EPⅤ×Ⅲ【執事は獣《butler×beast》】

 ぽたり、ぽたり。滴が落ちる音が壁に反響する。何度も、何度も。それが汚水なのか、血なのか、雨粒なのか、自らの涎なのか。暗闇の中では判断することもできない。

 ただ涙ではないのを少年は理解していた。腐臭に浸った体で痛みと渇きを訴えるその部位に、水分など残っていない。目を血走らせて、目の前の黒を強く睨む。闇が怖いのではない。

 闇の中から現れる理不尽が怖いのである。突然の襲撃者、不意な崩落、眩い光、その全てを少年は恐れた。そして少年は深い闇に潜っていく。少しでも安寧を得るために。




 高速で下水道を移動する犬橇いぬぞりの上で、マルクは振り落とされないように四肢を強張らせ、へりを握る力を強くした。その横ではナギサが過ぎ去っていく壁を、風景のように眺めていた。

 ヤシロは暗さに合わせて肩に乗っている青魔法で作り上げた光る狼に指示を出し、十歩先までは道が見えるように照らす。あまり強すぎると、今度は目が闇に慣れなくなるからだ。

 時折腐食で欠けた煉瓦壁からは大小様々な歯車が軋みを上げていた。動きを阻害しないように、それでいて隙間を縫うように張り巡らされた蒸気管や水道管からは街中に流れていく音がわずかに聞こえる。


「こ、こんな速さで曲がれるんですか!?」

「ヤシロさんならできますよ、ね?」

「曲がるというよりは、振り回されても天井を走れば問題ないという意味での大丈夫だがな」

「いやぁああああ!! 遠心力を利用した回転コースターみたいなはなっし!?」


 噂をすれば影、と言うように目の前の曲がり角に反応して犬橇を引っ張る送り犬達が、速度を緩めないまま壁を疾走。もちろん橇は追従するように壁へとぶつかる。

 マルクが声も出なくなっている中、ナギサがさり気なくマルクの腰を強く掴む。白魔法を無意識に使うため、彼女の腕に捕らわれたマルクの腰の骨が痛みで音を鳴らすが、彼の意識は目の前に集中していた。

 壁にぶつかった黒い影のような橇から犬の脚が生え、速度を落とさないまま壁を走り、果てには天井を通って反対側の壁まで移動して橇自体を一回転させた。着地と同時に汚水を跳ね上げ、またもや真っ直ぐな道を突き進む。


 遠心力があったとはいえ、マルクの体は一時橇から離れた。それもマルクの腰を片腕で抱えていたナギサが縁に掴まっていたいたことで事なきを得た。ただし着地の際に尻を叩きつけただけでなく、舌も噛んでしまう。

 時間は三秒もない。一瞬で曲がり角を通り過ぎた事実と、平然と犬橇を操り続けるヤシロにマルクは驚嘆するだけだ。舌を巻こうにも、残念ながら痛む舌をすぐ動かすことはできなかった。

 さらには腰まで痛いのである。離さないようにとナギサが力強く、本人は無意識で、骨を折る力でマルクを掴んでいたのだ。白魔法を使えるとはいえ、マルクはすぐに骨を修復する荒業はできない。


「……仕方ない。魔力を消費するが、固定ベルトを出す。それで体を固定しておくと良い。取っ手もついでに作るか」


 口内や腰の痛みに声も出なくなっているマルクを背中越しに確認したヤシロが、犬橇をまたもや変化させる。先程まで荷物台のように単純構造だったのが、長椅子に固定ベルト、そしてT字型の握り手を作成する。

 マルクは涙目で感謝しつつ、すぐさま腰に固定ベルトを巻き、握り手を強く掴む。ナギサも大声でヤシロに感謝の言葉を渡し、同じく体を橇から離れないようにさせる。

 引っかかることがあったため、前方を覗き込んだマルクはヤシロの革靴を固定する黒い足轡を見て納得する。中腰姿勢で橇を操るヤシロは、橇が一回転した時も同じ体勢であったからだ。


「なんで最初から固定道具を製作せずに、あんな単純構造を?」

「さっきも言ったが、魔力を使う。どれだけ長丁場になるかわからないからな」


 魔力は無限ではない。そして簡単に供給できる類いではない。万物に魔力は宿るが、魔法で基本的に使う魔力とは、体内に保有している分だけだ。

 工夫すれば自然物、他人、あらゆる物からも引き出せるが、それには仕掛けと準備が必要である。マルクの依頼で下水道に入り込むことになったヤシロ達にそんな時間はなかった。

