EPⅤ×Ⅴ【苦しい声《painful×howl》】

 傷だらけのコージと無傷のマグナスは、夜明け前の下水道放流口前に一人の男を連れてきた。腐臭よりも濃い死の気配を滲ませる、ヴラド・ブレイドという男を。

 骨格を力強く意識したような顔には薄く硬い皮膚が貼りついている。彫りの深い鼻筋に黒い眼。癖の付いた黒髪は乱雑に手櫛で梳かれている状態。雨が降る前の湿気でそれも台無しにだった。

 死神の骨に人間の皮膚と目玉をつけたらこうなるのではないかという容姿に、初めて彼を目撃した警官の多くは一瞬息を止めた。無精髭を撫でる指が、次の瞬間には銃の引き金を引くのではないかという恐怖。


 黒一色の衣服は襤褸布に近く、千切れた跡と血生臭さが異様さを引き立たせる。それさえもヴラドという男を表現しているようで、中年という外見を感じさせない。

 そして背中には彼の巨体を隠せるほどの大剣、というにはあまりにも荒々しい成り立ちの鉄塊。下手すると岩石をそのまま利用した鎚にも、大岩を削っただけの牙にも見える。

 寝起きの不機嫌さは感じさせないが、それでも声をかけた瞬間に殺されるのではないかという恐怖。実際に彼を呼びに行って傷だらけで帰ってきたコージの姿を見れば、常人では太刀打ちできないと思わせる気迫。


「で、状況はどうなっていやがる?」

「全くの不明。というかさ……レイリー氏がやたら僕を敵視してたような……」

「知らん。俺は有益な奴は無傷で通せと言って、奴が違反しただけの話だ。仕置きは今頃フォンが行っているだろう」

「うう……コージ氏。僕だけで向かえばよかったね。君の犠牲は忘れない」

「あの、死んでません……から……」


 煉瓦の道に横たわったコージは服が汚れることに関してはなにも言わなかった。誰かに支えてもらってもあまり意味のない殴打の数々。

 語れば長くなる三節根による攻撃の嵐、マグナスを庇うためにそれら全て我が身で受けたコージ。白魔法が使えるとはいえ、単純な痣の数が多い方が一つの骨折を治すよりも大変である。

 そんなコージの横でヴラドはもう少し説明しろとマグナスを睨む。簡単な説明だけで連れてこられた身としては、下水道に入る理由と目的を明確にしたかった。


「下水道内部は恐らく迷宮化。上位魔導士が関わっている前提で、その犯人も内部に。中にはヤシロ氏の他にナギサ氏と確か細工師の……」


 言葉途中で放流口から誰かの足音が聞こえてきた。それが四つ足の獣であることを察知したヴラドは、警官達が逃げ出していくのを掻き分けて入り口に近付く。

 そして飛び出てきた黒い影の犬を目視してすぐに息を吐いた。影でできた送り犬は役目を終えたと合図するように、日の出が昇ってくると同時に散り散りと崩れて消えていく。

 代わりに送り犬の内部から放り出されるように、メイドのナギサと鴉の擬人化のような出で立ちの青年マルクがダムズ川へと落ちそうになる。ヴラドはそんな二人に助け舟は出さない。


 コージが慌てて起き上がってマルクとナギサの服を掴み、マグナスはコージのコート裾を握り締める。危うく汚水が流れる川に突撃する寸前に気付いたマルクは顔を青ざめさせた。

 ただしナギサだけは目を白黒させており、直後に挙動不審な様子で周囲を見やる。その間に警官達が集まってコージの体を川から離すことで、急に現れた重要参考人の保護という役目を担った。


