EPⅤ×Ⅵ【雨の出会い《rain×encounter》】

 中棒がない骨組みと布地だけの傘が蝙蝠の翼のように頭上に広がる。石突きの部分には簡略化デフォルメされた猫のぬいぐるみの頭。下手すると新種の合成獣キメラかと一部の学会は騒ぎだすかもしれない。

 その正体は持つ必要がない傘、という題目を元に作り上げられた魔道具である。重い雲から鈍い水を零し続ける生憎の雨模様の日、傘を支えるのも面倒な時には便利な物ではある。

 しかしこの傘には敵意を抱いた相手が近づくと鳴き声を上げるという余計な機能が付属されており、一般販売されている魔道具の方には該当機能は排除されていた。


 黒い蝙蝠傘が二つ、白いレースが美しい傘が一つ、そして白の雨合羽を着たメイドが一人。両手が自由な状態で濡れた石畳を走る少女を四つの雨具が追うような光景。

 夏でもロンダニアの街は雨が降れば寒々しい。暖炉には火が灯され、住人の足は自らの家に向かう。雨音を遮るのは馬車くらいなもので、それさえも閑古鳥が鳴くような静かな昼。

 明け方から雨が降り始めたせいで、出かける予定を急遽中止にした者は多い。仕事で外出が必要な者も、職場から一歩も出ないようにと心掛ければ濡れることはない。


「あわ、あわわ!! お姉さま、本気を出したヤシロさんってそんなに危険なんですか!?」

「そうよねん……アタシ達って噂のヤシロくんの本気って見てないものねん。ね、チドリちゃん?」

「確か……まだコージとユーナと……ついでにアルトしかギルドにいないくらいの時期の話だとは聞いたが」

「ついでは余計なんだよ、色男!! というかチビ助の本気っていうのはあれなんだよ……自分も死ぬ覚悟を持っている時しか発揮されねぇ、諸刃の剣ってやつだ」


 聖マークス病院で健やかに寝息を立てているならば、なにも問題はない。だがチドリとハトリが管理しているクローゼット部屋から消えた衣装が問題なのである。

 平常時、異常時、たとえ街が滅びそうな時でもヤシロは基本的に毛皮の服を使用しない。理由は単純だ。あの衣装を着る、それは確実に相手を殺すと決めた際に着用する物だからだ。

 徹底的な対人に用いる衣装。魔道具ではない、蒸気機関を組み込んだ武器でも、兵器ですらない。それ単体では一切の脅威は皆無、探そうと思えば毛皮屋でも簡単に手に入る類。


狼皮の狂戦士ウールヴへジン……これが魔法関係ならば、わたくしも対処できたのですが……ヤシロさんのあれは意識変容トランスですから、本当に危険ですわよ」

「あまり聞かない御名前だわん。詳細は後で尋ねるとして、ユーナちゃんでも大変な事態なのん?」

「……全快状態で勝率二割か三割。七割近い確率でわたくしでも殺される覚悟を背負う類ですわ」


 渋い表情を浮かべながらも、ユーナは努めて冷静に告げる。頭の奥は本気を出した執事のかつての姿を思い出し、氷水を被せられたように震えて麻痺しているくらいだ。

 一度は勝った。それは偶然と運と、ほんの些細な迷いから生まれた隙をついただけの話。口に出した確率は、その時に準じての判断であり、現在にも適応するとは限らない。

 体の奥底から震える。それは嫌な予感だけでなく、体調の悪化も示していた。季節外れの風邪は予想以上に体力を削り、足取りを怪しくする。それでもユーナは聖マークス病院に足を向ける。


 その病院は絶えない灯りが窓から見える建物だった。薄暗い街並みの中でも、まるで灯台のようにぼんやり浮かび上がる。温かさと安心を感じる光がそこにはある。

 しかしユーナはその病院に踏み込もうとしなかった。むしろ姿を隠すように近くの曲がり角の壁から入り口近くを見張るのである。そして問題がないであろう麗しい双子がドアを軽く叩いて挨拶する。

 中から出てきた看護師が二人を穏やかに案内していくのユーナを含めてアルトやナギサも眺めていた。ナギサは入りたかったのだが、借家の風呂で消したつもりでも、残った臭いから発生する強制的な消毒をユーナとアルトが恐れた。


