EPⅥ×Ⅹ【花火《fire×flower》】

 幻の花火が打ち上がる夜空を落ちていく。激しい風に体を揺さぶられながら、カローリャは遠くなっていく料理の鉄人キュイジーヌを見上げながらも、気絶したままのミディアの体を引き寄せる。蒸気機関内臓大鎚スチームハンマーの重さは落下速度を上げる要因ではあるが、手放すことはできない。

 十五歳の少女であるカローリャの体よりも大きな青年の体。白魔法を駆使してそれを左肩に担ぎつつ、ミディアの手から離れない蒸気機関内臓大鎚の柄を歯で咥える。そして残った右手でスカートの裾を破いていく。レースが千切れ、布地が風に煽られて遠くへ去っていく。

 下着ドロワーズが曝け出される形だが構っていられない。髪束網シニヨンネットも動いている内に外れてしまい、真っ赤な髪のポニーテールが夜風になびく。準備ができたとカローリャは咥えていた蒸気機関内臓大鎚を右手で掴む。力任せにミディアの手から柄を離し、傷一つない靴の甲を使って鎚の部分を固定する。内部に柄を押し込んだ瞬間、蒸気機関に熱が発生する。


 球頭から大量の蒸気が噴き出し、わずかに落下速度が減少する。鎚の部分を足場に、柄を操舵棒ハンドルとして歪な飛行を始める。しかし最初に噴き出た蒸気量は変わらず、噴射の力も増えなかった。減少は雀の涙ほどの効果しかない。

 大鎚の長柄内部に仕込まれた引き金を一つ動かせば蒸気弾が出る。それを思い出したカローリャは仕込み刀の構造をした柄の引き金を握れる分だけ全てを使う。瞬間、蒸気が噴き出ている球頭とは反対の平頭から蒸気弾が発射され、お互いの噴出力で空中に一時停止した。

 しかし蒸気弾の方が込められた蒸気の圧が強いので、むしろ地上へ落ちる速度が再度上がる。引き金は動かしてはいけないと慌てて柄を元に戻すが、蒸気機関内臓大鎚に乗っかる体勢のまま背中側が地面に向かう仰向けに近い姿勢になる。


「やばっ、誰か助け」


 ――厳しくいかないと、いつまでも答えが出ないでしょう――


「っ、ええい!! アタシはやればできるんだから、こんな危機くらい乗り越えてやるわよこんちくしょうぅぉおおおおおおおおおお!!!!」


 助けを求めようとした矢先、頭の中にユーナの説教が蘇った。それに腹が立ったカローリャは気合いを入れるために叫ぶ。左肩で担いでいる気絶したままのミディアを、少しでも体勢が安定するように白魔法を使いながら抱え直し、大鎚の球頭から噴き出る蒸気の量が増えない事実に打開策がないかと考える。

 思い出すのは蒸気弾の方が圧が強いということ。体勢を変えて背中を空に向けた。眼下には近付いたロンダニアの街が迫っている。球頭からの蒸気噴出を止める。最早ミディアなどは脇で抱えるという雑な方法を実行しながら、両手を使ってもう一度柄を鞘から引き抜くように動かす。そして柄内部に仕込まれた十の引き金全てを押し込んだ。

 指が引きつりそうなほどの力を込め、平頭から十単位で蒸気弾が何度も一斉発射される。街の蒸気灯の明かりが街路を照らしているのが見えるほど近くなった時、花火観賞のため出歩いていた市民達が異変に気付いて指先を上へと向ける。


 落ちていく先には膨大な水が流れるダムズ川。夜空さえ映らないほど薄汚れた川面は蒸気灯の橙色を辛うじて反射しているせいか、距離感が危うくなるほどの色合い。しかし蒸気弾がその水面を大きく乱し、弾に含まれた気体と熱によって川の水が泡立つ。

 視界が蒸気で阻まれる中でもカローリャは弾の反動で少しでも落下速度を減らそうとする。蒸気機関大鎚が撃った際に発生する振動で震え、少女の両手だけでなく体全体が大きな音を聞き続けているのと同じ痺れを襲う。何度も動かすために力を込めた指先に血が滲み始めた。


「止まれ! 止まれっ!! 止まれって言ってんでしょうがぁあああああああああああああ!!!!」


 蒸気を吹き払うように落下し続け、汚れた白の視界が晴れる頃には目の前に泡立った水面。速度を殺しきれないまま着水すると瞼を強く閉じた。そんなカローリャの血塗れになった指先を包むような大きな温かい感触が彼女の手を柄から引き離す。


「カロリャっち、ナイス大声!!」


 目覚めたミディアが大鎚を足場にしてカローリャを片手に抱きかかえて体勢を変える。鎚の部分が川面にわずかに触れたが、柄を大鎚内部に押し込んで球頭から噴き出る蒸気を尻尾代わりに川の水面を滑走する。裂けたスカートの裾が翻るのも気にならないほど、水の上を走っている事態にカローリャは目を輝かせた。

 蒸気機関大鎚の扱いに慣れているミディアは岸近くまで寄った後、橋の上へと行くために上体を前倒しにして平頭の部分を水に浸ける。球頭から蒸気を出すのを止め、柄内部にある引き金を動かして五発の蒸気弾を放つ。小さな水柱を発生させながら発射の反動で跳ね上がり、石畳へと着地する。

 花火大会で屋台と同じように大道芸人達も集まっている。その演出パフォーマンスの一つと勘違いした周囲の人々から拍手が送られ、銅貨を投げ与えられる。しかしミディアはカローリャの手を引いてフーマオの屋台がある場所へと走りだした。石畳の上に散らばった銅貨は路地裏にいた浮浪者がこっそり出てきて速やかに拾い集めていった。


「喉がビリビリしやがる! とにかくマオっちでもロゼっちでも誰でもいいから、空飛べる方法を!」

「え!? この大鎚じゃ駄目なの!?」

「出力が足りない! あの高度に届かない! ユイっちを助けに行きたいんだろ、カロリャっち!」

「あったり前でしょうが、馬鹿!!」


 喉を手で押さえながら足を動かしているミディアの言葉を挑発と勘違いし、カローリャは怒ったように返事する。赤い髪の少女にとって今の一番はユイレンだ。それが揺らいでいないということにミディアは吹き出して笑いそうになるのを堪えた。白魔法を覚えたてのか弱い少女だというのに、根拠のない自信と意志の強さだけは変わらないのだから。

 そして眠ろうとするカナンを揺さぶり続けるバロック、それが営業妨害だと出刃包丁を構え始めたフーマオ、騒ぎが大きくならないように必死に止めるコージなどが街灯に照らされているのが見え始めた頃。明らかに悪戯を楽しそうに企んでいる子供のような笑顔のアルトがカローリャ達に手を振っていた。こうなることを予想して用意された、二つの蒸気噴射増加装置スチームブースターを石畳に置いて。




「――吸血の牙――」


 大きく揺れる料理の鉄人キュイジーヌの調理台上。そこでユーナが最初に行ったのは黄魔法による自傷。左手の平に現れた白く鋭い牙が柔らかい皮膚を貫く。手の甲まで突き刺さったそれは一滴の血も零さず、少しずつ肥大化していく。

 ある程度のところで牙を引き抜いたユーナは、それをユイレンに向かって投げる。上空で風が強い上に機体が大きく揺れているにも関わらず、迷うことなく牙はユイレンの手の中に吸い込まれるように収まった。まるで温かい心臓のような脈動する牙に、一瞬だけ嫌悪が生じる。