 今も時速七十㎞で移動しているとはいえ、ロンダニアの街の地下を巡る下水道は拡張工事を続けている今、総距離千㎞と言われている。事が綺麗に進んでも、十時間以上はかかるのを示唆している。


「あとは……」

「まだ問題があるとっ!?」

「有事の際に素早く身動きできないのは困る。というわけで頭を下げろ!!!!」


 ヤシロの叫ぶような大声に驚いたマルクだが、暗闇の中で光る狼に照らされた刃の輝きを視認してすぐに、頭を犬橇の縁より低くする。頭上を通り過ぎた冷たい風圧に、身の毛がよだつ。

 鼻は麻痺している。臭いがしたわけではない。それでも頬に付着した飛沫に手を伸ばす。犬橇の移動で汚水が跳ねているため、服は既に濡れていたが、それとは違う冷たさとぬるつく感覚。

 指先が赤かった。ナギサを見ても、ヤシロの背中を眺めても、自分自身の体を確認しても流血している様子はない。もしかしたらペンキかもしれないと希望的観測を持とうにも、指先の赤はあまりにも見覚えがあった。


 背後から聞こえてきた獣の唸り声と、走り寄ってくる気配にマルクは身が竦んだ。背後を振り返る勇気などなく、たとえ勇気を振り絞っても暗闇の中を覗くのは本能的な恐怖が行動を阻害した。

 しかし横にいるナギサは腰から上を動かして振り向いていた。恐れを知らない無邪気な無知なのか、それ以上の剛胆なのか。ただ真っ黒などんぐり眼で静かに闇の中を見据えている。


「牛さん……ですか?」

「なんで疑問が付属しているんですか!?」

「頭は牛さんなんです。けど……体がむっきんむっきんで、その割にはなんだか使い慣れてない違和感が……」

「出てきた擬音語に色々と物申したくはあるんですけど、視認できる位置に存在しているってことですか!?」


 呑気な様子で首を傾げているナギサに対し、マルクは口から吐き出される声が全てが悲鳴のようになっていた。裏返って情けなく、そして聞き取り辛い。

 その声にナギサは肩を跳ねさせて、何度も背後とマルクの頭頂部に視線を行き来する。いまだ頭抱えたまま怯えているマルクは、混乱した頭の中で剥げていなくて良かったと見当違いな方向に思考を動かしていた。


「あわわ、えっと少しずつ離れてはいるんで、行き止まりにさえ当たらなければ大丈夫だと思います」

「なんで僕の言葉の方で慌てるのか……ナギサさんの印象が百八十度変わったことに対してヤシロさんが九十度の余地があると言った意味が理解できましたよ」


 驚く場所が違うと、どこかズレているナギサの狼狽した声を聞いてマルクは少しだけ平静を取り戻す。犬橇が速すぎて、流石に相手も追いつくのは難しいだろうという算段も持っていたからだ。

 それでも振り向く勇気は湧いてこない。目の前の下水道の道は暗いが、ヤシロの肩に乗っている光る狼のおかげで一定の視界は確保できている。真っ直ぐ進む道に安堵しながら、マルクは違和感を覚えた。

 橇を操るヤシロの背中を眺める。確かに曲がり角はあった。しかし極端に少ないのだ。網目のように街の下に張り巡らされているはずの下水道にしては、選択肢が限られているような感覚。


「……行き止まりは最終地点だ。そこに辿り着いたら死を覚悟しとけ」

「え?」

「最悪の予想が当たったということだ。誰の悪知恵かはわからんが、下水道が迷宮化している」


 舌打ちしそうな雰囲気を漂わせながら、ヤシロは吐き捨てるように呟いた。殺気纏うその言葉に、マルクは滴が落ちる音にさえ怯える羽目になった。


 迷宮ラビリンス。実は迷路などと混同される場合も多いが、明確な違いが存在する。まずは一本道であるため、道が交差することはない。この点が迷路と最も違う特徴だ。

 そして入り口はあるが、出口は皆無。迷宮に入った者は中心となる場所へ向かうしか方法は残されていない。道は振り子のように外周は大きく、内周は小さく方向転換する。交差点は存在せずとも、その方向転換によって方角の区別が先に喪失する。

 振り子にも支点があるように、方向転換の位置は中心地点を基本としている。つまり侵入者は何度も中心近くを通ることになる。一本道である故に、入ってから中心地点まで、迷宮内の場所全てを通過する羽目に至る。


