第2話「キャラベル船グロース・シレーヌ号」
冬が迫るため、少しだけ穏やかな空。そして白波が立つ海面。白い町並みを一望できる貴族の館、その一室の窓から朝日を浴びていたミカは小さく呟く。
「凄かった……」
「昨日の宴か?わかりやすく言ってくれよ」
「驚愕昇天祭り。次々に空へと消えて行く笑顔の幽霊達と、それに全く気付かない酔っ払いのコラボレーション」
「見てみたいけど、見たくないという矛盾を感じるな」
同室で警護も担当しているオウガは遠い目をする。見えない所で起きていた幽霊事情は最早別世界であるが、昨晩の宴を思い出せば苦笑いも浮かばない。
飲めや歌えやの大騒ぎ、そして王城で起きた不気味な魔人の事件に王子誘拐も含まれた大袈裟な土産話。いつの間にか酒が混入されていた果実水を口に入れたクリスが顔を真っ赤にしての王族を褒め称える大演説。
十六貴族の長であるコンラーディンが脱ぎ始めた時でさえヤーは大慌てしたというのに、負けじと十六貴族ベルリッツの名に懸けてと言い始めて服を脱ごうとするクリスをオウガとヤーが抑え込んだのである。
なので隣室から聞こえる呻き声は二日酔いと昨晩の恥ずべき行動を思い出して悶える、普段は凛とした少女の嘆きである。しかも一人ではない。二人である。
残念ながら大勢の者が口にしていた果実水全てに酒は混入されており、知らず知らずにヤーも多く飲んでいた。クリスよりは理性的だったが、若干呂律が怪しい上にミカやオウガに盛大に絡んできていた。
果てには酔っ払いの中心で盃を掲げて煽る姿は漢であったと言わざるをえない。酒癖の悪さに思い当たりがあるオウガとしては若干肝が冷える光景ではあったが、誰にもそれは気付かれなかったようである。
ちなみにミカは果実水に酒が混入されたあたりから果物を中心に食べ進めており、水分を失うことなく細々と食べ続けていた。オウガは果実水や酒などという区別に惑わされず、勧められた物全てを口にしていた。
氷水晶の妖精であるアトミスも気付かれないのをいいことに、ミカの傍を浮きながらも酒をわざと冷たくしたり、熱気でうんざりするほどの空気を冷やしたりと好き勝手やっていた。しかし表情は楽しそうであった。
そんなアトミスは氷水晶の指輪の中で静かに眠っている。精霊術を使って悪戯を仕掛けたことにより、少しだけ疲れたと言っていた。肉体を持たない妖精でも疲れることがあるのかと、ミカは意識の内側にいるレオに問いかける。
レオの答えは簡単だ。人間が魂と肉体を精神で繋ぐが、その精神が摩耗することはある。それこそ関係性からくる苦労や日々の動きで負う疲れなど様々だ。
そして妖精の体は魂と人間でいう精神が体であり、精霊となって形になっているに過ぎない。精霊術を使うと多少とはいえ体を構成する精霊を消費することもあるし、自らの気分高揚で体の構成を崩すこともある。
人間でいうところの知恵熱に近く、少し休めば勝手に回復する類である。特に妖精の魂は強いため、自然と精霊が集まる仕組みになっている。無茶さえしなければ自滅することはない。
たった一晩で仲間の内三人が休息を必要としている事態である。しかしミカとしても今日一日は休もうとも考えていた。首都ヘルガンドからの移動はやはり疲れたのである。
本来普通に旅行して一ヶ月。それを二週間から三週間で移動できたのも、ブロッサム家の準備の良さと、泊まれる宿屋が限定されていたからである。貴族に野宿はさせることができないと、半ば強行軍なところがあったのも否めない。
ユルザック王国の南の領地が一つ、港町ネルケ。窓を開ければ冷たい潮風が頬を撫でる十一月の終わり。あと少しで十二月。迫る雪の気配は背筋を震わせるには充分な冷気を伴っていた。
白い町並みは石造りであるからだ。木材では簡単に波に浮いて流されてしまうこと、貿易品の保管や津波に備えて建物の高さを変えていった結果の坂道の多い街道。
舗装された道も白い石畳だ。不揃いの丸くも大きな石を固めた道の上を、軽やかに馬車が通っていく。荷台には色鮮やかな