「その牙を砕いて、トオさんの傷口へ。わたくしの魔力ならば、一時的とはいえ回復の助けとなるでしょう」

「っ、ありがとうございます!!」


 嫌悪よりもトオが助かるという希望に、ユイレンは戸惑うことなくもたれかかっているトオの胸上で牙を壊す。牙の内部に吸収されたとは思えないほどの大量の血が女を赤く濡らす。しかし消えかけていた呼吸の音が聞こえ、苦しそうに呻きながらトオは瞼を重く開けた。

 ユーナは血が流れない左手の平の傷口を、ポケットから取り出したハンカチで適当に覆う。力を込めても無事動くことを確認しつつ、背後から零れ出たユイレンの良かったという言葉を聞き取る。火蜥蜴達はいざという時のために料理の鉄人キュイジーヌの胴体の下、食材を保管している容器を燃やし尽くすように指示する。

 その一連の流れを見ていた男爵のミッシェルは少し困ったように首を傾げる。顎に指先を置いて、相手が先程なにを言ったのか理解できないといった様子だ。しかしもう少し正確に描写するならば、理解できないというよりは理解するつもりがない、の方がいいだろう。


「落ちる覚悟……ねぇ。食べ尽くす覚悟はあるんだけど、それでは駄目なのかい?」

「ああ。言い方が間違っていましたわね。落とします。だから貴様ができるのは祈りだけです。生きていますように、と」


 ユーナの紫色の瞳がミッシェルを映した瞬間、彼は首筋に切れ味が鋭い包丁の切っ先で一閃された感覚を味わう。背筋が粟立ち、思わず首を手で押さえて確認するほどだ。冷たい鋭さが皮膚の上を走ったに近い感触。次の瞬間に自らの体内部から熱く汚れたなにかが噴き出るのではないかという恐怖。

 射竦められた。それだけだというのに確かに命の危険を感じ取った。しかしユーナはその場から一歩も動いていない。杖刀さえ腰の革ベルトで固定したままだ。ただひたすらトオを抱きしめ続けるユイレンを背中で守るように、ミッシェルの前に立ち塞がっている。

 かつて執事から寝物語で聞いた神話を思い出す。宝物を守護する竜の話を。とても恐ろしい竜は侵入者を一人残さず殺してしまった。しかし宝物に近付かない限り、彼らは理知的で穏やかであったという。もしくは逆鱗の話か。竜の急所、そこに触れた者は善良であっても食い殺されるという話だ。


 後者の話に対処はない。手を出した瞬間に終わっているのだから。しかし前者に関しては簡単な解決策がある。竜は生き物だ。生きているならば眠る機能が備わっている。美しい音楽で眠りに落ちる竜の教養の高さに子供の頃は思わず笑ったが、そんな耳を潤すだけの物を使わなくても生き物の意識をなくす方法など幾らでもある。

 薬品、暴力、急所ツボ、衝撃、幾千の食材を自らの力で手に入れてきた美食家にとって、最初に生存している食材を見た時に一番有効な方法を探すのが癖になっていた。鰐の分厚い皮膚鱗と強靭な顎、象の厚みのある装甲のような皮膚と長い鼻、熊の木を薙ぎ倒す腕力と木登りの得意さや走行速度への対応方法。雀蜂が亀の甲羅に近い表層をした巣を守っている場合、どうやって毒をもつ集団を倒すか。

 それらに比べれば人間のなんと容易なことか。人肉嗜食カニバリズムにはあまり興味ないが、食事の邪魔となるならばと何度も対処した。その中でも最も有効的で薬品を使わない方法を男は見つけていた。文明の発展と共に、カメリア合衆国で開発途中の技術を盗用した甲斐もあったというものだ。


 ミッシェルはユーナの立ち位置を確認する。残念ながら調理台に仕掛けた位置とはズレているため、白スーツの内側にしまっていた銃を取り出す。それが蒸気機関銃と考えたユーナは、特に動揺を見せなかった。蒸気機関銃の弾は基本的に殺傷能力がない。衝撃で内臓に傷を負わせる目的で殺傷能力を上げるならば、丸太よりも大きい型に改造しなくてはいけない。しかしミッシェルが持っているのは手の平に収まる小型だ。

 引き金が動かされるのを眺めながら、それならば白魔法を使えば耐えられると判断したユーナ。その体に細い物が絡みつく。噴出されたのが細長い銅線ワイヤーであり、先端にある弾丸に似た鉤で対象の体の一部に巻き付くように設定されていることに気付いた瞬間、視界が閃光を直接受けたように真っ白になった。思考を挟む間もなく黒へと切り替わったのは、視界だけでなく意識もだった。

 静かに調理台の上に倒れたユーナを見つめながら、ユイレンは言葉が出てこなかった。トオはまだ命の危機。魔術を使おうにも、経験が浅いユイレンはどういう魔術を選べばいいかわからない。それ以上に目の前で起きたことが受け止めきれず、思考がまとまらないのだ。


電流銅線仕込み銃ワイヤー式スタンガンっていうやつでね。アイリッシュ連合王国は電気についてはカメリア合衆国より遅れているから、この不意打ちがよく効くんだよ」


 頭が回る探偵も、戦士のように動ける青年も、驚異的な魔導士さえも。誰だって電気に対しての抵抗力は同じだ。電気人間がいるとしてもその数は全人類の一%にも満たないはず。ならば九十九%以上の人間に電気は平等な効果が期待される。毒に対して耐性がある人間でさえ、高圧電流への対策はないのだから。

 そして多くの生き物に電気は有効手段だ。どんな分厚い皮膚を持った生き物でさえ、口の中から電流を流してしまえば生きたまま捕獲できる。鰐の活け造りさえできるのだ。ルランス王国はカメリア合衆国やアイリッシュ連合王国の発展から追いついている段階かもしれない。しかしそれは発展した二国の技術を、国を超えて手に入れようと躍起になれるということだ。

 ミッシェルは最新技術が大好きだ。意欲的に取り入れる姿勢は他の貴族では中々見受けられない。なにせ大半の貴族が昔は良かったと、古典主義に美しさを見出しているからだ。しかし少しでも美味しい物を口にするには、日進月歩するあらゆる知識と技術が最適解だ。


「さてと……それにしても自分の血を他者に与えることで回復させるって……もしかして彼女も人魚なのかい!? だったらこっちでも構わないさ! 君とそこの彼女と違って肉は薄そうで骨も多そうだけど、食べられるならば文句は言わないさ!!」

「……本当に誰でもいいんですか?」

「ん? んー、そりゃあもちろん美味しそうな食材を見分けるのは重要さ。貴重な食材ならば尚更ね。でも調理次第でどんな物でも旨くしてみせる。それは僕の主義の一つでもあるし、問題はないよ。まあ若くて肉が多そうと言えば、君が一番なんだけどね」


 牛ならば仔牛の方が肉が柔らかくて美味しい。しかし骨付き肉独特の濃厚な味わいを思えば筋肉質な動物の野性味も舌を満足させてくれる。成熟した牛の食べられる部位の多さや仔牛とは違う風味も食器を次々と動かす要因でもある。だが食材が最高級でも、調理が下手ならば意味がない。

 だからこそミッシェルは料理の鉄人キュイジーヌガート・ソースを購入したのだ。食材を手に入れるための移動手段や施設としてではなく、本来の目的である最高の料理を作る最高の機材として。潜水機能があるのも素晴らしい。これのおかげで例え船が転覆しても、渡航できるのだから。

