋の悪寒に震える。

 寒いだけじゃない。先行きが見えない不安、波の音しか聞こえないような静けさ。途方もないほど海は広く、黒くなった水面には底知れなさを感じた。それでも胸の奥が熱い。初めての船出、それに期待が膨らんでいくのだ。

 波に揺れる船体は足場を覚束なくさせた。転ばないように右舷の縁をしっかりと掴みながら、ミカは思わず頬を緩ませた。地面に立つのは自分の存在を確かにしてくれる。代わりにそれ以外にはなれないような閉塞感を覚えることもあった。しかし船の上は全てが不安定だ。なにもかも投げ出してもいいのではないかという解放感に似ている。

 しかし大きく揺れた際に海の方へ前のめりになったミカの首元を、オウガが即座に掴む。若干マフラーが首を絞めたが、潰れた蛙に近い声が出ただけで落ちることも窒息することもなかった。横にいたクリスはミカの危機に気付かなかったことに顔を青ざめさせ、さらにその隣では右舷の縁に背中を預けたヤーが酷い船酔いをしていた。


「星の光も届かない、月も朧気。陰気臭い夜だな」

「そうかな?俺はこんな大型船なんて初めてだからワクワクしてるよ。それにこの霧は嫌な感じがしないしね」

「嫌な感じ?どういうことよ?」

「そうか。前のあの霧は遠かったもんね。ヤー、精霊を視て」


 なんてことのないように言うミカに応じ、ヤーは霧の中に含まれている風と水の精霊を注意深く視る。全体的に普通の霧と変わらない。霧が薄まっている所は風の精霊が多く、濃い所は水の精霊が多い。緑と青の細かい光の粒子が輝いて、白の中に溶けていく。


「……ん?色が違うわね?精霊の色じゃなくて、霧の色が。遠目で変な船を見た時の霧って白っぽい灰色だったじゃない」

「多分ヤーの目には青、つまり水の精霊が狂っていたように視えたと思う。でもその奥内部では、赤が瞬いてたのを俺は視たよ」

「赤って……火の精霊!?こんな霧の中で火の精霊が視えるはずが……違う。狂ってるのね!つまりあの霧内部には瘴気が発生し、なにかが燃えていた!!」

「確証はないけど、そう思う。だからクリスやオウガは五感が優れてるからさ、焦げ臭いとか嗅ぎ取ったらホサンさんに連絡……を……」


 ヤーの推測に頷きつつ、注意を促すために二人へと振り向いたミカは言葉に詰まった。オウガは長槍太刀パルチザン、クリスが儀礼槍クーゼを手にして警戒していたのも要因の一つ。だがそれだけではない。冷たかったはずの霧の中に船はあった。それなのに頬が熱い。

 周囲の霧の色が変わる。内部に入ってわかったのは、水と風だけではない。火の気配。灰が舞って霧の中に溶け込んでいる。十年前に流行した病、国殺し。その原因が火山による噴火で散らばった灰のことを思い出し、ミカは胸元を押さえた。

 異変は帆柱の上で灯台の明かりを見失わないようにしていた船員もすぐに気付き、鐘の音を三回鳴らす。警鐘を聞いた甲板の巡視を担当していた船員が、船の中を張り巡る音響管に向かって異変発生を伝える。他に巡視をしていた船員は花灯りの灯篭カンテラを改造した、炎が発する光の方向を固定して遠くまで様子を窺うための照明スポットライトを片手にあらゆる方向を警戒する。


 備え付けの船灯へと火を灯していき、船自体を明るくする。一人の船員が深く呼吸した後、血を吐きそうなほどの苦しい声で咽始めた。霧に含まれた灰が体内部に入ったことに気付いたヤーは、周囲の霧の濃度を視る。明らかに精霊が狂っているため、アトミスの精霊術では上手く効果が発揮しない。


「ミカ、羽衣術で船周りの瘴気を精霊に!その間にアタシが大型精霊術の準備を終えるわ!!」

「わかった!オウガ、クリス、二人はホサンさんの指示に従って!!」


 甲板に出てきたホサンは、意地でも戦力になろうとしてしがみついてくるアニーの頭を押さえながら、異常な状況に目を丸くした。しかしミカの目に映った魂には別の変化があった。思い出して苦悩するように、少しでも目前の状況を受け入れたくないと魂が叫び声をあげるように震えていた。

