第4話「船酔い」
冬が近くまで迫る夜。与えられた客室のベットの上で、精霊術を使って弱い明りを確保して毛布の中で本を読むヤー。隣のベットではクリスが寝ているはずなので、それを起こさないための配慮である。読んでいる本は妖精の起源と彼らが住むと言われている「異界」を論文としてまとめ上げた物だ。
それは
しかし近年の研究で精霊の流れを辿ると位置を特定できるのではないかと言われている。実際に大まかな位置を見出した者がいる。それがヤーの義理の兄であるカロンである。ヤーが毛布の中で読んでいる本自体がカロンの論文である。精霊術では失敗が多い彼だが、着眼点に関してはヤーも少しだけ尊敬している。ただしそれは絶対に口にしてはいけないとも心に決めていた。
曰く、精霊が満ちる世界では全ての妖精と聖獣は死に怯える必要はない。あらゆる傷が瞬時に癒えていき、次々と新たな命、妖精と聖獣が生まれる。しかし世界には許容量があるはずと考えたのがカロンであり、限界を超えないようにどうやって精霊を管理するか。そして妖精と聖獣が生まれるには魂が必要だが、それをどうやって調達するか。
考えられたのはどうして人間の傍らに彼らが現れたのか。カロンはそこから自分達が住んでいる世界にある精霊は全て妖精界から与えられた物ではないか。そして魂は精霊を排出した際に取り込んでいるのではないか。つまりは循環。巨大な円を描くように二つの世界は繋がっているのではないかという推測。
ヤーは頁を捲りながら循環という言葉に引っかかりを覚える。ミカが行う転化術は精霊と瘴気を循環させて均衡を保つと言っていた。そして天空都市に住んでいたウラノスの民は世界の均衡を保つ存在だったという。つまりカロンが提唱したように、世界は均衡を必要としているということ。循環が止まれば世界は崩壊するの裏付けである。
「……瘴気が増えてるのは、ウラノスの民が十年前に国殺しで滅んだから?」
「ヤー殿、難しい本を読んでますね」
本に集中していたヤーは、毛布の中に音もなく忍び入ったクリスに気付かなかった。そのため声をかけられてすぐ驚いて本を慌てて閉じる。頼りない精霊術の明かりの中でも、クリスの顔立ちが整っていた。蒼眼が無邪気な子供のように輝いており、照らされた白い肌からは少しだけ花の香りがした。
「……香油でも使ったの?良い匂いがするわ」
「はい。コンラーディン殿の御厚意で湯浴みの後に……ヤー殿も誘われたのに本に集中してて返事もなかったので」
「そ、そうだったかしら?この匂いは
「ええ。やはり貴族としては客人が来たら自慢の御当地物を振舞いたくなるものですから」
和やかに笑うクリスは、少しだけ肌寒かったのかヤーに体を近付ける。肩が触れ合うだけではなく、お尻の膨らみもぶつかっている上に爪先で相手の足裏を突くのだ。少しだけ外気で冷えた足にヤーは肩を跳ねさせるが、お返しと言わんばかりにクリスの足を自らの太腿で挟む。
そこからは子供のように少しだけ遊ぶ。頬をくっつけて小さく笑いあったり、相手の肩に体をぶつけてベットから押し出そうとしたり、いかに手を使わずに相手よりベット上の陣地を取るか。遊び過ぎて肌が赤く上気するに留まらず、軽く汗をかいたヤーが勢いで毛布を足で跳ね除けた。
二人して毛布がなくなった状態で部屋の気温に晒される。途端に肩が冷えて耐え切れなくなったため、床から急いで毛布を引き上げて二人一緒に包まる。それさえもおかしくて小声で笑った後、ヤーは思い出したように問いかける。
「そういえばクリス、前にアンタはなにを言いかけてたの?ミカが幽霊視えることに関して疑問があったみたいだけど」
「あ、それなんですが……ミカ殿は母親であるエカテリーナ王妃の幽霊は視たことがあるのでしょうか?」
幽霊が怖くてそこまで頭が回っていなかったヤーは、間が抜けた声を出す。ミカは幽霊が視える。昇天したくても地上に未練がある者達。しかし彼にとって一番身近な者、十年前に流行病で死んだ母親に関しては生前の話を聞いたことはあっても、