 ミッシェルは少しずつ倒れ伏したユーナへと近付いていく。だがあと少しで屈めば手が届くという場所で、ユイレンが足を震わせながらユーナの横に立った。調理台の縁近くでは意識を取り戻したトオが横になりながら言葉を出そうとしているが、喉に血が詰まって上手くいっていない。


「怖い……ですけど……」

「おお! もしかして美しい自己犠牲の精神かな!! 僕としては大歓迎さ!!」


 嬉しそうに両手を広げてユイレンを抱きしめようとしたミッシェルの前で、彼女は膝を折った。足も、手も震える。しかし手探りで倒れているユーナの革ベルト、杖刀を固定している金具を見つける。本能的に恐怖が金槌で頭を叩いているように思えたが、なりふり構っていられなかった。

 魔力を吸収する杖刀。それは『魔力で生きる存在モンストルム』の天敵だ。ユーナはユイレンの前であまり杖刀を使わなかったのは、もし手から離れた杖刀が勝手に動いてユイレンに触れてしまった場合、肉体を持つとはいえ命に係わるほど魔力を吸いかねないからだ。今も固定したままなのは、狭い調理台の上で暴れてトオに接触してしまったら死が確定されてしまう。

 だからユイレンは恐れた。杖刀は怖い。それでも、期待した。魔術で人を殺すよりも、暴虐の限りを尽くす杖刀に『人魚である自らモンストルム』の魔力を吸わせたならば、予想もしなかったことが起こるのではないかと。


「貴方を黙らせられるならば、私は竜を目覚めさせます」


 杖刀を固定している金具を外す。そして黒い鱗で作られた鞘を強く握り込む。急激に吸われていく魔力に恐怖しながら、ユイレンは笑った。竜を恐れるなんて、まるで――人間みたいではないか、と。


 上体がふらついたユイレンの手から弾き出されるように杖刀が回転しながらミッシェルの顔面へと向かう。それを躱したミッシェルの背後で硬質な衝撃音、跳ね返ってきた杖刀に恐怖し、体勢を低くして避けながらミッシェルは電流銅線仕込み銃ワイヤー式スタンガンを握りしめながら、すぐに気づく。

 杖刀は生物ではない。自在に動くが、それは見せかけだ。ただ最初の動きから自らが発生した回転による遠心力で跳ね返り続けているだけにすぎない。もしも本当に自由な動きができるならばすぐにミッシェルの腹に一撃を叩きこむのが容易なのだから。

 回転を続ける杖のような長さ、そして刀特有の細さ。その二つを念頭に置いて判明する。狙いがつけられない。たとえ捕まえたとしても銅線を伸ばして絡めても電流が効かない。食べられない、無機質なはずなのに意志を持つ無機物。ミッシェルは蕁麻疹で体が蝕まれると思った。食材を愛する男からしたら容認できない存在だ。


 そして硬質な衝撃音が止まない限り、料理の鉄人キュイジーヌの胴体とも言える調理場が破壊されていく。水洗い場、竈、調理器具は散乱して、収納されていた皿が砕け散っていく。それだけではない。頬を撫でる風が強くなり、増えている。

 調理場を守る分厚い硝子の甲羅は一部壊れていた。その穴が暴れ続ける杖刀によって広がっている。ひび割れが増え、高所による強風が入り込むことで破壊痕が大きくなっている。結末が見えたミッシェルは銀色の調理の上を這いながら、倒れる寸前ながら両手で体を支えているユイレンへと近付く。目的の食材だけでも手に入れなければ、ミッシェルの夢は叶わない。未知なる食材に舌鼓を打つ、そんなささやかな夢。

 夢へと向かって手を伸ばしたミッシェルの腕を掴む者がいた。骨が折れる寸前まで力を込めた手は、まるで鋭い爪を持つ竜のように荒々しい意志が宿っている。呼吸を忘れるほどの恐怖を味わいながら、ミッシェルは自らの腕に爪を立てる少女が起き上がるのを眺めた。


「貴様がどんな人間だとしても……わたくしの美学に反した逆鱗に触れた限り、許されるとは思わないことですわ」


 そう簡単に目覚めるような電圧ではなかった。少なくとも銅線が触れていた場所には皮膚に焦げができるほどの熱が発生していたはずだ。だというのにユーナはミッシェルの腕を握ったまま起き上がる。回転を続けながら戻ってきた杖刀を右手で掴み、紫色の瞳に宿った眼光を強くする。

 軽い跳躍。それだけでひび割れが大きかった硝子の甲羅を突き破り、料理の鉄人の後頭部へとミッシェルの体を叩きつけた。骨が折れる音と、自らの体が鋼鉄を破壊していく異様な感触。それを味わいながら貴族の男は料理の鉄人の操作に集中していた執事が驚きで振り向いたのを緩慢と感じ取っていた。

 背中から衝撃を受けた老執事はそのまま料理の鉄人の操作盤に上体を押し付ける形に。手を動かそうにもミッシェルの重みが邪魔となり、操作すらままならない。次に感じ取ったのは支えを失った箱内部にいるような、断続的な落下と浮遊感。それが料理の鉄人の首筋、皮と鋼鉄の骨組みでできた支柱を杖刀で何度も力尽くで叩き潰している音だと気付いたのは、本格的な落下が始まってからだ。


 頭が落ちていくのを確認もせず、ユイレンは膝を使って調理台の上を歩いていく。甲羅のひび割れが大きくなっていき、縁近くで横向きに倒れているトオの背中を支える部分にまで及んでいた。ユイレンはまだトオに聞きたいことが沢山あった。それ以上に死んでほしくなかった。自分の過ちのせいで、トオが目の前から消えるのだけは阻止したかった。

 そんな願いも空しく、甲羅が全て割れた。操作を失った料理の鉄人は落下が始まり、傾いた胴体を滑り落ちていくトオとユイレン。手を伸ばしても、強風によって二人の体が離れていく。幻の花火が打ち上がる夜空を自由落下していく最中、風の轟音を貫く大声が耳に届いた。


「ユイレン!!!! 今行くわよぉおおおおおおおおおおお!!!!」

「カローリャちゃん!?」


 先程高所から落ちたとは思えないほど元気な姿で、いやそれ以上にやる気が漲った様子でミディアと一緒に蒸気噴射増加装置を装着した蒸気機関内臓大鎚スチームハンマーに乗って蛇行しながら空を駆け上がってくるカローリャ。思わず真珠の涙が出そうになったが、それを堪えて近づいてくるカローリャへと手を伸ばした。

 大鎚の均衡バランスが崩れるのも構わずに、カローリャは片手だけで鎚の柄を掴んで身を乗り出す。ミディアが慌てて柄内部に仕込まれた引き金を動かして蒸気弾で位置を調整し、少女の手が届くように配慮する。そしてカローリャの手は力強くユイレンの手首を握りしめ、一気に体を引き寄せた。

 三人分の体重が加算された蒸気機関内臓大鎚は大きく傾いて落下を始める。それを球頭と増加装置から噴き出る蒸気を使って速度を減少させていく。これで一安心だと思ったミディアの耳に、切羽詰まったユイレンの悲鳴に似た叫びが届いた。


「トオさんが!! あの……女性!! トオさんで……私の母さんなんです!! だから……助けてください!!」


 目を見張るミディアの驚きも放置して、言葉を聞いてすぐにカローリャはユイレンを抱えながら、片手で掴んでいる柄を動かして大鎚の進む方向を操作する。なんの力も入っていないトオの体は落下と重力、そして強い風にされるがまま落ちている。一秒経過するだけでその姿は遠くなっていく。何時見失ってもおかしくない。


