スチーム×ジャスティス(正義編・とある始まり)

クイーンズエイジ1881の7月

EP0×Ⅰ【過ぎ去った日々《gone×days》】

 ああ、お前は永遠に渡る魔法をかけられたのだね。それは決して解けやしないよ。

 幾千の月日が過ぎようと、幾億の星が消えても。その魔法は心に植え付けられたのだから。

 時には幸福を、時には辛苦を。夢の中にまで侵食する魔法さ。だが不思議と嫌いになれない。


 ――人はそれを「 」と呼ぶのさ――







 窓硝子を叩く雨の音に耳を澄ませ、肩にかかった紫色の髪を一束摘む。夏の気候に負けじと毛先が跳ねていた。紫色の瞳に映るのは珍しく青空から雨を受ける石造りの街。太陽も輝いているというのに、透明な滴が宝石のように光を反射させながら降り注いでいる。

 窓に張り付いた玉の滴の中に虹が見えた。光を放ちながら硝子の上を滑り落ちていくのを静かに眺めて、椅子の背もたれに寄りかかりながら微睡む。膝には読み古した魔導士入門書を置き、その赤茶の革表紙を白い指先でなぞる。

 夏の平和な昼下がり。ロンダニアの街も晴れやかな空から降る宝石の如く輝く雨に高揚感を覚えて、出歩く人々の姿が曇り空の下よりも増えていた。手を繋いで歩く老夫婦を視界に入れながら、少女は机の上に置いている小さな宝箱から思い出の品を取り出す。


 幸福を象徴するのは四つ葉。約束と希望ならば三つ葉。巡りあう二人を意味するように、素敵な出会いは二つ葉。しかし少女が手にしたのは零れ落ちたような一つ葉の帽子飾り。緑水晶グリーンアメジストで作られたそれは、白詰草クローバーの葉だ。


 和国の文化について他よりは少し詳しい少女は、どうして白詰草という漢字になったのかを知っている。鎖国を続けていた和国だが、完全に国交を閉ざしていたわけではない。宗教が絡まない商売を求めたコランダ王国とは貿易を密かに行っており、彼の国がもたらしたという意味で蘭学を取り入れていた。

 コランダ王国が硝子製品を運ぶ際に箱に敷き詰めていたのが干し草ではなく、繁殖力が強くて柔らかい草の小さな花だった。その花の色が白かったため、白の詰草。白詰草として親しまれている。子供達が野原で王冠を作る時、茎が長く量が多いこの花を愛用する。

 今では和国でも根を広げ、花を咲かせていることだろう。四つ葉を見つけた者は幸福を手にしたと、嬉しそうに頬を染めているかもしれない。しかし少女にとって白詰草には別の意味がある。


 その意味に思いを巡らせる前に、階下からの声に気分を台無しになったのだが。


「お姉さまぁあああああ!! 僕の、僕の髪が伸びて前が」

「ちょ、天使ちゃんそっちは壁」

「ヤシロくーん、ナギサちゃんが壊す前になんとかしてほしいわーん」

「姉貴、動くな。髪のセットがまだ終わってない」

「自分にばかり頼られても……ん? コージ、あ」


 盛大な破壊音、そして突き飛ばされた上に壁を突き破って路地に飛び出たであろうコージの叫び声、事態を全て察したナギサが物事が完結する前に耳が痛くなるほどの大声で謝り始め、借家ギルドホームを揺らす衝撃が微睡んでいたユーナがいる屋根裏部屋にまで伝わってきた。

 緑水晶を小さな宝箱の中にしまい、傍らに置いていた杖刀を腰の革ベルトに固定する。膝に乗せていた魔導士入門書は机に載せ、長くなった紫色の髪はまとめずに背中に流す。それでも頭の横に黄金蝶の髪飾りを着けるのは忘れない。