当時五歳であったミカを残して死ぬことに、エカテリーナは未練はなかったのか。長く西の大国と争い続けてきたユルザック王国、その王城に彼一人を置いて行くことに後悔はなかったのか。例えどんなに対策を施したとしても不安は残るはず。十年以上も続く対策などいつ崩れるかすらわからないのだから。
「……私は小さい頃の母しか覚えてません。私の母も同じです。流行病で亡くなりました。十歳の頃、本当に小さな流行だったのに、一瞬で命は消えるのだと知りました」
「そう。アタシは母親の顔なんて知らない。本当の父親もね。でも育て親と馬鹿な義兄はいたわ」
「ヤー殿。私は王子の力になりたい。同じ視界はないけれど、あの方が進む道の露払いになりたい。なのに彼の悲しみや寂しさを癒す方法がわからないのです」
「馬鹿ね……アタシにだってわからないわよ、そんなの。でもアイツを
クリスの目元に浮かぶ涙を毛布で拭いながら、ヤーは微笑む。オウガのことをお人好しとは言ったものの、どうにもこうにもミカとクリスに関しては放っておけない雰囲気があると思い、世話を焼きたくなる。クリスの方が年上ではあるが、ヤーの方が割り切りがいいせいか逆転したような状況になっている。
「だから約束。アタシ達はミカの味方。それを貫くの」
「約束──わかりました。悠久に輝く星に誓います。ふふ、ヤー殿は優しいのですね。大好きです!」
「みぎゃあっ!?だからっていきなり抱きつかない!あーもう……今日はこのまま寝ましょう。人の体温って意外といいわね……今夜は特に寒いし、丁度いいわ」
「はい!そうです、先程読んでいた妖精さんに関しての内容を少し教えてください。視えないのだとしても、
仕方ないとヤーは、本に書いてあった内容を掻い摘んで話した。妖精界という単語だけで目を輝かせたクリスだったが、迫る眠気に負けて十分後には寝息を立てていた。そしてヤーも同じ頃合いで深い夢の中へと落ちていく。
朝、ブロッサム家の
朝霧が海面を漂う寒い日。曇り空によって日差しも地上には届かず、ミカは赤と黒を基調とした厚手の服と赤いマフラーで防寒対策する。マフラーの端にはもちろん特務大使を示す紋章。氷水晶の指輪は右手の親指に。黒いヘアバンドで左目の傷口に自前の金髪が触れないように気を使う。
オウガも藍と黒の従者服だが、動きやすさを重視して布地だけを厚くしている。同じく藍色のマフラーには紋章が刺繍されている。街中では
二人は貿易港から海を眺めていた。しかし二人の視界は違う。オウガには底冷えするような黒い水面と灰色に近い白波が風に煽られて船を揺らしていると見えた。ミカからすれば海面を覆うのは霧だけではなく、自分自身も忘れて一つの集合体となった幽霊達が、幾百もの手を伸ばして港へと這い上がろうとして波に呑まれているところだ。
「背筋が気持ち悪いくらいに反応するんだが、もしかして相当やばいのかよ?」
「危険だね。いやー、海って事故が多いと聞いてたからこれが当たり前なのかなとも思ったんだけど……明らかに違う。意図的な流れを感じる」
「……そうかよ。まあこれは酷いな。気配だけなら十年前以上だ。放っておけば領地一つは壊れそうな嫌な臭いがする」
「オウガは本能的なんだ。まあそうだね。考えれば海は波で攪拌して、削るっていうし。こんな風に一箇所に集まるなら、もっと以前から異変があってもおかしくなかったんだ」
二人が話し続けているのを、空中から氷水晶の妖精であるアトミスは眺めていた。別に二人は必要だから話しているのではない。男性と違って女性は支度に時間がかかるという事実を前に、暇を持て余しているだけなのである。