「あれ? 夜明け……あわわわ!! ヤシロさんは!?」

「な、ナギサくん……すまないが早く地面に足を着けてくれ。君が持っている腕甲冑ガントレットの重みで私の腕が限界だ……」

「あわわわわ!! コージさん、すみません! あれ? なんでコージさんが? ヤシロさんは?」


 大急ぎで近くの石畳に足を着けたナギサは、もう一度周囲を眺める。夜明けの霧で覆われるロンダニアの街、集まっている警官、遠くで顔を見せ始めた太陽。

 どこにも犬耳の飾りを付けた執事である彼はいない。ナギサはてっきりヤシロが全員撤退の道を選んだと思ったが、どうやら違うようだと気付く。

 横ではマルクが一瞬前までは下水道で犬橇爆走していたはずなのに、何故か夜明けが見える街に出てきたのに驚いて言葉を失くした。


「……ナギサくん。君は借家に帰ってユーナくんかアルトにこのことを報告してくれ。そしてハトリくんとチドリにクローゼットにあるヤシロの私服に注意を払うようにと」

「わ、わかりました! というわけでマルクさん、僕は先に帰宅しますので後はコージさんを頼ってくださいね!!」

「え!? ちょ、ナギサさ……」


 マルクが縋るよりも速く、水を得た魚のようにナギサはあっという間にスタッズストリートに続く道、とは反対の道を走っていく。

 あまりの速さに方向転換を指示する暇もなく、コージなどは迷えば誰かに道を聞いて戻ってくるだろうと言いつつも、心配そうにナギサが消えて行った方向を眺めていた。

 そしてマグナスからある程度の説明を受けたヴラドは、これ以上は時間の無駄だということで下水道の中へと入っていく。歩いてすぐに見つけた赤い毛糸を手に、彼は法則文を省略した赤魔法で毛糸を光の速さで辿る。


 しかしヴラドが下水道の奥を目指した矢先、一発の銃声が放流口から響いてきた。遠い場所で反響したようにも聞こえるが、あまりにも急に音が届いたのでコージは肩を尖らせた。

 風の音も相まって、まるで獣の声に似ていたそれが静かに消え行く頃、今度は水が跳ねる音が幾つも重なって近づいてくる。誰かが内部から外へと進んでいるのかと、マグナスは腰に装着している工具箱から螺子回しドライバーを取り出して構える。

 そして腐臭と一緒に襤褸切れを纏った集団が現れた。一番先頭を歩いていた女などは、布地を紐代わりに伸ばしているせいか、殆ど半裸に近い状態だ。


「……まさか溝さらいさん?」

「その声は……ああ、工房の。半人前か」


 素っ気ない態度で女は警官の多さに舌打ちした。乱雑に伸ばした赤い髪は汚水で固まっており、顔も泥で汚れている。ただ茶色の目だけが宝石のように輝いている。

 手足は細長く、肉付きは悪い。しかし胸にはわずかな膨らみがある。短いズボンで股間を、黒い布地で胸を隠しているだけ。それ以外の場所は襤褸切れを包帯のように簡素に巻いている。

 瓦礫を掻き分けるための鍬は刃こぼれしており、いつ壊れてもおかしくない。彼女の背後では老人から子供まで、明らかに生活に困窮した男達が肩身を狭そうにしながら様子を窺っていた。