 しかしそれを長く見つめている余裕はない。瞼から目を跨ぐ一直線の傷を入り口として、精霊も瘴気も体内部に取り込んでいく。それを意識内部にいるレオンハルト・サニーの力を借りて循環させていく。明滅する光が炎のように左目を覆う。青い炎が金色の瞳を隠す。

 次に氷水晶の妖精であるアトミスを身に纏う。アトミスの魂はミカの意識内部で保存し、精霊で構成された体を鎧のような守護服として変換させていく。赤と黒を基調とした服は、青と白の服へ。


 海月クラゲのような透明な布地を重ねた外套を纏い、余った精霊が王子像からかけ離れていた金色の髪を伸ばして毛先を淡い青に染める。背中から生えた氷水晶の四枚羽根は花弁を凍らせたように美しく、ミカが甲板を軽く蹴れば浮かぶように飛んだ。

 転化術リ・サイクルで瘴気へと変じていた水の精霊を大量に循環させ、意識内部にいるアトミスが自らの精霊術で船を覆う泡を作り上げる。ヤーは指先にミカが循環させた水の精霊を集め、甲板を駆けまわりながら精霊言語を使って青い光の文字を空中に書いていく。

 文字が船を一周していくのを眺めながら、ミカは水の精霊を使って周囲の空気を冷やしていく。風の精霊も転化術で瘴気から引きずり出し、一瞬で霧という気体を細かい氷の粒へと変えた。氷の粒が船の明かりを受けて輝きながら黒い水面に落ちていく最中、ミカは目の前に現れた光景に絶句した。


 海上で燃えながら進む大型船。帆は煌々と焼け落ちながら再生を繰り返し、赤黒く燃える旗には笑う骸骨。


 甲板は燃えていなかったが、見下ろした先には血の涙を流す骸骨達が服を着て歯を鳴らしていた。ドレスを着た淑女のような骸骨もいれば、武器を片手に隣にいた骸骨の頭に穴を開ける海賊服の物も。ただ骸骨達も帆と同じように壊れては再生を繰り返している。

 ヤーは精霊術に集中しているため気付いていなかったが、多くの船員が悲鳴を上げた。ホサンは慌てて腰にしがみついていたアニーの目元を覆うが、視線は船を象徴する燃える海賊旗ジョリー・ロジャーに注がれていた。王冠を被った骸骨の額に穴を開ける鉤手。目に焼き付いて離れないその骸骨に、ホサンは愕然とした。


「大型精霊結界完成!ミカ、もういいわ……なによあれぇえええええええええ!!??」

「お、やっと気づいたのかよ。流石、天才精霊術師様だ」

「物理的に破壊できるじゃない!!やったわ!!」

「そっちかよ」


 驚いた直後にガッツポーズするヤーに対して、大胆なのか学者脳なのか、どっちにしろやる気を見せる場面ではないはずなんだとオウガは呆れつつも歯を見せて笑う。もしも本物の幽霊だった場合、頼れる精霊術師という立場のヤーが使えない、という事態に陥るところだった。

 ミカはまたもや霧が濃くなっていくのを感じ、氷水晶の四枚羽を動かしてグロース・シレーヌ号に戻ろうとした。しかし足元を強く引っ張られる感覚に体勢が崩れ、次に体全体を肉厚な触腕に絡めとられる。皮膚に張り付く吸盤に痛みを覚え、ミカは前にコンラーディンが笑いながら見せてきた海の生物を思い出す。

 たこ烏賊いか。奇妙な動きをして何本もある触腕を動かす湿った生き物に、子供ながらに怯えた。桶の中で這うその生き物に手を触れた際、腕を絡め取られて吸盤を剥がそうとして涙したこともある。皮膚が赤くなるほどの強い吸着力は中々忘れられない。