「うう……健康体であれば婦長に挨拶し、今後の展望について会話したのに……」

「看督殿は掻き集めた数字を並べて、最新医療の発展よりも状況改善が最も必要だと力説するだろうよ。あー、怖っ」

「そういえばお姉さまにしては珍しくフローラさんを名前で呼ばないですよね? どうしてですか?」

「前も話したと思いますけど、かつての上司です。クリオネ戦争の間、短期間ですけど……しかも自ら除名してくださいと言って、まあ色々と……ありまして……」


 少しずつ口ごもりながらも、咳をしかけたユーナは慌てて自らの口を塞ぐ。雨音に消されるならばいいのだが、もしもロンダニアで最も有名な看護師の耳に聞こえたならば大変だ。

 猪突猛進を自覚しているユーナだが、あの看護師に関しては鋼鉄戦車だ。泥道、沼地、戦果渦巻く荒れた地面、たとえどんな場所でも病人がいれば毅然とした態度で真っ直ぐと突き進む覚悟と意思。

 それを間近で体験し、巻き込まれたことが何度もあるユーナは理解している。彼女は目の前で倒れる病人を見捨てない。なにがなんでも、どんな理由が提示されても。最後まで献身的に、命を救おうと最善を尽くす。


 だからこそわかる。彼女はユーナが完治するその時まで、傍にいる。それはつまり夏風邪が治るまで解放されないのを示唆していた。


 一刻も惜しい状況かもしれない。詳しいことはまだ全て把握しきれていないが、ヤシロが本気を出していると察知したからには止まり続けているわけにはいかなかった。

 獣が獲物を追跡するのに手を緩めないのと同じだ。餌として獲物を追い詰める獣は諦める選択で利益を得ようと計算するだろう。だが本気を出したヤシロの頭からはそんな計算は弾き出されている。

 いっそのこと機械のように単調。目的遂行のために動き続ける。達成するまで、他は視界に入れない。どこまでも執念深い狼、かつては悪魔の使いとまで呼ばれた獣の恐ろしさを曝け出す。


「あの、ヤシロさんが本気だとして……どんな状況になるんでしょうか?」

「そういえば、それも謎だったな。昔は意地を張っていたというか、確実に姫さんを殺すためとかで出した奥の手だしな」

「ヤシロさんがお姉さまを? もしかして……」


 一人考え込み始めたナギサを横に、ユーナも少しだけ首を傾げる。相手を必ず殺すためだけに使用する服。それを使ってまで殺害したい相手がいるという推測。

 しかしユーナが話を聞いていた限りでは、ヤシロは依頼で下水道に赴く、という主旨しか知らない。そして下水道が迷宮化しているかもしれないという予測から、魔道具を作って渡した。

 実は赤い毛糸を使用した魔道具にはいくつか仕掛けを施していたことを思い出しつつも、下水道でなにかが起きたのかと考える。そうなるとナギサから聞きださなくてはいけないと、ユーナが顔を上げた時だった。


「ヤシロさんでも、お姉さまを殺すつもりなら……僕は……」

「あれ? 天使ちゃん? なんか脳内変換暴走してない? おーい、寂しいから俺様の声が届いてくれないか」

「僕、一人でもヤシロさんを探しに行きます!! そしてヤシロさんをこの手で止めてきます!!」

「待て、天使ちゃん!! 天使ちゃんの手で止められるのは息の根しか思い浮かばな……速っ!?」


 大声で宣言してすぐに走り始めたナギサの雨合羽を着た背中があっという間に遠ざかる。視線だけでユーナとアルトは手分けすることを承知し、アルトが慌てて追いかけていく。

 一人残ったユーナは肺の中に入る冷たく湿った空気に辟易しつつ、傘を叩く重い雨粒の音に集中する。静かに思考を沈めて、体の不調を誤魔化すように胸をゆっくりと上下させる。

 頭が痛い。熱があるはずなのに、悪寒が止まらない。喉が痛烈な痺れを伴い、鼻だけは健康なことには感謝する。革ベルトで固定した杖刀の鞘部分に手が触れれば、乾いた冷たさが少しだけ心地いい。


