第3話「小さな妖精」

 真正面からぶつかる寒風をものともせず、花灯りの灯篭カンテラは内部に華やかな炎を燃え立たせる。香油と乾燥した花弁を組み合わせているため、見目鮮やかなだけではなく香り立つ。

 通りすぎていった風が変化する。春のような麗らかな匂いと温かさが一瞬だけ漂う。冬の気候に体を震わせていた港町の住人は、思わずといった様子で振り向く。視線の先では冬の太陽の明かりを和やかに受けた金色。

 白い町並みの中では目を惹く色彩。しかしすぐに我に戻る。ぼさついた金髪に金の瞳。左目を跨ぐような一直線の傷。十五歳の少年が花灯りの灯篭を片手に歩いているだけなのだ。観光客かと、多くの住人は日々の生活をこなしていく。


 しかしまだ年端もいかない子供には、別の物が視えていた。少年の花灯りを目印とするように、白い靄が引き寄せられている。少年が一歩踏み出すたびにその量は増えており、まるで霧を切り裂いて歩く旅人のようだった。

 別の赤子が少年の姿を視て大声を上げて泣き始めた。腕、髪、体、半透明な白い人型が少年に纏わりついているのだ。言葉も発せない赤子に表現する術はなかったが、それは亡者の群れを率いる恐ろしい光景である。

 肝心要の少年と言えば、踏み出すたびに肩にのしかかる重さに苦しんでいた。予想以上の幽霊の数。そして彼らはミカが視える人間だと気付き、耳元でひたすら訴えを金切り声で伝えてくるのだ。頭の奥が鈍痛で埋め尽くされて視界も危うくなるほどだ。


(ミカちゃま。大丈夫でしゅか?ホアルゥにはよく視えないでしゅか、やばそうなのは肌で感じ取れるでしゅよ!?)


 灯篭の内部、炎を浴びながらも輝きを失わない花灯りの妖精であるホアルゥ。彼女は硝子越しに伝わる嫌な空気に手乗りサイズの小さな体を震わせ、花弁で作ったような華やかに広がるワンピース一枚だけの体を温めようと手の平で擦る。肩の辺りで布地を結んでいるせいか、二の腕だけでなく脇も曝け出している姿は、ミカから見ても寒そうであった。

 煙のように柔らかく揺れていた薄桃色の髪さえもどこか刺々しくなり、旋毛の部分にある花の蕾に似た寝癖が動揺を示すように激しく動いていた。もしかして感情と寝癖は連動しているのかと、ミカは少しだけ微笑ましい気持ちになった。

 香油の上に浮かぶ花弁を足場に裸足を浸しているホアルゥは、不自然に曇っていく硝子越しに外の景色を見る。ただ見るのではなく、周囲を漂う朧気な幽霊の姿も視ようと燃えるような赤い目を細めていく。


「ホアルゥは灯篭から出てきちゃだめだよ。オウガやヤー達も距離を空けさせたけど……この港町、なんかおかしい。海難事故があるとはいえ、ここまでの数は異常だよ」

(妖精って魂と精霊のみで構成されてるからとはいえ、ミカちゃまみたいに詳細に把握できるわけではないんでしゅよ!?さすがレオしゃまの生まれ変わり!!ホアルゥ、ドキドキしまっしゅ!!)


 落ち込んだと思えば、すぐに喜びで舞い上がるホアルゥ。風の動きによって揺らめきながらも、その明かりを失わない様子は炎と同じである。彼女の言動や灯篭内部の行動は、ミカにとっても心強い物であった。

 生温かい息を吐けば幽霊の骨のような細い指が唇を這う。汗が流れ落ちればその熱を奪い去るように覆う冷気。金切り声はほとんどは言葉になっていない、辛うじて読み取れるのはシニタクナイ、タスケテ、クルシイ、イッショニ、など意識を引く文字の羅列。

 首を絞めてくる指に少しだけ息を詰まらせる。息ができないほどではない、しかし息苦しさで膝を曲げて倒れそうになる。金髪を愛おしそうに梳く指先が頭皮を軽く引っ掻く。


 白い石の坂道をゆっくりと歩いていく。目指すは高台にある灯台。太陽の光を一身に受けているそこへと、なるべく小路の多い道を選びながらも進んでいく。

 小路の影から這い出るように半透明の幽霊が姿を見せる。花灯りに誘われて、そしてミカの視線の意味に気付いて、幽霊の行進に加わっていく。一時間はこうやって街中を歩いている。