 しかし


 今、ミカの体を捕まえた触腕は思い出のそれよりも何十倍もの大きさで、桶の中に入っていた物よりも素早く動いていた。海中に引きずり込まれると思ったミカの目の前で、船から跳躍したオウガとクリスがお互いの武器を触腕に突き刺していた。

 それでもミカの体から引き剥がすことはできない。斬ろうにも大木よりも太い触腕の表面にはぬめっていて、着地した靴裏さえ滑っていく。力が入らないまま、ミカを捕らえた触腕が大きく動いて二人を振り払う。

 オウガは帆と一緒に張られていた縄網に片手で捕まり、クリスは空中で体を回転させて帆を支える軸を足場に着地する。その間にミカを捕らえた触腕が海へと消えていく最中、ヤーが右舷に足をかけて身を乗り出す。ただでさえ大きく波が荒れていて危ないと屈強な男達が彼女の腰を支えるが、そんなことは構わずに指先に緑色の光を集めていく。


「ミカ!!泳げない奴が気軽に捕まってるんじゃないわよ!!」


 怒鳴りながら風の精霊でカマイタチを作り上げたヤー。風の刃は触腕を守る滑りを吹き飛ばし、分厚い肉を切り裂いた。触腕の断面から溢れた瘴気を視たミカは、吸盤を引き剥がしながら腕を伸ばして不気味な弾力を持つ断面の肉に触れる。

 転化術を使って断面内部から瘴気を精霊に循環させていく最中、海中から巨大なあぶくが現れて海面を大きく揺らした。その泡と同調するように燃える船も大きく揺れ動き、触腕がなりふり構わないといった様子で大きく動き出す。

 触腕で帆柱が折れたら堪らないと、ホサンは撤退の指示を出す。甲板に降りてきたクリスなどはミカが残っていると抗議するが、化け物のような腕を見て混乱していた船員達は船長の指示に従うことを選んだ。指示を出すホサンの腕から抜け出したアニーは、燃える船を眺める。ドレスを着た骸骨を見つめ、炎に照らされて浮き上がるブローチに目を見開いた。


「お、おふくろぉっ!?」

「!?ば、馬鹿娘!!!!お前は出てくんじゃない!!船の中に戻れ!!今すぐ!!今すぐにだ!!」

「でもあのブローチ!!アタシの火傷と同じだ!!それに金儲けに使えそうな王子を見捨てるなんて、親父の目は曇ってんのかぁ!?」

「命が大事だ!!」

「じゃあ見捨てんなよ!!!!」


 またもや喧嘩を始める親子は放置しつつ、オウガは船の先端から後尾までの距離を往復する触腕の先を目で追いかける。断面から瘴気を精霊に変え続けているミカだが、羽衣術を続けているとなると体力は急速に失われていく。

 いつ海に引きずり込まれてもおかしくない。そう考えていた矢先、大量の瘴気を精霊に転化させたことで水の精霊を多く得たミカは、アトミスの精霊術によって触腕を凍らせた。氷漬けにしたのではなく、内部から氷と同じにした。脆くなった触腕を力任せに蹴って破壊し、振りまわされていた動きを利用して空中へと体を躍らせる。

 しかしそこで羽衣術が終わる。いつもの姿に戻ったミカは、力なく落ちていた。ヤーから投げ渡された縄を体に巻き付けたクリスが甲板を走り出し、落ちていくミカに向かって跳躍する。その体を掴んだ瞬間、全てを理解したオウガが力任せに二人分の体重を引き上げるために両腕を振るう。


 弧を描くように戻ってきたクリスとミカを確認し、ホサンはなんの憂いもないと撤退の指示を繰り返す。高速を売りにしたキャラベル船の特徴を活かすと同時に、ヤーがミカが転化させた風の精霊を使って帆に追い風を送る。尋常じゃない速度で灰色の霧から抜け出したグロース・シレーヌ号は再度白い霧の中へ。


「オウガ殿、ありがとうございます!おかげでミカ殿を助けることができました!!」

「俺としては迷いなく飛び出たアンタに肝を冷やしたけどな……躊躇とかないのかよ」

「この子に関しては目的に向かって脇目もふらない暴走娘と憶えておいた方がいいわよ。騎族の娘だもの」


 心臓に悪いと息を吐くオウガだったが、一度クリスの暴走に付き合わされたヤーに悟るような助言をされる。クリスはミカを助けられたことを喜んでおり、甲板に座り込んで気絶しているミカを膝枕する。羽衣術が途切れたことで妖精の体で再度動き始めたアトミスは真っ青な顔をしていた。


(なんだい、あれは……あんなの今まで視たことない。瘴気、瘴気、瘴気!!!!ミカの視界を借りていたけど、酷いもんだよ!!)

