EPⅤ×Ⅱ【送り犬《shadow×dog》】

 闇に慣れた目にとって光ほど体に痛みを訴える物はなかった。汚泥にまみれた空間で鼻は異臭に馴染み、ぬるつく粘液に抵抗を示すこともない。

 ただ一つ。時折気まぐれに現れる光だけが少年にとっては耐えがたい激痛だった。逃げるように闇の中へと戻る。荒く息を吐く口からは獣に似た叫びしか迸らなかった。




 ロンダニアの街は決して綺麗ではない。むしろ世界で一番汚い首都と嘲笑われてもおかしくない。産業革命の最先端を歩く国として恥ずべき光景。

 道路の上には馬糞が落ちており、裏路地にはブリキ製の塵箱が腐臭を放っている。夏場でも長袖で過ごせるロンダニアの街でさえ食物はあっという間に劣化する。

 一番酷いのは工場や各家庭から排出される煙だ。蒸気機関で最も使われる燃料は石炭であり、その残滓が空気に溶けて視界を霧のように汚す。喉に細かい埃がくっついて、年中咳が止まらないのも日常茶飯事。


 道路掃除人ストリートスウィーパー少年街路清掃夫オーダーリー・ボーイがどんなに箒片手に動いても、石畳が綺麗になることはない。

 区画によっては彼らがいないのも多く、外見の汚れはそのまま治安の悪さと繋がっていた。彼らの仕事は仕組みとしては曖昧に成り立っている事例が圧倒的多数で、区画によって給金も異なる場合がある。

 こういった街の掃除が慈善活動に近い時代というのも原因だが、基本的に需要が供給を上回ってしまっている。人口増加による馬車の増加に、都市部の発展に伴う処理場の郊外進出。


 場所によっては貴婦人がスカートをたくし上げ、使用人が木の板を持ち歩いている光景まで。道端に置かれた塵箱の蓋は耐え切れずに中身を溢れさせている。

 塵収集人は早朝に現れて塵を回収する時にエール代とも言える追加料金チップを、家の管理を任せられている婦人に強請るのは最早常識。それを拒んだ家の前の塵箱の惨状は言うまでもない。

 それでも昔よりはましになったと、老人は呟く。水洗トイレが普及し始めた頃、恐ろしいことに流れ出た水は下水道で処理されず、各家庭に設置されていた肥溜めに詰められていたのだから。


「マルク……一つ、言っておく。その姿で下水道に入るとか馬鹿にしているのか?」

「ええっ!? だって、着替えるのは時間の無駄であり、ヤシロさん達だって仕事着ですよね!?」


 荷物も持たずにロンダニアの街を歩く執事とメイド、それに付き添う鴉を擬人化したような青年。異様な三人の出で立ちに、横を通り過ぎた子供は指差して笑う。

 執事といっても姿は少年な上に髪に同化するような犬耳飾り。メイドなどはスカートが膝丈の長さで白い靴下が見えている。青年などは怪人と言っても差し支えない木の仮面付き。

 どう考えても子供が背伸びして変なお洒落に目覚めたとしか思えない。通行人の何人かは少しでも怪しい行動をしたら、巡回中の警官を呼ぶつもりでいた。


「自分のは替えがある。あと私服を持っていない」

「あ、僕もです! 実はハトリさんがいつも可愛いのを見繕ってくれるので、それを着てればいいかなーと」

「衝撃の真実!? 確かにハトリさんの服装センスは素晴らしいの一言ですけど……え、ええー」


 二人の言い方には若干の語弊があり、私服を買っても管理がチドリとハトリが率先して行うので、自分達の収納棚にしまわれているのが仕事着だけが正しい。

 それでも鳥を模したような仮面や細工物を身に着けているマルクにとって、そういった身なりに無頓着な二人に文化的差異が壁として区画されているのではないかと衝撃を受けていた。

 歩道は馬車が走り回る車道よりは幾分か綺麗ではあるが、四つん這いになりたいと思わない。それを念頭に置いてもなお、マルクは体勢を保てずに壁に寄りかかって何度もありえないと呟く。