「溝さらいだと!?」

「あ、その、待機! 彼女達は僕からヤシロさんに探すように依頼した者達ですので、しばし待機を!!」

「……彼らが? なんで?」


 前には警察所属のコージ、背後には軽犯罪者とも言える溝さらい。それに挟まれたマルクは涙目で、どうやって事情を説明しようか悩む。


「じょ、譲渡したい物がありまして……溝さらいさんはなんで下水道に? 確か迷宮化していた上に、怪物まで存在していたはず!」

「怪物? よくはわからないが、構造がおかしいと気付いてな……紐を作る材料を集めていた」


 そう言って溝さらいの女は背後に伸びている布地を指差す。明らかに捨てられた端切れを歪に繋ぎ合わせ、手作業で結んだ荒々しい物。

 長さはそれほどではないが、それでも束にすると大玉に近い大きさになる。男が一人息を切らしながらも抱えている。もちろん汚水のせいで痛みは酷い。

 しかも途中で解けてしまったのも何回かあるらしく、無理矢理穴を開けて紐を通したような跡も見受けられた。まさかこれで迷宮に挑んだのかと、マグナスは絶句した。


「何度か忍び込もうとして失敗してたが、夜明け前に警察の動きが一箇所に集中していたからな。他の監視が緩くなっていた。その隙をついたんだが……どうなっている?」

「確かに最近は警戒を強めていたが……そうだ! さっきの銃声に心当たりは!?」

「ない。が……あれは銃声なのか?」

「どういうことだ?」


 コージの問いにさらに疑問を重ねた溝さらいの女に対し、コージは新しい問いを投げた。そして溝さらいは闇が広がる下水道を振り返って小さく呟いた。


「私には獣が哭いているように聞こえた」


 怒りと、哀しみと、困惑と、あらゆる感情を煮詰めた声。体の奥底まで震わせるような叫び。溝さらいの女はそんな声を何度か聞いたことがある。

 今にも食われそうだと暴れる鼠、鼠に齧られている最中で助けを呼ぶ仲間、今の生活に不満が募って耐え切れずに怒声をぶつける男、それらとは一線を画す原始的な声。

 真夜中の孤独な時間に轟く遠吠え。暗い森の中で、一匹の狼が月に向かって顔を上げる時に響かせる叫び。闇に呑まれずに誰かの耳に届かせるため、冷たい空気を震わせる。


 溝さらいの女は知っている。あれは弔いの声だ。狼の横で添い遂げるように死んだ仲間がいる時に、月に許しを請うような切ない哭き声。

 色々な感情が胸だけでなく喉さえも締め上げる際に出てくる声。溝さらいの女は、銃声にそんな既視感を持った。誰かが死んで、誰かが哭いた。顔も知らない誰かが誰かの死を伝えるために叫んだ。

 その後はなにも聞こえない。それはきっと死を受け止めようと心を無にしている時か、抱えきれずに放心しているか。なんにせよ溝さらいの女は小さく息を吐く。


「こっちの心臓まで締め上げる、苦しい声だ」




 欠けた壁から歯車が軋む音。水が流れていくたびに、煉瓦の壁になにかが擦れる。静かに、どこまでも静かに。闇は奥から色々な物を溢れさせて、光がある方へと流していく。

 重い雨粒が川面を波立たせる。淀んだ色の水が海に向かっていく。赤い毛糸を辿ったヴラドは、目の前で汚水の中で座ったまま頭を俯かせている少年の背中を蹴り上げた。抵抗せずに、少年は汚水を転がる。


「なにをしている?」

「……アンタには関係のない話だ」


 もう一度、今度は腹を蹴り上げる。少年の喉が詰まった音を出した後、口からほぼ胃液の嘔吐物を汚水にぶちまける。それでも少年は立ち上がろうとしない。


「テメェが殺したのは怪物だ」

「違う。自分が殺したのは人間だ……人間なんだ」


 何度も言い聞かせるように、少年は生気のない瞳で死体を見る。頭は雄牛、体は筋骨隆々な大人。だらしなく開いた口の歯並びは草食動物そのものだが、歯間に腸のような肉類が挟まっている。

 頼りない足取りで少年はヴラドから死体を庇うように移動する。燕尾服は血と汚水で汚れて酷い有様で、こげ茶の髪の毛も濡れている上に臭いが染み付いてしまった。遠くの場所では魔道具である犬耳飾りが流されかけているが、瓦礫にひっかかっている。

 死体は頭を撃ち抜かれていた。見開いた目には苦悶の表情は浮かんでいないが、正視に耐えない。少年は怪物の瞼を優しく閉ざす。ヴラドは盛大な舌打ちをし、珍しく苛ついたように言葉を吐き出す。


「テメェは人間扱いした奴の墓も作らねぇのか?」

「……どこに埋めろと?」

「どこでもいいんだよ。戦場でもいい。墓標なんて折れた剣で充分だ。そんな醜い骸を晒すくらいなら、埋めろ。俺はそう教えたよな?」

「……星が見える所がいい」

「口減らず。青錫杖でも尋ねろ。アイツは聖職者だ。金次第で念仏もつけてくれるだろうよ」


 ヴラドは面倒そうに歩き、瓦礫に引っかかっていた犬耳飾りを汚水ごと跳ね飛ばす。それを頭に受けた少年は、仕方なく落ちてきた愛用の魔道具を受け取る。

 暗い闇の中でも影はできる。放流口が近い場所ならば、外が雨とはいえ色濃い影が背中越しに伸びていた。ヤシロは死体と一緒に自らを影に沈ませていく。死体と元部下が消えた後、ヴラドはもう一度珍しく横の壁を八つ当たりに蹴った。

 ヴラドという男は合理的だ。感情に流されない。しかし今だけは感情のままに無駄なことをしないと、この後の仕事効率が落ちるという建前で憂さ晴らしを行った。


 蹴られた壁は大破し、中の歯車機構が怪しい音を立てた。そしてヴラドは見つける。街を支える歯車機構に細工された跡を。本来なら蒸気を生み出すための装置が、別の物を生産する仕組みと併用されている。