 だというのに、海面から漂う幽霊の数が減ることはない。不気味なほど白く濁ったそれを視ながら、ミカは前を向く。そして灯台の階段前に辿り着く頃には、足は震えて情けないくらいに疲弊していた。


 手摺を掴み、段差を一歩ずつ強く踏んでいく。耳に響く金切り声はもうなにも読み取れないほど多くなった。風が轟々と唸りたてるに近く、雷のように体の奥底まで響くせいか視界まで揺れる。

 灯台の一番上、篝火を焚く場所まで辿り着いた瞬間。太陽の光を浴びたミカの左目が強く輝く。金色に橙を含ませた炎、光が明滅しているが故にそう見える輝き。それが傷のある左目を覆うように燃える。

 太陽の精霊を循環させる転化術。精霊から魔素、魔素から精霊。何度もそれを繰り返し、円を描く。意識の内側にいる元太陽の聖獣であるレオンハルト・サニーの力を借りて、薄雲に隠れそうになる太陽の光を一直線の道に見立てる。


 花灯りの灯篭を頭上に掲げる。一度瞼を閉じて、開く。左目に宿っていた炎は煌々と赤くなっており、灯篭内部にいるホアルゥは漲る力を感じて鳥肌を立たせた。

 精霊で構成された体が粟立つほどの力の奔流。火の精霊がミカの中で循環することにより洗練され、そしてホアルゥへと流れ込んでいる。灯篭内部の炎が勢いよく燃え上がり、一層際立つ香りと明り。

 ミカの体に纏わりついていた幽霊達が灯篭へと目を向ける。その向こう側に輝く一本の光で作られた道。その暖かさへと向かって幽霊達は腕を伸ばす。思い出したように足を伸ばし、駆け出していく。


 背後から強風が背中を打ち付けるような感覚に二の足で踏ん張りながら耐え、左目の輝きが消えないように意識を集中させる。海面を漂っていた幽霊達も気付いたように、空を見上げ始めた。

 薄雲によって拡散された太陽の光は、幾筋の道となる。それを階段として天へと昇っていく者達。どこまで見渡しても海しかない場所では道さえわからずに迷っていた者達にとって、それは救済に似ていた。

 ミカの額から頬にかけて、そして顎を伝って灯台の床へと零れ落ちた汗を合図とするように、ミカは膝をついた。左目から輝きは消え、灯篭の中にあった香油も乾燥させた花弁も跡形なく燃え尽きていた。


(ミカちゃま!?ええい、こうなったら……自意識過剰マンくるでしゅよ!!!!)


 灯台の外に向かって大声を放つホアルゥ。少しだけ間が空いた後、灯台を駆け上がってくる騒々しい足音が三つ。しかしその誰よりも早く文字通り飛んできた氷水晶の妖精アトミスが、怒りの形相を携えて姿を見せた。


(口を慎め、若輩!!僕より少し、本当にすこーし役に立ったくらいで調子に乗るなよ!!ミカ、意識はある!?)

「あ、あるけど……立てそうにない。やっぱりこの街の状況、おかしいよ……」


 灯台の冷たい床に寝そべられるならば、すぐさま寝たであろうミカ。だが気を緩めることはできない。アトミスとヤーに頼んで灯台を管理している者達の気を惹き、忍び込んだのである。

 どんな手を使ったかまではミカはわからない。しかしなんの邪魔もなく、灯台の頂上とも言える篝火を焚く部屋まで入れたのだ。用事が済めば次は気付かれないように退散しなくてはいけない。

