スチーム×ラビリンス(迷宮編・クイーンズエイジ1881の8月)

下水道で獣が哭く

EPⅤ×Ⅰ【下水道の闇《sewerage×dark》】

 闇は少年を襲うことはしなかった。傷つけなかった。ただ静かに、少年の足音までも吸収して存在を隠した。

 もしも闇の中にいる少年が傷ついたならば、それは他の要因が意図的に彼を襲った結果だ。闇はどこまでも平等にそこにあっただけなのだから。




 ダムズ川の異臭も昔に比べれば大分マシになったものだが、八月の太陽が昇る日はやはり少し独特な臭いがロンダニアの街に広がった。

 そんな朝でも洗濯物を干さなくてはいけないため、婦人が窓から身を乗り出して顔をしかめている。洗濯紐が風で揺れても、あまり嬉しそうにはしない。

 下水道による生活排水対策は産業革命以降に何度も話題にされたが、大下水道が完成したのがクイーンズエイジ1867である。ちなみにこの下水道ができる前に、四回ほど虎列剌コレラが大流行した。


 ルランス王国の首都、花の都ハルクの環状大下水道完成がクイーンズエイジ1740頃であることから、産業革命を成し遂げた大国の名も霞みそうな史実である。

 しかも二十年近くかけた下水道を早期完成に至った理由も情けなく、クイーンズエイジ1858のロンダニア大悪臭が問題だった。水洗式トイレによる貯水槽の限界により中身が溢れ、雨水を流すための排水口を経由してダムズ川へ。

 その年の夏は暑く、臭いの酷さに裁判所が機能を停止しただけでなく、アイリッシュ連合王国を代表する王族達が逃げるようにロンダニアから離れたほどだ。一刻も解決しなくてはいけない大問題に至ったのである。


 しかし当時工事に携わっていた土木技術者エンジニアの手により、汚水を管理する下水道、飲み水などの生活用水の上水道、ダムズ川の淀みを失くす河川工事など多くの偉業が行われた。

 彼の下水道計画書は未来を見据えた設計であり、二百年後でも通じる素晴らしい内容であったことから、その規模はロンダニアの地下全てを覆う。三百万人の人民を支える生活基盤と称しても良いだろう。

 大悪臭の際に大量の石灰で川を洗浄しようと失敗したのを考えれば、彼の存在なくして今の環境は実現しなかっただろう。噂ではナイトの称号も与えられたと言われている。


 そんな少し暑い夏の日。スタッズストリート108番の借家の扉を勢いよく開けて飛び込んできた青年が一人。


「キッドくん!! 依頼があるっ、ぶへっう!?」


 たまたま玄関前を洗い立ての洗濯物を抱えながら歩いていたヤシロが、間髪入れずに濡れたタオルで青年の顔を叩いたのだ。自称執事からすれば青年の外見は怪しかった。

 鳥を題材に形成された錆びた金色に塗られた木の仮面、それに負けない輝く金髪は汗で湿っていた。なによりこんな暑い日に黒一色の服装。鴉が細身の青年に擬人化したのではないかと思うような出で立ち。

 よく見れば仮面には細かい細工仕事する際の拡大鏡ルーペが側面に付属しており、片手で動かせるように眼鏡のツルの部分が歯車のように回転に合わせて動作する仕組みになっている。それでおおよその予想ができた。


「マルクか?」

「い、いかにも……」


 叩かれた衝撃で顔面から落ちた仮面を拾い上げながら、優男風味の顔立ちをした青年は涙目になっていた。ヤシロよりも頭一つ分背が高かったが、それでも濡れたタオルの威力は凄まじかった。

 薄い青色の目と白い肌、そして金髪。外見としては申し分ない美青年だが、明らかに気弱そうな雰囲気から破落戸ごろつきに絡まれること一日一回は必ず。外見の奇特さは彼の趣味である。