 魔力。魔法を使うとなれば必要な動力源エネルギーだ。そして魔力は万物に宿る。特に質のいい鉱石には多く内包されるように、上質な物ほど魔力は含まれる。魔道具を作る際には素材の良し悪しも重要になってくるのは当たり前だ。

 まるで歯車で絡繰り細工をするように、一定の組み合わせで歯車の動きから発生する軋みの音に魔力が生産するように仕組まれている。道理で歯車の音が煩いわけだとヴラドは納得した。


 マグナスがヴラドに説明した時に、迷宮化維持に必要な魔力は迷宮自体が補給しているとは聞いていた。放流口から見た時点で最高位魔導士はその仕組みを見抜いていた。

 三百万人以上が利用した後の生活用水にだって多くの魔力が含まれている。それを循環させることで溜まらないようにしている。魔力が偏重すると、色々と不具合が起きるからだ。

 放流に関しては一見変化はなかったが、それは水だけが迷宮化の影響を受けていなかった。迷宮は閉じ込める物。しかし対象は怪物と人間。放流口も人間が侵入すれば全てが入り口となり、どこから入っても全く同じ場所が始発に変化していた。


 そうやって下水道内の歯車機構と汚水を利用して、迷宮がそれらを循環するように構造を変形させていた。迷宮の構造を決めたのは黄魔法で呼びよせた『両刃の斧レリック』で間違いない。そこに刻まれた紋章が、地図だった。

 そして緑魔法で誰かを怪物に仕立て上げた。ヤシロの罪悪感の大きさと事前情報から、ヴラドは子供だということは予測している。子供ならば緑魔法で憑依させた『伝説の怪物レリック』に支配、もしくは融合か統合。なんにせよ抵抗なく理想通りに仕立て上げられる。

 その怪物の維持は簡単だ。語り継がれる通り、人間を食べさせればいい、で終わる。人間の肉体や血にも魔力は含まれており、それを摂取するだけでもかなりの量は得られる。


 ヴラドは静かに見回す。誰かが暴れたような跡、撃たれた跡、そして放流口に向かって逃げ出したと思われる跡。怪物が消えれば迷宮は用無しだ。順番としては緑魔法の次に黄魔法。二つを組み合わせての迷宮化だった。

 迷宮が消えた後に誰かが放流口へと走りだした。しかし怪物を殺した少年が、その誰かを見逃すはずがない。そして放流口には滑ったような跡も残っている。先には茶色く汚れた川面。

 ヴラドはこれ以上の探りは必要ないと、赤い毛糸の先をもう一度辿る。迷宮から出る方法は一つ。糸を手繰り寄せて入り口から脱出するのみ。それを思い出してヴラドは感情のない声で呟く。


「馬鹿な奴だ。まだ迷宮の中にいる」


 赤魔法でマグナス達が待機しているであろう放流口へ向かう。そして伝えなくてはいけない。早急に川を捜索して上位魔導士の死体を見つけ出せと。




 蝋燭の灯りだけを頼りにして、香が焚かれた清浄ながらも小さな部屋。四方を御簾で囲み、静かに両手の皺を合わせて黙想する男が一人。頭髪のない頭は青白く見えるが、滑らかな曲線を描いている。

 黒く細長い眉の間に、小さな赤い丸気孔チャクラが一つ。人の気配に気づき、薄い瞼を開いて青い眼を動かしてその方向を見る。穏やかに唇で弧を描き、正座している足の横に置いていた錫杖を手に取る。

 薄青の着物の上に青の袈裟。錫杖も青錫でできており、六つの輪が歩くのに合わせて空気を切り替える涼やかな音を鳴らす。西の御簾を上げ、その前で頭を下げている少年に微笑みを向ける。


「どうしましたか?」

「墓所が欲しい。星が見える静かな場所……三人、弔いたい」

「構いませんよ……しかし条件はわかっていますか? 慈悲とは無償を意味する物ではありません」

「知っている。今はこれしかない。足りなければ後から持ってくる」


 木の床に重い音を立てた金貨袋は薄汚れていた。それでも僧侶の男は愛おしそうに金貨袋を包み込むように持ち上げ、静かに中身を数え始める。


「よろしい。教会の土地ではありませんが、東の丘にイチイの木があります。そこに埋めるとよいでしょう」


 青白くも細長く綺麗な指先で、僧侶は少年の要望に応える土地を勧めた。ただし視線は少年が背負う怪物の死体、そして布地で包まれた金髪の長い髪に、それにこびりついた赤子未満の指。

