EPⅤ×Ⅳ【救いか人殺しか《help×murder》】

 いつしか少年は時間を忘れた。闇の中で、なにも知らない少年は体の変化も止めてしまう。自分の名前もわからないまま、奥へと進んでいく。

 少年は獣だった。それでも願うことは本能的な欲求一つ。生きたい。たとえ誰に望まれないのだとしても、それだけが少年が暗闇の中で見つけた唯一の希望だった。

 だからこそ知るべきであった。伸ばされた温かい手は決して救済ではないことを。闇よりも深い業が忍び寄る。汚水に潜む病原菌よりも根深く、少年の身を蝕む類であったのを。




 監視官の報告と、被害者となったデッドリーの報告から、またお前の管轄だろうと担当地区外に呼ばれたコージは、下水道の放流口へとやってきていた。

 毛布に包まったデッドリーは怒鳴り続けて、川に落とされた監視官達は涙目で医師の指示に従って胃の中に入った汚水を無理矢理吐き出している。汚水の脅威が知れ渡った現在、少しでも病の発生を防ぐべきだ。

 灰色の短髪に指を入れ、軽く頭をかく。まさかヤシロとナギサという二人が依頼を受けるとは思っていなかったコージは、嫌な予感が体全体を震わせていると思えた。


 ナギサがもしも下水道の大事な大壁を何枚もぶち抜きにしたら。それを考えるだけで地盤沈下に似た道路崩落が起きていないかと、心配で仕方がない。

 しかし一番厄介なのはヤシロであることをコージは知っている。正当な依頼の真っ当な内容ならば、ヤシロは十全の成果を持ってくる安心感があった。

 今回は違う。行方不明者が増え続ける下水道内部、そして報告書で送られてくる下水道内部の歯車機構の挙動不審。問題は既に警察の管轄から逸脱し始めた。


「コージ氏、こんな夜遅くに呼ぶなんて珍しいね。まあ僕は二十四時間労働だから、時間の概念は怪しいところではあるんだけど」

「マグナスさん、夜分遅くに申し訳ありません。それと適度な休憩を取らないと作業効率が落ちると思いますよ」


 縮れた赤毛に緑の瞳。そばかすが残る顔には寝不足の気配はあっても、疲労は滲んでいない。赤銅色のオーバーオールは彼愛用の作業服。指先では螺旋を転がし続け、口先では設計図に必要な計算式を呟き続ける。

 世界に七人しかいない最高位魔導士の一人、赤銅盤の発明家マグナス・ウォーカー。一応本業は制作ギルド【唐獅子】のギルドリーダー、及び設計・開発責任者である。

 基本的に人懐っこい表情を浮かべる二十代くらいの青年という外見であり、性格も気弱なところがあるくらいだ。ただし発明に関しては人が変わったようにのめり込み、産業革命を後押しする存在でもある。


 生欠伸をしながらマグナスは空を見上げる。霧でぼやけているとはいえ、暗い夜空の気配は薄く伝わる。時刻は夜中の十時。ロンダニアの街に住む人々の多くは寝ている時間だ。

 あと二時間も経てば日付も変わる頃合いであり、マグナスはコージに現在の日付を確認する。八月五日と言われて、九月の聖ミカエル祭まで一ヶ月近く迫ったことをマグナスは認識した。

 専用の工房を地下に作って、ギルドメンバーにも邪魔されないように仕事をこなしているマグナスはどうにも時間を見る習慣を持っていない。近くに機械仕掛けの神代デウス・エクス・マキナに乗り移っている『時の神レリック』も呆れる事実である。


「休憩を取った十分で、十分の遅れと士気継続が困難になるのは嫌いなんだけどなぁ。誰だって調子がいい時は邪魔されたくないじゃないか」

「はあ……反省書を書き続けている身としては休憩時間はありがたい物なのですが……では事件解決のため、事案について説明しますね」


 周囲で騒ぎにならないように動き続けている若手警官は、コージの面識の広さに驚く。相手は最高位魔導士、なによりアイリッシュ連合王国にて常日頃から名前を耳にする赤銅盤の発明家。

 彼の発明と特許を一つ得るだけで、一生は遊んで暮らせる。そんな噂が広がるほど、彼の発明は生活に深く浸透している。魔導士としての知名度ならば黄金律の魔女に次いでの二番目と言える。

 中には彼の名を騙る詐欺も出回ることも多く、マグナス印の特効薬は驚異的に売れてしまった馬鹿騒ぎもある。警察は逮捕がこんなにも楽な事件は類を見ない、と呆れて笑うほどだった。