そしてヤーがクリスを連れて港町ネルケの坂道を走ってくる。クリスの愛馬であるシェーネフラウがこの街着いてから不機嫌らしく、世話を頼んだ者から気を宥めてほしいと泣きつかれたのも要因の一つである。新鮮な魚料理に病みつきになって食べまくっていたヤーも原因の一つではあるが、そこは横に置いておくしかない。
クリスは白に桃色を添えた乗馬服は変わらないが、その上に旅装束用のマントと紋章が刺繍された桃色のマフラーをしている。手には
「お待たせしました、ミカ殿、オウガ殿!シェーネフラウが中々落ち着かなくて……ずっと海を睨んでいました」
「動物が先に異変を感じてるのかもね。うーん、シェーネフラウに関してもなにかやっておかないといけない気がするなぁ」
「そんなことより!!ミカ、寒い!!!!」
「え!?あ、うん、そうだね……潮風が冷たいもんね」
直球な言葉をぶつけてきたヤーに対し、ミカは戸惑いつつも適度な返事をする。残念ながら寒さに関してはミカもどうすることもできない。精霊術を使えばいいのではないかとも思うが、あまりの寒さに根本的なことが抜け落ちているようだ。
「あと特務大使の紋章の自己主張が激しすぎて、あの腹黒王子に一言以上言いたいことがあるわ」
「それは俺も思ってた。色違いのマフラーだけでなく武器にまでつけられると、身分隠すの難しいだろうがよ」
「いえ!!紋章とは自らの地位を示すに必要な物です!!十六貴族にもそれぞれ相応しい紋章を与えられており、ユルザック王国では紋章とは王から与えられた名誉ある称号なのです!!」
クリスの力説にそれ以上の文句は出てこなかったが、オウガとヤーからすれば衣服に着けている金属製の細工物だけで充分だと言いたいのだ。色違いのマフラーに刺繍はまだ耐えるとしても、限度知らずに手当たり次第にやられては辟易する。
しかし王から与えられたということでミカに第五王子という肩書以上の力が備わったことは有益なことであり、この紋章を身に着けること自体が名誉であり、特務大使の仲間という証だとクリスは熱く説明していく。十六貴族の一つ、ベルリッツ家の娘であるが故にその重大性を四人の中で一番理解していた。
ちなみにミカも本音を言えばオウガやヤーと同じ気持ちなのだが、国王──つまり父親に認められたという事実に改めて気づき、少しだけ照れくさいような気持ちになる。そう考えれば紋章を身に着けるのも悪くないかと、口を噤むことにした。
「おーい、準備できたなら早く船に乗りなよ!出航前に簡単に船内案内したいからさ」
「アニー!わかった、今行くよ!」
灰色の雲空の下でも温かさを失わない赤毛の三つ編みが揺れている。キャラベル船グロース・シレーヌ号の甲板から左舷に乗りかかりながら手を振っているアニー。その横で難しい顔をしているのがアニーの父親であり、この船の船長であるホサンである。
ミカは荷物を搬入するために船体に立てかけられた板の上を歩いていく。そして甲板に入ってすぐに思いの外狭いことに驚く。巨大な帆柱、樽、船内に続く扉や操舵輪がある場所など。他にも調理室からの煙を出す管、錨を上げるために棒を使って巻き上げるための絡繰り。
あらゆる仕掛けが無駄なく配置されている。甲板は木の床であるため滑りやすく、これで海水が水浸しになったらと思うと滑ることは目に見えていた。しかし一番は安定感がない。常に揺れており、大地の上に立つ時とは違う。奇妙な浮遊感のまま左右に体が動いてしまうのである。
「うっ、気持悪……」
「ヤー殿!?もしかして船酔いする人でしたか!?」
「おいおい。大丈夫かよ?」
「こ、これくらい克服してやるわよ!!うっ、ぷ……」
出航する前、まだ本格的に波に揺られていない船上でも吐き気を催しているヤー。さり気なくアニーが近くにあった桶を掴んで持ってくる。原因として朝に大量に食べてるなら、吐き出した方が少し楽になると助言している。それだけでヤーだけが気持ち悪くなったことにオウガとクリス、そしてミカは盛大に納得した。