 すぐに移動しようとする少年の肩に優しく触れ、僧侶は懐から巻物状の教典を広げる。それはアイリッシュ連合王国では異質ながらも、確かに認められている神仏教において重要な道具である。

 床を使って小さく錫杖を鳴らす。それは祭事の時に神に捧げられる音のようでいて、死者を安らかに眠らせるための音楽に含まれる鈴の音にも似ていた。


「その前に……神の祝福を受けず、母の胎から引きずり出された赤子に仏の御心を。いつか輪廻の解脱へ辿り着くように。三千世界を巡りて眠れ」

「……」

「もちろん、望まれて怪物になった幼子にも。善因善果、悪因悪果。これ即ち因果応報。人の望みを叶えた幼子は、いつか望みを叶えてもらうことでしょう」

「死んでいる……意味はない」

「貴方には彼と同様に悟りと輪廻を説くのは難しいですね。しかし生とは即ち苦しみである。死を幾度重ねようとも、我らは輪廻から逃れられず苦しみ続ける。苦しくない人間はいないのですよ。しかし苦しみには原因がある。どうかそれを忘れずに」


 薄い唇を柔らかく動かし、念仏を唱え始めた僧侶の声へ静かに耳を澄ませる。まるで流れていく水のように、言葉が頭に入ってこない。

 神も仏も信じていない。そんな上等な存在がいるならば、下水道で泣く子供など生まれるはずがなかった。たとえ『神々レリック』の存在を認めても、少年はそれだけは否定する。

 この念仏の言葉さえ、死者には届かない。それでも少年は黙って最後まで聞き終えた。少年にはわかっていた、念仏は死者だけでなく生者にも説く目的があるのを。


 スコップを片手に少年はイチイの木の傍に穴を掘る。怪物の体が大きく、少しだけ苦労することになった。しかも雨が降っているため、水気を多く含んだ泥は重かった。

 黙々と穴を掘った後は、僧侶の計らいで用意してもらった棺桶を中に入れていく。赤魔法で土を少し乾かし、なるべく湿っぽくならないように注意する。棺桶を地面に横たえ、静かに土を被せていく。

 泥だらけになった姿。しかも下水道からすでに汚水と腐臭が染み付いていた。それでも少年は着替えようとは思わなかった。今の自分に似合いの、酷い姿だと考えての判断だ。


「――地獄の番犬、テメェらが知っている最上の墓石を作り出す道具を寄越せ――」


 黄魔法で現れた大槌を担ぎ上げて、棺桶を埋めた場所へと少年は振り下ろす。すると組み上がるように白い石が形成され、一つの立派な墓ができる。

 名前も刻まずに少年は大槌を『地獄の三つ首レリック』へと返却する。名前も知らない怪物、名前も聞いていない母親、そして名前を付けてもらうこともなかった赤子。

 少年はわざと名前を彫らなかったのではなく、彫れなかった。重い雨が服に染み込んで、その場から一歩も動けなくなる。黒い空は晴れる様子もなく、街が暗く沈んでいる。


「……自分は、なにをしているんだろうな」


 その言葉を最後に少年の視界は反転する。濡れた土が背中や後頭部を汚しても気に留めず、雨粒が目の中に入れば瞼を閉じて耳横へと流す。

 疲れた。それ以上のことは考えたくないと思考を落としていく。聞き慣れた声が慌てるように誰かを呼んでいるが、それすらも遠くなっていく。

 このまま泥沼の中に落ちていけたらと思うのに、誰かが少年の手を掴む。体だけが浮上していくような感覚に、どこか乖離していく意識。もう一度、少年は闇に潜った。




 時計塔クロックワークユニバースからマストチェスター橋を通ってダムズ川を越えた先、そこにはとある看護婦が作り上げた理想の体現と言われる病院が存在していた。

 聖マークス病院。どこまでも患者のことを考え、衛生と清潔に気を遣った建物構造。建築学、医学、あらゆる面において優秀と評されているが、看護婦はこれに満足せずに今も羽ペンを片手に統計学を用いた理想を追い求めている。