 いわば著名人物。そんな相手にいつも通り警察関係者と接するように、コージは会話している。臆した様子も、畏まった気配も見せていない。

 逆に失礼なのではないかと内心慌てる若手警官の心内も知らず、マグナスは慣れたようにコージの話に耳を傾けていた。そしてもう一度生欠伸してから、発言をする。


「つまり下水道内部自体が変化しているのではないか、ってことね。だけど下水の放流に関しては問題ない、と」

「はい。ロンダニアの基盤でもある大下水道に異常があれば、その内部を流れる水にも変化が出ると思ったんですが……」

「……コージ氏、もしかして僕が来る前に誰かにそう吹き込まれなかった?」


 指先で回していた螺旋の動きを止めて、マグナスは静かに放流口を見つめる。生欠伸で緩んでいた顔も引き締めて、油断なく見据える。


「よくおわかりで。実は上位魔導士一人に協力を仰いだ方がいいと地区担当の者が判断したらしく、管理ギルド【魔導士協会】から黄金の魔導士が派遣されています。名前はハガット・グルン。先程、異常の原因を探るために侵入しています」

「だってコージ氏にしては推測が妙に魔導士寄りと思ってね。黄金の魔導士……道具を召喚する黄魔法が得意と……ちなみに何時からの協力?」

「五日前、つまり異常が現れてからですね。御家族に奥さんのミレーヌ・グルン、一人息子のサンダース・グルン。第二子が秋頃出産予定らしく、家族である御二人は地方で療養中だと」

「かなり気は引けるけど……ヴラド氏呼んどいて。ちょっとこれは危険だよ。僕が入っても虐殺される図しか浮かばない。上位魔導士がこの異常を見ても内部に侵入したなら、相当の馬鹿じゃない限り目論見があるはずだもん」


 戦闘向きではないとはいえ、マグナスは最高位魔導士である。そんな彼が虐殺されるという言葉に、多くの警官が動きを止めた。コージも背中が汗で冷えていくのを味わう。

 なによりマグナスはもう一人の最高位魔導士、最強と名高く、最悪とも称される黒鉄骨の魔剣士ヴラド・ブレイドの名前を出した。その意図を察知したコージは震える声で尋ねる。


「殺害が必要な仕事だと?」


 マグナスは返事をしなかった。それは肯定するまでもないという意味。汚れ仕事を頼める実力者、そうすると相手は限られてくる。特に上位魔導士が関わっている事件となれば尚更だ。

 いつも街を破壊するユーナにも依頼できことだ。破壊はすれど、殺害はしない。一応、彼女はそういう理念を持っている。だからこそ事件の犯人は警察に引き渡し、裁判へと運んでもらうのである。

 なにより事件現場は下水道。そんな所でユーナを暴れさせることはできない、という意味も含まれている。内部の歯車機構は大胆かつ繊細、破壊されでもしたら修理に一か月以上は軽くかかる。


 しかしヴラドを選んだ理由はそれだけではない。マグナスを含め、最高位魔導士に汚れ仕事を頼める相手は一人しかいない。一人は商人、一人は僧侶、一人は貴婦人、一人は現在和国で外交を広げている。

 王命であれば戦場を出ることもあるだろうが、歴史上において戦場に堂々と姿を見せた最高位魔導士は一人。傭兵ギルド【剣の墓場】のギルドリーダーであり、自身も傭兵であるヴラド・ブレイドのみ。

 死神と言うにはあまりにも悍ましく、野犬と喩えるには高等戦術の数々。合理的な判断と冷徹な俯瞰、そして勝利への欲求は底知れず。金貨一枚で異教集団を生かしたまま惨い目にあわせた大事件は伝説の域に達している。


「……大変、申し上げにくいのですが……ヤシロが別件の依頼で内部に入っているとのことなんですが」

「ぬなぁっ!? ヤシロ氏が!? ちょっとやばいよ、コージ氏!! 彼ほどの実力者ならば、解決策なんてすぐ見抜けるよ!? なにより彼って……」

「私もまさかこうなるとは思わず……やはりヴラドさんをお呼びした方がいいですか? 結果的には私が決死覚悟で彼のギルドに乗り込む感じですので、確実は約束できません」

「うう……アドランス氏しか現在地を伝えられてないからなぁ……僕も行くよ!! 夜明け前には彼をここまで連れて来るから……馬車よりも赤魔法で高速移動するよ!!」


 予想外の緊急事態を把握したマグナスは、コージの手首を掴んですぐに姿を消す。詠唱なしの赤魔法による移動、だけではない。靴として利用していた魔道具込みの移動だ。

 靴の中敷きの裏側に法則文を書きこむことで、青魔法並みの法則文を省略し、少ない魔力で長距離と長期を見込んだ移動を可能としている。それでも速度が足りないと、赤魔法を加えて空を闊歩している。