「全く仕方ない。吐いた物は魚の撒き餌に丁度いいから、遠慮なく吐いていいよ」
「アタシが良くない!!!!はぁ!?なにそれ!?」
「船では当たり前さ。汚物を貯めるわけにはいかない。全部海に捨てるしかないよ。船ってのは小さな村、共同生活圏。病が流行ればあっという間だからね」
「一度船を降りて胃から出してくるわよ……アタシは自分が吐き出した物を食べた魚を食べる趣味はないの」
吐瀉物で誘き寄せた魚を釣るのは船乗りではよくあることだと知っていたヤーは、頼りない足取りで一度船から降りていく。心配したクリスがその後を追うのを眺めながら、オウガは小さく呟いた。
「食べる元気はあるのかよ」
お腹一杯ご飯食べたから吐き気が酷いというのに、食べることを諦めない辺りがヤーらしいとミカは苦笑いになる。アニーとしても後で桶を洗う手間が省けたと、深くは追及しなかった。船に積み込める数には限界がある。その最たるものが水であるが故に、少しでも無駄はない方がいいのだ。
数分後、幾分かすっきりした顔で戻ってきたヤーは、クリスに背中を擦られながらも軽い吐き気だけで済んだようである。それでも立っているのも気が滅入るらしく、右舷に寄りかかって背中を預けた状態で寒空を見上げるしかできなくなっていた。
「俺がヤーの様子を見ていてやるから、クリスとミカがアニーに案内してもらえよ」
「い、いいのですか!?ではお言葉に甘えて!アニー殿、お願いします!!」
明らかに好奇心で目を輝かせていたクリスに気を使ったオウガ。さすがに船内で危ないことが起きたとしてもすぐに助けを呼べるだろうと、ミカもアニーにお願いする。初めての船にアトミスもすぐに案内しろと空中で期待している。
しかし突き刺さるような視線を感じたミカは、その視線の方向を見やる。ホサンが左舷に寄りかかって仏頂面をしていた。ミカは首を傾げた。どう視ても魂の状態と、ホサンの表情が合致していない。もう少し詳しく視ようとしたのだが、期待が高まっているクリスに背中を押されては従うしかなかった。
一瞬だけ視えたホサンの魂は、丸ではない。角張っていて、くすんだ灰色に一切の輝きはない。ミカの経験上からすると、誰かの人生に無闇な干渉を施してしまっている状態だ。それを恥じていて、目標も見失っている。だが嘘を吐いている様子はない。そして仏頂面で隠してはいたが、これから海に出ることを怯えるように魂が縮み上がっていたのだ。
そんなホサンのことも忘れそうになるほど、船の内部は多層構造になっていて、多くの船員が動き回っていた。病室と診療室は隣り合わせ、食堂は樽や水などで船の喫水を調節する船底に近く、調理室では干物を作るための燻製箱などが置かれていた。
大砲を撃つための部屋には弾丸倉庫があり、落とし穴のような倉庫は覗き込むだけで重い色合いの鋼鉄の塊が詰められていた。他にも船員室、遊戯室、大工部屋など船の上で一生暮らせるのではないかと思うほど充実した環境になっていた。アニーが船が一つの村と例えた理由がわかるくらいだ。
帆をしまったり、多用することが多い縄などは専用の置き部屋があるほどだ。しかし一番目を惹いたのは商品部屋。四層からなる船の最下層、その一部を大きく使って作られた宝物庫だ。ここに貴重な物品を詰め込むことで海賊が潜入してもすぐには辿り着けず、また船底に喫水調整するための重りの鉄を減らすことに成功しているのだとアニーは胸を張る。
頑丈な鉄の扉に、同じくらい頑丈な鎖と錠。しかしアニーはホサンから予備の鍵を受け取っているらしく、胸元から取り出したロケットペンダントから組み立て式の鍵を取り出す。慣れた様子で組み立てていくのを眺めながら、ミカはロケットペンダントに刻まれた紋章を見る。
百合の花を模ったような形に、左右に配置された二頭の
「アニー。そのペンダントの紋章は?」
「んー?知らない。ただ親父が物心つく前にアタシに渡したプレゼントじゃないかな。ま、ちょい豪華だけど一人娘で張り切っちまったのかもな」