 脱出。それを考えた時、侵入者が選べる道は一つ。来た道を戻らなければいけない。ただし自分が今どこに、そして前後どちらが入り口へ通ずるのかもわからないまま選択するしかない。

 代表的な迷宮を象徴する『とある神話レリック』で、解決方法はすでに提示されている。ヤシロも対策手段をユーナから預かっており、実行に移し終えている。ここで問題が一つ。

 暗闇からの突然の襲撃者。それを背後に置いたまま迷宮となった下水道を移動中という事実。戻るということは、その襲撃者ともう一度退治しなければいけないという結果を物語っていた。


「迷宮って……僕、細工物で学びましたけど……まさかさっきのって!?」

「予想通りならば。ただし緑魔法を使っている可能性が高いが……七月末から今日まで、下水道が迷宮化していたとすると……いや、再現の難易度が」


 口の中で自分の考えを言葉に整えていくヤシロは、珍しく困惑していた。魔法は確かに便利な物であり、長期的に使用する前提の青魔法という分類も確立されている。しかしそれは魔力があれば、という話になってくる。

 七月末から八月五日、下水道に入ってから大分時間が経過しているのは肌で感じていても、正確な時間は見ていないことから余裕を取って八月六日までの間。それだけの長期間をロンダニアの街と同じ広さを持つ下水道を魔法で迷宮化するという手段。

 理論上では難しい内容ではない。しかし必要とする魔力が天文学的な量になる。机上の空論というにはあまりにもな暴論。人間一人で補える魔力ではない。つまりは別口での魔力供給が必要となる。


 歯車が軋む。その音を感知したヤシロは顔を上げ、欠けた煉瓦壁から覗く巨大歯車達の動きを確認する。次に汚水の流れ、蒸気管や水道管の配置、辿ってきた道を頭の中で再現することはできずとも、答えは導き出せる。

 同時に、犬橇がなにやら固い物を踏んで空中に跳ね上がる。すぐに着地したが、ヤシロは視界の端に映った大きな肉の塊に群がる鼠と、覚えのある柔らかさに顔をしかめた。

 マルクが橇の急変した動きに怯えている中、背後を振り向き続けていたナギサは視線を逸らすことなく、通り過ぎて暗闇に呑まれた道を眺めていた。そしていつも通りの声で呟く。


「溝さらいさんの死体が残ってましたね。変ですね、溝鼠さんがあんなに残しているなんて……」

「し、死体!? じゃ、じゃあさっき踏んだのって、うぐぅっ、おえっ……」

「吐くなら道に。丁度良く下水道だ、問題ない」


 この異様な状況の中でズレているナギサとヤシロが少しずつ怖くなってきたマルクだったが、仕方なく橇の縁から顔を出して嘔吐した。胃から酸っぱい物がこみ上げてきたが、鼻が麻痺しているおかげで胃が焼けるような感覚だけだ。

 顔を上げる際に高速で通り過ぎる壁に鼻頭を擦りそうになったマルクだったが、驚く気力はもうなかった。出口が用意されていない迷宮、背後の襲撃者、そして千㎞の道。十数時間後に、中心へ辿り着けば終わりである。

 なにより溝さらいが戻ってこない理由がわかったことに、一番精神を削られた。ただ迷うだけじゃない。迷宮は閉じ込める物、そして先程の襲撃者を繋げれば答えはわかりきっていた。


「迷宮の怪物……ミノタウロスがいるなんて」

「ふぇっ!? えーと……ヤシロさぁん……」


 マルクの消沈した声と共に吐き出された単語に対し、ナギサは思い当たることがなく戸惑う。勉強不足を恥じつつ、ヤシロに助けの手を求める。


「ミノタウロスは『神話レリック』に出てくる怪物だ。頭は牛、体は人間。乱暴になったそいつを閉じ込めるために迷宮は作られた。そこから毎年少年少女を七人ずつ生贄に差し出し、三度目で英雄が現れる……という話だ」

「乱暴になった? じゃあ幼い頃は違ったんですか?」

「詳しいことはわからんが、神との約束を破った王に対し、約束の雄牛に王の妻が欲情するように仕向けたのが元凶だ。まあ……その雄牛と交配できるように牛の模型を作り、さらには迷宮まで作り上げた名工にも問題はあると思うんだがな」