 現在、借家にいる者がとある事件で髪が伸びるという奇妙なことが起きていた。明日には元に戻るらしく、それまでは切ってもすぐに長髪になってしまう異常事態だ。鬘屋の小さな事件のため特段語る必要はないが、解決した後に髪が欲しいと願っていた顧客数人に恨まれている。


「ナギサさん、動かない。多分コージさんは今回の件で恨みをぶつけてくる顧客についての情報を持ってきたのでは?」

「コージが壁から落ちる前に渡してきた資料によると、花火大会とやらで当分留守にする連絡だと思う」

「男前……そんなに警察ヤードの仕事が舞い込んで、体壊さねぇのは感心するぜ」

「あらん。なんだかユーナちゃんの長髪って初めて見るわねん! ふふ、とっても素敵よん。でも何故ユーナちゃんは髪をいつも短いのん? 似合ってはいるけど、淑女を目指すなら髪は長い方がいいわよねん?」


 ヤシロが手にしている資料に肩から髪が落ちないように指先でかき上げているユーナに対し、童話にでてくるお姫様みたいな金色の長髪のハトリが、微笑みながら問いかけてきた。双子の姉の髪を傷つけないように三つ編みにまとめあげているチドリも動きを止めた。

 まるで大量の輝く絹糸を抱えている職人のようなチドリも、黄土色の髪が膝裏まで伸びていた。前髪は渋い緑色の額布ヘアバンドで後ろに流しているため、邪魔にはなっていない。むしろ床に金の川を作るハトリの髪を踏まないように、用心しているくらいだ。

 折角伸びた髪にいくつも髪飾りを着けてみようと試みるハトリの手の中には羽飾り。昔の王宮貴族のように髪を高く積み上げてもいいかもしれないと提案した際、チドリに無言で首を横に振られた。そのため妥協案の三つ編みに似合う髪飾りの装飾性デザインの統一を考え続けている。


「ああ……えーと、クイーンズエイジ1766までは伸ばしていましたわ。お手入れも欠かさず、それは綺麗な髪でしたのよ」

「妙に具体的な。つーか、姫さん……俺様の和国スタイルはどうよ?」

「はっ。一昨日出直してきなさいな」


 こげ茶の髪を馬の尻尾のように頭上にまとめあげただけの髪型をしたアルトの言葉に対し、ユーナは鼻で笑って返した。大体、和国の髪型は頭に黒い銃を乗せたような丁髷ちょんまげであり、そのためには頭頂部を剃って禿げ頭を一部的に作らなくてはいけない。まだまだ甘い、と和国文化に詳しいユーナの採点は厳しかった。

 しかしアルトはそんな返事を予想していたらしく、やはりこのカッコよさは理解できないか、とむしろ気分良くしていた。自称いい男の無駄なポジティブさを無視して、ヤシロの伸びた髪に今度は視線が集まる。正直に言えば、茶色の藁束に犬耳が生えた姿だ。髪の隙間から金色の瞳は見えるが、むしろ新種の動物のように髪の毛で覆われている。

 ヤシロとしては懐かしい姿だと呟きながら、自分の手の指が繋がっていることをひたすら意識していた。かつての断髪を思い出して、心の傷に近い事柄まで引きずり出されているらしい。残念ながらユーナ達は髪が長かった頃のヤシロを知らないため、そうか、という返事しかできない。


「お姉さまぁ……コージさん戻ってきましたぁ……うう。ごめんなさい、コージさん」

「い、いや……ちょっと鋤骨が折れたくらいなので、白魔法で治せるさ。それにしても皆、本当に髪の毛が伸びたな」


 普段は作業のためにと額の上まで前髪を切っていたナギサだが、今はそこさえも足首まで伸びている。仕方ないのでユーナが髪紐を二つ手に取り、櫛で彼女の白い髪を梳きながら二つ結いにする。少し高めの位置で結ったので、額は丸出しだが腰までの長さが作業の邪魔にはならない。