「ミディア!! 絶対助けるわよ!! ユイレンを泣かせるのは許さないんだから!!」

「よっしゃ、いっちょ気合い入れていくか!」


 幻の花火の輝きがわずかにトオの体を照らし出す。それを頼りにユイレン達三人は花火の中を駆け抜けていく。色鮮やかな幻の火花が舞い散るのを横目で眺め、頼りない破裂音が体を震わせる。柄を掴む手の平には汗が滲み、今にも滑り落ちそうなのを誰かが上から支えてくれる。

 花火に紛れ込む白い蒸気に何事かと路上から空を見上げていた市民達が不審がる最中、とうとう本物の花火が打ち上がった。幻の花火とは比較にならないほどの鮮烈な光と鼓膜を震わせる心地よい音。青魔法で花火を作り続けていたロゼッタはそれを合図に本を閉じた。幻の花火は薄れていき、誰もが本物の花火へと目を向けた。

 幻の花火が消えていくのに気付いたミディアは、一向に距離が縮まらないトオの姿が見えなくなることに危機感を抱く。下にあるロンダニアの街を象徴するダムズ川を確認し、生唾を飲み込んで決意した。顔が青くなっていくのを悟られないように、あえて陽気な声で告げる。


「カロリャっち、後は頼むぜ!!」

「は? って、うぇぇええええええええええ!!??」


 足場にしていた鎚から白魔法を使って強く踏み出したミディアが銃弾のようにトオへと向かって飛んでいく。ミディアが跳躍したせいで大鎚の均衡バランスが大きく崩れ、カローリャはユイレンと力合わせて調整していく。お互いに反対側に立つことで、上手く均衡が取れた。

 落ちていく間に再度意識を失ったトオの腕をミディアは掴んだ。そして気合いを入れて自らの体を重心として回転させ、砲丸投げと同じ要領で成人女性の体をしているトオをカローリャ達がいる方向へと白魔法込みの威力で投げた。トオが圧倒的な速度でカローリャ達に到達するのと同一の力で、ミディアはダムズ川へと墜落した。

 勢いよく飛んできたトオの体をなんとか受け止めたカローリャとユイレン。しかし大きな水柱が見えたことにより、ロンダニアの街、つまりは地上が近付いているのを少女二人は察知する。そして水柱を立てたのはミディアであるのも言わずとも理解していた。


「ミディアくん!? どうしよう、カローリャちゃん!?」

「だ、だ、大丈夫でしょう!! だってアイツも白魔法が使えるし、さっきも気絶したと思ったらすぐに復活して力を貸してくれたし、今回だって……」

「でも……泳げるっけ?」


 動揺しつつもミディアを信頼しているカローリャだったが、ユイレンの言葉で思い出す。アルトのある意味悪意と好意が混ざったあだ名。それにおいてミディアはこう呼ばれていた。カナヅチ小僧と。そしてミディアがその名前だと弱点がばれると焦っていたことも。


「あの馬鹿ぁあああああああ!! ちょ、どうするのよ!?」

「……カローリャちゃん、トオさんをお願いね!」


 自分を穴の底から助けようと思って行動にすぐ移した少女。何度も善意から動いてくれたことを知っている。できればもう少し自分の意見も聞いてほしいけれど、好意だったから言えなかった。そんなカローリャだからこそユイレンは信じる。根拠もないまま我武者羅に動いて、助けようと奔走してくれる友達であることを。

 柄から手を離して静かに蒸気機関内臓大鎚とカローリャから離れていく。泳ぐのには邪魔だから、贈ってもらった服を空中で脱いでいく。水中では眼鏡も使えないから、作ってもらったそれも投げ飛ばしてしまう。強風に晒されて鱗が剥がれそうなほど皮膚が乾いても構わないまま、眼下に広がる汚れた川へと一直線に落ちていく。

 もっと泳ぎやすい体に。両足を閉じて一つに。緑色の鱗を足に集中して生やして、足先に刺繍布レースのような優雅な魚の尾ひれへと魔術で変化させていく。耳の穴を塞ぐように別の形へと変えて、魚の胸びれに似た形にする。地上に出る際に口と鼻の穴は必要だが、それ以上に水中で必須の鰓を首筋に。輝く緑色の流れ星のように、準備を整えたユイレンはダムズ川へと飛び込んだ。

 銀色の瞳は魚眼。水中は地上よりもよく見えたが、川が汚れているせいで視界は悪い。しかし冷たい水の中で熱を持つ物は少ない。乾燥や熱に弱い皮膚が、すぐに温かさを感じ取る。それは少しずつ水の温度と同化しているが、まだ熱は失われていない。そこへ向かって真っ直ぐにユイレンは泳ぎ始めた。




 墜落を始めた料理の鉄人キュイジーヌガート・ソースに一人残ったユーナは、コージ達が地上にいるならば大丈夫だろうと後始末を担う。ずっと調理台の下に保管されていた食材容器などを燃やし尽くしていた火蜥蜴達が彼女の足元に集まる。杖刀を調理台に突き刺して、それを支えに立っているユーナは静かに告げる。


「――悪しきは灰に。善きは光に。火は重なって炎に。命を奪う者よ、命を与える者よ、相反する同一者よ。燃えるがいい、猛るがいい、そして零へ戻るがいい――」


 足元に集まった火蜥蜴達が煌々と燃え上がる。先程『人魚モンストルム』の魔力を吸った破滅竜からさらなる力を与えられて、背中から炎の翼が生え、角まで額から姿を現す。それは最早火蜥蜴を越えて、小さな火竜となっていた。

 勢いをつけた火竜達は跡形もなく料理の鉄人を燃やしていく。数分後には灰も残さず消えているだろうと予測を付け、脱出の準備を始めようとしたユーナの耳に近付いてくる間抜けな音が聞こえた。空になにかを打ち上げた時の音であり、正体に気付いたユーナは顔を歪めた。これではまるで悪役の末路ではないかと思った瞬間、炸裂する音と光、体を震わせる衝撃に呑み込まれた。


 ユイレンがダムズ川に落下したのを見ていたカローリャは、頭上から聞こえた爆発音に意識を吹き飛ばされかけた。あまりにも巨大な爆発、見上げれば色鮮やかな花火と一緒に黒煙が立ち昇っている。そして小さな機械の破片が燃えながら落ちてくるが、多くは建物の屋根に届く前に灰になった。

 しかし建物よりも高い位置にいたカローリャは、破片の一つが蒸気噴射増加装置にぶつかったのを目で追ってしまった。突如刺激を受けた増加装置が金属ではありえないような膨らみ方をする。嫌な予感を覚えたカローリャは考えもないままトオを抱え、蒸気機関内臓大鎚を蹴り飛ばした。

 空中に投げ出された体を弾き飛ばす爆発。唯一の飛行手段を失ったカローリャは迫るダムズ川を見る。漁村で育ったため服を着たままの泳ぎ方は覚えている。しかし傷ついたトオを抱えながら汚い川に飛び込んでいいものか。むしろこの高さから着水するとして、普通に骨折の一つは覚悟しなくてはいけない。カローリャは白魔法を使えるが、それもどこまで通用するかは習いたての少女には未知数だった。