それが視界を横切っていくのを眺めながら、ミカは海へと視線を向ける。冬の快晴。普通の目ならば薄くも光り輝く海面が見えただろうが、ミカの目に映るには別の物が邪魔していた。
海面を漂う白い靄。それは人の手、衣服、顔、髪、死んでも転生の輪に向かうことができない幽霊達が留まっている。それが視えてしまうミカは小さく溜息をつく。
足がないのは、人は少しずつ印象が薄い部分から忘れていく。そして人が印象を辿っていく際に、どうしても足は一番最後になってしまう。つまり足を一番最初に忘れる。
次に顔や背中など、中々見ることができない場所。そうやって少しずつ自己を薄れさせていき、最終的には自分自身のことも忘れてしまうのだ。そうなると覚えているのはお気に入りの服、手、女性ならば長い髪になる。
城に住んでいるミカからすれば、幽霊は別に珍しくない物である。何度も視てきたし、そうやって少しずつ彼らについて知っていった。しかし海に来て驚いたのは、その数である。
尋常じゃない幽霊が何処にも向かうことできずに漂っており、時折波にさらわれるように流されている。下手すると異国の、それこそアイリッシュ連合王国などの島国の幽霊も混じっていそうだ。
帰る場所も忘れ、自分自身さえも忘れた幽霊達。ただ波間から少しだけ顔を覗かせて、人の気配に誘われるように街の中へと溶けるように入り込む。今も岸辺で遊んでいた子供に手を伸ばす女の手が視えた。
そして親に呼ばれて帰ろうとする子供の後ろを音もなくついていく。濡れた衣服、肌、髪、それらは全て鮮明であるのに、顔と気配だけが朧気なまま裏路地に消えて行く。
あれだけならば被害はないだろうと、ミカは若干楽観視していた。怖いのは視えない人間でもわずかに知覚できると、彼らに衣服を掴まれたり海に引きずり込まれる危険性があるということだ。
そういう幽霊は自分自身を強く憶えているわけではない。むしろその逆で、他の全てを失くしても残る物に縋り、生者を求めて少しでも触れようと渇望する。触れた瞬間は狂喜するように自らの腕の中に引き込む。
悪気があるわけではない。城内でそういう幽霊と何度も会ってきたせいか、それをなんだかんだで一人で解決した五歳から十歳くらいの幼い記憶を掘り起こして、ミカは苦笑いした。
正直に言えば、半分ほど血の繋がった兄、その中でも第三王子から受けた強烈な花瓶の一撃の方が痛かったし、実際に怪我している。目に見える結果としては、生者の方が被害は深刻である。
小さな頃の記憶を引き出したミカは、もう一つ思い出したことがある。頭の中に必要な材料を思い浮かべながら、もう一度窓から体を乗り出して先程の馬車が消えて行った方向を見つめた。
「で、今日はどうするんだよ?」
「ヤーには悪いけど、昨日も言った通り幽霊をある程度天に昇らせようかなって。レオがいると、ヘタ村の時みたいに天の道を指し示すことができるってわかったし」
「よくわからないんだけどよ、そんな簡単にできる物なのかよ?」
「本当に心を慰める程度だけど、一応は。皆、道がわからないだけだから……」
太陽の聖獣レオンハルト・サニーの生まれ変わりであるミカだが、レオが生きていた頃の記憶や生死の際の感情を持っているわけではない。例え同じ魂だとしても、記憶と意識は別である。
だから今も死して後悔が残ったレオは、ミカの意識の内側で微睡んでいる。本来ならば輪廻の最中で魂の中にある記憶や意識は消去されるはずなのだが、聖獣としての強い魂はそれも難しいようである。
実際にミカと似たような「獣憑き」の例は、極稀とはいえ、存在していた。だからこそミカはレオの正体を知ることができたし、妖精などでわからないことがあれば相談することも多い。
「えっと……買い物する時はオウガに言えばいいんだよね?」
「ヤーはまだいいとして、クリスに財布持たせるのは怖かったからな。貴族の金銭感覚は俺は信じきれるかはわからないからよ」
特務大使の任を受けた際、とりあえず必要最低限の考えとして財布係を決めようと言い出したのはヤーである。下手に四分割しても、あとで請求書書けと言われた際に合算するのが大変だからだ。