 ヤシロからすれば実用性のない飾りで外見を際立たせているように見え、仮面と同じ細工で歯車の彫りがなされた肩当ては、細工職人にはむしろ邪魔と思える。もちろん市販ではなく、マルクと呼ばれた青年の自作だ。


 指先にも鳥の爪のような細工指輪を装着しているが、それもただのオシャレである。他にもベルト、革靴、首飾り、あらゆるところに細工を施している。しかし統一感は存在しても、合理性はない。

 産業革命を意識した機工鳥をモチーフにしているようだが、ヤシロにはいまいち理解できない飾り立てだ。服など礼儀に反しない程度の布地を纏う、という意義しか見いだせない彼の性格にも多少は問題があるのだが。

 そんな自称執事のヤシロの服は燕尾服に革靴と白手袋。ただし頭には魔道具である犬耳が付属しているのは、世間一般からすれば明らかにマルクよりもおかしい出で立ちである。


「うう、まさか扉を開け放って三秒でヤシロさんに叩き落とされるとは……運命の悪戯なのだろうか?」

「実はちょっとした緊急事態でな。少しでも厄介は家に入れたくないんだ。神経質になっていたようだ、すまない」

「こちらこそ急な来訪で申し訳ない。でもここって常時緊急事態というか、この借家自体が厄介の種と化しているような……」


 マルクの言葉にヤシロは沈黙で肯定とした。スタッズストリートでなにかあれば108番の家。ご近所の奥様方には毎日のように小言を受けることが職務の一つ。

 美しい双子による優雅な生活とヤシロの真面目な仕事体勢で評価を少し向上させたとしても、舞い込んでくる事件による大きな被害のせいで上げて落とされる日々。

 今も日々の仕事に追われているというのに、追加で家事が増えたヤシロの金色の瞳も薄暗さを感じさせるほどだ。ただしこげ茶の長い前髪で隠れてしまい、マルクの位置からは見えない。


「ユーナが風邪をひいた、と言えばわかるか?」


 その短い言葉だけでマルクは思考が停止した。いつも猪のように暴れ回る少女の外見した魔導士と書いて問題児、ユーナが季節外れの風邪で動けなくなったという事実。

 明日は季節外れの雪か、もしくは隕石か。なんにせよなにかしら異変が降るのではないかと、それくらいの衝撃は軽く受け止めたマルクはせっかく拾い上げた仮面をもう一度床に落とした。




 二階の居間パーラーに案内されたマルクは、ヤシロが茶菓子を用意するのを待つ間に目の前でにこやかに微笑むハトリと話すことになった。


「あらん、マルクくんお久しぶりねん。キッドくんはまだ帰国してないわよん。だって和国にいるのだからん」

「想定通りかぁ……承知はしていました。彼が帰る時は、黄金律の魔女の帰還を意味しますから」

「うふふ、出国だけであんなにお祝い騒ぎだったから、帰国はどうなるのかしらん。わくわくするわよねん」


 優雅に紅茶を飲みながら話を続けるハトリを前にして、マルクは冷や汗をかく。確かに黄金律の魔女が外交団の一員として出国した出来事は、新聞の一面を大きく飾った物である。

 見送る人数の多さから、彼女の偉大さは伝わってきた。ただしはち切れんばかりに祝福する人々の笑顔を思い出せば、それこそユーナが晴れやかな笑顔で出国を祝ったという事実が色々な裏を如実に物語っていた。

 なにせ黒鉄骨の魔剣士ヴラド・ブレイドも見送りに来ただけでなく、蒸気船に向かって小さく手を振ったのである。もう二度と帰ってくるな老婆、という意味が込められていたと解釈する者も少なくなかった。