 霧よりも高く、淀んだ夜空を走っていくマグナスは金融街であり、街の心臓部であるシティ・オブ・ロンダニアへと視線を定める。マグナスの腕にしがみつくような体勢のコージは、黙ってついていくことを心掛けた。星が隠れるような暗雲が少しずつ増えているのも、必死な二人は気付かなかった。




 水音が跳ねる。鼓動が早くなるのと同じくらい、息も荒くなっていく。追いつかれてはいけないと、ヤシロは握った手を離さないように走り続ける。

 背後から迫る光を見ないように怪物に指示し、赤い毛糸の魔道具に魔力を通して伸ばしていく。迷宮と化した下水道の奥へと、誘い込まれていくように向かう。


「あ、うあ、痛い!! お兄ちゃん、痛いよ!! 光が目を突き刺すみたい!! 頭の中が真っ白になって、黒くなって、赤くなる!!」

「見るな!! 暗闇に慣れた目に光は毒に近い!! いいから前を見ていろ!! 闇だけが、自分達を守ってくれる!」


 泣き喚くように叫ぶ怪物に対して、ヤシロは汚水と腐臭立ち込める暗闇へ踏み出していく。言葉には出せないが、怪物は光を視界に入れると暴れ出すのは既に証明されている。

 もしも手を握られたまま暴走されたならば、ヤシロの手は潰される。片手でも使用不能になってしまえば、威力のある重火器を使うことができなくなる。それだけは避けなくてはいけない。

 ヤシロは振り向かない。後ろに視線を送っても灯りの輝きで視界を一瞬とはいえ失う。なにより相手を確認したところで、いつ暴れ出すかわからない怪物の足を止めてしまうわけにはいかなかった。


 しかし不可解なことはあった。一本道とはいえ、相手は犬橇を使って高速移動したヤシロ達がいた場所に辿り着いた。ヤシロの先に入った者達は全て怪物と鼠に食われていてもおかしくない状況でだ。

 考えられるのは一つ。相手が魔導士であること。ヤシロが伸ばした赤い毛糸を辿って魔法で追いついたという結果。そしてなにより、相手は光で怪物の姿を確認していながら、追いかけているという事実。

 ヤシロは耳を澄ませる。足音は一人分。武器のような金属音は聞こえず、炎が燃える音もしない。魔法の明かりで視界を確保しているらしく、ある程度下水道に詳しいと推察できる。


「お兄ちゃん、疲れたよぉ……怖いよぉ……もう……やだぁ」


 聞こえてくる言葉はまるで子供なのに、鼻に届く荒い息は血生臭い。雄牛の顔をした大の男の体、誰が見ても怪物と罵るその姿に同情の余地はない。

 だが中身は違う。ヤシロは自分の力不足に歯痒さを感じ、奥歯を噛み締める。集めてきた情報全てを統合すれば、追いかけている相手の正体も、怪物の真実も理解できた。

 大きな掌は汗だらけで、今にも滑り抜けていきそうな恐怖。ヤシロは爪を立てるようにその手を強く握る。どこかの探偵は真実が二つあればいいと宣うが、ヤシロは結果は一つしかないと知っている。


「……もう少しで終わりだから、頑張ってくれ」


 矛盾するような言葉にヤシロは自嘲する。それを誤魔化すように指笛を吹く。魔力を息に注ぎ込み、音を法則文として活用する。頭にある犬耳飾りが魔道具として力を発揮する。

 追っ手の影から黒い犬が這い出てくる。躊躇うこともなく追っ手に牙と爪を向け、悲鳴を轟かせる。怪物は驚いて振り向こうとしたが、足下の感覚が消失したので本能的に身構えた。

 落下の衝撃を堪えようと身を固めていた怪物は何時までも痛みが来ない違和感に首を傾げた。今度は光も届かない暗闇。それでも足元に広がる汚水と、慣れてしまった腐臭は変わらない。欠けた壁から歯車が軋む音がする。


「影を……足場に移動した……かなり魔力を使うが、これで引き離せたはずだ」


 息も絶え絶えに説明するヤシロの表情は闇で塗り潰されている。それでも汗だらけで熱い手の平の感触だけは確かで、怪物はどこか安心したように息を吐き出す。

 汚水の量が増えているらしく、先程は足首までだった深さが脹ら脛の中ほどまで浸かっている。足裏から伝わる気持ち悪いほどの柔らかさにはもう驚くことはない。

 ヤシロは再度歩き出す。総距離約千㎞。それを犬橇と魔法を使っての移動によって闊歩した。あと少しで行き止まりであり、到達地点である奥に辿り着くだろう。


「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんのお話聞かせて。ぼくね、パパ以外で魔法を使う人は初めてなんだ」