「よくじょう……? こうはい……? えーと、とりあえず半分は人間だったんですね、ミノタウロスさん」


 わからないなりに簡潔にまとめたナギサの言葉に、微妙な表情を浮かべながらヤシロは頷く。無知である彼女に対し、今疑問を上げた単語は男性から女性には説明しにくいことだ。逆もまた然りである。

 犬橇を止めないまま、またもや曲がり角を減速せずに突っ切る。マルクは悲鳴を上げることもできず、機械的に握り手を掴んで体勢を低くして奥歯を噛み締める。着地して尻を打ち付けても、声一つ漏らさない。

 かつて地上の道路で網目の鉄格子があった時は下水道にも光が射す場所は存在したが、今は雨などで汚水が地上に溢れないようにと鋼鉄製の蓋で塞いでいる。どこまでも暗い中、マルクの雰囲気も落ち込み続けていた。


「そうだな。半分は人間だから、不死ではない。緑魔法で呼びだすのは容易いが……おかしい。この迷宮も、あいつも、全てが変だ」

「お姉さまがいると、色々わかりそうではあるんですが。どうします? 僕が殴って動き止めつつ、逆戻りします?」

「もう少し奥に向かうぞ。マルク、しっかり気を持て。おそらくだが、お前が探している溝さらいは無事かもしれない」

「え!? どうしてわかるんですか!?」

「溝さらいは数人組で下水道を移動する。細工工房と交渉ができる溝さらいともなれば、頭としてまとめる存在だ。もしかしたら正式ではないが、ギルドのように組合を持っているかもしれない」


 少しずつ目を輝かせるマルクを背中越しに見ながら、ヤシロは悟られないように自嘲する。こんな慰めで事態は好転しないと、痛いほど教えられていたというのに。不合理な言葉と優しさ。

 どんな内容を言っても生き残るわけではない。むしろ有毒性の瓦斯が近くで発生している場合、命取りになりかねない。それでもヤシロは言葉を止めることはしなかった。


「つまり、帰ってこない溝さらいを探すための対策を地上で隠れて行っている可能性が高い! 下水道に詳しい奴らだ、すぐに迷宮化しておかしいと気付いているはず!」

「そ、そうですよね!! きっと……きっと!!」


 力強く希望を持つマルクは、もう一度目の前の暗闇を見据える。ほとんどなにも見えないが、顔を俯かせているよりはずっといい。ナギサはマルクに元気が戻った様子に安堵する。

 ただしヤシロは厳しい目をしたまま犬橇を進めていく。本当は死んでいる可能性も高いということを、あえて口に出さなかった。ただの迷宮ならば問題ない。問題は迷宮の怪物が襲ってくるという事実だ。

 先程橇が踏んだ溝さらいの死体は真新しかった。一瞬だったが、斧で押し潰されたような切り口も見えた。もしも鼠に襲われたならば、あんなに肉は残っていないし、骨も齧られているはずだ。


 つまりヤシロ達があそこに辿り着く直前まで、怪物に襲撃されたいたということだ。距離を考えれば一日前に入って彷徨っていたのかもしれないが、今日までは生きていたと思われる。

 もしも昨日死んでいたならば、鼠が綺麗に食べ終えている。あまりにも肉が残っていた証拠が、下水道特有の死亡推定時刻となる。そして進んでわかるのは、そういった死体と会わないこと。

 怪物は中心から歩き続け、溝さらいなどの人間を食べながら外へ向かっていたのを考えれば、このままでは地上へ出てしまう。ヤシロは密やかに囮として奥を目指しているのを二人に黙っていた。


「問題は自分達だ。一本道になっているならば……送り犬!」


 ヤシロが叫んだ直後、マルクとナギサは自分が影に覆われたのを知る。温度はない、臭いは消えた。ただし獣のような呼吸が耳の傍から聞こえてくる。鳥肌が立つような、牙が柔肌に突き立てられているに近い恐怖。

 しかしその感情も、影の向こうから届いてくる音によって消え失せる。お手玉のような、なにか柔らかくてわずかに重みがある物が幾つもぶつかる音。まるで土砂降りのように絶え間なく響き渡る。

 数の多さに困惑する中、今度は橇が大きく揺れた。岩場を無理矢理駆け上がるように、右に左、それだけでなく上下に揺さぶられる。マルクは奥歯を噛み締めて舌を噛まないようにする。握り手を掴む手の平に嫌な汗が滲む。