「アイリッシュ連合王国から船旅で和国まで約五十日。さらに外交を含めた観光や情報集め、留学だとしても三年は見積もらないといけないわねん」

「来年まで再開は願わぬこと……しかし事態は急を要する。ユーナさんも病に蝕まれていると、ってまさかあの屋根裏部屋で安眠を!?」


 マルクは慌てて立ち上がる。ユーナが借家の中で部屋としている場所は三階のさらに上、本当に小さな屋根裏部屋。梯子を登った先にある味気のない部屋だ。

 大きな窓一つと、そこ以外の壁は全て本棚で埋まっている。簡素なソファと置物用である鈴蘭型の小型照明ランプ、天井から吊り下げられた蒸気灯は頼りない小ささ。

 床の上に置かれた茶色の旅行鞄トランクケースには羽ペンや墨汁瓶インクボトルと一緒に研究資料とメモ書き。暖炉も設置していない、研究の際にひきこもるくらいしか最適な使い道がない場所だ。


 そんな所で寝ていては治るものも長引く。いくら魔導士が白魔法で不老長寿をささやかに叶える存在だとしても、病が流行すれば呆気なく死んでいく。

 白魔法はあくまで魔力で人体を最高の状態に維持すると言うだけで、病や毒といった物には弱い。マルク自体も白魔法を学んで知っているが、健康になるわけではない。

 傷を塞いで出血を止められても、痛みはそのまま受けるという類だ。ちなみにマルクは体中傷だらけのユーナがどうしてあんなに動けるのかと前に尋ねたら、本人が意地と気合いと根性と答えた時は笑うこともできなかった。


「大丈夫よん。ユーナちゃんは今、研究室で安静にしているものん……ええと、確か」

「星図部屋と言っていた。魔道具で『別次元レリック』から借りている天の鳥が所有する船の部屋とも説明していたが、詳しくは俺達にもわからん」


 補足するようにチドリが小さく呟く。ハトリがいるところには必ず双子の弟であるチドリが。それくらい自然に、ソファに座るハトリの後ろで静かに立っていた。

 ティーカップから紅茶がなくなればポットから注ぎ、お茶菓子が減れば補充する。ただしそれは全て姉であるハトリのためだけに配慮されており、マルクはいまだヤシロのお茶菓子待ちである。

 接客用でもあり、住人の憩いの場でもある二階の居間にハトリとチドリが寛いでいたところにマルクはやってきたので、微妙に居心地の悪さを感じていた。原因はチドリの静かながらも観察するような視線なのだが。


「そうそう、それよん。アタシも何度か入ったことがあるんだけど、とっても素敵なのよん! 確か屋根裏部屋の本棚の仕掛けを動かすと、あの大窓が魔道具の扉に変化するのよん!」

「相変わらずユーナさんの魔法とか魔道具は不可解な。キッドくんもあの魔導書グリモワールはユーナさんの杖刀と同系統だと説明していましたが、二人して奇特ですね」

「素敵なことじゃないかしらん。誰かと違うって、アタシはとっても好きよん。アタシのお母様もそういう方だったし、アタシ達は何度もそれに助けられているのだからん」

「はぁ……あれ? ハトリさんの母っていかなる」


 マルクの言葉途中で、お菓子が載った皿が勢いよく机の上に置かれる。勢いが強すぎて大きな音が立つほどだ。マルクは目の前にお菓子皿を差し出してきたチドリの鋭い視線に、声が出なくなる。

 少しだけ困ったように笑うハトリの表情を見て、マルクはそれ以上の言及をしないためにもお菓子を食べ始める。甘い砂糖菓子はフォークで突けば簡単に崩れてしまい、刃先で刺すのに難儀した。

 そんな最中でヤシロが接客用の紅茶と菓子を盆に乗せて部屋に入る。少しだけ張り詰めた空気に視線を鋭くしたが、肌で感じた気配だけを頼りに害はないと判断する。


「……それで一体なんの用だ? 報酬があるならば、依頼は可能だ」

「え!? だ、だってユーナさんは身動きできないと?」

「別にユーナだけで依頼を受けているわけじゃない。今もアルトは別口の依頼で留守にしているし、暇なメンバーさえいれば担うだけだ」

「おや? ナギサさんは?」


 マルクが疑問を口に出した直後、かなり下。おそらく地下の食糧庫から盛大な破壊音が響き渡った。今回は柱が折れる音というよりは、壁がぶち抜かれる類であった。

 沈黙をわずかに置いた後、ヤシロは静かに居間から階段へ向かう。無意識に白魔法を使うせいで加減を知らないナギサの失敗をフォローするため、地下の食糧庫へ歩いて行ったのだ。

