EPⅣ×Ⅷ【罪と罰《sin×punishment》】
騒々しい博物館の夜が終わりを告げた八月二十一日。午前五時は前日の暑さを忘れたように冷たい霧が視界を埋め、ダムズ川の水面の上にも漂っている。
小さな埠頭のセント・キャリー・ドックでは
商人とその家族達は朝早さに生欠伸を噛み締め、幼い子供が興味深そうに視線だけでなく首や体の向きを動かしていた。乳母車の中にいる赤子はまだ夢に浸っているようで、静かに寝息を立てていた。
温度差で痛む足を擦りながら、カナンは注意深く観察する。その後ろでは徹夜で瞼が重いユーナとアルトが疲れた顔で立っている。さらにコージやジューダスなどの警察もさすがに疲労を隠しきれていなかった。
サウス・レンジントン博物館で起きた怪盗騒ぎ、続く殺人事件。そして探偵による推理劇。館内の手押し車を一台ずつ調べた結果、血痕が残っていた台車が発見された。
館長室に残された絨毯の車輪跡とも一致し、さらに館長が今まで行ってきた美術品の横流しの証拠が見つかり、コチカネット警察は大手柄となった。
しかし肝心の怪盗に奪われた
長い付き合いのジューダス警部曰く、怪盗オルビットが盗品を市場に流した例はない。本当の所有者に返却、もしくは鑑定結果と一緒に偽物を突き返したことはあっても、基本は盗んだ物を手放さない。
つまりオルビットをこのまま逃がしてしまえば、
「カナンさん、本当にここで合っていますの!? もっと海に近い港があるはずですわ?」
「それにサウス・レンジントン博物館と直近の埠頭は別にもだろう!? ここで捕まえられなかったらまじでコージの首が飛ぶぞ!」
「アルト、不吉なことは言わないでくれ! いやでも確かにここで怪盗を逃すわけにはいかない。カナン、どうなんだ?」
「心配あらへん。確かに港として優秀なのは幾らでもある。せやけど、それは旅行用の蒸気船に限られてくる! 怪盗が素直に旅券使うと思うん?」
旅券を手に入れれば自然と足がつく。追われている自覚がある者が、正規の手順を踏むことは自滅行為に近い。ならば選択肢は狭まる。
早朝から船の準備をしており、早朝からアイリッシュ連合王国を離れる船。それは遠くの国へ向かう船ほど行動は速い。そしてある程度の余裕がある物だと、さらに範囲は絞られる。
「輸入・輸出! 特にセント・キャリー・ドッグはカンド帝国から送られてくる
「ではこの中に怪盗オルビットが!?」
ジューダスは鼻息が荒いまま近くにいた家族を見つめる。しかし徹夜で血走った目では睨んでいるのと大差なく、対象にされた富裕層の家族は逃げるように離れる。
それが怪盗オルビットだと思ったジューダスの足を止めるため、カナンが
小さなゴム弾が頭に当たったジューダスは、あまり威力はなかったはずなのだがその場に倒れてしまう。殺人事件で大切な部下二人が大きく巻き込まれた心労がたたったようである。
マルコという警官は真犯人と被害者の策で殺人犯に仕立て上げられそうになり、もう一人の部下であるバンケットは途中から怪盗オルビットの変装だったのである。
そのどちらも看破したカナンのおかげで大事には至らなかったが、途中まで自分の部下が殺人を行ったのだと思っていたジューダスにとって大きな衝撃だっただろう。
バンケットは女子トイレで赤い糸に縛られている所を救出され、マルコは今回の殺人事件での重要参考人として留置所にいる。残念ながらマルコはすぐにルランス王国に帰ることはできない。
たとえ正当防衛だとしても、警官が一般人に攻撃を行った。その罪を問わなくてはいけない。ルランス王国の警察といえど、事件が起きたのはアイリッシュ連合王国。罪はアイリッシュ連合王国の法の下で裁かれる。
少しでも裁判官や陪審員の心証を良くするためには、ルランス王国の警察に大きな功績が必要となる。つまりは怪盗オルビットから
マルコの付き添いと背中の殴打で満足に体が動かせないバンケットからも、ジューダスは頼まれている。必ず
ルランス王国へ胸を張って帰るためにも、怪盗オルビットをこのまま逃がすことはできない。だからこそ小さな可能性一つ逃したくないジューダスは焦っていた。
長年追ってきた怪盗オルビット。先代からの引き継ぎで手に入れた仕事、時には家族に寂しい思いをさせてまで捕まえようと躍起になる相手。好敵手と称しても間違いない。