「リリカルウィップ☆と技名を叫びつつ、普通に蔓投げ!!」

「オメェら気合い入れろよ! ユイレンちゃんの友達を助けんだ、失敗した奴はオイラが許さねぇからな!!」


 体に巻き付いた魔術による蔓に疑問を投げかける暇もなく、まるで鰹の一本釣りのように再度空中に体を投げられたカローリャ。ダムズ川が遠ざかっていき、打ち上がる花火が目に映ったかと思えば、大きく広げられた布に向かって落ちていく。布の端を掴む大勢の男達が息を合わせ、着地位置を確かめながら最も安全な地点へと足を動かして移動していく。

 布の真ん中に落下したカローリャは、尻に当たった不気味な柔らかい感触に悲鳴を上げながらも何度も布の上を跳ねた。そしてはずみ終わる頃、フーマオの店から走ってきたジュオンが薬剤が入った箱を片手にトオの容態を見せるように石畳に降ろされた布を踏みながら向かってくる。

 途中小さな盛り上がり、簡単に言えば明らかに大柄な人物が寝転がっている部分をわざと踏み潰したジュオン。嫌な潰れた音と呻き声が聞こえたが、それも無視して胸に穴が開いたトオの様子を見て苦い顔をする。魔力は上質な物に多く宿る。一番良い薬草を組み合わせた液体状の塗り薬を取り出して傷口の上に塗していく。


「さっすがデッドリーのおじさん! そのエール腹の柔らかさは伊達じゃなかったね! おかげでユイレンの友達は無傷!! 大手柄だよ!!」

「ぐほっふぅ……途中誰かに大きく踏まれたみたいなんだが、まあいい! で、ユイレンちゃんの友達は可愛い系!? 美人系!? さっきの腹の受けた衝撃で判明した小ぶりで引き締まった絶妙なヒップは素敵な感じで、あれぇええええええ!?」


 布の下から這い出てきたデッドリーが嬉々としてカローリャを探すが、残念ながらカローリャはデッドリーのことなど無視してジュオンにトオを預けた後はダムズ川の岸辺に向かって走っていた。多くの人が花火に注目しつつ、同じくらい川岸へと視線を向ける。

 ダムズ川の岸に泳ぎ着いた姿が橋上からも確認できた。溺れて意識のないミディアの顔に両手を当てて、哀しそうな顔をするユイレン。大量の水を飲んでいるらしく、胸の上から触れば柔らかすぎる感触が返ってくる。そして意を決し、ユイレンはミディアに口付けした。口の中に舌を入れ、魔術を使ってミディアの内部に入り込んだダムズ川の汚水を呼び寄せる。

 しかしいきなり現れた人魚が溺れた青年を助けたと思った矢先、深い口付けをしたことで多くの者がどよめいた。カローリャもユイレンの大胆な行動と、相手がミディアである状況に思考が動かなくなる。その間も中々体の奥に侵入した汚水が取りだせないと、ユイレンは上半身裸なのも忘れて自らの膨らんだ胸部でミディアの胸上を押す。


 少しでも奥に舌を入り込ませ、胸を使って圧迫。そして全ての汚水が集まったと確信した瞬間、口付けを終えて顔を離す。ミディアの口から泡のように巨大な汚水が球状となって浮かび、ダムズ川へと戻っていく。しかし呼吸が感じられないと、ユイレンは再度口付ける。必死に息を吹き込むのだが、傍目から見れば人魚が積極的に求愛しているように見えた。

 そして何度も息を送り込むために顔を離しては口付けを繰り返した結果、五度目でミディアの肺が動き出して咽せ始めた。その反動で自ら起き上がり、一体なにが起きたのかと目を丸くする。川に飛び込んだ瞬間に苦手意識から気絶するという失態はできれば思い出したくなかった。

 しかしミディアが目覚めたのに感動したユイレンが体全体を使って抱きしめた。ミディアはユイレンが本物の人魚のように魚の尾びれを持っており、上半身が裸で濡れた服越しに伝わる柔らかさに鼻の下が伸びそうになる。様々な困惑と感情が雪崩のように襲って来る最中、背中に突き刺さる殺気に怯えた。


「アンタ……今、浮かれてるでしょ? 生おっぱいだとかなんとか……」

「いや、カロリャっち。その前になにがどうなってんの? いや確かにユイっちって着やせするタイプなのか想像以上に大きくて柔らかくて美乳で、さすが人魚だなーと思いながらも俺っちとしては今の状況がわからなくて困りつつも、いやおっぱいって世界救えるなーとか」

「アンタを見直したアタシが馬鹿だったわ!! このおっぱい馬鹿!!!!」


 花火のように殴り上げられたミディアの体が宙に浮かぶのを眺めながら、ハトリ達と一緒に移動してきたアルトが助言として、もう少し内角エグめに殴打した方がいい、と野次を入れている。ユイレンとしては折角助けた相手なので加減してほしいが、自分が上半身裸なのを思い出して川面から顔だけを出す状態に。

 その間に魔法を使ってユイレンが脱ぎ捨てた服や眼鏡を集めたヤシロが、橋の下の影から姿を現して顔を真っ赤にしながらも早く服を着るようにと手招きする。そしてユイレンが川から上がる直前に逃げるように影の中へと姿を消した。


「ちょ、カロリャっち! 俺っち頑張ったじゃん!? というかトオさんは!? それにユーナっちも! ちょ、まっ、あ、アルトの兄さん!?」

「俺様から言える残念なお知らせは一つ。お前愛用の武器は爆散した」

「一体なにが!? あいた、カロリャっち落ち着いて! 痛い、白魔法込みの拳はマジで痛い!!」


 にやけた顔であえて的外れな事実を教えるアルトに泣きそうになりながら、殴られ続けるのは辛いとミディアはカローリャを必死に止める。それも足を元に戻して服を着たユイレンが川岸から路上へ移動したことで、あっさりと暴行を終わらせた。


「ユイレン! 怪我はない!?」

「うん! カローリャちゃんも怪我ないみたいだね! 安心した! トオさんは!?」

「今ジュオンさんに見てもらってるから、行ってみましょう! ほら、ミディア! さっさと起き上がる!!」

「うーん、理不尽。まあいいや、リリカルっちがいるなら多分無事だとは思うけど……」


 そして三人がジュオンに抱きかかえられているトオの元へと向かう。薬草では傷口を塞ぐほどの魔力が補えないと判断してすぐ、リリカルを呼んで魔術を使って魔力を分け与えてもらっている。種は違えど結局は同じ『魔力偏重の化け物モンストルム』であるので、魔力を与えるくらいならば問題はない。

 トオの傷口は背中まで貫通する深手だったが、リリカルは予想よりも少し大きな傷と認識していた。最初からトオがユイレンの母親だと見抜いていたリリカルは、娘を守るためにその命を投げうつのは目に見えていた。それを予想してユイレン自身が魔術でなにかあった時に対処できるように教えたのだが、実際に問題に直面すると動けないのも想定内であった。

 しかし傷口がわずかに塞がりかけているのを見て、ユーナが応急処置として魔力が豊潤に含まれている自らの血を大量に渡したことも、魔力を分け与えながら気付く。これならばあと少し魔力を取り込めば、後は自らの魔力で治癒できるとリリカルは額に汗を浮かべながらも微笑む。


「トオさん……ごめんなさい。私、私のせいで……」

「……馬鹿な娘。謝るくらいなら、こんなこと二度とするんじゃないよ」


 真珠の涙を零しながらトオの手を握っていたユイレンを優しく叱るように、トオは口を静かに動かす。その声を聞いてユイレンはさらに大粒の真珠の涙を落とし続けた。つられるようにカローリャも涙を流し、嬉しさのあまりユイレンに抱きつく。横で両手を広げて待ち構えていたミディアは、そっと誤魔化すように頭の後ろに手を持っていく。