 その小さいながらも職務に忠実なヤシロの背中を見送ったマルクは、とりあえず茶菓子を食べることに専念した。階下から愛らしいが大きな声の謝罪が壁を反響して伝わってきていた。


 数十分後、持ってきたお茶も冷める頃合いにヤシロが居間へと戻ってきた。その背後では顔を真っ赤にして涙目のナギサが、何度も頭を下げている。

 どうやら水道は破壊しなかったようで、少しだけ埃っぽさを引き連れた登場である。ナギサの失敗談はマルクの破落戸に絡まれた回数を優に上回るので、最早日常茶飯事だ。

 しかしヤシロがナギサの失敗に怒ったことはない。マルクが知っている限りではヤシロが激怒したというのも耳に届いていない。ただし身長の話をした時は殺気で死ぬかもしれないという予感を覚えた瞬間はある。


「話を長く中断させてすまない。それで依頼内容は?」

「あ、はい! 実は……どぶさらいは御存知で? いわゆる下水道の中を探索する人達なんですが」


 チドリやハトリはあまり思い当たることがなく、お互いに視線を合わせた後に肩を竦めていた。しかしヤシロとナギサはすぐに理解し、軽く頷いて認知しているのを肯定する。

 下水道が生まれた瞬間から現れる存在で、例えば地上から溝や排水口に落ちた貴金属や装飾品、時には金貨を拾って生計を立てる者達を指す名称が溝さらいだ。ヤシロやナギサも何度かそうやって生き延びた経験がある。

 上手くいけばそこらの職人よりも高給取りとなり、体に染み付く臭いや危険性を考慮したとしても稼げる行為である。それを職として生きる者も多数で、ロンダニアにも密やかに多くの溝さらいが存在している。


「実は僕が弟子入りしている細工工房では溝さらいと繋がりを得ているんです。もちろん一長一短ですが、その溝さらいさんは基本的に善人と判断してもいいかと」

「ちょっと待ってん。どうして細工師さんが溝さらいさんと関わりを持つのかしらん?」

「基本的に捨てられた品というのは、所有権が失われており、拾った者の自由にしていい。下水道に流れ着いた品はそういう物が多いんだ……間違って落とした指輪、とかな」

「はい。うちの工房では溝さらいが拾った細工品を買い取り、掃除や修復を経てから本来の主を探す仕事もしているんです。相手が出てこなかった品とかは売却、もしくは別の細工物に再利用します」


 さり気なく目を逸らしながら説明したマルクに対し、ヤシロはそういうことだとハトリに視線を向ける。違法ギリギリの善行であり、もちろん持ち主に返す時も仲介料は取っている。

 ただし記念の細工物を探している者からすれば、危険が多く臭いが酷い下水道を探索する必要もなく、諦めなければ見つかるという希望が出てくる。それがお金を出して戻ってくるならばと、大いに受け入れてくれる者もいる。