 そして霧の中に突入したような風切り音が耳に届き、少し時間が経った後に突然視界が元に戻る。相も変わらず汚水の上を犬橇が走っており、目の前ではヤシロの背中が見えている。

 わずかに違うのは、ヤシロの背中は疲弊しているのがマルクにもわかるほどであったこと。あまり疲れを出さない少年のため、意外な姿にマルクはなにがあったのかと不安になった。


「だ、大丈夫ですか?」

「ああ……まさか有毒瓦斯発生と瓦礫で通路が塞がれているのと、溝鼠の集合地点が一か所に集まっているとは思わなかった……」

「壁が大きく崩れている所は鍬がないと通れないのに、ヤシロさんは魔法で解決したんですね! さすがです!!」

「なんだか魔法という単語一つでまとめてはいけない事態が起きていた!?」


 聞こえてきた内容にマルクは顔を青くしつつ、溝さらいってもしかして冒険者の類ではないかと尊敬の念を抱き始める。ヤシロでさえ疲弊する場所を金目の物を求めて移動するので、間違ってはいない。

 街の中心部に近いのか、欠けた壁から見える歯車の大きさが段違いになっている。回転数も、その軋みも、管から流れていく水や蒸気の音さえも大きく、肌の表面が震えるほどだ。

 汚水や瓦斯のせいで腐食するとわかっていても、それでも壁内部に歯車機構が仕込まれた意味。マルクは機械内部を覗き込む子供のように、口を開けながらそれらを眺める。


「この大下水道を設計する際に、流れる汚水の力、つまりは水力を利用できないかという話があってな……そこで謎の発明家M。彼の協力を得て、壁内部に水力蒸気発生機関が組み込まれたんだ」

「謎のって……それってどう考えてもマグナ」

「発明家曰く、名前が出ると民衆が勘違いするので謎であってほしいと要望を出した。大下水道の設計、及び工事責任者の功績は彼の物だと、敬意を示した」


 蒸気機関が蔓延る時代、蒸気の供給は生活にとって必要不可欠であった。しかし蒸気を生成する工場が少しずつロンダニア郊外に移動することで、安定した供給にかかる費用は高くなる。

 そこで街中で作れないか。できれば生活の中で発生する、捨てられる力を利用した新たな仕組み。それが大下水道の煉瓦壁内部に組み込まれた大規模歯車機構であった。日々三百万人以上の生活用水が流れていくのを活用して、歯車が区画ごとに蒸気生成の動力となっている。

 区画ごとにしているのは、少しずつ大下水道が広がっていくことと、全てを連動させると一箇所動きが止まるだけで全てが停止する歯車機構の弱点を少しでも防ぐためだ。


 蒸気機関は、水が熱されて発生した蒸気の圧力でピストンを動かし、その動きで歯車などを稼働させていく仕組みをピストン型蒸気機関と呼ぶ。ちなみに蒸気で歯車を回転させる物などはボイラー型となり、様々な種類がある。

 ピストン型を水の動きで賄ったのが、大下水道の歯車である。本来ならば蒸気圧で上下するピストンを、水の流れで歯車を動かして代用するのである。そして蒸気生成装置の動力として利用していた。

 他にも申請すればパン屋の粉ひき、井戸水を汲む仕掛け、珍しい物では螺旋式馬車にも動力として使用することができた。街角にある消火栓も大下水道の歯車機構で水を汲み上げるのも多い。ただしその場合は威力が強すぎて、建物ごと壊してしまう事例も幾つか報告されていた。


「もしも謎の発明家の手柄にしてしまえば誰もが思うだろう……これは魔法によって便利になったのだと」

「それでは……駄目だと?」

「ああ。自分達の生活を支えるのは人間の努力であるべきだと、それが大事なんだ。二十年以上かけて大下水道を作った魔法も知らない男が、ロンダニアを変えたのだと……」

「なんかユーナさんみたいな言い方ですね」


 マルクはヤシロの言葉に率直な感想を告げた。そして本日二度目の心底嫌そうな表情を目撃することになった。不本意らしく、それ以上説明しなかった。

 魔法は確かに世の中に広がっている。しかし生活に根付いているわけではない。その理由は明確だ。魔法とはあくまで『別世界レリック』からの借り物で、不安定である。

 もしも緊急事態に魔力がなくなれば、例えば急いでいる時に『神々レリック』に法則が長いと跳ね除けられたら。本当に重要な瞬間、そこで必要なのは人間本来の力だけだ。


 それは魔導士として位が上がるほど実感していく。確かに魔法は不可能を可能にする。だが生活に必須ではない。魔道具でさえ魔力と『別世界レリック』が存在しないならば、ただの道具と変わらない。