「執事の服装は基本的に主人が来ている服よりも一昔前の流行服を着ることが勧められていて、それでいて見苦しくない物だと燕尾服が適切なだけだ」

「メイドも本当は足首まで隠した方がいいのはわかっているんですけど、僕の場合は動き回っている内に破れちゃうんですよね。それにお姉さまのスカート姿を真似たくて」

「ユーナさんのスカートは淑女として見習っては駄目な長さですよ!? あ、あんな短い丈……見ているこっちが恥ずかしい!!」

「まあ二百年くらい経てば服装の流行も変わるし、万が一の確率であれが普通になる時代もあるだろう。それよりも話を戻すとして……下水道は汚濁の極致だぞ」


 思い出して赤面するマルクに冷めた目を向けるヤシロは、念を押すようにその服で本当に行くのかを疑う。地上でこれだけ汚れているロンダニアの街の、さらに汚泥極まる場所。

 かつて風刺画にて描かれたダムズ川の汚れを示した絵には多くの病原菌が含まれていると恐れられ続けている。わざわざ顕微鏡で見なければ汚れがわからないとは、甘い考えだとヤシロは鼻で笑った覚えがある。

 本当の下水道には目に見える蛆に蠅、それくらいならば可愛いものだが、溝鼠と出会った時には死を覚悟しなくてはいけない。数百、数千の群れに体を齧られて息絶えるのは中々に長引いて辛い。


「人の糞尿、油汚れに生塵、洗剤で泡立っているはずなのにその泡すら茶と灰と緑を混ぜ合わせたような色。それだけじゃない……溝さらいの死体もあるな」

「……え? いや、僕達は救助へ向かうのでは!? なのになんで死亡確定してるんですか!?」

「あわわ、マルクさんは知らないかもですけど……溝さらいさんは三人から五人で動くんです。誰かが鼠さんに襲われても平気なように。僕も助けてもらったことあるんですよ!」