「……つまらないぞ?」

「駄目?」

「……わかった」


 渋々と了承したヤシロは淡々と語りだす。客観的に、どこまでも冷めた口調で。ただし刺激的な部分は一切省いての過去を。




 気付いた時は暗闇と水が流れる場所にいた。親の顔は知らない。たとえ存在したとしても、あの暗闇の中ではなにも見えなかったであろう。

 腹が減れば近くにあった物を。喉が渇けば足下に流れている水を。体を洗うことも、歯を磨く習慣も、髪を整える仕草も知らなかった。唯一わかるのは、生存欲求。

 生きたい、という言葉も理解しないまま命を繋げる欲求だけを考えた。危険な場所や存在は体に覚えさせた。なにも聞こえない暗闇はむしろ温かいと感じるほどの静寂だった。


 この短い説明の間だけで、どれだけの情報を省いただろうか。生まれながらに下水道の中で生きてきたこと、下水道で得られる水と食べ物の悲惨さ。

 何度腹を壊して動けなくなっただろうか。それも回数を熟してしまえば慣れてしまったし、体に耐性ができた。もしかしたら生きたいという願いが、ナギサのように無意識に白魔法を発動させていたのかもしれない。

 時間の数え方も、日にちという感覚も、なにも知らないまま過ごした暗闇の日々。ヤシロにとってその時期は人生の中で二番目か三番目に平和だった。生きたい以外の感情や思考を放棄できたのだから。


 しかしヤシロに手を伸ばしてきた存在がいた。二十数年前から語られている赤子のような獣の声を確かめに、一人の男がルランス王国の下水道に乗り込んできたのだ。

 二十数年前に馬車に跳ねられた母親が抱きしめていた籠。赤ん坊一人が入りそうなそこには誰もいなかった。しかしその後から下水道から気持ち悪い声が響いてくると噂されていた。

 きっと消えた赤ん坊が幽霊となって泣いているのだとか、野犬が下水道に迷い込んで吠えているのだとか、色々な噂が広まっては確かめようと下水道に入り込んだ男の数は少なくはない。


 ただある日、一人の酔っぱらいが首筋を噛み千切られた状態で下水道から流れてきた。よく見れば膨らんだ腹や脛も齧られた跡が残っていて、それが鼠ではありえない大きさだった。

 歯形を確認しても犬のような尖った物だけではない。草食動物と肉食動物の中間、雑食性の生き物。そして人間は誰もがその歯型を見慣れていた。人々の恐怖と共に下水道に住まう食人鬼の噂が流れた。

 故に男は下水道の奥で見つけた。獣。そう呼ぶに相応しい少年を。十二歳程度の体だが、伸びたこげ茶の髪の長さは体を覆うほど。長い前髪から覗く金の瞳は松明の灯りに耐えられず、瞼だけでなく手も使って遮った。


 髪の長さは十二年程度の長さでは収まらない。血と汚水で汚れ、一度も整えられたことがないように荒れていた。生臭い息を吐いて獣の少年は男を睨んだ。

 男が声をかけても、獣の少年は吠えるだけだった。言語も使えない、喉から出てくるのはただの音。四つん這いで身構える姿は、二本足の生き物を知らずに育ったと思わせた。

 鼠を真似ての体勢だが、手足が鼠よりも長い故に犬と同じ姿勢。狼少年というにはあまりにも歪で、男は感情が見えない瞳で少年を観察した。


 そして二人の邂逅、その結果は簡単だった。少年は男に力任せに屈服させられた。それだけである。ただしその後は人生の中で最低と定義付けてもいいほど、酷い内容だった。

 まずは髪を切られた。それくらいならば普通に聞こえるが、長年の下水道生活で普通の鋏では太刀打ちできなかったため、処刑人が情けで使用する切れ味抜群の大型の斧を使ったのである。

 嫌がって暴れた際に五本の指が落ちかけ、その痛みで転がれば腹を殴られて気絶する。起き上がれば乱雑に肩上に切られた髪と、目を隠す程度の前髪。そして取れかけた指は太い糸で荒く縫合され、落下しないようにしているというだけの処置。


 そこで手荒な処置が終わればヤシロももう少し楽だったのだが、これは序の口の序の口。雑な縫い目で保っている指にも気を遣わずに、塩が混じった泡で洗われた時の自らが発した絶叫は忘れられない。

 熱が出れば雪の中に埋め込まれ、死にかければ度数九十越えの酒を飲まされ、心臓が止まりかければ胸の上を叩かれて無理矢理引き戻される。何度か抵抗のために襲いかかれば、百倍返しで瀕死に陥ったことは数知れず。