そこで一番金銭感覚が庶民に近く、しっかりとした性格、なおかつスリも逃げ出すような武術の腕、という三点からオウガが財布係として活動してもらうことにした。食べ物一つ買うのにもオウガの許可がいる。
残念ながらミカとクリスは最初から候補に入っていなかった。ミカは一度も自分で買い物をしたことがなく、クリスも屋敷に来る行商人の言い値を兄であるジェラルドの許可を得ての買い物しか経験がなかったのである。
今はまだ必要経費すらも請求できない立場ではあるが、フィルから最初の活動費ということで一定の金額は得ていた。ただし軽い旅行であっという間に消えて行く金額ではある。
ブロッサム家の屋敷に滞在し、食事もそこで賄われるため食費と宿泊費のことは考えなくていいとしても、金は大事にするべきだというオウガの真剣な眼差しによって誰からも異論はなかった。
ミカは外出許可をコンラーディンに貰ってくると言い、部屋から出ようとしたところをオウガに首根っこを掴まれる。例え城から離れた親しい貴族の屋敷だとしても、ミカの場合はなにが起きるかわからないからだ。
ただでさえ最近では膝元であり住まいでもある名城カルドナで誘拐騒ぎがあったというのに、もう忘れたのかと無言で圧迫してくるオウガに対し、ミカはぐうの音も出なかった。
藍色と黒を取り入れた従者服に着替え始めたオウガは、ミカにも外出用の服に着替えるように指示する。許可をもらってすぐに移動できるようにするためだ。ミカは赤と黒を基調とした、それでいて王族用ではない服を着る。
どちらかと言えば貴族よりではあるが、旅人が着ていてもおかしくない服という題材で仕立て上げられた、特務大使用の服である。金髪金目が特徴的であるためあまり意味はないが、王子としての身分を隠すためだ。
第五王子。その名前を聞くだけで憎しみの視線を向ける民はいる。五年前の大干ばつ、そして十年前の「国殺し」という名の流行病。それらの原因がミカであるという噂が国中に流れているのである。
今も家族や友人を失った傷が癒えないままの者は多く、それに関連した事件にも巻き込まれたことがある。正確な容姿を知らないとしても、西の大国の貴族レオナス家を象徴するような金髪金目は有名な話となっていった。
少しでも特務大使としての任務をこなすために、無用な摩擦を減らす。フィルなりの気遣いではあるだろうが、ミカのぼさついた金髪や左目を跨ぐ一直線の傷は、王子像からかけ離れていた。
「じゃあヤーとクリスにも一応声をかけようか。二日酔いが辛そうだけど」
「むしろ記憶が残っている方が辛そうだがな。すっぱり忘れられる性質だと楽なんだがよ」
今も隣室から聞こえてくる少女二人の恥ずかしさからくる呻き声に、お酒って怖いなとミカは心の中で静かに気をつけようと誓った。
許可を貰い、白い町並みを歩く四人。しかしクリスは真っ赤な顔を隠すように両手で覆っていた。白と桃を組み合わせた乗馬服は、港町の多様さからすればさほど珍しい物ではなかった。
しかし白百合の長髪から香る花の匂い、そして可憐な花の形を模した羽根の髪飾りで髪をまとめた凛とした立ち姿。美少女なのだろうと一目見ようとする男は多い。実は脳筋実直系暴走女子ということが周囲に知られていないこともあるだろう。
やっと両手を下に降ろしたクリスだが、美しい蒼眼は昨晩の記憶を思い出して涙目になっている。酔いで行ってしまった勢いの数々は、年頃の少女がするには過激な内容ばかりだからだ。
その横ではヤーも痛む頭を手で押さえていた。こげ茶の短い髪は潮風で揺れ、どこか柑橘系のような爽やかな香りが漂う。というのも、コンラーディンが酔った勢いで女の子には香水だとプレゼントした勢いのまま、思いっきりヤーに吹きかけたのである。
お湯を浴びても取れなかった香りだが、ヤーの雰囲気によく似合っていた。白と水色を機能的に配置した精霊術師のローブは少女らしい形をしている。色鮮やかな碧眼は昨晩のことを思い出して、死んだ魚の目と酷似していた。
呂律が回らないまま展開した滅茶苦茶な精霊術理論は、天才精霊術師と名乗るヤーにとっては屈辱の極みである。親からの遺伝だとすれば、その親を殴りたいくらいだが、捨て子であるヤーには殴る見当がなかった。