「……え? えーと…………ヤシロさん?」


 明るい調子でなんだか聞き逃してはいけないのを聞いたようなマルクは、視線も含めてヤシロに助けを求める。深いため息と共に説明が加わる。


「ナギサは何度か下水道に入っては無事に生還していたらしい……とんでもない強運でな」

「えへへー。お父さんに金貨を拾って来いとおつかい言い渡されて、迷っている内に溝さらいさんが心配して出口まで送ってくれたんですよ」

「ちなみに自分の予想だと、おつかいではなく死んでこいという意味だったと思うがな。それに溝さらいも自分の儲けを掻っ攫われたくなかっただろうしな」

「ヤシロさんの現実的シビアな見方と、ナギサさんの底抜けの前向きポジティブさに、どっちが真実なのか不明ですね!!」


 両極端な二人の言葉に、マルクはやけっぱちな気持ちで簡潔にまとめた。性格が違えば、見ている世界も大きく変わるらしい。

 しかしマルクは片方だけを選ぶことはできない。ヤシロだけでは頼りになるが怖い雰囲気に呑まれてしまうし、ナギサだけでは明るいが頼りなくて心細くなる。

 絶妙に均等が取れている二人に対して、本当にあの人助けギルド【流星の旗】でまともなのはリーダーくらいしかいないのではないかと疑いたくなるほどだ。


「とりあえず明かりはどうします? 火だと爆発するかもしれないですし、蒸気灯ですか?」

「ナギサ……蒸気灯も火を点ける類が多数ある。こういった時にアルトやユーナがいると便利なんだが……仕方ない。自分の魔法でなんとかする」

「お姉さまの風邪、早く治ると良いですね。それにしてもヤシロさんはどうして魔法それだけ使えるのに、黒魔導士無資格なんですか?」

「……何度も言ったが、経歴から資格を付与することも許されていないんだ……監獄から何度も脱走してるしな……」

「そうなんですか。僕のお父さんも今は監獄ですけど、逃げ出すのは難しいってぼやいてましたから、やっぱりヤシロさんはすごいですね!!」


 聞いているマルクの方が焦るような会話内容に、思わず周囲の目を気にしてしまう。どう受け止めても誤解しか招かないし、誤解でなくても危険な話だ。

 それをナギサは隠すこともなく無自覚の大声で話すものだから、ヤシロがわざと小声でぼかしても無意味だ。しかもナギサの場合、悪意が一切含まれていないのである。

 純粋にヤシロを尊敬して、ヤシロは優秀だと思っての発言。マルクからすれば二秒ほど思考してから発言してほしいが、彼女は零秒思考なのであった。


「じょ、蒸気って複数存在しているのですか!?」


 これ以上危険な会話内容が続くのが耐え切れなかったマルクが、声を裏返らせながらも別の話題を無理矢理切り出す。蒸気灯に種類がある、という点からの疑問だ。

 確かに前からマルクは蒸気灯を不思議に思っていたが、それを追求しようと考えたこととはない。気軽に火が点けられる、その事実だけで生活になんら支障は出てこないのだから。

 しかし改めて振り返ってみれば街路灯にも蒸気灯と瓦斯灯の二種類が人々の口に上る。瓦斯灯は警官が太陽が沈んだ後に火を点火しなければならず、それは一日に何十キロも歩く巡視官の仕事の一つでもあった。


「……ある。曹達ナトリウム木精メタノール酒精エタノールを混合させた亞爾箇保爾アルコール、石炭から発生させた瓦斯ガス、これら以外にも気体による動力源エネルギー全てを蒸気として区分している」

「瓦斯も蒸気に!? というか多大な範囲になってません!?」

「おかげで地面の下にある蒸気管は蜘蛛の巣どころの騒ぎではない。ここに電線が加わることを将来的に考えると、お偉いさんは頭が痛いだろうな」


 靴底で軽く石畳を叩くヤシロは小さく息を吐く。蒸気スチームと言えば水から発生する物だが、アイリッシュ連合王国ではそれも含めて多くを蒸気としている。

 ただしかなり大雑把な分け方である。例えばアルコールランプが火を点く仕組みさえ、酒精と木精が布地を伝って燃焼した際に気体へと変化しているという考えから蒸気灯に分類されてしまう。

 物を動かす、火を点ける、水を出す、そういった動力に必要なのが気体であれば、蒸気機関として称される。厳密には違うと言う者もいるが、クイーンズエイジに生きる者達の多くはそう認識している。


「あの……曹達って蒸気に変換できるんですか? 確か金属、ですよね?」

「あわわわ、液体にするのも難しいじゃないですか!? や、ヤシロさん、もしかして魔法で!?」

「……化学と科学の組み合わせだな。真空状態というのはわかるか?」


 無言の二人を見て、まず真空の説明からしなくてはいけないかとヤシロは肩から力を抜く。こういう時にカナンがいると嬉々として説明してくれるので、ヤシロは苦労しないのだが仕方ない。

 真空は簡単に言えば空気がない状態だ。もっと精密に表現すると圧力が大気圧より低い空間のことである。例えば高い山に登った時、高所では空気が薄くなるのは大気圧が低くなって酸素が希薄になっているというのが例だ。

 つまり真空に空気がないというのは結果論であり、大気圧よりも低い気圧が重要なのである。この気圧が低いと物質は沸点が下がる。和国にある不死山の山頂では38℃で水が沸騰する。


 これはあらゆる液体に適用されるため、蒸気になるのに要する圧力、蒸気圧と呼ばれる。ただし固体から液体への変化に必要な融点はまた事情が違うので、注意である。曹達は融点が98℃である流れから、液体にするのは難しくない。

 真空による蒸気圧を利用して液体状の曹達を蒸気へと変化させることにより、真空管を通して低圧で光を発生させるのが曹達灯ナトリウムランプとなる。高圧はまだ電圧の研究が進んでいないので、高圧曹達灯の開発は発展途上である。