 少年も獣ではあったが馬鹿ではなかった。手を伸ばした男に逆らえば酷い目に遭うどころではない。いつか絶対に死ぬ。それを学んだ少年は男に従う道を選んだ。


 ある日、男の元を訪ねた老女は少年を見て息を吐いた後、男を連れて何処かへと出かけた。その隙に逃げれば良かったのだが、少年はこの時点で逆らう気持ちは残されていなかった。

 帰ってきた男はいつも通りの無表情であった。ただし気配だけが異質になっていた。簡単に言えば殺気が高まっており、それを抑えようと理性を総動員していたということだ。

 老女は少年に名前を付けるように男に指示した。そして少年はその日からヤシロとなり、男が老女に説教されたが故に勉強をするように命令された。


 まずは言語を覚え、次に数の数え方。宗教は役に立たないと男は告げ、ヤシロは生きていく上で必要な内容だけを習得した。それも最初だけだった。

 男は老女の目が自分から離れ、破滅竜と契約を結んだ少女の育成に集中していることに気付いた後は、ヤシロに戦闘技術と暗殺に役立つ戦法を教え始めた。

 最初から男は噂の食人鬼を育てるつもりだったのだ。傭兵ギルド【剣の墓場】において、最も自分に近しい暗殺者として。そしてヤシロに魔力があるのを知った上で、白魔法を始めとしたあらゆる魔法を教えた。


 白魔法を使えば触れただけで相手の体を破裂させるのも可能であること、魔導士相手には毒が有効手段であり、普通の人間を殺すならば心臓よりも脳の方が確実だという経験からの実戦的な方法。

 ヤシロは男に逆らわず、素直に従った。恩義を感じたからではない。生きたいという生存本能が、少年の頃から唯一保持している目標だけが、ヤシロにとって自分自身を証明する願いだった。

 そして一人、二人、十人、二十人、男に言われるがまま殺した。目撃者も容赦なく。残念なことにヤシロには自分以外の死に動じる感情がなかった。そんな物があるのを知らなかった。


 下水道で出会った酔っ払いが瓶を振り回して襲ってきた時も、首筋を狙ったのは鼠はそこを噛めば動きを抑えられるからだと学んだからだ。驚いた酔っ払いはそのまま水の深いところで足を滑らせ、頭を打って勝手に死んでしまったが。

 初めて見る食べ物を試しに口にしてみたが、どうにも肉が固くて食べづらかったので肉は吐き出して流してしまった。それが男の出会いのきっかけだと知る頃には、ヤシロのことを傭兵ギルド【剣の墓場】は歓迎した。

 明日には戦場で死ぬような最低な人生の中で、最高の刹那を探すように、陽気なギルドメンバー達。彼らはヤシロを見れば軽く挨拶をして、名前を呼んでくる。


 慣れない。そんなのは知らない。気持ち悪い。他者と触れ合うことに嫌気が差していたヤシロは、ある日男に渡された暗殺の依頼を失敗する。とても単純で、初歩的なミス。

 暗殺対象の男を殺した後、殺害現場を目撃した娘を生かしたまま逃してしまった。今までは殺せた。けれどヤシロは懇願してきた娘の言葉を理解し、考えてしまった。名前を呼ぶギルドメンバーを思い出した。

 助けて、死にたくない。その単純な言葉の中に含まれる感情を、ヤシロは理解できるまで成長してしまった。娘を殺さなければ、自分が死ぬかもしれない。それでも考えてしまう。自分はなんなのだろうかと。


 獣のままでいれば楽だった。なにも考えずに殺して生きていける。けれど獣の少年はヤシロという『人間』になってしまった。不本意に、無理矢理に。


 帰ってきたヤシロを男は殺しかけた。トドメを刺さなかったのは慈悲ではない。目的は最低限達していたからだ。ただ一週間は痛みで体を動かせないようにされた。

 痛めつけられた体のまま、ヤシロは突然与えられた一週間の時間全てを使って悩んだ。見舞いに来るギルドメンバー達の顔を見て、不可解な気持ち悪さで吐いたこともあった。

 初めて知る感情に流されて胸が押し潰されるようで、胃の奥から込み上げてきた物を堪えれば、目に涙が滲む。頭が痛くて、目の奥が熱い。手の平に集まる熱さは汗でも冷えそうにない。