「うう……ミカおう、いえミカ殿……昨日のことは、どうか、どうか忘れてください。お願いします。心の底からお頼み申し上げます……」
「アタシの言動行動全てを脳内から抹消しなさい。即刻、今すぐ、素早く。でないと……今晩、日が昇るまで徹底的に理路整然とした精霊術理論を耳元で演説するから」
「わ、わかった。とりあえず今日は街の人から話を聞きながら観光しようよ。幽霊船について今日の夕食の際にコンラーディンおじさんに聞けばいいし」
少女二人に、一人には涙目で、一人には威圧的に、迫られたミカは了承しつつも、空気を和ませようとと話題を変える。港町の朝は早いらしく、昼前だというのに商店は大賑わいを見せていた。
遅咲きの色彩花だけでなく、蓁国の壺や薬品、ロマリア教国の由緒ある十字架や絵画、アイリッシュ連合王国で使われている呪い用の
その中でもミカがオウガに頼んで立ち寄ったのは、乾燥した遅咲きの色彩花の花弁と共に置かれた花灯りの
「持ち歩けると良いから、これはちょっと大きいけど……オウガ?」
「ミカ。お前は本当に今まで買い物をしなかったことがよーくわかったよ」
ミカが指差した花灯りの灯篭の値段を見て腰を引かせたオウガは、信じられない物を見るような目でミカに視線を向けている。そんなに高いのかと、ミカは値段の桁だけを数える。
とりあえず五桁を越えるのは高いのかと思い直し、紙製のは三桁であることから土産物で親しまれているのはこちらなのだろうと予測する。しかしミカが行おうとしていることは、紙製では心許ない。
店主の恰幅の良い女性は、自分の店で扱う花灯りの花弁は質がいいし、使っている硝子も一級品だと勧めてくる。硝子が高価な物だと知らないミカは、一級品かどうかの見分けもつかない。
「ミカ、アンタはなにするつもりなの?」
「花灯りで誘導しようと思って。えっと……あの灯台まで。あそこなら太陽に近いから」
説明するのが苦手なミカは、とりあえず目的地である場所を指差す。今は松明の明かりは消えているが、夜になれば煌々とした輝きで船を導く標の塔。白く真っすぐ伸びる姿は誇らしそうにも見える。
しかし案の定ヤーは難色を示した。具体的なことが何一つ含まれていないというのに、不明な事柄で大金を使うのは無駄遣いと同義である。クリスもフォローしようとしたが、ミカの目的がわからないため口を閉ざす。
ミカ自身としても特務大使の任には関係ない事柄ではあるので、三人が否定するならばと諦めようとした矢先だった。赤い髪の少女がミカの顔を覗き込むように視界に入ってきたのだ。
「花灯り欲しいの?そんならウチにいい商品あるよ、あんちゃん」
「アニー!アンタまた商人の真似事をして!!船乗りの夢はどうしたんだい!?」
「やっべ、おばちゃんが怒った!!ちゃんと船乗りになるって、がっぽり稼げる船乗りにね!!ほら、あんちゃんこっちだよ!!」
茶目っ気たっぷりに笑った少女は、遠慮なくミカの手を掴んで港町の坂道を駆け降りていく。赤い癖毛の三つ編みが二つ、潮風の匂いと一緒に揺れていた。
青い目は太陽の輝きを受けた水面と似ていて、そばかすが残る顔は十四歳の少女らしいあどけなさを残していた。背後で軽く怒鳴っていた女店主の声も遠ざかり、さざ波と人の騒めきだけが大きくなっていく。
ただ手を引っ張られているミカとしては、少女の魂を視ていた。夏空の雲のように白く、晴れやかに輝いて柔らかい丸みのある魂。海が良く似合う少女だと、少しだけ安心する。
そして港町の波止場に連れてこられたミカは、少女が指差した船の大きさに目を丸くする。海を間近で見たのも初めてだが、大きな船を見上げるのも初めてだったからだ。
全長約二十五メートル。三本の
濃厚な灰と茶を組み合わせたような色合いの木材で組み立てられ、多くの荒縄と布を用いて造形した実用的な構造。船首には人魚の姿を模した青銅像が飾られている。
「これがウチの船!その名もグロース・シレーヌ号!!そこら辺の船よりもかっ飛ばす最高にいかした船さ!!」