「ホサンさんのこと好きなんだね」
ミカの率直な言葉に、アニーは組み立て途中の鍵の部品を一つ落としてしまう。髪と同じくらいに顔だけでなく首や耳まで赤く染まってしまい、少しでも誤魔化そうと慌てて落とした鍵の部品を手にして急いで鍵の完成を進める。
しかしミカの目は魂まで視通してしまう。ホサンの話をする時、アニーはとても嬉しそうに華やかな赤と黄で魂を彩るのだ。口では乱暴なことを言いつつも、尊敬と好意が必ず表れている。とても微笑ましい気持ちになる温かい色を魂が宿すので、ミカとしても楽しい気分になる。
「いや、ちが、っ!!けど親父はおふくろのことを話そうとはしねぇし、アタシの腕に残る火傷についても説明しやがらねぇ!!しかも船乗りじゃなくて花嫁修業しろと口うるせぇし、くそ親父だよ!!」
「火傷?」
「左の二の腕の……裏側だったかな。見せてやるよ、薄くなって痣みたいなもんだし」
クリスが思わずといった様子で聞き返した単語に反応し、完成した鍵を片手にしたままアニーは左腕を隠していたシャツの袖を捲くる。少女らしい細腕は夏の間に日に焼けたらしく、健康的な色合いをしていた。しかしわずかに白い二の腕の裏、確かにそこには火傷が残っていた。
赤黒い刺青にも見えるが、少しだけ膨れ上がった皮膚がわずかな痛々しさを訴えている。しかし明確な形をしており、王冠の下に百合の花がある。その意味を少しだけ理解したミカとクリスは、もう一度お互いに視線を合わせた。下手すると大変な意味を宿している。
「かっこいいだろ?なんか形としては綺麗だし、これに似た物を探してるんだけど見たことないんだよ」
「これ、いつから残っているんですか?」
「赤ん坊の頃についたらしいとしか。どうもおふくろの手掛かりがこれらしいんだけど、親父は他人に軽々しく見せるなと言いやがる……さてはあの親父、いいとこの娘に手を出したか?」
「……そうだとすると国交問題に発展するかも」
アニーに聞こえないように小声で呟いたミカの顔は真っ青である。船酔いで吐き気がするのではなく、とんでもない爆弾を目の当たりにしたと同じ状況に出くわしてしまっているのだから。ミカと同じ推理をしているクリスも畏れ多さと不確定要素がちらつくため、下手なことが言えないまま小さく頷く。
「ま、そんな小さなことはどうでもいいな。ほら、特別に見せてやるよ!これがグロース・シレーヌ号の宝の山さ!!」
そして重い扉が開かれた先にあったのは、胡椒袋の山である。もちろん金貨なども箱に入っていたが、それ以上に多いのが胡椒袋なのである。そして安定した台座の上に布で包まれた花灯りの
その箱の上に覆いかぶさるように寝ている花灯りの妖精のホアルゥを見たミカは、意外と寝相が悪いのだという感想を抱く。花弁の形に似ているワンピースの上から腹を掻く片手。下手すると大事な部分が見えそうなくらいに壁に片足を預けており、涎まで垂らしている。
クリスはホアルゥの自然体な寝方を見て、妖精なのに庶民的で親近感がわくと、少しだけ嬉しそうな様子で眺めていた。アニーが、胡椒は今では金と同じ価値があるためまさに宝の山だと自慢する横で、ミカは苦笑いしながらホアルゥに音もなく忍び寄る。
「……ホアルゥ、起きて」
(ほぁ?ん……ほぁあああああああああああ!!??ミカちゃまにクリスしゃんと……自意識過剰マンがオマケでしゅか)
(こんの可愛げのない若輩妖精め!!まあいい。今はミカがお前に話したらしいし、とりあえずその寝相を直せ)
ミカとクリスに対しては礼儀を取ったホアルゥだったが、アトミスに関しては鼻で笑って馬鹿にする始末である。しかしアトミスも負けずに酷い寝相を指摘することで気を晴らす。寝ぼけ眼だったホアルゥも、さすがに両手でワンピースの裾を押さえながら慌てて佇まいを直した。
(しょ、それで話とはなんでしゅか?)