 ただでさえドジっ娘メイドであるナギサのとんでもないドジ要因を増やすわけにはいかない。アルトはナギサの姿を見て、ツインテールメイドで新時代きたな、など訳がわからないことを力強く断言していた。胸元を押さえて苦笑いしているコージもその言葉の意味を理解できなかった。

 コージは今回の髪が伸びる事件には関わっていなかったため、いつも通りの爽やかな短髪だ。灰色の芝とも言えそうな髪型だが、コージの雰囲気によく似合っている。借家にいるギルドメンバーの長くなった髪を眺めながら、ユーナの長髪姿に微笑みかける。


「うむ。ユーナくん、中々似合っているぞ。長い付き合いだが、初めて見るな。どうして伸ばさないんだ?」

「先程も同じこと聞かれましたわ。うーん……説明するほどではないんですが……大事な方に似合っていると言われてから短くしていますの」


 伸びた紫色の髪を指先で摘まみながら、柔らかな声音で言葉を出すユーナ。それは誰かに優しく接する時の声とは少し違った雰囲気があり、アルトなどは過敏に反応した。だが問い詰めようにもユーナの紫色の目はどこか遠くを見ているようだった。


「そうか。黄金律の魔女グランド・マリヤさん辺りが言ったのだろう。なにせあの御仁は淑女作法に厳しそうだからな。淑女に必須の長い髪を切るなど見逃すとは思えない」

「あ、あー……そうですわね。おほほ。おばあ様にも見逃してもらえるほど、いつもの髪型が似合っていますのよ」


 コージの言葉に便乗したユーナだが、その口調は少しだけわざとらしかった。実際に納得したと何度も頷く彼と視線が合わないように、手の甲で口元を隠しつつ表情が見えないように横を向いている。もちろんコージとナギサは気付かないが、他は明らかに変だと把握していた。

 ハトリとしては胸がときめくような話だったら聞き出したいのだが、面白くなさそうな表情のアルトを見てから微笑みだけを浮かべる。チドリとヤシロは元からそういった話に興味がないし、うっかりそんな話に手を出して逆に突かれるのが嫌な性格だった。


「さあ、コージさん。借家に帰ってきた理由。またお仕事が忙しいことを聞かせてくださいな」

「そうだな。紅茶と珈琲、それにサンドイッチ。今日みたいな晴れやかな雨が降る日には果物も似合いそうだ。ヤシロ、用意できるか?」

「備蓄はある。穏やかに休むといい」


 二階の居間でゆっくりと過ごす正午前の平日。窓から見える輝く太陽と透明な雨に暗くなる理由はない。ユーナは百年以上前の昔を思い出さない。何故ならば忘れられない、彼女にとって起源とも言える話なのだから。

 しかし人に話すこともない。秘めやかに、密やかに。煙のように漂い続ける後悔を抱えていく。クイーンズエイジ1881から遡ること百十五年前。彼女が百歳を迎える節目の年。その時は最高位魔導士でもなく、人助けギルド【流星の旗】もない時代。少女の話である。







 奴隷商人。南方の大陸、東洋の国、祖国である田舎の村。彼らは人を売り物にするために、盗んでも問題ない場所から攫うのである。働き手に良し、憂さ晴らしに良し、口には出せない残虐な命令を下すも良し。なにより莫大な金が手に入る。

 後世では禁止される行為であっても、当時でも法律や教会が罰を与えようとしていても、網の目を掻い潜る虫のように彼らは湧き出た。奴隷貿易、奴隷船、こういった言葉が生まれるように奴隷商人は海との繋がりが深い。何故ならば、異国で売った方が金になる、という商戦があるからだ。

 南方の人間は西に、東洋の人間は北に、方角によって色を変えるように人も変わる。そして物珍しいと持て囃され、金持ちが飛びつく。芸術のように、見目が美しい者は価値が付随する。高価な額縁で飾るように、美麗な者には手をかける。となると異国の品が集まる港はさらに都合がいい。