 花の名前を持つ彼女は夜になれば吊り下げ灯ランプを片手に病室を巡り、患者達を見守る。それだけでなく後継のために病院内に看護士養成学校も設立している。


 病院の第一条件は患者に害を与えないことである。彼女の言葉通りの病室で少年は目を覚ます。生憎の雨で陽光はないが、大きな窓から外の様子を窺える。

 二階から見える街は海の中に沈んでいるように暗く静かで、時計塔を見れば正午だというのがわかる。少年は着ている服が患者服に代わっているのに気付く。髪も洗われ、石鹸の香りがかすかに鼻をくすぐる。

 怪我をしていた場所は清潔な包帯が巻かれ、洗い立てのシーツは白そのもの。病室内部も光と明るさを重視した壁紙などが使われており、下水道にいたことが夢のようにすら思えてくる。


 ベットの横にある丸椅子で腕を組みながら船を漕いでいるコージの肩を、少年は軽く触れる。すると驚いたように鼻と喉から音を出したコージは、慌てて顔を上げた。

 よく見ればコージの服装も患者服に変わっており、徹底的に洗われたように灰色の短い髪がいつも以上に爽やかになっている。それでも人当たりの良さそうな男臭さは本来の気質のまま残っている。


「ああ、目覚めたか。ツァンさんが使者を送ってくれてな。案内に従って向かえば泥だらけな上に傷が酷かった……おかげでフローラさんの鋼鉄のような眼差しに押し潰されるかと思った」

「……自分の魔道具は?」

「すまない。不衛生だと塵捨て管ダストシュートに。私の服や君の燕尾服もだ。お互いに下水道の近くにいたしな、他の患者に菌を持ち込む気かと……かなり怒られた」

「そうだとは感じていた。そこで他の病院に回さない辺り、彼女の看護精神は恐ろしいな」


 少年は息を吐く。コージはあえて省略していたが、服を剥ぎ取られた後は大浴場かなにかで徹底的に洗浄されたに違いない。それこそ隅から隅まで、下手すると手が入る体内部まで。

 なにせ少年の場合は口の中に汚水を飲み込んでいたりする。だというのに口内は歯磨き粉まで使われたらしく、臭いまで消されている。意識がない状態でもしかしたら腹の洗浄も行われていたかもしれない。

 もしも他の病院に少年とコージを行かせれば、そこから病気が広まるかもしれない。いまだ彼女ほど患者を気遣う看護婦や医療体制は整っているとは言い辛い。一人でも救うため、どれだけの手間をかけても二人を徹底的に殺菌と消毒する。それが最も効率的であり、病の可能性を絶つ手段である。


「とにかく……お疲れ様。今は休むと良い。マルクも目当ての人物に会えたようだし、今は警察で事情聴取を受けているが……明日には自由のはずだ」

「そうか」


 コージは少年の額に手の平を置き、優しく押す。抵抗もなく少年は柔らかな枕に後頭部を埋める。このまま恐怖も感じずに眠ることができるのならば、確かに天国のようだ。

 それでも光を重視した病室は少年は慣れない。手厚い治療も、なにか裏があるのではないかと疑ってしまうのは、とある無精髭男のせいだ。傷口を塩で洗われた件は記憶としては生々しい痛みが脳裏に蘇る。