 この低圧曹達灯の光は霧の透過率が高いのと、巡視官による点灯を必要としない利点から、普及を進めたい街路灯の一つである。ただし電気の普及が先決なのだが。


 まず電気エレキテルを発生させるに必要な施設の仕組み、構築、街へ供給するために用意すべき管や線の配備、あらゆる物事が問題となっている。

 一番は特許を誰が先取るか、それが発展に見合う物か、まだまだ課題は多い。現在のところ蒸気機関の普及が高い文化水準、最高位魔導士の一人、赤銅盤の発明家マグナス・ウォーカーが重要視していることから当分はこのままだろう。

 ここまでヤシロが説明した時点で、ナギサの目は明後日を見ており、マルクは理解しようとして頭から蒸気が出そうなほどの知恵熱を発生させていた。


「……とりあえず蒸気は簡単じゃない、とだけ覚えとけばいい」

「あ、あわ、あわわ……ふぁい」

「べ、勉強になりました……ヤシロさんは如何なる場所でそんな知識を?」

「独学。学ばなければ死ぬと思ったし、殺せないと教えられた」


 ヤシロの物騒な言葉にマルクはもう一度思考を停止させた。しかしヤシロとナギサは特に気にした様子も見せずに前へ進んでいく。

 石畳にある鉄製の蓋から下水道へと向かうこともできるが、大きさや侵入しやすさとしてはあまり適切ではないのを知っているヤシロとナギサが目指すのはダムズ川に通じる放流口である。

 街を横断するように流れる大きな河。下水道内で処理してある程度浄水した水を海へと流すため下流の方に多く存在しているのが放流口だ。ただしそこも一筋縄にいかない。


 溝さらいは公の存在ではないが、その実態は警察は掴んでいる。コチカネット警察ヤードの方では少しでも下水道内の死亡事故を減らすため、そして溝さらいの根絶を目指す目的で放流口に見張りを立てている。

 特に七月末からの行方不明者増加を受けてか、いつもは一人の監視が二人に増えている。警戒も強くなっているらしく、わずかでも怪しい者が近付こうものならば声をかけられて職質されてしまうだろう。

 ヤシロ達は目立つ外見だ。特にマルクは人によっては不審者と間違えるだろうし、ヤシロとナギサも子ども扱いされた挙げ句に叱られて家に帰るよう指導されてしまうのは目に見えていた。


「どうします?」

「ダムズ川に突き落とすか?」

「穏便な行動を心掛けてください!!」


 実は考えていた中で一番的確で和やかなな案を口に出したのだが、マルクの反論にヤシロは顔をしかめた。だが反論したマルク自体に新しい提案があるわけではない。

 建物の影からこっそり放流口を覗きながら二人の警官をどう処理すべきか。やはり夏場の下水の放流口は臭いが酷いため人は近付いていないが、監視官達は口元を覆うように布を巻いている。

 同じくこういった臭いに慣れていないマルクは侵入する前から辟易した様子でいる。入った後も考えながらヤシロが思案を続けていた最中だった。


「ナギサちゅわぁああああああああああんんん!! プリティーエンジェルメイドちゃああああああああああんんんん!!」


 振り向いて確認することもなくヤシロは的確に相手の顔面を靴底で蹴った。エール腹が豊かに揺れたのが見える前に、大体声と台詞で相手の正体は掴めている。

 虎の刺青が彫られた将棋頭にいやらしい表情を浮かべていた顔は凹んでいた。ナギサが涙目になってマルクの後ろに隠れる中、マルクはヤシロの動きが目で捉えられなかった事実に驚いていた。

 あまりにも速すぎたせいで、マルクが後ろを振り向く頃には蹴られた相手は起き上がり始めていた。その回復力の速さにヤシロは盛大な舌打ちをする。


「オイラがデッドリー・グルブンだと知っての飛び蹴りか!? って、珍しいな……チビの発育不良でも紫の方じゃなくて、執事の犬耳かよ」

「……丁度いい」

「なに言ってんだぁ!? オイラはなんだか前回、いや、二週間後くらいに折角の出番の機会を逃した気がしてファンサービスとして現れったぁああああああああああああああああああ!!??」


 意気揚々と勝手に説明していたデッドリーの贅肉しかないであろう腹を大雑把に摘まんだヤシロが、容赦なく放流口を監視している警察官に向かって膨れた腹の巨体を手荒く投げた。