「トオさん、ありがとう。ずっと……ずっと、守ってくれてありがとう。ありがとう……お母さん」


 お母さん。その響きを耳にしたトオは、掴んで手を弱々しく握り返す。目の横から久しぶりに真珠の涙が頬を辿り、ユイレンの手の温かさに懐かしさを覚える。赤子の頃から変わらない温かさ、そして愛した夫の手もこんな風に痺れるような熱さだった。


「ああ……本当に……」


 海の底で忘れてしまった熱を逃さないように、トオはユイレンの手を離さない。きっと罪は消えない。手は汚れたままだ。それでも離したくなかった。どんなに馬鹿だと思っても、胸を押し潰すほどの感情が体を勝手に動かす。少しずつ戻ってくる力を手に全部集めて、ユイレンの手を握る。


「馬鹿なほど……愛おしい娘」


 夜空に打ち上がる花火の音に心の中にあった暗雲が全てを吹き払われていくようで、トオは穏やかに笑った。




 少し遠くの場所。花火によって人が出払った街の一区画にて。石畳を突き破って火蜥蜴を生み出し続けていた破滅竜は、上空から落ちてきた料理の鉄人キュイジーヌガート・ソースの頭を噛み砕いた。白く巨大な歯の隙間から零れ落ちるように、老執事とミッシェルが冷たく暗い石畳の上へと転がった。

 老執事が一足早く起き上がり、背中を打って動けないミッシェルの元へとすぐに駆け寄る。そして上空で爆発が起きた後、破滅竜は自らが吐き出した黒煙に隠れるように消えた。ミッシェルが背中以外にも左足を骨折しているのを確かめ、それでも意識があることに安心した老執事は鼻を啜りながら大声で泣き始めた。


「だからっ、私はっ、そろそろいい年なんだから落ち着いた行動をとっ!! ひっく、ずびっ、うぐっ、本当に貴方は昔から先代様を困らせることばかりっ、天国の先代様にどんな顔を向ければいいのか!! 生きててよかったぁあああああああああ!! 私より早く逝くのは許さないと雇用条件に追加してくださいいいいいい!!」

「いや、なんで君が無傷なのか結構不思議案件なんだけど。父上も病床で、百まで生きると思うけどちょっと健康すぎない? が遺言になりそうな勢いだったんだけど。グロリアーレ家の七不思議の内の一つだからね、君」


 顔の上に容赦なく降り注いでくる老執事の涙を舌で舐めとりながら、出汁がきいていると良かったのにと残念がるミッシェルは深く溜め息をつく。昔から破天荒をした覚えはないが、老執事が泣き喚く時は少し反省した方がいいと亡き父に言われているため、どうやって謝罪しようかと頭を悩ませる。


「わかったよ。とりあえず人魚は諦めるから。だからいい加減泣き止んでおくれよ」

「近々結婚すると誓ってくださるならば、今すぐにでも。貴方様の息子をこの腕に抱くまで死にたくないですからな!!」

「えーと……君確か僕の曾爺様と同い年、いやもういいや……あーいてて……早死にしやすい一族だから美食で長生きを目指してるのになぁ」

「ほんじゃあもう少し利口に生きる術を身に着けるんじゃな」


 音もなくミッシェル達に近付いてきたサウザンドが会話に自然と入り込んでくる。気配に気づかなかった老執事が驚いて周囲を見回せば、いつの間にか屈強な男達に取り囲まれていた。ミッシェルは痛む体に鞭打ってから、おどけるように肩を竦める。


「わあ。始末されちゃうのかな?」

「そんな面倒なことはせん。ちょいっと契約書に署名サインしてもらうけぇのぉ。儂んとこの部下に手を出したツケじゃ、しっかり払ってもらうぞ」

「なるほど。ツケはしない主義だ。食事には正当な報酬を。それで誰に誓って署名すればいいのかな?」

「守衛ギルド【正統なる守護】にじゃ。儂らの名を誓約に、今後一切人魚には手を出すな。それが守れるならばある程度の保証と、まあ雇用契約も場合によっては結んじゃるけん。悪くはない話じゃろう?」


 そう言って部下達に指示を出すサウザンド。布地と棒で組み立てた担架にミッシェルを乗せ、老執事も落ちた影響を考えて男の一人が背負って運ぶ。花火大会の警備をしつつも、密かに裏で動いていた守衛ギルド【正統なる守護】は、この日を境に時たま遠征による食材確保の旅路の護衛を請け負うようになった。




 そして最後にようやく爆発から生還したユーナは、泥だらけの様子でコージ達が集まっている場所に辿り着いた。爆発する寸前、火竜達を集めて自らを囲む炎の守護球を作り上げて爆発や衝撃、その他諸々から身を守ったのである。ただし足場を失くした上に、吹き飛ばされたのは事実である。

 まるで隕石のように落ちた矢先、建物の屋根を壊さないように赤魔法を使ったらあらゆる家の屋根を跳ね転がることになった。挙げ句の果てには路上で土が集まっている場所へと無様に着地したと思ったら衝撃を殺しきれずにもう一度空中に跳ね上がり、最終的に厩小路ミューズ用に蓄えられていた干し草へと飛び込むように止まったのだった。

 白い服は汚れ、靴下の膝部分は擦りむけて穴が開いてしまった。むしろあれだけの動きの中で黄金蝶の髪飾りが無傷であること、そちらに驚いたほどである。紫色の短い髪も干し草が幾つがくっついており、酷い有様だ。杖刀も疲れた様子で腰の革ベルトに固定されている。


「……わたくしがいない間にどうなったのですか?」


 ミディアはカローリャに再度怒られており、カローリャが活発可愛い将来美人系だと浮かれたデッドリーが空気を壊すなとジュオンによってダムズ川に投げ捨てられ、チドリとハトリはユイレンに改めて贈る服の話をしている。リリカルは空を指し、ユイレンは嬉しそうにトオと一緒に銀色の瞳で夜空に咲く火の花を眺めていた。

 そして花火を見上げながら本の頁をめくっていたロゼッタは、いつもの無表情のまま当たり前のようにユーナの問いかけに答えた。


「ハッピーエンドだよ」

「それならいいですわ」


 深く追及しなくていい答えに、ユーナも満足して空を見上げる。色鮮やかな火の花は痛烈な音を伴って勢いよく咲き続けた。一瞬で消えても、またすぐに新たな花が開く。その美しさを目に焼き付けながら微笑む。

 ただし耳に聞こえてくるデッドリーの溺れかけの醜い声や、それを助けようと大声を出しまくっている何でも屋ギルド【紅焔】の悲痛な叫びとか、ここぞとばかりにからかってくるアルトの浮かれた言葉とか、カローリャがミディアをおっぱい魔人と連呼していることとか、そこら辺は無視しようと心に決める。

 どうしてもう少し綺麗な終わり方ができないのか。いつも通りの賑やかさに、微笑みが苦笑いになったのは別の話であった。




 花火大会の日に現れたダムズ川の人魚。そして花火職人も驚いた上空の爆発事件。三流新聞では大いに摩訶不思議オカルトだと騒ぎ始め、真実はどこに落ちているのかと躍起になっている。中には人魚と一緒にいた人間の容姿から、スタッズストリート108番の借家ギルドホームへと向かう無謀者も。

 しかし近隣住民は無謀者に必ず忠告した。それはもう律儀に、それこそ親切に。聞く耳を持たなかった者に関しては痛い目を見てもらうしかないと、大きな溜め息をついて諦めた。そして近隣住民は響く破壊音に辟易したのである。ああまたスタッズストリート108番に住んでいる怪獣が暴れている、と。