 嬉しいも、悲しいも、言葉としては知っていた。けれどそれを味わうのに、ヤシロは年を取り過ぎてしまって、受け止めきれなかった。

 感情はまるで光のようで、ヤシロは嫌がった。なにも見えない暗闇の中に戻って、一人で生きていた方が楽だった。こんなにも痛みのような、むず痒い感覚は知りたくなかった。

 そんなヤシロの様子も気に留めず、男は大物を殺すように命じた。当時、女王から一字を与えられたばかりの最高位魔導士。紫水晶宮の魔導士の暗殺を。


 どこか未熟なヤシロは素直に従った。感情に振り回されながらも、死にたくなかった。そしてヤシロは大きな後悔と、暗殺者とは全く違う道に進む。

 相手が悪かった。今となってはそう言うしかない。ただでさえ感情に戸惑っていたヤシロからすれば、最後の暗殺対象は感情のまま暴走機関車のように特攻する少女だったからだ。




 怪物に説明しながら色々思い出したヤシロは大きく息を吐いた。ちなみに内容の九割ほど省いて話している。

 理由は簡単だ。三歳児に語り聞かせる内容ではない。なんだかんだで非常識な男に育てられたヤシロは、反面教師のように常識を獲得していた。

 なので大まかにまとめると、とりあえず暗い場所で育った後に助け出されて教育を受けて色々あったが自称執事として就職した、という風に話した。


「うう……お兄ちゃんは苦労したんだね」

「……そうかもな」


 誤魔化すように返事したヤシロは、やはり説明しなかった方が良かったのではないかと自責の念に駆られる。だが怪物は切り替えるように話題を自分に繋げていく。


「でも執事って有能な人しかなれないんだよね? じゃあお兄ちゃんは優秀なんだね! いいなあ……ぼくも優秀になりたいなぁ」

「どうしてだ?」

「ぼくね……パパみたいに魔導士になりたかったの。天才魔導士って呼ばれるパパみたいに……でもね、魔力が足りないんだって」


 魔導士は魔力を使って『別世界レリック』に繋ぎ、法則を利用して魔法とする。これが世間一般に伝わっている魔導士の基本である。

 白魔法ならばあまり問題はないが、赤魔法や青魔法を覚えていくとなると、一定量の魔力は必要だ。こればかりは生まれながらの容量しか持っていない。

 才能というよりは体質に近いのかもしれない。そして魔導士の子供だからといって、同じように生を受けるわけではない。魔力の大小は遺伝されない物だ。


「だけどパパは天才だから、ぼくの夢が叶うようにって……あれ? なにをしたんだっけ?」

「…………」

「ロンダニア全体を驚かせるような、家族全員の力を合わせた……」


 ヤシロは言葉を遮ろうとした。迷宮となった下水道の奥に辿り着いたからではない。それ以上、怪物が思い出さないように。




「ロンダニア全てを迷宮にしようと話したであろう?」




 聞こえてきた声の方向へ振り向けば、目の奥まで届く光。あまりの強烈さにヤシロは思わず怪物の手を離し、両手で目の前を覆う。

 同時に背後にいた怪物の気配が変わる。薄目で見れば、雄牛の口から涎が歯にこびりついた血と共に流れて、筋肉の表面には血管が浮かび始める。

 女の長い髪がへばりついた斧が振り落とされる。ヤシロは汚水まみれになることも構わずに、前の方に転がって避ける。口の中に入ったのは吐き捨てる。


「貴様が元凶か!?」

「うーむ、正解であり不正解である。私はただ愛おしい息子の願いを叶えようと思ったのである」


 目を潰しかねないほどの鋭い光を放つ光球を手に、丸眼鏡をかけた男は呑気に首を傾げた。普通の白シャツに、普通のズボン。どこにでもいそうな普通の三十代前半の男。

 だというのに目の輝きだけが異常だった。強い光を渦巻かせて、闇も一緒に混ぜ合わせたような不気味な眼光。茶色と黒の中間の目は、その輝きだけで優しさを失っている。

 少し困ったように整えていた黒髪を手の平でかき混ぜる仕草も研究者のようで、それでいて弧を描く口元は恍惚で顔を歪ませる倒錯者に近かった。


「パパ、お願い! ぼくをパパみたいにして! こんなことを可愛い息子に頼まれたならば、叶えてしまうのが親というものである」

「緑魔法で怪物のミノタウロスに変えてもか!? それだけじゃない! あの両刃斧だ!! あれは迷宮の語源であり、怪物を閉じ込める迷宮の紋章! 黄魔法で取り寄せた『怪物の斧レリック』だ!!」