 工房の方でも新人の練習台として利用もできる上に、儲けを見込める。多少の違法に目を瞑ることにはなるが、誰も損はしない商売に昇華するのであった。


「ただ最近、繋がりがあった溝さらいさんと連絡できず……もちろん下水道で死亡している可能性も大きいですが、調査の結果でどうも膨大な数だと発覚しました」

「……夏だから異臭や腐敗による有毒性の瓦斯ガスが発生しているのを踏まえてもか?」

「そうなんです。七月の末、そこから急に誰も下水道から戻らず……溝さらい達も警戒して下水道への侵入を止めているようです」

「七月の終わり……ナギサ、新聞」


 心当たりがあったヤシロは、勉強のためにと新聞を自室に貯めこんでいるナギサへ声をかける。ナギサは挽回のチャンスと足音を立てながら一階の自室へと向かう。

 そして大量の新聞を山のように重ねて戻ってきたが、絨毯に躓いて全てを部屋中にばら撒いた。ヤシロは慣れたように赤魔法で影から送り犬と呼ばれる存在を呼び出す。

 ナギサが地面に倒れる前にその体を支えたヤシロの背後で、部屋の中を縦横無尽に駆ける黒い犬達が、意気揚々と口に新聞紙を咥えては着地。一か所へと少々雑にまとめていく。


 集め終えたのを確認したヤシロは、送り犬達を影へと戻るように指示する。溶けるように消えた犬達のことも気にせず、覚えのある日付の新聞を広げて読む。

 それを背後から覗き込むハトリとナギサ、さらにその背後から身長を活かして眺めるチドリとマルク。ただしヤシロは頭と肩の上に乗る柔らかい感触のせいで集中が途切れそうになる。

 ハトリが頭上、ナギサが肩。それぞれの胸が違う重みと弾力を伝えてくる。もしもここにアルトがいたならばからかわれていたが、今は緑鉛玉の富豪からの依頼を受けて留守だったのが良かったと湯気が発生しそうな頭で冷静に思考する。


「あった……コージも気にしていたが、行方不明者が出ている。下水道修復工事に駆り出された技術者の足取りが掴めない、とここの記事に」

「本当なのん!? アタシにもよく見えるようにしてん! お願い、ヤシロくん!!」

「ぐっ……ち、チドリ! 頭に……その……う、うぅ……」


 頭に付属している犬耳がハトリの巨乳によって押し潰されて垂れている。さらに首まで真っ赤にしたヤシロの様子を見て、チドリは姉の首根っこを掴んで引き離した。

 ついでに身を乗り出して柔らかい胸を無意識に押し付けていたナギサもだ。彼の気遣いに感謝したヤシロは速歩きで机に向かい、新聞をそこで大きく広げる。

 紙面には行方不明者増加中とあり、そのことに関してコチカネット警察ヤードも調査を進めているという。ただし原因となる物については書かれていない。


「下水道の入り口は警官が見張っているはずだ。そこに異変がないのならば、内部……拡張工事を続けている今、その総距離は約千㎞」

「う!? そ、それはやっぱり捜索は無謀ってことに?」


 聞こえてきた距離の数字にマルクは落ち込む。どう考えても一日や二日で巡れる距離ではなく、その危険性を考慮すれば一ヶ月でも全把握は難しい。

 溝さらいは違法だ。警官に見つかればすぐに捕縛されてしまう。しかしマルクは知っている。彼らのおかげで大切な物を取り戻した人達の笑顔が輝いているのを。

 そのことを一度、行方不明になった溝さらいの女性に報告した。襤褸を纏った彼女に心惹かれながらも、冷たくあしらわれるのも慣れた頃の話だ。彼女はなにも言わず、小さく笑った気配だけを残した。


 襤褸に隠れて見えなかったその表情を想うだけで、細工を彫る手が止まってしまう。そうやって何度も手を止めながらも、ようやく完成したのは木細工の腕輪。

 編み込み模様を入れ、自分の趣味である二匹の鳥が横並びの姿を取り入れた品。渡しても売り払われてしまうかもしれないが、それでも贈りたいと思っている。

 襤褸で隠れた顔は見たことがない。喉も嗄れているのか、声は低い。食物も十分に取れていないのか、細身で残っている肉は筋肉ばかりだが、マルクは生きる上で身に着けた魅力的な姿だと捉えていた。