 変な気配に監視官の二人が気付いた時には、視界は膨らんだ腹で埋まっており、大きな水柱がダムズ川に発生した。その隙を逃さずにヤシロはマルクの服を掴み、走り出す。

 ナギサもヤシロの背中について行き、ダムズ川に溺れかけている三人に謝ろうと口を開きかけたが、ヤシロに止められて慌てて両手で隠した。


 放流口は土管を大きな四角に形成したような構造で、入り口は水の放流ため蓋などは設置されていない。そのまま中へと入り込み、汚水を跳ね飛ばしながら先を目指す。

 ある程度進んだところで暗闇が視界を支配したが、それ以上に充満する生臭さに水や人の生活で発生する悪臭を煮詰めたような物が鼻だけでなく、目まで刺激してくる。

 酷い臭いにマルクは条件反射的にまだ見える外の光へ向かって走り出そうとしたが、服を掴んでいるヤシロの腕力には勝てなかった。白魔法は確実にヤシロの方が上なのである。


「うおっげぇ……ぐあっ、うぐぅぷ……ぜっぴゅぅ……」

「臭いに慣れてない奴は呼吸も難しいか。仕方ない」


 溜め息をつきながらヤシロは懐から小さな小瓶を取り出す。木の蓋ではなく、硝子とゴムを用いて厳重に密閉している厚みのある硝子瓶。その蓋を開け、臭いに苦しむマルクの顔面へ近付ける。

 鼻の奥だけでなく目や脳髄まで届く刺激臭に、マルクは何度も咽て涙を零した。あまりの酷さに呼吸も難しくなるほどだったが、落ち着いた頃に自分の体が変化していることに気付く。

 先程まで困難だった呼吸が普段通りにできるのだ。それどころが臭いが感じ取れず、目の前がひたすら暗闇で満たされている空間に恐怖を覚える余裕が発生するほどだ。


「念のため安母尼亞アンモニアの臭いを詰め込んだのを持ってきていた。これで鼻も麻痺したはずだ。立てるか?」

「は、はい……」


 四つん這いになって吐きかけていたマルクは、耳元で囁かれたヤシロの声に驚きつつも立ち上がる。暗闇のせいで捕まるところが見えず、足を震えさせながらの情けない姿だ。

 入ってきた放流口の明かりはまるで針先のように細く、聞こえてくる喧噪も遙か遠い世界のように感じ取れる。靴裏から伝わる泥よりも生肉に近い柔らかさに肩が驚きで跳ね上がる。

 まだ灯りを点けないのかとマルクが不安がる中、ヤシロは渡された赤い毛糸の糸先をナイフに括り付け、放流口近くの壁に投げて突き立てる。糸を引っ張っても解けないのを確認し、ヤシロは青魔法に必要な法則文を口から吐き出す。


「――狼の胃袋に入った月と太陽、その柔らかさ、輝き、二つを合わせて道を照らす標となることを命じる。出てきやがれ、神話の終わりよりは楽な世界に落胆しろ――」


 視界に飛び込んだ輝きに、マルクは思わず瞼を閉じる。いきなりの暗闇から光の転換に目がついていかず、刺激となって脳が痛みを伝えてきた。

 少しずつ瞼を通して光に慣れてきた頃、マルクはもう一度驚く。ヤシロの肩に乗る狼の姿で月の柔らかさと太陽の輝きを体毛にした魔法ではない。それ以上の、街を支える基盤の構造にだ。

 歯車の音が下水道の壁向こうから聞こえてくるのは錯覚ではない。実際に壁内部で赤銅色の歯車が動いているのだ。欠けた壁から巨大な歯車が梟の目のようにこちらを睨んでいるような圧迫感。


 巨大。ヤシロとナギサ、マルクを含めた三人が横並びで立っていても十分余裕がある大きさの水道管。それはもう巨大土竜や怪物蟻の巣穴と言われても納得したかもしれない。

 煉瓦の壁に地面に天井、水や流れてくる物質によって腐敗して欠けている場所は多い。その裏側全てで歯車が動き回り、配管が隙間なく張り巡らされている。穴が空いた管からは蒸気が噴き出ることもあった。