「おお! 素晴らしいのである!! そこまで気付いているとは、君も上位魔導士なのであるか? なら……悲しい事実にも理解してしまったであろう」


 怪物の斧から逃げながら、ヤシロは舌打ちする。迷宮を歩いていく内にわかってしまった。この事件は既に行き止まりであることに。

 迷宮と化した下水道の奥は広く、逃げ回るには申し分ない。それでも暴れ出した怪物の脚力に膂力は侮れず、息を切らせながらヤシロは足を動かす。


「生まれてくる前の赤ん坊の性別がわかるはずがない……っ、なのにそいつは妹と言った!! 答えろ、貴様はなにをしたんだ!!」

「なにって……私はなにもしてないのである。ただ私の美しく愛する妻が息子を取り戻そうと形成を始めた迷宮に入ってしまった……それだけなのである」


 歯が鳴る。震えや恐れからではない、怒りで歯茎から血が出るほどの力。それによって軋んだ歯車のような音が響くだけだ。

 まるで被害者のように悲しそうにする男を前に、ヤシロは目の前が真っ赤になると感じた。男が作り出した光のおかげで、ヤシロの背後には影がある。

 影から這いずり出た送り犬が咥えていた蒸気機関銃を受け取る。一足飛びで男との距離を詰め、銃口の狙いを定めた瞬間に木の幹のように太い腕がヤシロの小さな体を吹っ飛ばした。


 男しか見えていなかったヤシロは何度か汚水の上を跳ね、煉瓦の壁にぶつかって落ちる。崩れてきた煉瓦に押し潰されながらも、起き上がろうと腕に力を込める。

 だが代わりに腹の奥から大量の血が零れ出た。折れた骨が内臓を突き刺したと判断し、すぐに白魔法で治そうと試みる。その前にヤシロの服を掴み、半円状に怪物は左右に振り落とした。

 頭から魔道具である犬耳飾りが外れ、左腕と右足が鈍い音を立てて折れ曲がった。もう一度煉瓦壁まで飛ばされ、地面に仰向けで倒れた所を大きな掌で鷲掴みにされる。反射的に首を握る腕を掴むが、びくともしない。


「ぐっ、がぁ……」

「ああ、悲しいのである。私の愛しい息子は、助けようと手を伸ばした恩人も手にかける……怪物に相応しい姿である」


 悦に入った声を耳にして、ヤシロは頭が沸騰するかと思った。怖いと泣いた子供の声を、自分の名前も忘れてしまった少年を、男は知りながら怪物に堕としていく。

 一矢報いなくてはと足掻きながらも、気道が塞がれて呼吸ができない。このままでは呼吸困難で窒息死してしまう。理解していながらもヤシロの白魔法でも、怪物の腕を振りほどけない。

 斧が怪物の頭上に翳される。女の長い髪がへばりついたその斧を見て、ヤシロは足をばたつかせた。あの男だけは生かしておけないと頭の奥で爆発するような熱とざわめきが広がる。


 斧が振り落とされて、潰れる音がした。


 ヤシロは目を見開いていた。一瞬の出来事で、なにが起きたか把握するまでに少しだけ時間がかかった。目線を横に移せば、耳横の位置に下水道の床を叩き壊した斧がある。

 斧の刃は上手に砥がれていないらしく、顔が映ることはない。それでも女の髪、そして子供というには小さすぎる未熟な指。それが血と共にへばりついている。まるでなにかを伝えるように。