「いい加減にしやがれってんですわよ!! 崇高な報道精神だかなんだか知りませんけど、人様の家の周囲をうろついて生活の邪魔をするっていうのはどういう了見ですか!? 警察ヤード呼びますわよ!!」

「ふふーん! やってみろってんだい! それくらいでぼくちんが諦めるような柔な性格じゃないんでネ! 和国より訪れし浅茅あそう鷹柳たかやなぎ! 子々孫々まで遺伝するであろうこの鋼の精神力で齧りついてでも特ダネは逃しはしないヨ!!」

「――末代まで馬鹿ばっかりと自信満々に言ってんじゃねぇですわよ!!――」


 口論の中に交えた呪文により、浅茅鷹柳と名乗った胡散臭い記者は空高く飛んでいくと思われた。しかし彼は言葉通り玄関の柱に齧りついて留まったのである。その根性に敬意を表し、ユーナは白魔法なしの右ストレートで浅茅鷹柳の頬を殴った。玄関の修繕費は免除する代わり、さっさと帰れともう一度赤魔法で丁寧に彼が働く新聞社まで吹き飛ばしたのである。


「まったく……人魚はもうここにはいないというのに、しつこいですわね」


 花火大会から一週間。七月末には人魚のユイレン、その友人カローリャの姿はスタッズストリート108番の家から消えていた。


 事の顛末は簡単だ。花火大会の翌日、カローリャは朝ご飯を食べながら呑気に告げたのである。


「アタシ、村に帰ろうと思う」


 突然の言葉にユイレンだけでなく、首に包帯を巻いたミディアも驚いていた。二階の居間に設置された寝台の上でジュオンの治療を受けていたトオは、娘とその友人達の様子を静かに見守っている。治療と言っても、トオの驚異的な回復力はあと数時間で傷口が完全に治る速度だった。


「色々考えてたんだけどさ……ユイレンが帰れる場所を作りたいなって。だから親父も説得して、人魚と暮らす村を目指そうかなって」

「無理なこと言ってんじゃないよ。夢物語は他人に迷惑をかけるもんじゃない」


 カローリャの淡い夢を一刀両断するトオ。負けじと言い返したかったカローリャだが、ユイレンの母親が判明したことで、トオがかつて多くの村人を虐殺した人魚だという真実を知ってしまった。そして虐殺に至った理由も探偵の口からあっさりと語られている。ただ『化け物モンストルム』が人を愛し、人が『彼女モンストルム』を恐れただけの、小さなすれ違いである。

 その些細なすれ違いだけで『化け物モンストルム』は大きな事件を起こしてしまう。望む望まずに関わらず、最後には後悔を抱えることになるのだ。トオがロンダニアの街までユイレンを追いかけてきたのは自分と同じ目に遭わせないためだ。


「じゃあユイレンが家族と暮らせる家を作る!! どーよ? これなら堅実でしょ!?」

「アタシまで巻き込むのかい? 呆れた娘だねぇ……ま、期待しないでおくよ」


 そう言ってトオは背中を柔らかい寝台に預け、深く呼吸してから眠りにつく。しかしその寝顔は穏やかで、どこか嬉しそうに口の端が上がっていた。素直じゃないと、ユイレンは微笑む。カローリャの真っ直ぐな気性は、こそばゆいほど眩いのだ。


「ユイっちがロンダニアに残るって聞いたからカロリャっちもそうかと思えば……寂しくなるなー。ま、頑張れよ」

「い、意外とアンタはあっさりしてるわね……その、なあに? たまには遊びに来れば?」

「いやー、俺っちこう見えて仕事はできるし、爆散した武器の再開発依頼とかあるから当分無理かな」

「真っ当だけどなんか腹立つ!! いーわよ! アンタは遊びに来なくて!! でもユイレンの護衛としてなら可よ!!」


 今回の件で愛用武器を失い、首筋に高圧電流を受けたことによる火傷などが残ったミディア。蒸気機関内臓大鎚は魔法道具ではないが、製作者は赤銅盤の発明家マグナス・ウォーカーである。そこにミディアが勝手に改造を施して数年が経過しているので、同じ物を作るためにも綿密な打ち合わせと莫大な開発費が必要なとなるのだ。

 当分は守衛ギルド【正統なる守護】の仕事に精を出し、給金を増やしていかなくてはいけない。口約束では適当なことを言いたくないミディアは正直に告げたのだが、カローリャの琴線に触れて怒られてしまった。しかしミディアは楽しそうに笑う。カローリャは友達としてユイレンとは別の道を行く。そのための目標を立てたのが、妹の成長を見ているようで喜ばしいのだ。


「もちろんユイっちの個人的な護衛は友達価格で引き受けるって。でも……わかってるよな?」

「はい。私は私の身を守れるように『成長した人魚モンストルム』としての力が必要です。だから……仕事しながら、リリカルさんの所で修行です! それにここ数日間ユーナさん達に良くしてもらった分のお金を払いたいですし」

「いやー、ユイっちは大人だねぇ! で、カロリャっちは?」

「うぐっ!? げ、現物支給でお礼の物を送ろうかなーと……魚とか」


 今回の件で人助けギルド【流星の旗】が動き続けた中で、正式な依頼も受けずに居候だけを増やして生活費を圧迫したことに、借家の会計関係を担っているヤシロから手痛い一言が出てきた。特にカローリャとユイレンは、ハトリから贈られたドレスなどを手荒く扱ってしまった。ハトリなどは気にしなくてもいいと和やかに笑うのだが、明らかに高価で上質な素材で作られたドレスをタダで貰った挙げ句に酷い有様になったのは良心が痛む。

 ユイレンはそれに重ねて魚眼用眼鏡や保湿乳液など手厚いもてなしを受けたことを少しでも返そうと、これからの給金の一部を依頼料として少しずつ払っていくと決意したのである。ただし保湿乳液による肌の潤い問題も、魚眼による遠近感の狂いも、魔術で全部解決すると知ってしまったのだが。

 トオが傷口がかなり塞がった際に、あっさりと教えてしまったのである。でなければトオだって魚眼用の眼鏡が必要だし、保湿乳液も必須だからだ。それを必要としないのは自らの魔術で全部補っているという証し。まだまだ甘いと軽く怒られたくらいだ。


 しかしユイレンは今も錆びた金色の縁でレンズを支える魚眼用の眼鏡を着けている。波打つ緑色の髪も自分の力だけでまとめられるようになった。肩にかかる髪型というのは、まるで子供のようだと笑われてしまう社会。その中で『人魚モンストルム』が大人の女性として生きていくには、そういった礼儀を重んじなければいけない。

 鱗も魔術や服で隠している。保湿乳液はさらに改良を重ねて万福屋で市販品として売るつもりらしいことを聞いて、ユイレンとしては初給料で最初に買いたい物の羅列リストに書いている。憧れの人間のように、少しずつ歩み始めたユイレンは顔を俯かせない。しっかりと前を向いて、声に出す。


「カローリャちゃん、頑張って。でも私、そんな簡単に帰ろうとは思わないからね。この街でやっていこうって決めちゃったもん!」

「……そのさ、ユイレン。今さらなんだけど、怒ってない? アタシは自分が正しいと思ってたけど、もしかしたらユイレンにとって嫌なことしてない?」


 前向きになったユイレンに虚を突かれたカローリャが、少し気まずそうに問いかける。勢いのまま行動して、ユイレンを振り回してきた。それがユイレンのためだと信じてのことだった。しかし落ち着いた今では本当にそれで良かったのか不安になったのである。