 火を熾すのに魔法は必要ではない。人間が知恵を絞れば木や石だけで作り上げることもできる。例えば人間同士の殺し合いに発展した時、大事なのは即死できる急所と、体に回るのが早い毒の扱いの方を知っていればいい。

 魔法に依存していけば、人間として必要な物を失っていく。時折、新聞を騒がすほど上位魔導士が大きな事件を起こすのは、魔法に頼りきりで過信した結果がほとんどだ。


「……ここまで来ればいいだろう」

「え!? もしかして、もう中心に!?」

「……ヤシロさん?」


 急に止まった犬橇の上でマルクが慌てる中、ナギサは首を傾げた。ヤシロは仕事ができる少年で、だからこそ借家の管理をほぼ担っている。ナギサはそんなヤシロに憧れている。

 ヤシロが戦闘が不可能なマルクと一緒にいる中で、背後から襲撃者が追いかけて来る最中で止まるという意味。マルクを庇いながら、こんな入り口から遠い場所で戦闘する手段をヤシロが取るとは思えなかった。

 何故ならばヤシロもある男よりは柔らかいが、合理的なのだ。無駄が嫌いなわけではないが、最善な方法、最短の手段、そういった物を好む。だからこそナギサは疑問に気を取られて、反応が遅れる。


 犬橇が突如として姿を変えて大きな狼に変化し、マルクとナギサをその胃の中に収める。影から生まれたような送り犬に消化機能はないし、あったとしてもヤシロは許さない。

 巨大な送り犬に指示したヤシロは、ずっと伸ばし続けていた赤い糸を指差す。迷宮の脱出手段は一つ。糸を辿って入り口から出ること。魔法で構成された迷宮ならば、さらにその特色が強くなっているはず。

 影に潜る送り犬ならば、ヤシロ達を追い続けている襲撃者の横を通り抜けて脱出するのが可能だ。人を探すのに、迷宮のままでは無駄が大きい。だからこその効率を求めた結果の答えは一つ。


「自分はここで怪物を殺す」


 それを聞いた巨大な送り犬は一回頷くと、すぐさま闇の中へその身を潜り込ませた。足音もなく、それでも確実にヤシロから遠ざかっていく。入ってきた時間を考えれば、日の出頃には入り口に辿り着くだろう。

 犬橇で動いていたのは送り犬に人を探す能力など持ち合わせておらず、送り犬の内部から外の様子を探るどころが、時間の感覚も消える。おそらくナギサ達は入り口辺りで送り犬から解放されても、ヤシロと別れてから一秒も満たないと感じるはずだ。

 ヤシロは肩に乗せている光る狼の光量を強くする。そして自らの影から何十匹もの送り犬を魔法で生み出していく。水音を跳ね飛ばしながら走ってくる存在を感じ取りながら、ヤシロは懐から蒸気機関銃を取り出した。


「怪物を殺すのは初めてだが……まあ人を殺すよりは手間が多いだけだろう」


 少しだけ面倒な料理本を眺めながら呟くような口調で、ヤシロは光の中に飛び込んできた牛頭の怪物に銃口を向けた。同時に送り犬達が大口を開け、飛びかかっていく。

 八月五日午後九時。地上では霧が立ち込め、星空が隠れる。しかし直下の下水道を埋めるのは闇と作り出された光、腐臭と汚水。誰も知らない戦いが幕を開けた。




 蒸気機関銃。これにも多くの種類があるが、護身用として人気なのは空気を圧縮させて弾として利用するものだ。殺傷能力は低く、弾の補充も必要ないからだ。

 ただし射程は長くないし、距離が遠ざかればそよ風のように消えてしまう。アルトなどはこれを好んで愛用している。改造して威力を出すのも可能だが、人を殺すのは難しいからだ。

 これは蒸気圧や水圧などの圧力差を利用しており、そのため内部には水を溜めておく必要がある。引き金を動かすことで、瞬時に熱を生み出して小型の水蒸気爆発を起こし、気圧差で固めた空気の弾を発射する仕組みとなっている。


 本来、蒸気機関は熱を活用して蒸気圧でピストンを上下させる熱機関の一種である。ただし初動は熱を発生させる時間がかかるため、すぐに使うという点ではあまり向いていない。