「あのさ……アニーってホサンの実の娘じゃないよね?ホアルゥはそれを知っている上で、二人に姿を見せられないんでしょ?」
(むぎゅぅっ!?うう、さすがはレオしゃまの生まれ変わり……でもそれ以上は話せないでしゅ!だって……)
「うん。アニーとホサンの関係を壊したくないんだろう?それだけじゃないだろうけど、今は深く追及しないでおくよ」
困った様子で顔を俯かせるホアルゥに、ミカは微笑みかける。まだ理由全てを知ることはできない。真実を突き止めようとも思わない。ただ小さな灯篭に宿った妖精が、全ての優しさを使って選んだ答えが黙秘ならばそれを尊重してあげたい。
ホアルゥの魂はまるで炎が丸い硝子玉の中で燃え盛っているようなものだ。その炎は人を傷つけるものではなく、癒そうとする再生の象徴に似ていた。しかしとても不安定で、吹き消すことさえ可能だと思えるほど弱々しくなる時もある。
ミカとしてもホサンとアニーの関係は少ししか見ていないが、親子としての交流をほとんど体験できなかったミカからすれば羨ましいものであった。あんなにも遠慮なく素直な言葉をぶつけても、離れることはないかのように強い絆を感じさせる距離感。それは物事の真偽で揺らいだとしても、簡単に崩れるとは思えなかった。
「でもこれからなにが起こるかわからない。その時は……俺に力を貸してね、ホアルゥ」
(よくわからないけど……ミカちゃまならいいでしゅよ)
「ありがとう、ホアルゥ」
「じゃあ、甲板に戻ろう!ほらほら、宝の山に見惚れるのは良いけど持ち出し厳禁な!!」
自慢の宝物庫を存分に見せて満足したアニーは、陽気な声を出しながらクリスとミカの背中を押して扉の外へと出していく。ホアルゥはアニーに姿を見せようとしていないため、無邪気に笑う彼女の目に花灯りの妖精が映ることはない。
重い扉が閉じられていくのを眺め、固く施錠された音を聞きながらホアルゥは再度箱の上に寝転がる。これから起きることなど、全く予想できない。ただ願うことは一つ。この船が沈まずに港へ戻ること。それだけでホアルゥは安心できるのだ。
暗い海の底を照らす力をホアルゥは持っていない。天上で力強く輝く太陽とは違う。だからこそ太陽は憧れなのだ。光を冷たい水底まで届けて、水面までの道筋を指し示してくれる。晴れの日の海を見て暖かいと思うのは、太陽の加護が燦々と降り注いでいるからだ。
(あの熱くて、寒くて、怖い夜が来ないなら……ホアルゥはなんでもいいでしゅよ)
海の上で燃え輝く大火の熱さがどれだけの悲劇を沈めたかをホアルゥは覚えている。忘れられない。潮風が泣き喚く赤ん坊の赤い頬を冷たくしていく夜の寂しさを。助けを求める声も轟々と唸る炎に掻き消されたことも、怖くて忘れられない。
花灯りの妖精は微睡む。寝てしまえば夢に見ることもない。あの恐怖は現実にあったことだ。瞼を閉じても浮かぶならば、そんなこともないくらい意識を深く沈めて思考を停止させてしまえばいい。そしてホアルゥは眠る。手の平に乗るほど小さな体で、人間の大人でも抱えきれないくらいの大きな秘密を言葉にしないために。
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