 部屋へと駆け込んだオウガ、クリス、そしてヤー。三人の従者の姿を見て、ミカは四つん這いの体勢から片手を上げて、笑いを作る。ただし力のない、弱々しい笑みである。


「ミカ、背負うぞ。クリスは殿しんがり、ヤーはもう一度アトミスと協力して管理人の意識を逸らせよ」

「簡単に言ってくれるわね。まあ、いいわ。クリスは灯篭も持ってあげて。落として壊れたら大変だもの」

「了解しました!ではホアルゥ殿、僭越ながら私が運ばせていただきます」


 淀みなく連携を取った三人の様子を見ながら、ミカは力が入らない体をオウガの背中に預ける。肩に頬乗せ、腕はだらりと下がっている。しがみつくことも難しいほどの疲弊。

 氷水晶の指輪を右手中指にはめたヤーは、精霊術を行使するために宙に浮かぶアトミスと協力するため、左手人差し指に光の精霊を集める。白い光の球がヤーの指先に宿る。

 そのまま空中に光の文字を描き、光の屈折率を変えていく。アトミスは一呼吸する間にミカ達を覆う薄い水膜の球体を形成する。水の壁に光の屈折率を変え、一種の透明状態に。


 そのまま迅速に階段を駆け下り、空気だけで異変を感じ取った管理人が最上階を目指すのを横目に灯台を後にする。街中に入る一歩手前の坂道で人がいないことを確認してから、精霊術を解除する。

 海も街も一望できる坂道の上から、ミカは海面を見る。先程よりは薄くなっている、それでも消えない白く濁った靄。道を指し示しても全てが従うわけではない。それでも予想を下回る効率の悪さに、少しだけ落ち込む。


「私には全く見えませんでしたが、幽霊は消えたのですか?」

「少しだけ……十分の一くらいかな。それよりも少ないかも。なんか変なんだよ。縛られているというのかな?もっと自由に拡散するはずが、固定されてるみたいで」

「……ヤー、解説」

「アタシに幽霊の説明を求めんなぁっ!!!!」


 クリスの問いかけにミカは感覚そのままを言葉にした。しかし意図が掴めないオウガは、ミカの視点に一番近いであろうヤーに説明を求めた矢先、盛大に怒鳴られた。

 精霊術に長けた天才精霊術師であるヤーだが、魂の原理や仕組みについての探求はしても幽霊には手を出したくないらしい。それ以上は尋ねるなと、首を左右に動かして大きく拒否している。

 四人の中で幽霊が見えるのはミカだけである。それでもオウガやクリスは灯台の下にいた際、悍ましいほどの気配が渦のように大きく動いたことを感じ取っていた。ヤーも視えている精霊達の動きから、並大抵ではないことが行われていることは察知していた。


「違うかも。集中……集められてるんだ。そうだ!海だ!!」


 顔を上げたミカは穏やかな波音を響かせる海へと視線を向ける。不自然なほどに大量の幽霊、それらは海から港町を侵食していた。人々に気付かれないように少しずつ。それでも確実に。

 ミカの声に触発されてヤー達も海へと視線を向けた。しかしオウガやクリスの目には秋の日差しを受けて輝く海面しか見えない。だがヤーだけは眉をひそめた。幽霊は視えない、内部の精霊は視えない。

 それでも彼女は視る才能がある。例え遠い海だとしても、その水面や空気中で輝く精霊の動きが視える。青い光が突如震えだし、気が狂ったような動きを見せればすぐに理解する。突風に吹かれたどころではない。圧迫、圧縮、そして破裂。通常ではありえない動きだ。


「ミカ、アタシにも視えたわよ。確かに海がおかしいわ。どうやら幽霊で片が付く問題じゃなくなってるわね」

「……俺にも見えた。精霊とか、幽霊とかじゃねぇよ。濃い霧だ。生き物みてぇに蠢いていやがるよ」

「なんでしょう?霧の中に影が揺らめいてます。とても……巨大な……船でしょうか?」


 ミカやヤーの視力では難しいが、日頃から反射神経などを鍛える武に優れた二人は遠方の異変を見た。日の出もまだな時間帯ならば気づかなかっただろうが、良く晴れた昼の港には似つかわしくない濃霧。

 青かったはずの海に黒い影を落とし、灰色の空気を広げるように進行する。不吉の予兆と誰かが騒いでもおかしくないが、あまりにも港町と距離が離れているため騒ぎが起きる様子はない。ぼやけた光景の奥に、全てを濁すような巨大な黒い物体。

 港で見たキャラベル船であるグロース・シレーヌ号よりも大きい。しかもその一隻を先頭に、他の船の影も見える。しかし霧に隠されており、霧が掻き消えると同時に影の群れも消えてしまった。


(……あれはまさか)