 アイリッシュ連合王国の奴隷貿易が盛んな港に通じる裏道。林によって人目が阻まれ、多少叫び声を上げたところで遠くにある牧場には届かない。その道を監視するように、一人の男が枝の上に立っていた。木の色と同化するような黒い外套はまるで喪服。同じ色の帽子には四つ葉の白詰草を模った宝石飾り。

 見る人が見れば希少な鉱石であることがわかる緑水晶。しかしそれよりも目を惹くのが男の容姿だ。老人のように白い髪。少し癖があるそれを簡素な髪紐でまとめている。緑色の目に生気はなく、息も潜めて気配を隠していた。

 外套の胸ポケットに入れている紙巻き煙草を取り出したかったが、臭いで気付かれてしまう危険性が多かった。舌打ちしたくても、いつ奴隷商人の馬車が通りかかるかわからない。情報屋から手に入れたのは、今日奴隷を乗せた馬車が通る、ということだけだ。正確な時間までは不明だ。


 昼を知らせるように太陽が真上で輝いているのを見た男の耳に、怒鳴り声が聞こえてきた。泣き叫ぶ声もかすかに届く。奴隷の一人が逃げ出そうとして争いになったかと、視線を向けた矢先。盛大な爆発音と煙が男の五感を刺激した。

 帽子は飛ばされないように片手で押さえる男は、悲鳴を上げながら懸命に逃走を図る商人が足元を通り過ぎていくのを眺める。人で儲けようと考える連中が奴隷を置いて逃げ出すなど、命の危機を覚える以外に理由がない。狙いが当たったかと、男は木から飛び降りて煙が立ち上っている方へ走り出す。

 馬車が横倒しになって燃えていた。黒い煙と轟々と唸る炎を見上げる痩せ細った子供達が、呆然とした表情で路上にへたり込んでいる。そして馬車の中に取り残された子供を一人抱えて、火傷一つもない少女が路地に降り立つ。


 旅用の軽装を想定したドレスは少し焦げていたが、それも煙を吸い込んだ子供を地面の上に置いた後に手で払い除けて消してしまう。胸元には輝く黄金蝶の飾り。帽子は完全に焼けたらしく、淑女として必要な髪紐も騒動の最中に取れたのだろう。紫色の長い髪が火の熱に煽られた風で揺れる。

 子供達が少女を見て怯える。それを紫色の冷たい眼差しで受け止め、少女は無言で炎を纏う馬車を蹴る。それだけで馬車が半回転し、火の粉を散らしながら立ち上がる。おかげで下敷きにされていた荷物が姿を現し、その中で半ば燃焼している赤茶の旅行用鞄トランクに少女は手を伸ばした。

 しかし直火に当たっていた部分は既に高熱で金属部分が溶けてしまい、火は中の荷物にまで及んでいた。それでもと鞄をこじ開けた少女は、唯一無事であろう魔導士入門書と書かれた本を手にする。赤茶の革表紙は古ぼけていたが無傷であり、そこに挟んで忍ばせていた紙幣や金貨も何事もなかった。


「おい。お前は魔導士か?」


 男の言葉に少女は振り向く。少しだけ視線を彷徨わせた後、少女は一度だけ静かに頷く。それだけで男は納得する。馬車を蹴って移動させ、燃えている旅行鞄を腕力でこじ開けるなど、普通の少女には無理な所業だ。だからといって淑女がするような行動でもない。


「位と色は?」

「……下位の紫」


 消え入りそうな声で呟いた少女の返事に、男はあまり聞き慣れないと目を細めた。赤魔導士や白魔導士などは有名だ。青魔導士も多く、黄魔導士と緑魔導士は少ない頻度だが耳にする。最近は黒魔導士が増えていて困っているという噂は絶えない。

 男は紫魔導士の意味を思い出す。資格剥奪寸前の、黒魔導士一歩手前の問題児。しかし性格に問題があっても、魔導士としての素質を認められた場合は保留される。そういった保留状態の魔導士に紫がつけられるのだ。