「す、ご……いね。あ、俺はミカっていうんだ。君は?」
「ウチはアニー・スー!将来は女船長になって世界中の貿易品扱う大商船団を作るから、そん時は御贔屓よろしく!!」
抜け目ない宣伝文句を明るい口調で告げてくるアニーに、ミカは元気な女の子だという印象を受ける。快活というか、剛胆というか、裏表がないだけかもしれない。
そして船の側面を垂れていた縄を掴んだと思った矢先、慣れた調子で船壁を駆け上がっていくアニーに驚く暇もなく、ミカはとりあえず船を見上げていた。そして豪快な足音と怒鳴り声を連れてアニーが姿を見せる。
「こら待て、アニー!!それは大事な花灯りって前にも説教しただろうが!!返しやがれ、この馬鹿娘!!」
「うるせぇ、くそ親父!!こんな倉庫で埃被っていたもんでも売れる物は売っとくべきだろうがっ!!ほらよ、あんちゃん受け取りな!!」
六十代くらいの男性と言い争っていたアニーは、軽い調子のまま船上から波止場に向けて花灯りの灯篭を落とす。手から吊り下げて持ち歩くに適した灯篭だが、それどころではない。
遠目から見てもわかる硝子に繊細な硝子細工まで入れてあり、使われている鉄枠の質もその輝きから見て取れる。そして下は石でできた波止場。受け止めなければ壊れる未来しかなかった。
慌てて手を伸ばしたミカだが、あと一歩届かない。すると親指にしていた氷水晶の指輪からアトミスが静かに現れ、アニーに察知されないように軽く受け止めてからミカが伸ばしていた手の平に乗せる。
「おー!ナイスキャッチだぜ、あんちゃいっだぁっ!!??」
「こ、こ、この馬鹿娘がぁ!!!!あれだけは売っちゃいかんと何年前から言い聞かせてると思ってんだ!?」
「だー!!くそ親父!!将来大物女船長になるウチの頭がパーになったらどうしてくれんだ!?テメェの老後はウチの管轄だとわかっての狼藉か、ボケナス!!」
「お前に船乗りなんかなってほしくねぇんだよ!!こちとらテメェが少しでも良い嫁ぎ先を見つけられるように苦心してるっつうのに、この口汚さは誰に似た!?俺かよ、畜生!!」
聞こえてくる容赦はないが、どこか愉快な親子喧嘩を耳にしながらミカは冷や汗が引いていくのを待つ。そして船の整備をしていた船員達は、二人の喧嘩を煽るように囃し立てていた。
ヤーは呆れたように船の上を見上げ、クリスは手伸ばしたまま仰向けに倒れて動かないミカへと近付き、オウガはまだ値段も聞いていない花灯りが壊れていないこととミカが怪我してないことに安堵した。
どうやら拳や足も出始めた親子喧嘩に周囲の声が大きくなっていく。船員同士の賭け事も始まったらしく、昨晩の宴を思い出しながらミカは顔を上げて手の中にある花灯りの灯篭を見つめる。
鉄枠に硝子の筒。しかし筒の下は硝子を薄く蔓と葉、そして花の形に切り取っており、そこだけは灯りが強くなって浮かび上がるような繊細な技術が使われている。
手に乗った重みは想像よりも軽く、貴婦人が持っても腕が疲れないように意匠を施しているようだった。予想以上の素晴らしい灯篭が無事であることに息を吐き、ミカはゆっくりと起き上がる。
そして気付く。花灯りの灯篭の中に小さく輝く魂を。揺らめいた炎の玉はまるで花の蕾にも似ていて、似た魂を視た覚えがあるミカは思わず宙を浮くアトミスへと視線を向けた。
「アトミス……これってまさか」
(……そのまさかみたいだよ)
そして花灯りの灯篭の蓋が触れてもいないのに開き、そして小さな少女が顔を覗かせた。本当に小さな、手の平に乗ってもおかしくないほどの愛らしい少女だ。もちろん人間ではない。
煙のように柔らかく揺れる薄桃色の長い髪は膝裏まで漂っており、よく見ると旋毛の部分には花の蕾に似た寝癖。燃えるような赤い目は眠そうにしており、何度も瞼で隠している。
花弁で作ったような華やかに広がるワンピース一枚だけ。裸足のまま出てきた少女、むしろ幼女とも言うべき妖精は欠伸一つ零す。その後、少し無言になってから急に覚醒したように目を見開く。
(ほあっ!?まさかホアルゥの目の前にいるのはレオしゃま!?あれ……でもレオしゃまは少し前に死んだような?)