 か細く小さな声。クリスは両手で持っている花灯りの灯篭に目を向ける。しかし妖精であるホアルゥの姿はない。自らの表情と動揺を隠すように、見えないように隠れたのである。

 妖精が自らの意思で隠れてしまえば、内部まで視通せるミカしか認識することができない。だがミカの目は驚愕に満ちた様子で海に視線を投げている。喉の奥が震えて、上手く言葉が出せないほどの恐怖。


「なんで……増えてる?」


 オウガ達が目撃した濃霧が消えた後、海面を漂う白く濁った幽霊達の濃度が高まっていた。もうミカの金色の瞳に鮮やかな青は映らない。水面さえも覆われて、幽霊を土台とした雲海。

 あそこまで増えてしまうと、ミカがいくら道を指し示そうとも減ることは難しい。たった一回で動けないほど疲弊するのだ。何度も続ければミカが先に限界となる。どう足掻いても原因の根絶にはならない。

 なにより霊感がないはずの者でさえ、海面から漂う異様な冷気に怯え始めている。冬が近いとはいえ、悪寒が走るほどの冷気は寒さが原因だけではないと感づくには充分だ。その気配を幽霊は歓迎する。


 霊感。簡単に言えば幽霊を視る力だ。ミカの場合は魂まで視る力なのでわずかに違うのだが、一つの才能である。精霊が視える者よりも少ないとされ、詐欺まがいに多く使われるせいか認知度は低い。

 しかし才能がない者は視ることができない、というわけでもない。ヤーが精霊術を使う際に精霊を集めた際、オウガやクリスなどの視えない者でも視認できる。しかし幽霊の場合は少し違う。ずれているのである。

 もう一度繰り返すと、霊感、なのである。つまり感じ取る、感覚の話だ。目でも、耳でも、肌でも、匂いでも、味でもいい。どれか一つでもいいので幽霊を確実に感じ取ってしまえば、その瞬間に存在を認識してしまう。


 人間の場合は視力に頼ることが多いため、どうしても視えるか視えないかになってしまう。しかし妖精の姿を確認した後、その姿を捉え続けられるようになることを例に挙げると、必要なのは認識である。

 認識可能であれば一、不可能であれば零。両極端ながら、これは多くの事柄に通ずる。つまり霊感という才能を持つ者でも、認識できない者に幽霊の姿を捉えることはできない。これの恐ろしい所は逆の場合だ。

 霊感という才能がない者でも認識した瞬間に、幽霊は姿を現すのである。彼らは隠れているわけではない。いくらでも姿を視ることが可能だ。そして認識に一番必要なのは畏怖と恐怖である。


 なにか恐ろしい存在がいるのではないか。目に見えない、さらには手出しできない存在が横に立っているのではないか。そんな感情が、小さな可能性を芽生えさせていく。

 変な音がした、生温かくも冷え冷えとする気温を感じ取った、濡れた手が触れる感覚がした、生臭い臭いがよぎった、舌の上が苦みを覚えている、そして決定的になるのが目で捉えるということだ。

 五感を積み重ねて、認識を引きずり出す。そして一度捉えてしまえば、幽霊から生身に触れてしまうことが可能だ。海に引きずり込むことも容易く、それ以上のことだって思うが侭だ。


「ちょっと。まさか危険な状況になっているとかじゃないわよね?」

「えっと……ヤーは幽霊視たい?このままだとヤーも視えるかもしれな」

「わかったわ!!早急にこの問題を解決すべきってことね!!だからそれ以上は言うんじゃないわよ!!」


 ミカの言葉を遮りながら大声で焦るヤー。視えた方が怖くなくなる可能性もあるのだが、視えないままを選択するようだ。


「私は少し視たいです。槍を振るう時に、必要ですから」

「そうだな。例えば気功が役に立つっていう話ならばよ、俺でも退治できると思うしな」

「脳筋一号と二号は黙らっしゃい!!そんなので解決すんなら、怖くはな」

「できると思うよ。認識できれば妖精にも触れるし、俺も何回か対処したことあるから」


 のほほんとした発言に、三人の視線が一度にミカへと集まる。確かに幽霊から生身に触れることも可能だ。しかしそれは逆のことも言える。

 ミカの場合は抵抗しても勝てないため、別の手段で幽霊と対峙するのである。しかし武力を持つクリスとオウガ、そして精霊術を操るヤーとなればまた話が違ってくる。

 魂。人間であれば肉体を殻として精神で繋ぎ留めながら守らなくてはいけないものだ。もちろん魂自体にエネルギーに似た力はあるが、それも永遠ではなく、無敵というわけではないのだ。