「ユーナちゃん、コージくんが病室で慌ててたわよん! あまりにも大騒ぎするんで、フローラさんが強硬手段で黙らせようとしていた所だったわん!」

「本当は連れ出したかったんだが……完治するまでは駄目だと怒られてな。コージの白魔法でも跡が残る殴打痕って……ナギサとアルトは?」

「アルトさんはナギサさんを追いかけて行方不明ですわ。まあ、野蛮猿と二人きりとはいえ……暴走中のナギサさんならばアルトさんが振り回されるだけで終わるでしょう。二重の意味で」


 ナギサの暴走と聞いた双子は、空に顔を浮かべたアルトに対して十字を切る。ユーナの暴れるとはまた意味合いが違う、白魔法を考慮に入れた爆走でもある。

 残念なことに、この暴走状態では常にドジっ娘なナギサのドジが数倍に増加する。それをいかに制御しながら方向転換させるか、それは追いかけた相手次第であった。

 常時であればヤシロが上手く諭して止めてくれるのだが、アルトでは走りながら声を張り上げるだけで精一杯だろう。ただし声はナギサの耳に届いており、右と言えば右には曲がってくれる。たとえ右に壁があってもそれを貫く勢いで、というオマケ付きではあるが。


「ナギサちゃんはアルトくんに一任しといて、コージくんから下水道の話聞いてきたわよん。とりあえずは解決したらしいんだけど……なんかコージくんが気付いていないだけで、裏が見える話なのよねん」

「どういうことですの?」

「上位魔導士が絡んでるって言うのよん。でも下水道からダムズ川に落ちてるはずなんだけど死体が見つかってないらしいのよん」

「その上位魔導士を最後に目撃したのがヤシロらしい。川に流れたというのは、現場を見た者の証言からだそうだ。そして下水道には……迷宮の怪物がいたようだ」


 チドリとハトリは情報をすり合わせるように互いに言葉を出し続ける。上位魔導士には子供や奥さんが家族として存在しており、今は地方で療養中と言われているが真偽は不明。

 奥さんのお腹には秋に出産予定の子供が一人。クイーンズエイジ1881ではお腹の中で生きる子供の性別はわからない。娘か息子かも判明していない状態である。

 家族のためにも事件に協力を申し出た上位魔導士の評判は魔導士としてはそんなに悪くなく、人柄に関しては研究家に近かったようであまり情報がないという。


 迷宮は怪物が倒されたことで消滅した。それは現場で動いていた最高位魔導士の二人が保証している。今は再発の危険性をなくす目的で、内部の歯車機構の点検中である。

 現場に居合わせた溝さらい達は大勢の警察を見て下水道内に逃亡。一箇所の放流口に見張りが集まっていた故に、捕まえることは難しそうである。仕方なく近くにいた青年のマルクを警察署に連行。

 マルクは現在警察署にて事情聴取を受けており、おそらく明日の八月七日にならないと解放されない。まず円滑な事情聴取のため、徹底的に体を洗浄されているだろうとは言うまでもない。


 話を聞きながら、少しずつ強くなっていく雨粒の勢いにうんざりした目を向けるユーナ。頭痛が酷くなってきたが、目頭を指で揉む動作すらも気怠いものである。


「……怪物は愚かな王の息子であった。なんてお話なのかしら。そりゃあヤシロさんも怒りますわね」

「あらん? ユーナちゃん、今の話でわかったのん!?」

「いや……ヤシロさんがそんな本気出して殺したいと思う理由って常識的というか、まともな理由だろうとは推測してましたから」

「どんな理由で人殺しを選ぶんだ、それ。他人の話に首を突っ込むようには見えなかったんだが、意外だ」


 立ち尽くすのも飽きたユーナは歩き出す。頭上を守る魔道具の傘、ねこもりちゃん、と秘かに名付けている物体も水平移動しながらついていく。

 ハトリとチドリもその背中に追従するように足を動かし、コチカネット警察署があるマストチェスター地区へと向かっているのを標識を見て確認する。

 事情聴取を受けているマルクに細かいことを訪ねに行くのかと考えていた矢先、ふらついたユーナは曲がり角から姿を現した青年とぶつかってしまう。お互いに転びはしなかったが、よろけてしまう。