 頬に滴。涎は顎下に落下して流れていく。だから頬に落ちてきた痺れるような熱い水滴は別の物だ。怪物は苦しそうに呻きながら、音を懸命に吐き出す。


「ィ……ちゃん……オ……ニィちゃん……こ、ワイヨ……タスケテ……オオオォァォオァアアォアアア!!!!」


 怪物は雄叫びを上げながら、ヤシロの首を握る力を強くする。血を吐き出しながら、ヤシロは金色の瞳で怪物の姿を映す。どう見ても怪物であることは間違いない。それでも。


「自分は人助けギルド【流星の旗】のメンバーだ……そして教えなかったが、元暗殺者でもある」


 冷静に、淡々と。頭や胸の奥から熱が引いていくのを感じる。底冷えする暗く狭い場所に落ちていくような感覚。体も腕も重い。それでもヤシロは手を動かす。

 影の中から冷たい金属の感触を探り当て、それを強く握る。今のヤシロはもう獣ではない。不本意に『人間』として武器を扱う。一瞬で命を奪える武器を持っている。


「暗殺者は『人間』を殺す者を指す」


 指先が震えないように、銃口がぶれないように。首を握りしめている距離ならば、ヤシロが腕を伸ばせば武器の長さも合わせて、怪物の額に届く。

 眉間。骨が皮の上からも確認できて、脳に近い部分。ヤシロは学んでいる。ここを撃てば、心臓よりも確実に相手を殺せることを。




「だから自分暗殺者お前人間を殺す」




 落ち着いた声で、静かに告げる。迷宮内に響き渡った銃声は壁を反響してどこまでも届く。顔面を濡らす血と、傾いていく体を見ながらヤシロは起き上がる。

 緑魔法を一般人に使ったことにより、ほぼ体は乗っ取られたと言ってもいい。そして水の流れと歯車の音を利用して、迷宮の道を一本筆のような魔方陣を描く形にする。

 魔力は万物に宿る。街全体を支える歯車機構と下水道構造に三百万人の生活用水に含まれた魔力で形成する大型魔方陣。それにより魔力は迷宮維持と、怪物の変貌に注がれた。


 変貌した怪物が人間に戻ることはない。それでもヤシロという暗殺者に殺された彼は、最後は確かに『人間』だった。誰が否定したとしても、ヤシロはそう信じる。

 握っていた銃で斧に三発の銃弾を撃ち込む。形を崩した斧は黄色の光と共に消失した。歯車が激しく軋み始め、下水道構造が反動を受けたように元の構造へと戻っていく。

 緑魔法で召喚された『怪物レリック』と黄魔法で迷宮の基本となった『両刃斧レリック』の同時消失により、迷宮は存在する意味がなくなったのだ。


「あ、あ、あああああああああああああああああ!! 私の息子が!! 愛しい怪物が!! よくも!! よくも!!!! 天才である私の優秀な家族を!! あと少しだったのに!!」

「……」

「何人の人間を噂でこの下水道に潜り込ませたと思っている!? 小さな魔力とはいえ、体全て食わせれば私の息子を優秀な怪物にする糧になったというのに!! ああ!! ああああああああああ!!」


 金切り声が耳に響く。ヤシロは起き上がった状態のまま、白魔法で骨折を治していく。コツは必要だが、魔力さえあれば修復範囲として可能だ。

 ヤシロの視線は叫ぶ男には注がれない。ただ下水に体半分を浸からせた死体に向けられている。死ねば獣も人間も同じ骸。そこに差異はないと教えられた。


「あああああああああああああああああああああ!!!!!!! あああああああああああ……………………ま、いっか」


 呆気なく、男は切り替えた。絶叫していたのが嘘なように、戻り始めて放流口の夜明けの光が見え始めた下水道の中で気分転換するように。


「天才の私がいれば、もう一度同じ子供ができるはず、である。なにせ私の遺伝子は優秀である!! 天才黄金魔導士であるハガット・グルンにかかれば、ちょちょいのちょいなのである!!」

「……」

「むしろ私の息子だというのに、三歳で死ぬなんて不出来な息子である。次は私に相応しい美しい女性を見つけ、もっと優秀な子供を」

「黙ってくれないか」


 言葉が消える。ハガットは腹を刃で貫かれたような錯覚を味わう。振り向いてもヤシロとの距離は空いているし、腹にはなにも刺さっていない。

 ただヤシロが放った殺気だけで殺されたと感じた。そう気づいたハガットは震えながらも笑い、後退りする。放流口はもう見えている。戸惑わなくていい。


「私は帰らせてもらうのである!! 怪物は倒されて一件落着、その怪物が私の息子と証明する手立てはないのであるからして……さらばである!!」

「――あばよ。転ばないように気をつけな――」


 乱暴な言葉が、魔法の呪文だと気付いたハガットは振り向く。五匹の送り犬が、荒い息を吐きながらハガットを追いかけていた。

 ハガットには送り犬の知識がなかった。なにせ和国に伝わる小さな『伝承話レリック』にすぎないからだ。だからこそ対処法を知らないまま、下水のせいで見えなかった汚物を踏んでしまい、滑り転ぶ。

 その瞬間、送り犬達は嬉々としてハガットの体へ襲いかかった。体中を噛まれながらも、ハガットは顔を歪めて四つん這いで逃げる。放流口まであと少し、光を浴びれば送り犬は消えると思った。


 夜明けの太陽が分厚い黒い雲に覆われ、濁った雨水がダムズ川を波打たせる。そして体中を噛みつく送り犬の重さに負けて、ハガットは下水を海へと流していくダムズ川へと落ちた。

 石が落下したような大きな音の後は、雨が絶え間なく降る音だけ。ヤシロは白魔法で骨折を治してもしばらくは動かなかった。ただ顔についた血を、下水で汚れた燕尾服の袖で荒く拭き取る。

 暗闇の中で、外の光に目を細める。あまりにも眩しく思えて、もう一度闇に隠れたいと思うほどだった。暗闇ならば、横にある死体の涙の跡も見えないはずだから。


 雨が降る。真っ黒な雲から水銀が落ちてくるような重みと共に、ロンダニアの街は沈む。ヤシロはそれを静かに下水道から眺めていた。

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