 下を見れば足首まで浸かる汚水が放流口へ向かって流れている。ヤシロが言っていたように灰と緑と茶色、他にも多くの色合いを混ぜすぎて汚れた水だ。三百万人の生活用水が放流されているという証し。


 試しに一歩踏み出しても、足裏に伝わるのは煉瓦の感触だけではない。泥に似たなにか、固い金属、生塵の柔らかさ、粘ついて煉瓦に張り付いた液体と固体の中間、極めつけは脹ら脛を擦るように移動する生物の気配。

 壁を見れば一目瞭然だ。百足、蛆虫、蠅、蛭、そして台所を蹂躙せんとする代表格の蜚蠊コックローチまでもが這いずり回っている。それだけでマルクは鳥肌を立たせ、声も出なくなった。

 しかし肩上を蠢くなにかの触覚が触れた瞬間、マルクは我を忘れて手足を暴れさせた。跳ねる汚水に嫌そうな目を向けるヤシロは呆れ果て、ナギサがなんでもないような様子でマルクの肩に乗っていた蜚蠊を摘んで遠くへ投げ捨てた。軽い水音が耳に届くだけで終わりである。


「うへぇっひぃ……な、ナギサさんはむ、む、虫平気なんですか!?」

「力加減が難しいので生きたまま逃がすのは苦手です! でもどこにでもいて、食事に困らないんですけど……寄生虫とか怖いらしいです。まあ焼けば全部食べれますよ!!」

「……僕、なんだかナギサさんの印象が百八十度回転しつつあるんですが」

「あと九十度くらいは回る余地があるからな、頑張れよ。それよりも次は移動手段を整えるぞ」


 微妙にわかりにくい慰めを言いつつ、ヤシロは指笛を吹く。すると灯りとなった狼の周囲にできたヤシロやマルクの影から泡立つように黒い狼が浮かぶ。顔のない、影の体を持つ犬。

 それがヤシロがよく使う送り犬という存在だということはマルクも知っていた。ただしそれがどういった性質や習性、なによりこんなにも汎用が効くかまでは理解していない。

 ただわかるのは背後の影から静かに現れるのだ。音もなく、ゆっくりと。そして一匹ではなく、時には百を超える群れで出現する。今はヤシロの意図によって十匹程度が姿を見せている。


「――さあ仕事だ、お前ら。北の大地にいる白鬚の馴鹿トナカイに劣るんじゃねぇぞ。空を飛べとは言わねぇが、輸送と移動くらいはテメェらの足が活きるはずだ。あとは理解したな? さっさと動け――」


 ヤシロの青魔法の法則文に従うように、送り犬の内六匹が溶けるように合わさり、一台のソリに変貌する。御者が座る部分と、荷物が載るといった簡単な構造の物だ。

 残った四匹の尻尾が脈打ち、手綱となって橇に繋がる。あっという間に犬橇が完成し、マルクは送り犬の影という体の柔軟性に目を見開く。ただしそれよりも気にかかるのはヤシロの法則文の使い方だ。

 どうにも普段のヤシロの言葉はぶっきらぼうで愛想はないが、決して乱暴ではない。だが魔法の法則文は妙に高圧的で荒々しい。どこかヤシロの印象とズレがあった。


「ヤシロさんって、魔法使う時の言い方がヴラドさんそっくりですね!」


 しかしマルクの疑問はナギサの明るくて無邪気な一言で解決する。最高位魔導士の一人、黒鉄骨の魔剣士ヴラド・ブレイド、傭兵ギルド【剣の墓場】のギルドリーダーでもある。

 聞いていた話ではかつてヤシロは彼の下で働いていたらしい。つまり元傭兵ギルド【剣の墓場】のメンバーであったということだ。しかもそこで受けた依頼で、ユーナの命を狙った過去もあるという噂だ。