「すいません、よそ見していましたわ。お怪我はなくて?」

「ああ。こちらこそすまない。服は汚れていないだろうか?」


 黒い雨合羽を着た青年の顔はわずかしか見えなかったが、青い目と長い銀髪が印象的だった。触れれば折れそうな美形とはこういうものだろうかと、ユーナは見当違いな感想を抱く。

 胸元には水銀を固めて作られた蜻蛉飾り、そして三角を二つ組み合わせた金の星の中に輝く銅で塗られた半身の太陽、船のように星と太陽を支えるために大きく弧を描いた銀の三日月。下手すると月が二つを呑み込もうとしているようにも見える記章が特徴的であった。

 何故か革ベルトで固定している杖刀が青年に反応したが、今は面倒事は避けたいユーナは手で押さえ込む。杖刀の動きは敵意を持っている相手を警戒するものではなく、どこか懐かしい友人に会ってはしゃぐ子供の動きに似ていた。


「ええ、御心配なく。それではわたくしは急いでいるので」

「承知した。すまないが私も急な用事があるので……」


 紳士的な対応を忘れずに通り風のように滞ることなく去っていく青年の背中を、ユーナは眺める。胸元にあった天の象徴を兼ね備えた記章よりも、水銀の蜻蛉飾りが印象に残る。

 ユーナはいつも着用しているであろう黄金蝶の髪飾りに触れようとして、指先が柔らかな紫の髪にしか当たらないのに驚く。慌ててハトリに手鏡を持っていないかを尋ね、差し出された手鏡で自分の容姿を確認する。

 見れば大切な髪飾りを忘れていたのが確定する。風邪をひいていたとはいえ、自らの出生を確かめる唯一の手掛かりを置いてきてしまった事実に、ユーナは愕然とした。しかしそれも長く続かない。


 手鏡に映るのは自分の容姿だけではない。自分の背後も確認できる。もしも深夜の家の中で背景に違和感があるならば恐れるところだが、ユーナは別の意味で恐怖した。

 肉片。それを混ぜ合わせて団子にしたような、人型。それが木の幹ほどある腕を振り回しているのが見えたのである。曲がり角から急に現れた異形に気づいた双子を両手で抱え、ユーナは石畳を蹴る。

 頭上を守る魔道具の傘は無事だが、チドリとハトリの傘は異形が起こした風圧で道路へと軽やかに飛んでいく。生臭い息を吐きながら、異形は馬車が走る道に落ちた傘を追う。


「なんだ、あれは!?」

「わかりません! しかしねこもりちゃんが鳴き声を上げませんでした! 敵意はない、ですが無差別ですわ!!」

「うっ、酷い臭いだわん……フローラさんの病院から少し離れてて良かったのかしらん?」


 異形が吐く息は生臭い。それだけでなく肉片を繋ぎ合わせたような体には隙間がある。そこから空気が漏れるように肉が腐った臭いが水分と共に放出されている。

 雨が強く当たれば当たるほど水分の放出は激しくなり、辺り一帯に腐臭を漂わせる。ダムズ川が一番酷い時の臭いを思い起こさせるような、吐き気を催す臭気。ユーナはただでさえ胃の中になにも入っていないのに、胃液を吐き出しそうになる。

 飛んでいた傘を追いかけていた異形は、着地して動かなくなった傘を前にして立ち止まる。まるで目標を見失ったように。そして茶色と黒が混じった人間の眼球で周囲を見回し始める。


 ユーナはハトリとチドリに動かないように指示しながら、異形の姿を観察する。とりあえず人型ではあるが、まるで肉団子を繋ぎ合わせた歪な人形だ。

 頭部も丸く、髪の毛はない。耳も、鼻も、人間に必要な部位が見当たらない。ただ眼球だけが剥き出しの状態で存在している。顔面を動き回るという不気味な動作はしないが、留まったまま回転しているのを見るのは一種の恐怖だ。

 口らしき物はあるが歯は抜け落ちたのか確認できない。腐臭が吐き出されるそこから、黄色の粘液が零れ落ちる。その粘液が異形の体に触れた瞬間、異形の体が一部溶ける。歯で噛み砕けないため、消化液を口の中に溜めているようだ。