「そうか。アトミスはミカの意識内部にいると、視界はミカと同期するのね。で、具体的には?」


 ヤーの問いかけにうんざりした様子でアトミスは返事する。


(巨大な魔物、強烈な魔人、そして魔人もどきが大量。幽霊船とはよく言ったもんだよ。あれは魂を掻き集めて魔人を作りまくっている、だ)


 ミカの視界から全てを視ていたアトミスの言葉に、ヤーでさえも言葉を失くした。魔人の製造、そんなことなど考えもしなかった。しかし無理ではない。むしろ前例がある。最初の最初、意図的に造られた魔人フロッグをヤーは知っているのだから。

 しかし視た物全てが本当だとするなら、誰かが魔人を作っている。霧の中に船を隠して、ミカでも異常だと言うほどの幽霊を集めての製造。魔人の一人と戦った時さえ苦労したというのに、船の上に乗っていた骸骨全てが素体となるとしたら軍団を作れる数だ。

 夜明けの気配も遠く、濃い霧の中で波に揺られながらヤーは背筋を震わせた。アトミスの声が聞こえているオウガやクリスも黙したまま、嫌な予感だけを覚える。船一隻で打ち勝てるとは思えない。そして敵が、魔物がそんな獲物を逃すはずがない。船員達も圧倒的な光景を前に、不安を顕わにしているほどだ。


「……おい、お前ら。俺が聞いたのは幽霊船への対策を立てるための出航だ。化け物退治じゃねぇ。このまま陸地に帰還する。いいな?」


 ホサンの言葉は正しい。船には多くの船員、娘のアニーも乗っている。ユルザック王国の第五王子もいる。その中で優先すべきは命の確保だ。ヤーは同意の意味で頷こうとしたが、周囲を見回して気付く。船に明かりが灯っていたのも原因だが、幽霊船と出会う前と後では明らかに違うことが一つ。


「灯台の明かりが……見えない」


 陸地を戻るための標。例え濃い霧が漂っていても見えていた光。それがなくなっていることに、ホサンも気付いた。航海図を取り出し、船上用の方位磁石で方角だけでも確かめようとした。しかし針は狂ったように回り続けて、現在地を教えようとしない。

 とうとう船員の一人が恐慌の声を上げた。陸地に戻ろうにも方角がわからず、近くには燃える幽霊船と化け物がこちらを狙っている。漂流しようにも幽霊船を探すために一晩だけの航海と考えていたため、食料も水も必要最低限しか積み込んでいない。

 いずれは殺されるか、死を待つか。そのことを悟った船員の叫びは、不安を煽った。密室に近い船でその声は強く響き渡り、不安を振り払おうと怒号を上げる者もいた。しかし拳が出て暴力沙汰になれば止まらない。落ち着けとホサンが大声を上げるが、効果はない。


「お、俺は聞いた!その金髪の小僧が……第五王子だって!!十年前も、五年前も、そいつが原因で大勢死んだと!!!!」


 港でホサンが頭を下げているのを見た船員が気絶しているミカを指差す。第五王子、五年ごとの災厄を呼ぶという噂まで流れている。それが異常な事態において姿を見せた。その言葉を皮切りに、多くの船員の視線がミカに集まる。

 もしかして五年の節目となる今、自分達が第五王子の災厄の最初の被害者になるのではないか。その恐怖が身の保証を求めようと、武器を手にする原動力となる。次々と剣を手にする船員達を前に、オウガが長槍太刀を肩に担ぎながら立ち塞がる。