「……人助けギルドと看板を掲げていて、率先して事件にかかわるのが人助けが趣味の猪突猛進娘に、リーダーがお人好しの巻き込まれ体質の外勤主任。どう思う?」

「え!? 大変申しにくいことですが……凄いです。あらゆる意味で。破壊とか、破壊とか……破壊とか?」


 マルクの答えにヤシロも溜め息をつきながら口角を少しだけ上げた。本当に笑っているかどうか曖昧な変化。どこか楽しそうな表情。


「そんな奴らに日々付き合っているんだ。そのくらいの依頼、無理でもなんでもない」

「っ、じゃ、じゃあ!!」

「自分が引き受けよう。下水道など自分にとって故郷のようなものだ」

「あ、ぼ、僕も行きたいです!! ヤシロさんにはいつもお世話になっていますし、下水道なら昔お父さんに頼まれて何度も入りましたから!」


 明るく大きな声で手を上げたナギサに対し、マルクは顔を輝かせる。ヤシロは頼りになるが、二人きりにされた時の沈黙の気まずさは想像するだけで恐ろしい。

 そこにドジは多いが基本的に前向きなナギサが参加するならば、空気も和らぐという物。喜んでいるマルクの横では、チドリとハトリがヤシロに視線を向けている。大分苦い視線だ。

 ナギサの生い立ちを半ば知っていると、お父さん、と呼ばれる存在が行ってきた所業は簡単に言えば虐待である。つまりナギサは死ぬ危険性があると理解せずに何度も下水道の中を彷徨ったに繋がる。


 それでも生き延びてきた幸運に、劣悪な環境で身に着けた病原菌への耐性や適応力、そして底抜けに明るい性格と大声の謝罪癖は無意識に相手の虐待から身を守るため。

 ただしヤシロの生い立ちに比べれば、まだ優しい方である、というのを聞いている者も少ない。なのでこういった場合、ハトリとチドリなどはあまりの生活環境の違いに大いに気まずくなる。

 知らないのが幸せな時もある。そんなことすらもわからずにマルクとナギサは手を取り合い、どんな服装が良いかと浮かれながら相談しているほどだ。微笑ましい楽観的な二人に、ヤシロは小さく肩を落とした。




 丸い部屋が一つ。真ん中に地球儀に似た青い球を中心として円状の金属が絶えず動き回っている。星の輪っかが幾つも重なって、銀河を置物として表現しているようだ。

 硝子張りの丸天井の向こう側には夜闇と星の輝き、ただし星同士が光の線で繋がっており、よく見れば地上から眺めることができる星座とも違うと認識できる。

 床は歯車が透けて見える時計盤と方位磁石、そして太陽と月が交互に移動していく天文盤の三つが配置されており、部分によっては透かし彫りのような一つの模様となっていた。


 壁の殆どは埋め込み式の本棚だが、一部分だけ近くに書斎机に重厚な椅子、実験器具や機材が置かれた作業机がL字の形。その周辺は本も積まれて、雑多な印象が強い。

 部屋の扉が三つ。一つは大窓のような硝子の扉。もう一つは白く塗られた木の扉に金色の模様を施した華やかな物、最後の一つは重厚な黒で厳重な金の鍵がかけられた扉である。

 硝子扉の向こう側はささやかな庭である。蔓草が花を咲かせ、芝生が心地よさそうに風で揺れている。太陽の日光を受けて蝶が飛び、岩と植物を合わせて小さな滝も再現した噴水池は水面を輝かせている。


 しかし部屋の主とも言うべき少女は白い扉の向こう側で熱に苦しんでいた。大きく柔らかなベッドの上で、質の良い羽毛布団に包まりながら寝転がっている。

 壁紙は落ち着く色合いの柄をしており、天井では小さな鈴蘭の形である吊り下げ灯シャンデリアが優しいな光で部屋を照らしている。大きな窓硝子の向こうには先程の庭が映るが、今は薄手のカーテンレースで隠していた。