 おそらく口の部分は胃袋となっている。口に入れてすぐに消化し、肉体に取り込む機能なのだろう。そしてなんの因果か、腹にあたる部分に喋るために必要な喉と歯と舌が付属した口。そこからは呻き声しか聞こえない。

 歯は黄色と黒の中間。末期の病人のような酷い有様で、いくつか抜け落ちている。舌も青黒く、唇は見当たらない。それ以外は茶色と赤が混じった肉。指は存在しているが、手足とも五本ではなく三本という再現率。

 骨は辛うじてあるらしいが、不気味な柔らかさを見せる動きからはあまり安定していないように見えた。なんにせよ雨の街に現れる怪物にしては、それは異様な存在だった。


「騒ぎになっていないのは、雨で多くの人が室内にいて窓を閉め切っているから。もう一つの理由は……先程あれは生まれた、という点かしら」

「何故そんなことがわかるんだ?」

「あまりにも肉体に慣れていないからですわ。まるで生まれたての小鹿。そして物の判別も怪しい。動いているのを無闇に襲っている……危ない!!」


 雨によって視界が悪い中、透けた布を突き通すような柔らかな明かりが異形に迫る。そして四輪馬車のまるで地響きのような煩いくらいの車輪が石畳の上を転がる音。

 音の大きさから大型の荷物を運んでいるようで、馬達の荒い息も聞こえる。しかし異形は気付かない。耳がないから、どんな煩い音も届かない。そして空気の振動を感じ取った時には、目の前に驚いた御者の顔と足を振り上げる馬。

 それに向かって腕を振るった異形に対し、馬車の影から這いずり出るように現れた狼がその巨体を蹴り飛ばした。石畳の上を転がった異形の肉が剥がれ落ち、水溜まりの中に入れば蒸気を噴き上げるように臭いを撒き散らした。


 目の前に出現した怪物に驚いた馬達は暴走を始め、恐怖で硬直した御者は手綱を握りしめたまま。馬の暴走になすがままの状態で馬車ごと離れていく。しかしユーナの視線は別の所に注がれた。

 石畳の上に現れた狼。雨の中で遠目で見れば、なにも知らない人間はそう思ってもおかしくない。しかし小柄な人間が四つん這いの状態で、狼の毛皮を被っていることを彼女はわかった。


「ヤシロさん!?」

「……」


 声に反応するように、毛皮がゆっくり振り向く。まるで着ている人間と連動するように、耳が動いたようにも見えた。毛皮の下から覗く金色の瞳は、理性などどこにもなかった。

 ハトリやチドリは目の前の狼がヤシロであることに驚く。確かに魔法を使う際にイヌ科を重視するとは聞いていたし、幼い頃の生い立ちもまるで獣のようだったというのは知っている。

 しかし狼の毛皮を身に纏ったヤシロと、普段借家で執事をしているヤシロの姿が重ならない。人間の骨格であるはずなのに、どう見ても森の中で走り回る狼と寸分違わないように見えるのだ。


「ゆ、ユーナちゃん!? どういうことなのん!? もしかしてさっき言ってた狼皮の狂戦士ウールヴへジンと関係してるのん!?」

「ええ。狂戦士ベルセルクと同一存在でして、簡単に説明すると身に纏った毛皮によって自身を恐れ知らぬ獣、もしくは戦士へと昇華する意識変容トランス状態になっていますの」

「強化であり、狂化って感じだな。ちなみに俺達を識別する余力はあるのか?」

「……難しいですわね。多分邪魔したならば殺されますわ。とりあえずもう一度……ヤシロさん!」


 ユーナの呼びかけに反応したが、毛皮の首が傾く。いきなり知らない人に昔の知人ですよと言われたような、一拍間が空いた微妙な空気。そして視線はユーナの髪に注がれている。

 正確にはいつもならば黄金蝶の髪飾りが輝く位置だ。しかし今は黄金蝶の髪飾りはどこにもない。少しずつ警戒するように唸り声を上げ始めるヤシロに対し、ユーナは思わず片手で顔を覆う。