 三十人までは倒せるだろうが、船員はそれ以上。陸地への方角もわからず、海にはオウガの武力が通じない化け物が潜んでいる。ヤーの精霊術でも四人で陸地まで逃げることもできない。ミカを甲板の床に寝かせてからクリスも儀礼槍を手に立ち上がる。


「……おいこらぁっ!!!!馬鹿言ってんじゃねぇぞ、野郎共!!今そのあんちゃんを倒したら、まじでどん詰まりだってんだ!!」

「アニーの嬢ちゃん!?でもこいつが……」

「違うだろ!さっきの灰が混じった霧も、謎の吸盤足も、幽霊船から逃げれたのも!全部こいつらのおかげだ!それを敵に回して生き残れるかってんだ!死人を増やすだけ増やして、自分が死ぬ可能性を引き上げるのは自殺って言うんだ!!」


 アニーの堂々とした発言に、船員達は戸惑う。幽霊船に襲われたのはミカが原因かもしれない。でも幽霊船から一時的にとはいえ逃げられたのもミカ達のおかげだ。ホサンの撤退の指示が素早かったとはいえ、無事に逃げられた保証はどこにもない。

 アニーの言葉を聞いてオウガとクリスは槍の刃を降ろす。しかし武器から手を離すことはしない。いつでも動けるように油断なく見据える。オウガは特にホサンに注意を払っていた。明らかに動揺しており、挙動も怪しい。震える手を誤魔化すように拳を握りしめて、手の平から血を流しているほどだ。


「親父からもなにか言えよ!つーか、なんか知ってんだろ!?あの船に乗っていた骸骨が着けていたブローチ!!あの彫りの形と、アタシの火傷は同じだった!」

「……俺は、俺はなにも知らねぇ!!!!お前はもう船内に戻れ!!うんざりだ!!お前みたいな馬鹿娘を拾って育てるんじゃなかった!!!!」

「……は?」


 言葉を出した後に、ホサンは慌てて自分の口元を片手で覆った。しかし飛び出た言葉は消えない。船員達も驚いたようにホサンを見つめており、アニーは信じられないといったように動かなくなってしまう。


「拾った?アタシは……親父の娘じゃないの?」

「……っ」

「育てるんじゃなかった?なんだよ……それ……」


 重い沈黙が船を満たす。肩にのしかかるほどの重さに、誰も口を開けなかった。特にアニーを船長の娘だと思い、時にはじゃじゃ馬な妹のように扱ってきた船員達は顔を俯かせた。誰から見ても仲のいい親子だった。口喧嘩さえもいつだって本気で、それでいて最後は普通の親子のように戻るのだから。

 それは親子喧嘩を見ていたオウガ達からしても同じだった。あれだけ遠慮のない言葉をぶつけるなど、ただの他人にはできない。家族のような相手、それだけの信頼関係を結べた相手ではないとできないことだ。だがその信頼さえ、言葉と真実一つで壊れていくような錯覚が襲う。


「ホアルゥ……」

「ミカ!?」


 そんな最中、目を覚ましたミカが呟く。ヤーがいち早く反応するが、謎の単語に怯えた船員が改めて剣をミカへと向ける。それに気付いたオウガが立ち塞がり、一触即発の空気が蔓延する。しかしミカはそんなことも気に留めずに起き上がり、アニーの背中へ言葉を投げかける。


「アニー。俺に渡してくれた花灯りの灯篭。ホサンさんが大事にしていたそれはきっと……あの幽霊船に繋がってる」

「な、んでそれを……」

「あんちゃん……本当なのか?」

「うん。そこに宿った花灯りの妖精ホアルゥが全部知ってるよ。俺には言えなくても……アニーになら教えてくれるはず」


 その言葉を聞いてアニーは船底にある商品部屋へと走りだす。ホサンが止めようと手を伸ばしたが、それさえもすり抜けていく。波の揺れで足がもつれたミカは甲板に尻餅をつく。まだ体力は戻らず、羽衣術どころが転化術を行うのにも少しの休憩が必要なほどだ。