 ベッド横の机に上にはヤシロに渡された病人食と、水差しにコップ。着ている可愛いデザインの寝間着ネグリジェは、ハトリが使ってほしいと頼んできたものだ。


「うぅ……まさか季節外れの風邪をひくとは、不覚ですわ……で、ヤシロさんはどんな御用で?」


 音もなく部屋に入ってきたヤシロに対し、ユーナは具合が悪いながらも上体を起こす。枕元には魔力を吸うために寄り添う杖のように長い刀が一つ。

 護身用ではないので、杖刀に今回は活躍を求めてはいけない。残念ながら風邪を治すには魔力ではなく、体の免疫力である。過去四回の虎列剌コレラ大流行を凌げたのも、魔法以外で対策を施したに過ぎない。

 大体魔法や魔力で病が防げるならば、今までの歴史は全て変えなくてはいけない。熱で頭が上手く回らないユーナは、静かに事情を語るヤシロの声に耳を傾けた。


「……なるほど。下水道探索ですか。もしもそこで魔法が使われていて、大事になった時の対処法ですか……」


 魔法に関しての知識ならばユーナは人助けギルド【流星の旗】随一である。ユーナが天才だからではない。二百年近くもの間、勉学のほぼ全てを魔法に注いだからだ。

 どんな凡人でも時間をかければ天才に到達する。それを自身で証明しているからこそ、ユーナは努力する人を好ましいと感じる。だからこそ教えを乞う者も嫌いではない。

 知らないことを知らないと言うのは当たり前なのである。質問だって幾らでもしていい。それがたとえかつて命を狙ってきた元暗殺者であっても、ユーナは特に気に留めない。


「考えられるのは迷宮ラビリンスですわ。迷路ダンジョンではありませんわよ。内側に入れた物を外に出さない構造ならば、出口のない迷宮ラビリンスですから……ちょっと待っていてくださいな」


 頭をふらつかせながらもベッドから出たユーナは、三つの扉がある大部屋へと向かう。裸足のまま冷たい床を歩き、書斎机の棚を開けて適当に中を探る。

 小さな紙板を取り出し、そこに魔法で必要な法則文を墨汁インクで書き連ねていく。書き終わった後は近くの赤い毛糸玉から両腕を広げた分の糸を切り、それを紙板に巻き付ける。

 すると紙板を呑み込むように毛糸が増量し、あっという間に新しい毛糸玉が完成する。これが最高位魔導士による魔道具作成現場であることに、ヤシロは微妙な表情を浮かべた。


「別に実用性のない魔道具くらいならば、これくらいで作れますわよ。かつて『とある迷宮レリック』で使われた糸玉の再現です。魔力によって際限なく伸び、入り口に帰るまで切れないでしょう」


 つまりは下水道に入る前に入り口にこの毛糸を結び、移動している最中も魔力を通し続けて使用する前提という意味だ。魔力の少ない下位魔導士には無理でも、ヤシロならばできるという信頼があった。

 ユーナは再度頭をふらつかせながら白い扉へと向かう。隙だらけの姿であり、いつもの覇気もどこかへ消えている。さすがに今回は事件に首を突っ込めないほど体力が弱っている証しだ。


「ヤシロさん。貴方はわたくしには選べないことができる人。どうか気をつけて」


 それだけを言い残して扉の向こう側に消えたユーナを確認したヤシロは、赤い毛糸玉を握りしめて硝子の扉へ近づく。魔力を通せば硝子の向こう側の光景が華やかな庭から薄暗い屋根裏部屋へと変化する。

 ヤシロはユーナの予測が当たらなければいいと思うと同時に、その可能性は高いだろうと冷静に判断していた。下水道の仕組みを、ヤシロは幼い頃から知っていた。記憶も覚束ないほどの昔、周囲は暗闇だった。

 言葉もわからない獣だった少年。ルランス王国の下水道に一人で生きていたヤシロにとって、今から向かう場所は懐かしいと言っても差し支えない。闇と死臭が漂う場所は、ヤシロにとっての生まれ故郷なのだから。


 八月五日。新聞では怪盗の予告状で大騒ぎする中、ロンダニアの地下で闇に消される大きな事件が起きる。霧すらも寄せ付けない迷宮ラビリンスと獣を中心とした、ヤシロという少年が人を殺す話である。

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