「わたくしの判断材料は髪飾りなんですか、ヤシロさん!? 長い付き合いなのですからもう少し慈悲をくださいな!!」

「ユーナちゃんの髪色って珍しいのにねん。本当に区別できてないのかしらん……ヤシロくん、アタシの胸に飛び込むのはいかがん? 今なら抱きしめてあげるわよん!」

「姉貴!!??」


 無防備に両手を広げる姉のハトリに対して、苦渋の表情を浮かべたチドリは思わずと言った様子で叫ぶ。ドレスの布地で肌は見えないが、柔らかな膨らみと大きさは判断できる。

 温かくて柔らかい人肌を思い出したのか、ヤシロは少しだけ反応した。しかし戸惑うように後退る。雨の中で急に与えられた優しさに困惑する子犬のような、寂しそうな姿だ。


「いやーん! アタシにはヤシロくんを元に戻す魅力がないのん!?」

「言っとくけど、それで正気に戻るならば俺は今後のヤシロに対する評価を変える。手始めに殴ろうとは思うからな! 自重してくれ、姉貴!!」

「ちょっと!! わたくしの呼びかけよりハトリさんの巨乳に反応するってどういうことですの!? だから野蛮猿にチビ助とか呼ばれちゃうのわかっていますか!?」

「問題はそこじゃない!! くっ、こういう時にアルトがいると楽なんだが……で、どうやってあれは正気に戻すんだ」


 少しだけ冷静さを取り戻したチドリの言葉に、文句を続けようとしたユーナは口を閉ざした。重い沈黙が場を支配する。

 ハトリは道に落ちた傘を拾い上げ、自分の白レース傘でチドリの頭上も守ろうとする。しかし若干の身長差により、布地が彼の頭にぶつかる。

 仕方なく自らの蝙蝠傘を手に掴んだチドリはユーナの返事を待つが、いつまでも声は返ってこない。そして大量の水分放出と臭気が発生し、異形が鈍い動きで起き上がる。


「ユーナ、あの異形はなにに分類されるんだ!? 緑魔法の暴走か、それとも『化け物モンストルム』なのか!?」

「……です」

「え?」

「どちらでもないんです! あれはそういう生き物になった、もしくは成り果てた! 造り変えた! 錬成した! とりあえず誰かが手を加えた人間だとしか思えないのです!」


 ユーナが絶叫するように説明した矢先、動き出した異形に対して狼が攻撃を仕掛ける。前脚の爪代わりと言わんばかりに、小型のナイフが雨粒を振り払う。

 首を裂かれた異形は腹の口から悲鳴を上げた。重低音の嘔吐するような声と、喉を詰まらせた甲高い声、赤子の喚き声に、戦場の兵士の痛みを訴える声、あらゆる物を混ぜ合わせた大音量だ。

 異常に気付いた近隣住民は窓を開け、すぐに閉める。さらにカーテンで視界すら塞ぐ勢いだ。あまりの酷い臭いに耐え切れず、条件反射で動くしかなかった。中には閉めてすぐに床に倒れた女性もいるほどで、臭いの壮絶さを物語っていた。


 切り裂かれた肉を修復しようとしているのか、傷口から水分を大量に放出する異形。その臭気が目に入ったヤシロは跳躍して距離を取る。

 白かったはずの汚れた患者服の袖で目元を荒く拭い、小型ナイフを投げて異形の体に突き刺した後、自らの影から小型蒸気機関銃を出す。同時に遠吠えを発し、影から大量の送り犬を生み出す。

 その数は約五十。道や建物の被害など、ありとあらゆることを気にせずに異形を倒すためだけに動き始める獣の群れ。狼の荒い息が雨音を上回った瞬間。


「――ゆらゆらとゆらり、彼の者は破滅を導く竜として流れ星と共に落ちてきた者なり、その顎から漏れる吐息は太陽すら溶かし尽くす火蜥蜴、我が名のもとに竜の炎を汝に与えよう、破滅よ幸いなれ!!――」


 鋭い声によって述べられた法則文に従い、巨大な竜が石畳を破壊して地中から現れる。黒い鋼の鱗、濁った宝石のような黄色の瞳、白い牙、背中には皮と骨組みだけで作った翼。

 特筆するべきはその巨体には似合わない大きすぎる顎。そして体内から溢れ出るように、黒の靄が牙の隙間から零れ落ちて地面を這う。歯が打ち鳴らし、火花が生まれる。火花は靄を伝い、次々と点火していく。