 少しずつ船員達がミカを取り囲むように近付いてくる。オウガとクリスは牽制を続けながら後退りし、ヤーとミカを背中に庇う。アトミスも空中に浮かびながら精霊の様子を探りながら、船員達が暴れ出した時に精霊術を使うつもりで用心する。


「あとホサンさん。後悔するくらいなら嘘はついちゃ駄目だよ」

「な!?」

「罪滅ぼしだとしても、アニーがあそこまで元気に育ったのはホサンさんが全力で愛したからなんだし」


 ミカの言葉にホサンは顔を真っ赤にした。それはアニーがホサンのことを好きと言われた時と全く同じ反応で、それだけでミカは親子だなぁと気の抜けた笑みを零す。ミカ達の周囲を取り囲んでいた船員達は、ミカの言葉に足を止めた。


「本当……だよな?船長は、アニーの嬢ちゃんを愛してるって」

「お、おい!」

「本当だよ。でもそれは俺よりも船員さんの方が詳しいんじゃないかな?」


 オウガの前に出たミカは向けられた刃に一切怯えず、当たり前のことを話すように気が抜ける笑顔を見せる。船員の一人が剣を降ろす。先程のホサンの言葉は信じたくない。アニーのことを叱ったとしても、アニーを傷つける言葉をホサンは使ったことがない。

 それが愛情以外の物だと思えなかった。いつもやかましいほどの親子喧嘩を繰り返し、時には賭けの対象にまでされて、終いには二人揃って船から海に落ちることも珍しくない。そんな二人を見てきたからこそ、ミカの言葉を信じたくなった。


「もう一つ……あの幽霊船をアンタは退治できるのか?」

「できるんじゃなくて、するよ。でもそのためには船の装備が必要なんだ。皆の協力が必要なんだ……お願い、俺に力を貸して」


 ミカは礼儀正しく船員達に向かって頭を下げた。今も刃を向ける船員にも。顔を上げた際に金色の瞳は、目の前の絶望に一切怯えていなかった。向けられる敵意にさえ恐れを見せていなかった。呑み込まれそうなほどの輝きを前に、気高さと畏れを感じた船員の一人が剣を床に落とした。

 夜の闇よりも強く、白い霧よりも輝く。その金色を前に船員達が騒めく。噂では役立たずの人形王子、西の大国の血を引く忌み子。どんな言葉も彼を褒めなかった。憎むべき相手であり、恨みを向ける対象だと囁いていた。しかし目の前に立つ少年は、そんな噂を嘘に変えていく力があった。


「お、俺は信じるよ!アンタのこと!ううん、信じたくなった!だって空を飛んで、あんな化け物の腕からも逃げて……すげぇもん!!」

「調子の良いこと言いやがって!でもすまねぇ!!俺も同じだ!アニーの嬢ちゃんやホサン船長は俺の恩人だ!この事件も解決して、二人がまた親子に戻れるってんならなんでもしてやるよ!」

「俺はヤダね!俺はホサン船長に従う!けど……ホサン船長が信じるなら、俺はアンタが災厄でも構わねぇ!!船長、どうする!?」


 次々と言葉を投げかけられて目を丸くするミカだったが、船員の一人がホサンへと問いかける。このままでは死ぬしか道はない。頭が多くては組織は成り立たない。ならばこの事態を丸く収めるには、船員達が頭とする船長の納得が必要だ。船長の言葉には従う。それこそが船では絶対的な法律だ。

 顔を真っ赤にして口を何度も開閉していたホサンは、その言葉にやっと我に返る。愛してる、など慣れない言葉を使われて動転していたが、会話や流れは全て理解していた。血が出るほど握りしめた拳を解いて、ホサンは真剣な顔で問いかける。


「俺からは一つ──俺になにがあってもアニーを守ってくれるか?」

「二人とも守るよ。じゃないとアニーが悲しむもん」


 あっさりと返ってきたミカの言葉に、ホサンは肩から力が抜けた。しかし腹の奥底から溢れる笑いに体を震わせ、皺が深く刻まれた顔で笑みを作り上げる。頼もしいほどの力強さを備えた笑みに、ミカも笑い返す。