 瞼を閉じない少年が眠れないのだろうと判断したコージは、世間話でもして気を紛らわせようかと話し出す。と言っても差し当たりのない仕事に関する話か出てこないのだが。


「そういえば今月の初めに川に浮いていた水死体がどうにも絞殺の跡があるらしくて、ヴィクトリアさんも動き出して大変な予感が……アルトもそれで出かけているらしい」

「もう死体は埋めたはずじゃなかったのか?」

「埋葬する前に軽い検死は行ったからな。ただ墓場の鐘が鳴るとかなんとかで不気味な噂もあって……川を死体捨て場にしないでほしいものだ。探すのも一苦労だ」

「……そうだな」


 歯切れ悪く返事した少年の様子に気付かないまま、コージはもう少し別の話題にした方がいいかと考えながらも、話をダムズ川に繋げた。


「ヴラドさんの指示で今回の犯人の行方も捜しているのだが……川に落ちたと言うが、いまだ発見できていない」


 少年は微睡んでいた意識を一瞬で覚醒させる。心臓が嫌な音を立てたことも、目が覚める要因だ。高まっていく鼓動を肌で感じながら、コージの言葉に耳を澄ませる。

 雨粒が激しく窓を叩きつけようとも、一言一句逃さないように。自らの呼吸すらも消していくように集中して少年は続きの言葉を待つ。


「このまま海に流されてしまえば行方不明扱いだ。せめて問題の上位魔導士かどうか確認を取り、研究室から今回の企みについての証拠を押収しなければ」

「……」

「彼の御家族も地方で療養中とあったが……その真偽も確認中だ。幼い息子さんがいるというのに、何故こんなことを……」

「…………」

「ああ、すまない。暗い話にしてしまったな。今、近くで働く看護婦さんから温かいお茶を貰えないか尋ねてくる。少し待っていてくれ」


 穏やかな微笑みを少年に見せた後、コージは病室の外にいる看護師へと歩いていく。その背中が遠ざかっていくのを確認してから、少年は布団で身を隠した。

 布団内部の薄暗さと温もりから抜け出すように、少年は病室から姿を消した。同時に塵捨て場から捨てられた犬耳の形をした魔道具も持ち去られた。




 何時間もかけて帰ってきたナギサの報告を受け、チドリとハトリは借家の中でも一室を埋めるクローゼット部屋を開く。半分以上はハトリがデザインし、チドリが作った衣装だ。

 管理は基本的にチドリが行っており、メンバーごとに区分けしている。しかし自称執事の区画は小さい。普段から彼は服に興味がないので、ハトリがプレゼントした服も新品同様だ。

 それでも使い込まれている服が一つ。いや、厳密に言えば毛皮である。ユーナ曰く、緑魔法を使う時に少しでも『憑依相手レリック』が好むようにと用意する、儀式服に近い。


 チドリは目的の服がないことに気付き、嫌な予感が背筋を走った。しかしその予感以上に体を震わせたのは、屋根裏から響いた怒号である。


「この野蛮猿!!!! 病人であるわたくしの部屋に勝手に来た挙げ句、目の前で美味しそうな肉を食べるなど言語道断!! しかも牛肉ビーフ!! 今は胃に優しい物しか口にできないと知っての狼藉ですわね!!」

「俺様から珍しく風邪をひいた姫さんに対する、匂いだけでもという気遣いがわかんねぇかなぁ。うっま! めっちゃ美味い! こんな美味を食べられないなんて可哀想だよなぁ」

「むっきぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!! っごほっ、げほっ、咽た!! 今はただでさえ喉も痛くて青魔法とか使うの億劫なのですから、出てけぇええええええええええええ!!!!」

「いつもの似非お嬢様口調も形無しになるほどかよ!? 結構な重病じゃねぇか! おーい、チビ助ー! チビの助平はどこだー?」


 屋根裏部屋の梯子から下りながら、少年が聞けば無言で銃口を向けるようなあだ名を使用しつつ、アルトは周囲を見回す。わざと怒らせるように呼んでいるのに、自称執事は現れない。

 異変を感じ取ったユーナも降りてくる。顔は真っ赤で、息も切れている。本来ならば絶対安静なのだが、いつまで経っても帰ってこない少年に違和感を覚える。


「大変よん、ユーナちゃんにアルトくん! ヤシロくんったら、あの服持ち出しちゃったみたいなのん」

『え!?』


 アルトとユーナは思わず声を揃え、そのことについても含めて嫌そうな表情を浮かべた。しかし今はそれどころではない。簡単に言えば火薬自らが火種を持って消えてしまったのと同じ状況。


「……全員でヤシロさんを捜索ですわ!! なに考えているかわかりませんが、本気を出したヤシロさんは危険ですわよ!!」


 焦ったようなユーナの指示に従い、借家内にいるギルドメンバーは出かけるための準備を始める。夏風邪をひいているユーナも例外ではなく、愛用の杖刀を片手に着替えに向かう。

 雨が降ったロンダニアの街は夏でも寒々しい。防水加工を施した愛用の白いワンピースコートに、膝の上まで隠す黒い靴下にブーツ。ただし藍色のフリルスカートは変わらない。そのせいで太腿が見えても気にしない。

 相手の実力を思えばいつもの動きやすい服装でも勝てるかは五分。夏風邪や相手の本気度具合を考えれば勝率は三割。小さく咳き込みながらユーナは気を引き締めた。


 以上が「少年」の話である。ここから先は「獣」の話をしよう。

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