 だが錬金術や化学の発展により、薬品によって瞬間的に水を沸騰させるのは可能になった。爆発内部と通常の外部では気圧に差異が出るのも、それを利用した空気の押し出しも理論としては成立しており、実行に至っている。

 ヤシロが持っている銃はもう少し仕組みが異なる。鉛と鉄を組み合わせた実弾を補充し、火薬の力で飛ばすのも普通の銃と変わらない。それでも蒸気機関銃と称するには理由がある。


 引き金を動かす。薬莢の中に含まれている火薬が点火し爆発する、その爆発を受けて内部に組み込まれている小型蒸気機関が熱を溜めていく。

 撃てば撃つほど、蒸気機関は熱されていく。内部のピストンが激しく動き、水が気体へと変わっていく。そしてヤシロが次に装填した弾倉は、火薬が仕込まれていない銃弾の形をした鉄の塊である。

 銃身の背後にある燃焼装置のスイッチを切り替える。ただでさえ蒸気が溢れんばかりに満たされている内部に、さらに熱が加わって爆発する勢いに高まっていく。


 その勢いを利用して殺傷と貫通能力を高めた蒸気圧で鉄の銃弾を撃つ。弾丸は真っ白な蒸気煙を纏いながら、牛頭の眉間へと進んでいく。

 体中を送り犬に噛みつかれていた牛頭の男は、先程まで銃弾を斧で振り払っていた。しかし銃弾の雰囲気が変わったことから、今度は避ける仕草を見せた。

 重量と発射速度、そして熱。あらゆる要素を詰め込んだ銃弾は汚水の中へと潜り込んで、煉瓦の床へ埋まった。しかし自らの熱で汚水を泡立たせ、沸騰させる。


 銃弾から立ち上る蒸気と、汚水を蒸発させる熱でヤシロの肩に乗っている光る狼の明かりが拡散されていく。腐臭が一際強くなる中、視界は白くなっていた。

 牛頭の男は乱雑に斧を振り回して、その動きで体に噛みついていた送り犬達を振り払いながら警戒する。盛り上がった筋肉に血管が浮かび上がり、力強く脈打つ最中で肌を削る銃弾が真横から撃たれた。

 痛みに口から生臭い涎を吐き出しながら、牛頭の男は銃弾が飛んできた方向へ手を伸ばす。しかし視界を埋め尽くす蒸気が少し動いただけで、なにも掴めない。


 次は足の甲、次は手の平、腰、耳、太腿、首、脇。牛頭の男の肌表面が削られていく中、壁や床を蹴り上げて移動するヤシロは舌打ちする。牛頭の男の動きが予想以上に掴めず、そして素早い。

 急所を狙おうとすればもう少し接近し、腕の一本が使えなくなるのを覚悟した重火器に近い短銃を使用するしかない。短銃と言っても、その大きさは連射を可能とする機関銃とほぼ変わらない。

 銃身に付属したレバーを引くことで内部の蒸気機関に作用し、大砲並みの威力を引き出す類だ。ヤシロはあまり好まない武器だが、頑丈な体は皮膚を削れても血を流すには至らない。


 少しでも相手の動きを止めるため、ヤシロは肩に乗せていた光る狼を消す。瞬間的に視界は暗闇に染まる中、ヤシロは音もなく送り犬の影に近い体から狙いの武器を出す。

 拳大の大きさの銃弾を、水蒸気爆発の威力を相乗させて撃ち出す仕様であるので、大砲と言っても差し支えないかもしれない。耳と鼻、そして相手の気配だけを頼りに狙いをつける。

 接近戦ではあの巨体には勝てない。一撃で仕留めるのが重要である。それを承知の上で、ヤシロは耳をつんざく悲鳴に動きを止めることになった。


「う、わぁあああああああああああああんんんんん!! 怖いよぉおおおおおお!! パパァッ、ママァッ!! お家に帰りたいよぉおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」


 ヤシロは呆気にとられた。声が牛頭の男と同じ声なのである。しかし口調や言葉遣いが子供そのままであり、感じ取れる気配にも先程までの荒々しい殺気はない。

 ただ怯えて泣き喚く子供の気配しか闇の中では感知できないのである。号泣する子供は次に肌の表面が削られたことに対し、痛みで大声を出し続ける。水が染みて痛いと言うが、ヤシロはそれどころではない。