「……俺の負けだ。この能天気な第五王子は、どうやらとんでもない勝算を持っているらしい。ならば乗っかろうじゃねぇか!野郎共、顔を上げろ!!あんな鈍間船に負けるほど、俺の船は弱いかぁ!?」

『グロース・シレーヌ号は最速!!そこら辺の海賊船に遅れは取らねぇ!!最高に最強!!』

「わかってんじゃねぇか!!なら戦の準備を始めろ!!!!海の底にあの化け物達を沈めるぞ!!!!」

『イエッサー!!船長キャプテン!!!!』


 あっという間にまとまった船員達は、剣を鞘にしまって大砲の準備や火薬庫の確認、帆柱から濃い霧の中に現れる異変を見逃さないように警戒を続ける。切り替えの早さに、武器を向けられていたヤー達の方が気後れするくらいだ。

 しかしオウガはこの単純さを気に入り、歯を見せて笑う。そして勝手に前に出たミカの頭に手を置き、ぼさぼさだった金髪を、さらに荒くなるように撫でる。力強い叱りと褒めが混じった撫で方に、ミカは苦笑しつつも素直に受け入れた。


(ミカちゃま!?ホアルゥのことをアニーしゃんに話すとか、何事でしゅか!?おこでしゅよ!おこー!!!!)

「ホアルゥ!それにアニーも!」


 花灯りの灯篭を手にして戻ってきたアニーは、灯篭の中から姿を現した小さな女の子の妖精に言葉が出てこない様子だ。妖精は基本的に人間に姿を見せない。今だってアトミスはミカ達以外に姿を見せようとはしない。

 しかし寝ている最中に名前を何度も呼ばれたホアルゥは、その相手がアニーだと知って思わず姿を見せてしまった。それによりホアルゥの言葉はアニーの耳にも届くようになった。最初は怒っていたホアルゥだったが、霧に覆われた船の様子を見て不安そうな顔を見せる。


(な、なにがあったんでしゅか?)

「幽霊船だよ。俺の目に視えたのは動く骸骨や巨大な魔物だけじゃない……豊かな黒髭の魔人。火縄を髭に絡めてた……」

(髭の火縄!?ま、ましゃか……そんな……)

「ホアルゥ。俺に秘密を話さなくてもいい。けどアニーには教えてあげて。そしてホアルゥの力を俺に貸して。水だけじゃない……火が必要なんだ!!」


 ホアルゥは真っ直ぐな視線を送ってくる金色の瞳から逃げるように、顔を上にする。しかしその先には今にも泣きそうなほど顔を歪めたアニーが縋るようにホアルゥを見つめている。ずっと眠っていたホアルゥには今の状況は望んでいないことだということしかわからない。

 脳裏に蘇る光景は、今もホアルゥの胸の内側を痛むほど焼くような刺激を与えてくる。だけど灯篭の中に灯る炎のような小ささのホアルゥにできることなどなにもない。だからこそなにもしなかった。眠り続けて、全てを忘れようとした。


「ねぇ……アタシ、どうすればいいのかわからないよ。親父はアタシを育てなきゃ良かったて言うし、船の皆も死ぬかもしれない……でもそんなの……全部やだぁ……」


 アニーの頬から零れた大粒の涙が、ホアルゥの髪を濡らす。その熱さをホアルゥは一度体験したことがある。怖いくらいに明るい夜、赤子が零した涙と同じ物だった。もう二度とあんな夜が来なければいいと願っていた。そう願って眠り続けて、なにもしてこなかった。

 ホアルゥはまだなにもしていない。最初からできないと諦めていたからだ。でもミカに一度力を貸してほしいと求められ、多くの魂を天へと導いた。そして二度目の今、ミカはもう一度ホアルゥの力を貸してほしいと頼んできた。奥歯を噛み締めて、ホアルゥは燃えるような赤い目にミカの姿を映す。


(了解でしゅ!!ホアルゥ、全身全霊を使ってアニーしゃん達もミカちゃまも助けましゅ!!)


 小さな花灯りの妖精は灯篭から乗り出す勢いで決意する。その答えにミカは微笑んだ。

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