 どうして今は人助けギルド【流星の旗】に所属し執事をしているのか、マルクは詳しい経緯は知らない。しかし一つだけ、今、わかったのは簡単な事実。灯り代わりの狼に照らされたヤシロの表情である。


 凄く不本意な顔で、苦虫を噛み潰したような表情をヤシロは浮かべていた。


「……そっくり……か?」

「はい! ヴラドさんが部下のお尻を蹴り上げる時の脅しみたいでした!!」

「……そ、うか……」


 明るく素直なナギサの言葉を否定もできず、無自覚に酷似していたことにショックを受けたヤシロは顔に暗い影を落とした。反抗期の少年が、親に似ているね、と友人に言われた時のような姿だ。

 かなり心に衝撃を食らったらしく、普段の隙のない彼とは思えない覚束ない足取りで御者台に座るヤシロ。ナギサは迷わずに後ろの荷物台に乗る。虫も平気であり、汚れもあまり気にしない彼女はマルクを手招きする。

 すでに臭いや視界で気が引けていたマルクだったが、ナギサがいつも通りであること、そしてポケットにしまっている自作の腕輪細工を思い出し、意を決して荷物台の上に。靴の中は汚水に溢れていたが、気合いで我慢する。


「……送り犬に体力はない。狼の最高時速七十㎞のまま移動する。振り落とされないようにしっかりと捕まっていろ」

「へ? それってつまり……」

「蒸気機関車の最高時速は二百㎞。ただし線路が整備されていない状態で出せるのは半分以下。ナギサ、わかるか?」

「はい! つまり今から蒸気機関車の速度で下水道を走り回るんですね!!」


 先生の質問に意気揚々と答える生徒のように、ナギサは自信に溢れた姿で声を出した。普段から勉強をヤシロに見てもらっている成果を見せることができたからだろう。

 ただしマルクはそれどころではない。蒸気機関車には何度も乗っているが、あんなに速い乗り物は他にはないと常日頃から考えている。それでも安心して乗れるのは、頑丈な箱で安全な座席で風の抵抗も受けずに到着を待てばいいからだ。

 送り犬で構成された剥き出し状態の犬橇。それで千㎞の下水道を時速七十㎞で走り回るという内容に、抗議の声を上げる間もなく送り犬達は走り始めた。


「明日の朝食までには終わらせる! ナギサ、帰ったら風呂と消毒を忘れるな!」

「はい!! お姉さま達がお腹空かせちゃいますもんね! 健康も大事です!!」

「執事とメイドの大冒険が今始まるみたいな流れですけど、一般人がいることも忘れないでぇええええええええええええ!!」


 マルクの叫びが下水道内部に反響し、近くの地上に続く下水道直結穴マンホールを伝って通行人の耳にまで響いた。いきなりの怪奇現象と謎の言葉に驚いたのも束の間で、地上を歩く人々はすぐさま太陽の下の生活に戻る。

 ロンダニアの街はいつも通り、いやむしろ暴れ回る紫魔導士が夏風邪で倒れていることから、普段よりも平和なほどだ。誰も地下の異常に気付かず、当たり前のように汚れた水を排水口へと流す。

 赤い毛糸が下水道の道を辿るように伸びていくのも、真っ赤な血と肉片が汚水に溶けてダムズ川に流れていく異様さも、少しずつ下水道構造が変化している予兆も、多くの者は予感さえ覚えないままだ。




 斧が壁にぶつかって耳が痺れるほどの音を下水道内に反響する。それは怪物の声と混じり、まるで獣と人間の泣き声を合わせたように遠くへ響く。


「パパ……帰りたいよぉ……ママ……どこぉ……」


 血と一緒に女性の長い髪の毛がへばりついた斧を持って、怪物は彷徨う。牛の頭と筋骨隆々な体を見て、誰も彼を少年と判断することはできないだろう。それでも怪物は迷子になった少年のように探す。

 大好きな家族を。三人家族の両親を。斧がもう一度壁にぶつかり、煉瓦が欠ける。歯車が無機質に動き続け、歪んだ軋みが怪物の足音と共に少しずつ大きくなる。ただ静かに暗闇だけが全てを見ているだけだった。

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