「花火綺麗だったよ」

「え?」

「無意識に使っていた魔術の未来視で朧気に見えた光景よりも、ずっと。それはカローリャちゃんが私の手を引っ張ってくれたからなんだよ。だから」


 母親の手を握りながら見上げた花火の色鮮やかさは忘れることなどできない。それ以上に目に焼き付いたのは隣で花火の明かりに照らされた、楽しそうな友達の顔。多くの人間と空に目を向けて、同じ感動を味わった。それは水底では体験できなかったことだ。

 カローリャがサウザンドを頼りにしてロンダニアに向かわなければ、ユーナやミディア達にも出会えなかった。もしかしたらトオさえも本当に死んでいたかもしれない。銀色の瞳で確実にわかっていたのは、空に火の花が咲くことだけ。それを美しいと思えたのは、ユイレンの周囲を彩ってくれた存在がいたからだ。


「ありがとう。カローリャちゃん」

「……お礼を言うのはアタシの方だよ。ユイレンがいたから、今のアタシがいる。ありがとう、ユイレン」


 顔を見合わせて笑う少女二人。全く異なる二人は、お互いに感謝を告げた。世の中に同じ人間が三人いるとは言うが、それ以上に違う誰かと心通じる方が浪漫があると、横で話を聞いていたミディアは青春を過ごす少女二人を静かに見守る。外見年齢は十七歳だが、三十路の男性としては気恥ずかしいくらいの温かみだ。


 そしてカローリャはサウザンドから旅費を借りて、生まれ故郷である小さな漁村へと帰った。今頃は大声で父親と喧嘩しながらも、少しでも村を良くしていこうと躍起になっているだろう。女村長を目指すと宣言し、それでさらに父親と言い争いながらも諦めずに真っ直ぐぶつかっている。

 トオは密やかに海へと戻っていた。元の醜い蛸の姿に変えて、去り際にユイレンへと言葉を残している。もしも人間の中で生きていけないと思ったならば、海の底へ帰ればいいと。ただし一度潜ったら、もう二度と地上には出られないから覚悟しろとも。母親として不器用な女の最大限の気遣いと優しさ。

 長く生きて人間が嫌いになってしまったトオに対し、ユイレンは返事した。本当に辛くなったらそうするかもしれない。しかし遠くない未来、カローリャが言葉の通りにユイレンが家族と暮らせる家を作れたならば一緒に生活しよう、と。長い寿命の中で、淡く消える泡のような時間でしか得られない幸せだって、花火のように胸に焼き付くだろう。それを分かち合いたい。親子として。


 そしてユイレンはとある建物内を走り回っていた。週休二日制が遠い未来の制度であることを考えると、三日に一度は上司が病院送りにされる職場は戦場の如き忙しさに襲われていた。窮屈な地下の室内は人で溢れていて、静かな水底が少しだけ懐かしくなる。

 しかし足を止められない。誰よりも努力して文字を覚えなくてはいけないし、読み書きもできなくては書類仕事も難しい。肉体労働とも言える依頼書運びは、人魚の腰さえ痛みをもたらすようだ。足元を過ぎ去っていく猫の従業員は、やる気に波がありすぎて微妙に頼りないが、この忙しさでは文句を言っていられない。


「ユイレン! ギルドホールの職員さんに書類を叩き返してきて!! 僕は眠ったまま起きないおじさんに気付け用の超絶苦い飲み薬を使うから!!」

「わ、わかりましたぁ!!!!」


 リリカルの指示に従い、総合ギルド【大樹の根幹】のギルドメンバーに加わったユイレンは書類を片手に走り出す。服装は最早ドレスなど意味をなさないので、業務用服装に身を包んでいる。メイド服を改造した事務服らしく、長いスカートではあるもののすっきりしたデザインだ。

 背後から男の呻き声と叫び声とあらゆる物を混ぜたような暴れる音が聞こえたが、それをゆっくり聞いている暇もない。大樹の館ギルドツリーからギルドホールは距離が離れているため、地下通路を使って行き来が可能とはいえ労力は変わらない。

 幾ら『人間雇用が通じないモンストルム』とはいえ、働く場所の候補をもう少し広げるべきだったかもしれないと思いつつ、ユイレンは慌ただしくて忙しいギルドの仕事を少しだけ気に入り始めていた。ただ他に雇用条件がいい職場があったら、転職を考えるかもしれない。


 ギルドの依頼を確認しに来たミディアに軽い挨拶だけをして、ユイレンは走る。その後ろ姿を眺めながら、ミディアは無事に過ごせているとカローリャに手紙を送れそうだと笑う。それをカローリャの胸の揺れに高揚していると勘違いされ、横にいたサウザンドに頭を小突かれてしまった。

 下水道周辺で七月末から溝さらいの動向が怪しいため、警察の巡回だけでは不安な市民から不定期な巡回をしてほしいという依頼を見つけたサウザンドは、ミディアに仕事を回す。愛用武器を失くしたばかりで少しでも稼ぎたいならば、体を使って地道に仕事をこなしていくのが堅実な道だからだ。

 巡回ならば夜闇を照らす手持ち蒸気灯スチームカンテラと警笛を持っていればいい。不審な動きを見つけたら笛を鳴らして威嚇し、襲われても肉弾戦で応じる。ミディアの実力ならばそれくらい容易いだろうと、サウザンドは歯を見せて笑う。その通りだとミディアは生き生きと依頼を他のメンバーと一緒にこなすと請け負った。


 賑やかな大樹の館を見下ろす南瓜頭は、楽しそうに動く人魚の娘を少しだけ羨ましそうに眺める。だがそれも十一月の祭りで全て燃える。きっと彼女は自分に賛同しないだろうと、勧誘の候補から外した。

 花火では空を染めるのが精一杯だ。街を燃やすならばさらに大きな火を。吊り下げ灯の中で青い炎を宿す石炭が煌々と燃える。南瓜頭の男は静かにその場から去った。




 最後にユイレンから簡単に料理の鉄人キュイジーヌガート・ソースで、ユーナの二人称が少しだけ変化したことを聞いたコージとアルトが、二人揃って驚いた後に苦笑いを浮かべた。


「ユーナくんの逆鱗に触れてしまったか……」

「姫さんが本気でブチ切れたっつーことだしな。もしも姫さんに『貴様』なんて言われたら死ぬ気で逃げた方がいいぜ。殺されないだろうけど、容赦も手加減もないだろうからな」

「ちなみにアルトはあったか? 私が覚えている限りではなかったように思うが」

「男前、怖いこと言うなよ!! さすがの俺様も姫さんをそこまで怒らせねぇよ! まー……なんだ。それくらいやばいレアだったんだろうな」


 花火大会の人混みに疲れたからか、それとも久しぶりに本気で激怒したからか。風邪の初期症状である盛大なくしゃみをしたユーナは、体を走った悪寒に震える。それは風邪だけではなく、別の予感も重なっているように思えたが、事態は既に水が流れる闇の中で進行していた。

 待ち構える迷宮の影も気付かずに、とりあえず人魚の少女とその友人が将来を定めて歩いていることに安堵したユーナは、もう一度大きなくしゃみをする。あまりにも破裂したような声を伴うくしゃみだったので、近くにいた自称執事のヤシロが耳が痛いと文句を言うほどである。そしてスタッズストリート108番の借家では束の間の平和な時間が流れるのであった。

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