「レオを知っているの?」
「……ミカ、嫌な予感というか……そこに火の精霊がなんか集まってるんだけど、まさか」
「うーん……俺も信じがたいけど、とりあえず姿見せられるか交渉してみるね」
一番話が進みそうだと、ミカは意識の内側に声をかける。そして左目の傷口から太陽の精霊を集め、静かに循環させる。左目に精霊の輝きが明滅し、炎のように灯る。
金色の瞳に橙色の炎が灯ったことに感動を覚えたのか、自らをホアルゥと言った妖精は高調した様子で口を大きく開ける。顔も真っ赤にしたうえ、鼻息も荒くなっていた。
「……ええっと、すまない。火の妖精は知り合いが多くて細かく思い出せないのだが……いかにも我はレオだ。今はミカという人間に転生し、その内側に眠る残滓のような物だ」
(ほぁあぁあああああっ!!?マジモンでしゅか!?うわっ、どうしよう!!寝起き見られましゅた!!超恥ずかしい!!あ、ファンでしゅ!!握手!!握手!!!!)
「あ、ああ……相変わらず火の妖精はテンションが激しくて楽しい者が多いようでなによりだ。ちなみに我の背後にいる三人の人間に姿を見せてもらえないだろうか?」
(レオしゃまのお願いなら喜んで!!あー、レオしゃまにお言葉貰えただけでなくお願いまで……まるで夢のようでぐー)
いきなり寝始めたホアルゥは、突如風で鎮火した炎と似ていて、レオは既視感を持った。火の妖精とはある意味風以上に掴み所がない。自由というには、あまりにも気まぐれだ。
それでいて訳のわからない行動に一応の理由があるのも火の妖精の特徴であるため、どうにも長く眠っていたせいで逆に疲れてしまっているのだろうとは推測することができたので、レオは体の主導権をミカに返すことにした。
会話は成り立つ上に、レオの名前を出せば素直に頷いてくれると判明した。ならば後はミカ次第と、ある意味面倒臭くなったのかもしれない。そういえば太陽も火の精霊を一部扱うのだったと、ミカはさりげなく思い出す。
「えーと……ホアルゥ?俺がミカなんだけど、起きてもらってもいいかな?」
(……ほあっ!?ホアルゥ寝てましゅた!?って、レオしゃまじゃない……うーん、じゃあミカちゃまでしゅね。ミカちゃまも中々素敵な気配がしましゅし、お願い聞いちゃいましゅ!)
その場の勢いで燃え上がってはすぐに自らの調子を取り戻す。本当に炎のようだと思う中、背後でざわついたオウガ達三人に気付いてミカは振り向く。
特にクリスは想像していた妖精像と合致するホアルゥの外見に感動し、両手を祈るように組んでから食い入るように見つめる。期待の輝きに満ちた眼差しを向けられて、ホアルゥは花咲く笑顔を見せた。
「ヤー殿、我が
「そ、そう……良かったわね」
拳を強く握りしめ、空に向かって晴れやかな涙を見せるクリスの真面目さにどう反応していいかわからず、ヤーは曖昧な返事だけをすした。
(こんにちはでしゅ!ホアルゥって言いましゅ!!花灯りの妖精でしゅて、ざっと百年は生きてましゅけど気軽に呼んでほしいでしゅ!)
「百年生きたと思うと、口調が意図的にあざとい気がしてくるんだがよ……どうなんだよ?」
オウガの冷静な言葉に、笑顔を見せていたホアルゥの動きが固まる。そして笑顔のまま、両腕を広げた体勢で少しずつ沈み、花灯りの灯篭の蓋を閉じて姿を消す。
理想の妖精が目の前から消えたことに対し、クリスは頬を膨らませて無言で軽くオウガの脇腹を突く。しかしオウガは全く動じず、図星だったかと冷静にホアルゥの性格を掴み取っていた。
(はっ!百年生きた若輩妖精か!まあ僕のようにウラノスの民に認められてない妖精にしても、中々のものじゃ……)
(うっわ、自意識過剰マンは嫌でしゅね)
(今すぐその灯篭から出てこい!!その喧嘩、喜んで買ってあげようじゃないか!!光栄に思え!!)
そして初めてできた妖精の知り合いに自分なりに歩み寄ろうとしたアトミスだが、持ち前の性格が災いを呼び、そしてホアルゥとの噛み合わせが悪かったこともあり争いに発展しそうになる。
船上での親子喧嘩も過熱し、波止場での妖精同士の喧嘩も勃発し、当初の目的がどんどん遠ざかっていく心地を味わいながらミカは苦笑いしか浮かべることができなかった。
幽霊船も姿を見せないような昼前の陽気に現れた花灯りの妖精ホアルゥに翻弄されながら、船上の親子の関係性が密接にかかわってくることもいまだ知らないまま、時間は静かに過ぎていったのである。
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