 靄から発生した赤い火蜥蜴は送り犬に噛みつき、盛大に燃え上がる。影を掻き消すように、体全て使っての燃焼による消滅。そして火蜥蜴は周囲の雨粒、臭気、ありとあらゆる物を燃やしていく。雨が降る中、霧のような蒸気が少しずつ周囲を埋めていく。


「ヤシロさん! 説明しなさい!! 下水道で起きたこと、貴方が本気で殺したいと思うこの異形について、全て!!」


 返事をするように蒸気の壁を切り裂いて狼の毛皮を纏ったヤシロが姿を現す。彼の手の中にある蒸気機関銃の照準はユーナに向けられていた。

 ユーナは革ベルトで固定していた杖刀を解放する。銃声が聞こえても、その場から動かなかったユーナには傷一つない。自らの刀身を回転させた杖刀が、盾になったからだ。

 破滅竜の鱗で作られた杖刀に銃弾は効かない。並の刃物も太刀打ちできない。それを知っている上で、本能的にヤシロが導き出した答えは一つ。五匹の送り犬を土台として支えた大型蒸気機関銃。それは大砲に近い。


 蒸気の中に隠しながら用意したそれの位置まで跳び、レバーを握ってすぐに引く。しかし弾は発射されなかった。中に入り込んだ火蜥蜴が火薬も弾丸も呑み込んで溶かしていた。

 送り犬五匹はその影の体に火薬と弾丸を溶解した火蜥蜴を取り込む。水中で溺れるように火蜥蜴は消滅した。送り犬が毛玉を吐き出すように、溶けた金属を石畳の上にぶちまける。

 二人が争いを繰り広げている中、異形は破滅竜が空けた地中の穴から下水道へと逃げ込む。それに気付いたヤシロは、鼻を動かしながら追いかけていく。蒸気が立ち込める路上、チドリとハトリは手を引かれてその場から撤退する。


 近隣住民が急に噴き出た蒸気を事故だと騒ぎだして外を確認する、少しずつ晴れてきた道路の上には溶けた金属や破壊された石畳、そして不気味な肉片しか残っていなかった。

 あまりの臭いに窓にも近付きたくなかった住民達はすぐさま警察に連絡する。大きな音がしたと思ったら蒸気管爆発の事故が起きて、異臭が漂っていると。事件だとも知らず、真実を探ろうとは考えなかったのである。

 チドリとハトリの手を引きながら、ユーナは嫌な予感を抱えたつつ、とある寺社へと向かう。できれば関わりたくない相手だが、この際文句は言っていられないと腹を括った。


 そして遠くから物事を眺めていた青年は、目の前に現れた黒い竜に驚く。似ているだけか、それとも本物か。遠いせいで区別はつかない。しかし本物ではないと、暗示するように自分に言い聞かせる。

 水銀の蜻蛉飾りを指先で撫でる。ぶつかった少女の髪色は誰かを思い出させたが、そこにあるはずの黄金蝶の髪飾りはなかった。他人の空似だろうと、願うように納得へと努めた。

 灰色の針のような刃が煌めく。生きたいと望んだ男の望みを叶えた。死にかけた体から、無理矢理作り変えて。多くの死体の肉片をまとめ上げて。脳も混ぜ合わさったが、問題ないだろう。


 心臓も、肺も、胃袋も、脳も、ありとあらゆる物をすり潰して混合し、捏ねた。そして男の望みを叶える偽物ができあがった。本物でありながら偽物の男。

 もしもそんな偽物でもロンダニアの街を一変するほどの改革ができるならば、青年の夢へと一歩近づく。本物では叶えられなかったことを、偽物で叶えるための夢。

 それで罪滅ぼしとする。青年は静かに事件から背を向ける。成功ならば新聞が報じてくれるはずだ。失敗ならば闇に消えるだけ。これはそんな単純な話なのだと、青年は結果だけを重視する。


 獣は追いかける。牙を突き立てる相手を。殺さなくてはいけない男を。わずかに残った臭いを頼りに、四肢を動かし続ける。止まることはできなかった。

 人間の少年が手に入れた心に突き動かされるまま、獣は獲物を逃さない。たとえそれが大切な仲間を傷つける結果になったとしても、理性を捨てた獣は構わないと覚悟を決めたのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る