 目の前の少女に妥当な称号だと男は納得する。奴隷商人の馬車を爆発させて燃やした挙げ句、その後の馬車を蹴ったり鞄をこじ開けたりなど、常識ある人間の行動とは思えない。だが燃える馬車から子供を助けるなど、悪いところばかりでもないのだろう。


「俺は旅人のノア・オリバー。奴隷商人の馬車を待ち伏せていた……そしてこいつらが売り物にされるはずだった子供だな?」


 ノアと名乗った男の緑色の目に映るのを避けたかった子供は、両腕で顔を隠す。体全体が震えており、涙声で何度も殴らないでと懇願している。中には、もう嫌だ、帰りたい、と願いを口に出す子供もいるが、全員が叶うはずがないと諦めた目をしている。


「貴方も……奴隷商人?」

「さあな。それよりも酷い鬼かもしれない。だがまあ子供を食う趣味はねぇよ」


 紙巻き煙草を胸ポケットから取り出して、口に咥える。手品のように指先に火を灯して紙巻き煙草に点火。独特の匂いを発する煙を青い空へと上らせながら一服する。その匂いに顔をしかめた少女だが、無言で男へと大股で近付いていく。

 子供達はまっすぐ歩く少女を恐れ、痩せ細って力が入らない体を土の上に転がして避ける。彼らのほとんどが肌を隠す機能も果たさない布地しか纏っていない。そこから覗き見える皮に浮き出たあばら、栄養失調に陥ったが故に水が溜まって不自然に膨らんでいる腹。

 爪や甘皮で空腹を誤魔化そうとして、荒れた指先に深爪。唇の皮も剥がれて酷い有様だ。こけた頬に、洗うことも許されなかった肌は目やになどで汚れている。髪の毛からも異臭が立ち上がり、痒いと無意識に何度も掻いている子供も多い。


「……貴方、もしかしてこの子達を助けに来たのかしら?」

「はっ。どうしてそう思う?」

「わたくしも魔導士の端くれですから。魔力の偏りくらいわかりますわよ」

「なるほど。そりゃあ立派なことで」


 少女の言葉に対して褒美を渡すように、ノアは口の中にあった煙草の煙を少女の顔に向かって吐き出す。盛大に咽せる少女が涙を浮かべながら薄目で確認すれば、彼は意地悪な笑みを顔に貼り付けていた。それだけで額に青筋が浮かんだ少女を放置し、彼は子供達の前に出る。


「おい、お前ら。今から教会に魔法で送ってやる。くそ神父がいるところだが、まあ悪くない」

「帰れるの?」

「そこまで面倒を見てやるつもりはねぇよ」


 言いながらノアは子供達を一箇所に集まるよう指示し、その周囲を取り囲むため鉄杭を地面に打ち付けて、麻縄で円を形成する。それを作り終えたノアは少女を手招きする。魔道具であることを理解した少女は、にやけた笑みを浮かべ続ける男を怪しみながらも、子供達の顔を一瞥した後に魔力を巡らせた。

 青い光が全員を包み込み、光が消え去る頃には見知らぬ教会の祭壇に全員が立っていた。その祭壇に向かって手を組んで祈っていた神父が、顔を上げてすぐに立ち上がる。礼拝に来ていた村の老人や家族達も目を丸くしており、何事かとざわめき始めた。


「の、ノア!? お前、私が渡したとはいえ魔道具は使えないはずだろう!?」

「よお、くそ神父! 丁度いい具合に魔導士が近くにいたからよ、魔力を借りた」

「借りたって、その魔道具は普通の魔導士ならば倒れるくらいの魔力を消費する……ん?」


 祭壇の上で呆ける子供達の中でも、一人だけ服装が整っている少女に神父は目を向ける。ステンドグラスから燦々と差し込む陽光を受けながら、ふらつくこともなく立ったまま様子を窺っている。熱を宿さない紫色の瞳だが、疲労の色は感じられなかった。