「ただ数が多すぎるし、根本から叩かないと駄目だと思う。一度、コンラーディンおじさんの所に帰ろう!と……その前に花灯りの灯篭カンテラをアニーに返さなきゃ」


 幽霊相手にどこまで通じるかわからない状況。ミカとしても最善の手段と思っていた天に昇らせる方法が通じにくいならば、他の道を探さなくてはいけない。

 そうすると花灯りの妖精ホアルゥが宿っている灯篭は、持ち主である少女に返却するのが一番だ。一応は買ったということになっているが、船上で始まった親子喧嘩のせいで有耶無耶なところなのだ。

 念のため近くにいた船員に事情を話して提示された金額は支払ったが、あまりにも安かったためその点についても確認しなくてはいけない、というのがオウガの判断である。


(……ミカちゃま。ホアルゥのこと、アニーしゃんには秘密にしてほしいでしゅ)

「え?あ……そういえば妖精は人前にあまり出たくないんだっけ?」

(違うでしゅ。ホアルゥは知ってることが多すぎましゅ。それをアニーしゃんを前にして、隠し続けるのは苦しいのでしゅ)


 それだけを姿見せないまま告げたホアルゥ。その声はとても小さくて、今にも消えそうな短い蝋燭に灯った火に近かった。聞いている方が不安を覚える声だった。




 オウガに背負われたまま港へと向かったミカは、アニーが親子喧嘩を繰り広げていたキャラベル船グロース・シレーヌ号の前にコンラーディンがいたことに驚く。

 十六貴族の一つ、ブロッサム家の当主。冬が近づいている中でも上着は肩掛けな上にシャツの袖は捲くっている。十五歳のミカでさえ寒さを感じるというのに、五十代のコンラーディンは鳥肌一つ見せない。

 そんなコンラーディンの眼前で海水でずぶ濡れた状態で正座させられているのがアニーと、その父親である。アニーなどは頭の上に海藻を乗せており、親子喧嘩の末は凄まじかったのだろうと思わせるには充分だった。


「へいへーい。つまりはいつもの親子の交流をエンジョイしてたわけだな。家族の事情に首突っ込む気はねぇけどな、今は海がやばいってわかってるだろうが。気をつけろよ」

「当主様、アタシは一切悪くないからね!!この馬鹿親父が商売の邪魔をしたんだから!!というかお金!!そうだ、受け取ってねぇじゃん!!こんのくそ親父!!赤字どころの騒ぎじゃねぇよ!!」

「黙れ、馬鹿娘!!お前は岸で花嫁修業しろって言い聞かせてるはずなのに、毎度毎度商人や船乗りの真似事ばかりしやがって!!コンラーディンの所のツェリ嬢を見習え!!今や第四王子の許嫁として首都ヘルガンドで王族暮らししてるんだからな!!」

「政略結婚を見習えとか言うな、ホサン。大体、第四王子派の十六貴族の中で年頃の娘がいたのがウチだったというだけの話なんだからよ。あの腹黒が義理の息子かと思うと泣けてくるぜ」


 物理攻撃は止めたらしいが、口による喧嘩は継続中らしい。仲裁に入っているはずのコンラーディンなどは、別の案件で頭を痛め始めてしまい、混沌とした状況になっている。

 声がかけづらい状況であるため、ミカはとりあえずオウガに降ろしてもらう。少しだけ回復した体力のおかげで、一人で立って軽く歩くくらいはできるようになっていた。


「とにかく!!アタシはさっきの金髪のボンボン探してく……いたぁああああああああああああああああああああ!!」

「あ、アニー。実は」

「さっさと金払えこの野郎ぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!胸につけてる細工や連れの感じからして金持ってんだろうがぁあああああああ!!!!」