 正体を探ろうともう一度肩の上に魔法で光る狼を作り出す。銃を構えたまま、今度は長時間は見越していないので赤魔法による明かりの確保。そして照らされた姿に仰天する。


 黒い雄牛の顔、頭上には猛牛のように尖った角が血に塗れている。目の色は濁った黄色で、目やにに羽虫が集まっている。鼻からは鼻水が流れ、だらしなく開けられた口からは涎が零れ続けていた。

 しかし涎と共に血が垂れている。本来は葉をすり潰す四角い歯並びが赤く染まっており、歯の隙間には腸や鼠の尻尾と思われる体の一部が挟まっていた。大木のように太い腕も血塗れで、右手で握っている長大な斧にも女の長い髪らしき物が張りついた血と共に明かりで照らされている。

 浅黒い肌に筋骨隆々な肉の塊と称するに相応しい体。衣服は破けていて見るも無残だが、腰の辺りに引っかかっていた。そしてその服は明らかに子供用で、少年が着るようなシャツとズボンである。


「い、た……っあ、ぐぁっ、うおぉあぉぁああぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオ!!!!!!」


 牛頭の男は突然の光に瞼を閉じ、大きな手で光を遮ろうとした。しかし少しずつ気配と声が変化していき、人間の叫び声から獣の鳴き声へと変貌する。

 黄色く濁った目は血走り、今にも泡を吹きそうなほど興奮した状態で再度斧を振り回し始める。ヤシロは武器を送り犬の影にしまい、斧の攻撃を避けてから肩の光る狼を消す。

 荒い呼吸が暗闇で木霊する。しかしすすり泣く声が聞こえてきた時、ヤシロは頭が痛くなる思いだった。最悪な事態の中で、考えもしなかった最悪が飛び込んできたのだ。


「……自分はヤシロという。お前の名前は?」

「ぼく……なんだっけ? あったのはわかってるの。でもね、なんか変なの……少しずつ忘れてるの。けどパパとママのことは憶えてるよ!!」

「そうか。年齢は言えるか?」

「ん……三歳。あのね、妹ができるんだ。ぼくね、お兄ちゃんになるんだよ」


 暗闇の中で無邪気に聞こえてくる声。それは紛れもなくヤシロ達を襲い、今もヤシロを殺そうとしていた牛頭の怪物の声だ。しかし暗闇ではその姿を見ることは叶わない。


「ヤシロ……お兄ちゃん? ぼく、光怖い。なんにもわからなくなるの。気付いたらまた真っ暗なの……ねえ、お家に帰りたいよぉ……」

「……そうか。できる限りで……手伝おう……自分は人助けギルド【流星の旗】に所属しているからな……」

「本当!? ありがとう、ヤシロお兄ちゃん!!」


 喜ぶ声を耳にしながら、ヤシロは闇に感謝する。きっと今は酷い表情を浮かべていて、上っ面な言葉に自己嫌悪しているのを悟られてしまうからだ。

 昔から闇はヤシロの味方であった。なんでも隠してくれる。嘘を吐く自分も、醜い本心も、獣みたいに隙を狙う眼光も。暗闇に慣れた目で居場所を探りながら、斧を握っていない手を柔らかく掴む。


「立ち上がれるか? 二人で歩いていこう」

「出口に連れて行ってくれるの? ヤシロお兄ちゃんは優しいんだね! ぼくも見習わなきゃ!」

「……優しくなんか、ないんだ」

「あれ? 思ったよりヤシロお兄ちゃんの手は小さいね。でもあったかいや」


 ヤシロは伸ばし続けている毛糸の方向を確かめ、牛頭の男、もとい少年の手を引っ張って奥へと進む。迷宮は一本道、出口はないため、迷わずに中心へと歩いていける。

 汚水を踏み潰すように足を動かす。一歩進む度に体全体が重くなっていくような錯覚と、胸を締め付ける苦しみにヤシロは口元を引きつらせるだけだ。

 筋肉で構成されたような怪物の手は子供の体温をしており、それが一層とヤシロの良心を蝕んでいく。素直な怪物を連れて、元暗殺者は適切な場所を探しに行く。


「自分は……獣だからな」


 目の前の得物を逃がさないように、ヤシロは怪物の手を強く握る。それが嬉しかった怪物も握り返す。そんな光景も闇は隠し続ける。

 少年は獣へ戻る。無慈悲に、少しでも苦しまないように、息の根を止めることだけを考える獣へ。それが手を握る怪物を楽にする唯一の方法と、知ってしまったから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る