 一番前の椅子に座っていた恰幅の良い老婆が大声で、パンとスープの用意をしなくては、と慌て始める。神父の横で突然のことに驚いていた修道女シスターも、教会の地下倉庫にある豆と野菜を見てきますと走り出した。

 礼拝に来ていた信者達は次々と自宅へ戻り、出稼ぎに都会へ向かった息子の古い服やもう使わない毛布、今朝牛から搾った牛乳、鶏の卵など持ち寄ってきた。後は村人に任せようとノアが神父に怒られながら慌ただしい状況を眺め、特に食べる必要もない少女も本を抱えてノアの横に立つ。


「シスター・レイチェル! 干し肉も出していい! しかしスープでまず胃を落ち着かせ、その後でスープに麦を入れてふやかした方が吐く恐れは少ない! パンと肉はもう少し先だ! というかノア!! お前は目的とは違うからって問題を教会に持ち込むな!!」

「天主の言葉を伝える偉大な神父様は迷える仔羊を救うんだろ?」

「もちろんだ! けれど……事前連絡はお前ならできるよな? なあ!? 村人に感謝しろ! そしてこの教会の備蓄に慈愛を見せた天主に祈りを捧げろ! 昨日突然商人が寄付金代わりにと大量に食料をくれたからよかったものの!!」

「あ、それ俺の仕業。つまり俺に感謝しろよ」

「お前なぁ!!!! 道理で食べきれない量だと思ったが……ありがとよ、ばーか!!」


 口は悪いが律儀にお礼を言う神父に対し、ノアの横にいた少女は小さく笑った。しかしあまりにも神父の声が大きいため、聞き間違いかとノアは横目で無表情の少女の顔を眺める。外見は十六歳ほどで、痩せてはいるが健康的な顔色をしている。

 少なくとも奴隷として運ばれていたようには見えない。旅用の軽装から、恐らく家出した裕福な家柄の娘が奴隷商人に捕まったばかりなのだろうと推測できた。貧しい家庭で娘に魔法という学問を教えるようなことは、まずない。

 女性は基本的に家事などに専念するべきで、学問は天主聖教会の管轄。魔法だけは天主聖教会が忌み嫌っているため一般にも開放されているが、それでも学ぶには敷居が高い学問だ。時代が変わらない限り、女性が文字を読むようになるのも遠い未来の話だろう。


「そうだ。君、私はこの教会の神父をしているレオナルド・クロッチだ。良ければ君の名前を聞いてもいいかな?」


 怒鳴り終えた神父レオナルドは、ノアの横で黙ったままの少女に視線を合わせるため膝を折る。真摯な態度に少女はわずかに興味を持ったのか、緩慢な動きで首を動かす。整えられた黒髪に青い瞳、少し吊り目な所はあるが、基本的に平凡な顔立ちの神父だ。


「……ユーナ」

「ユーナくんか。この馬鹿に付き合わされて辺鄙な場所まで飛ばされてすまないな」

「……辺鄙!? 待ってください! ここからロンダニアは……」

「ロンダニア!? まさかロンダニアに向かっていたのかい!? これは困ったな……」


 ユーナの口から出てきた土地名に、レオナルドは新しい煙草を吸おうとしたノアを睨む。立場が悪いかと、胸ポケットに火を点けていない煙草を戻し、肩を竦めて誤魔化す。ノアはユーナと名乗った少女の目的など最初から知らない。奴隷商人の馬車に乗っていた被害者くらいの認識しかない。

 最終的に加害者っぽくなったのはあえて無視をしておく。しかし年頃の少女が旅用の軽装とはいえ、一人で歩いていたのも変な話である。奴隷商人の馬車もアイリッシュ連合王国の首都から正反対の方向に動いていたはずだ。