 ミカを見つけて即座に衣服の首辺りを掴んで前後に揺さぶり始めるアニー。金と連呼されてしまい、ミカは返事できないまま為すがままに揺さぶられ続けた。

 オウガやクリスは止めようかと思ったが、その前に金を渡したはずの船員が密かに逃げ出そうとしているのを察知した。そのため船員を追いかけることに決めて、走り始める。

 前後だけでなく左右まで揺さぶられ始めたミカの横で、ヤーは我関せずといった表情で眺めていた。なにせ財布を持っているのがオウガである。止めようにも手立てがないのである。


「さあ払え!今すぐ払え!!言っとくけどなぁ、こちとら十六貴族様がバックにいるんだからな!!盗みの罪は倍増にしてやることもできるんだからな!!!!」

「勝手に俺の家を利用すんじゃねぇ。貴族の名はフリーじゃねぇんだぞ。つーか、お前……ホサン、花嫁に育て上げるのは諦めた方がいいかもな」

「いきなり諦観を突きつけるな!!アニーもそんな状態じゃ払えるモンも払えねぇだろうが!!大体金髪金目だからって金持ってるとは…………金髪金目の、少年?」

「あん?親父、この世間知らずそうな坊ちゃんを知ってんのか?はっ、まさか名のある地方貴族!?あわよくば十六貴族の御子息の一人!?女二人も連れて豪勢だとは思ってたが、やっべ愛想振り撒かなきゃ」


 揺さぶるのを止めて笑顔を見せようとしたアニーだが、背後からホサンと呼ばれていた父親に無理矢理ミカとの距離を取らされる。半ば剥がされるような距離の開け方だ。

 次にアニーの頭を掴んで港の石敷きの地面に平伏すように頭を下げるホサン。その顔は蒼白な上に、抵抗しようと頭に力を込めているアニーを抑え込む手の震えも大きい。


「おま……っ、この馬鹿!!この国で金髪金目の十五歳程度の少年、しかも身なりからして貴族以上。となると一人しかいねぇんだよ!!」

「やっぱり金持ちか!!んで、どれくらい有名なんだよ?金払いもいいとアタシとしては嬉しいんだけど」


 目を回して頭を揺らしているミカに輝いた青い目は、背後にある海よりも煌めていた。そんなアニーへとホサンは苦々しい声で叱りつける。


「ユルザック王国の第五王子!!ミカルダ・レオナス・ユルザック様だ!!!!王族なんだよ、この馬鹿娘!!!!」


 例え名前に覚えがなくても、第五王子と言う単語は噂で飛び交っている。彼が五歳の時に「国殺し」という病が流行り、十歳の時には大干ばつ。血の半分はユルザック王国と関係が悪化している西の大国の貴族。

 港にいれば国交の情勢は重要度が増す。戦争が近づけば物価は大きく変動するし、輸入制限や敵国の品物の没収及び焼却、時には海が戦場となることもある。そんな背景から、第五王子の生死は西の大国との戦争の有無に関わってくる。

 辛うじて今は緊張状態であるが、それは第五王子が生存した状態でユルザック王国にて王族として生きているからだ。西の大国でレオナス家と言えば由緒正しい貴族。西の大国側としても無下にはできず、むしろ政治侵略の道具にできないかと画策しているという噂があるほどだ。


 現国王に嫁いだエカテリーナ王妃は美しい金髪と金の瞳をしていた。その息子である第五王子も同じ色彩を伴って生まれてきたため、容姿の有名度で言えば他の王子を凌ぐ時がある。

 まずユルザック王国では金髪自体が少なく、そこに金の瞳ともなれば数は限られてくる。そこに十五歳の少年となれば、ほぼ一人しか当てはまらない。しかしホサンはミカを前に、どこか信じられない気持ちでいた。

 あまりにも想像していた王子との容姿とかけ離れている。どこかの村の悪ガキと言われても納得してしまいそうな、ぼさついた髪に左目を跨ぐ一直線の傷。着ている衣服も赤と黒を基調としている。少なくとも栄光ある王子、という姿ではない。


「おおー。ミカを見てすぐに王子と気付いたわね、このおっさん。やるじゃない」

「俺としては気付かれてない方が楽なんだけど……あのー、頭上げていいよ。実際に花灯りの灯篭を借りた分の金額を払いに来たから」


 頭を下げられた側のミカは狼狽えながら声をかける。そんな王族らしからぬ反応が、ミカをさらに王子像から遠くなっていく要因なのだが、ミカはあまり気にしていない。

 感心していたヤーは、横目で逃げ出そうとしていた船員の首根っこを捕まえて戻ってきたオウガ達を捉えていた。引っ張るのはオウガだが、先回りして捉えたのは小回りが利いて素早いクリスの方である。