 そこでノアは気付く。恐らくユーナは騙されたのだ。途中まで馬車に乗っていくと良い、ロンダニアまで向かう馬車だから、などと甘い言葉を信じてしまった。だが方向がおかしいと気付いて商人と口論、そのまま奴隷として扱われていた子供達が詰め込まれている荷台の方に放り投げられて、真実を知ったのだろう。


「……いいです。急ぐ旅路ではないですから。それでここは?」

「ここはアイリッシュ連合王国内でも北、コチカネット国に属する牧草地。ここは小さな村で、ランダ村と呼ばれている」

「コチカネット!?」


 一度は大人しくなったユーナだが、コチカネット国と聞いて再度大きな声を出す。アイリッシュ連合王国とは名前の通り、連合なのである。島の中でも主要となる中部から南がエングランド国、北部をコチカネット国、西部がヴァリアント国が治めている。周辺にある小島などはアヴァロン国が統治しており、四つの国が時には独立を主張しつつも協力しているのだ。

 そしてロンダニアとはエングランド国に属する首都。ダムズ川が流れているのは島の中でも南に位置し、コチカネット国からは遥かに遠い場所だ。先程の馬車が通っていた路地よりも距離が離れている事実に、ユーナは顔を俯かせた。少し気まずくなったノアが声をかける。


「悪かったな。あれだけの子供を一度に運ぶのは俺でも難しい。お前が魔導士とわかった時、なんとかなるだろうとは思ったんだが」

「……そうですわね。あの子達を放っておけませんものね。彼らにはきっと……家族、親がいますもの」


 羨ましそうに覇気のない声で返事したユーナに対し、ノアは違和感を覚える。しかし横に立つ少女についてノアが知っていることなど圧倒的に少ない。かけるべき言葉も見つからない状態で、下手な慰めはしない方が賢明だろうと息を吐く。

 レオナルドはもう少し詳しく事情を聞こうと考えたが、シスターが皿の数が足りないと呼ぶので食器を借りる交渉のために、村の中でも大家族を支える主婦へと慌てて尋ねに向かう。その背中を眺めた後、ユーナはノアを睨む。いきなり視線の強さが変わった少女に、ノアは意表を突かれる。


「わたくし、煙草って嫌いなんですの。あまり吸わないでくださいな」

「……ははっ、それは無理な相談だな。口寂しいのは嫌いでな。それに長い付き合いになるわけでもない」

「それでもです。貴方の煙草は特に苦い香りがして、咽そうですわ。限度ってものがあるでしょう」

「さっきまでは借りた猫のように大人しかったくせに、可愛くない子供ガキだ」

「わたくし今年で百歳ですわよ」


 ユーナの年齢に対し、ノアは返す言葉がなくなった。首に痛みが走るほどの速度で横にいるユーナの顔へと振り向く。十六歳の外見。いくら魔導士とはいえ白魔法で外見の老化が遅くできると言っても、それこそ限度がある。

 千歳越えの最高位の魔導士には二十代の若さから動かない者もいると噂されているが、それだけの白魔法を使うには魔力が必要だ。横に立つ少女の魔力の底知れなさを感じて、ノアは背筋が震えた。しかし一筋だけ期待をする。彼女ならば、目的が叶うのではないかと。

 驚きのあまり見つめ続けていたノアに対し、ユーナは指先で長い髪を梳いて顔を隠す。あっという間に表情が見えなくなり、照れているのか、不快だと思われたのか。判別が難しい。しかしノアにとってそんなことはどうでもよかった。


「それでは妙齢の女性に、一つお願いをしようか」

「なんだか引っかかる言い方ですわね。それで?」


 ノアはにやりと笑う。それは鬼が悪巧みする時の表情にそっくりだった。



 これはユーナの今後を変えるに相応しい出会い。とある『復讐鬼モンストルム』の誘い。少女にとって最後の青春時代。


 そして――――――始まりの物語である。

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