 アニーは開いた口が塞がらないまま、ミカに対して人差し指を向ける。その仕草を失礼と感じたホサンが指先を手の平で叩くが、折れるということはない。それくらいアニーは驚いていた。


「それに俺は今、特務大使として仕事しに来ているだけで……王子の身分も王位継承権がないとあまり意味ないよ。お金もフィル兄上から貰った分しかないし」

「……だとよ、親父。第四王子にツケを渡して借り作るにはいい機会じゃないか?ここらで王族御用達の貿易商人として船乗りとしての格を……」

「馬鹿娘!!!!恐れ知らず!!!!そういうのは本人がいないところで話す事柄だろうが!!ついでに他の商品で第五王子に恩を売るべきなんだよ、馬鹿!!第四王子と言えば第五王子を大切にしてるって有名なんだ!!将を射んと欲すればまず馬を射よ!!覚えておけ!」

「おお!さっすが親父!!腐っても商人だな!!よっしゃ、まずはさっきの花灯りの値段を初回勉強で安くしときつつ、次の商品には手数料として定価の三割増しを……」


 懐から算盤を取り出したアニーは意地の悪い笑い声を零しながら計算を始めていく。時折、ホサンが見積もりが甘いと手直していくが、その金額は見る者が見ればぼったくりとわかる類だ。

 ある意味どこまでも素直で正直な親子に対し、ミカは苦笑いで受ける。ある意味、今まで近くにいなかった種類の人間だ。少なくともミカに政治的な価値を認めても、商売相手として見る者はいなかった。

 なにせ西の大国にあるレオナス家からユルザック王国に与えた物はエカテリーナ王妃の結婚式費用に衣装道具を含めた家財、そして国交関係を良好にするための持参金である。ミカに残された物と言えば、エカテリーナ王妃の遺品くらいだ。それ以外は必要な物だけを城の管理を担う大臣やフィルから少し与えられたくらいである。


「まあ詳しいことは後で説教したりトークするわけだけど……とりあえずミカ。今回の特務大使の仕事はこいつらと一緒にやってもらうからな」

「………………え?」


 ひたすら商売に関する計算を止めない親子を眺めつつ、コンラーディンは世間話をするように切り出してきた。ミカの反応が一拍遅れる。


「幽霊船。その正体を探るためには船が必要だろ?ホサンはがめついが、船乗りの腕は確かだ。俺が保証する。ま、ファイトだぜ!」


 笑顔で親指を立てるコンラーディンに対し、ミカだけでなくヤー達も呆気に取られる。ただでさえ異変漂う海。そこへ知り合ったばかりの者達と船に乗るという意味。

 大声を出して驚くこともできず、ただひたすらにどの事態から整理すればいいかもわからないまま海原に放り出されたような気分。オウガはとりあえず捕まえた船員から渡した金はどうしたのかと、文字通り絞め上げる。

 数分後、金を受け取った船員は横着してそのまま自分の酒代にしようとしていたことが発覚。払った金額は取り戻し、ミカは上手く働かない頭のままアニーに花灯りの灯篭を返す。計算の末、一時的な貸出は初回無料となったらしい。しかしミカはどうにも気になることがあった。


 花灯りの妖精ホアルゥが先程からずっと姿を見せない。まるで沈黙を保つため、自らを押し殺しているように。

 ホサンは灯篭の中にいる妖精の存在も知らないまま、それを大事そうに抱える。売ろうと騒ぐアニーを宥め、これは絶対に売ってはいけないと口うるさく繰り返す。


 秋空が曇り始める。夜の気配が近づき、今日の所はブロッサム家の屋敷に戻ることになったミカは、首筋に触れた冷気に身震いした。振り返れば、海は白い靄で覆われてなにも見えないくらいだ。

 死んだ者の魂が意図的に集められている。その真意が見えないミカは、不気味な違和感を認めるしかない。今はまだ、解決の糸口がないまま動き続けるしかないのであった。

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