そして今は大事な部下の行く末まで左右する鍵。石畳の上に倒れたジューダスは、勢いよく立ち上がる。このままでは駄目だと、大きな乾いた音を立てるほど強く自分の両頬を叩いた。
霧が立ち上る青い空の下で良く響いた音は、多くの視線を集めた。カナンはその視線を一つ残さず精査し、口角を吊り上げた。
「大手柄や、ジューダス警部! 今のではっきりしたわ!」
「なんと!? どういうことだね!?」
「突如発生した音に人は視線を向ける。今の音ならばほぼ条件反射でな! それでも無視しようとする相手……そこの荷運び人!!」
カナンの指先が荷台に多数の
流れるように荷台の上を指差したカナンはユーナに目配せする。それだけである程度は把握した少女の革ベルトから、黒い杖刀が解放される。昨夜のお返しと言わんばかりの、空中回転からの落下の威力を合わせた鋭い一突き。
荷物が崩れる。本来ならば散らばるはずの旅行鞄が、ひとまとめに倒れていく。それも荷物など入っていないかのように、軽々と。
外見は積み上げた旅行鞄に似せた空洞の箱。その中から赤茶の髪の少年が転がり出てくる。服装はありふれた物だが、夕焼け色の瞳はジューダスにも覚えがあった。
なによりハンチング帽子に着けられた赤銅の天道虫飾り。怪盗オルビットの特徴と一致する。一度目の攻撃の反動で空に跳び上がった杖刀は、再度回転しながら落下していく。
それを二つの赤い短剣で防いだことから、少年が間違いなく
「見つけたで! 怪盗オルビット、そしてその助手!」
「視線で正体掴むとか、どんな観察眼だよ!? くそっ、お前は逃げとけ!」
帽子で顔を隠す助手の青年に指示を出し、オルビットは懐に隠していた天道虫を意識した赤マントで自分の姿を視界から消した。次にその姿が現れた時は、早朝の日差しには似合わない怪盗姿。
緑色のベレー帽に赤銅色の天道虫飾り、帽子と同じ色の貴族服と軍服を合わせたようなスーツ、そして背中には先程の二又に別れた赤マント。見えないように二つの赤い短剣は背中のベルトで固定している。
眼前で行われた早着替えに対してコージが思わず拍手するが、その鳩尾にアルトがさり気なく肘鉄を入れる。見世物でもないし、そんな和やかな状況ではないからだ。
「なるほど。その服も剣弓から出される赤い糸で瞬時に編み上げて作ってるんやね」
「俺の軌跡竜は女性的でな。尽くしてくれる良妻賢母タイプなんだ。すげぇだろ?」
「つまり姫さんとは正反対!」
「さり気なくわたくしを馬鹿にしてるんじゃありませんわよ、野蛮猿!!」
今度はアルトの鳩尾にユーナの靴裏が埋め込まれそうになったが、残念ながらアルトの身軽さで簡単に避けられてしまう。ただしアルトは鼻唄付きでどこか上機嫌そうだ。
怪盗オルビットに攻撃を防がれた杖刀は仕方なくユーナの手に戻ってくる。彼女の横を突っ走っていくジューダスが、縄を片手にオルビットへと迫る。手錠に意味がないのは今までの経験で知っている。
昨晩、カナンが示した新しい手掛かりを元に学んだジューダスは、その方法をすぐさま取り入れた。しかし学習したのは警察だけではない。それ以上に貪欲な姿勢で挑むのが怪盗だ。
「ジューダス警部、俺を捕まえたいなら――頑強な鋼鉄ワイヤーを用意することをお勧めするぜ!――」
言葉の中に呪文を織り交ぜて、まるで自然現象のように風で縄を断ち切る。それが魔法だと理解する前に、ジューダス警部は手に持っていた縄が細切れになって石畳の上に落ちていくのを眺めてしまう。
その隙に軽やかに跳躍した怪盗オルビットは蒸気船の細長い船首象に降り立つ。外の異常に気付いていない船の煙突からは黒い煙が立ち上がり、出発準備が整い始めたことを合図していた。
船長に報告しなくてはと、船員の一人が船へと急ぐのを見下ろしていた怪盗オルビットの眼前、頭上へと跳ね上がった紫色の影に口元がひきつった。
「――神をも喰らう狼の足枷、素材は全てこの世から消失する――」
「っ、確かに強いの持って来いと言ったけどよぉ!?」
聞こえてきた魔法によって出てきた
黄魔法で呼びよせた紐の端を掴み、それを杖刀に括り付けて空中へ投げるユーナ。まるで魔女の箒のように真っ直ぐ飛んでいく杖刀に引っ張られ、紐と共にオルビットはなにかを手にすることもできずに空中へ投げ出される。
杖刀の重さと怪盗オルビットの体重ならば、オルビットの方が勝る。紐で繋がれた両者の場合、オルビットが頭から落ちるのは当たり前である。視界で石畳が迫る中、ベレー帽を押さえながら新たな魔法の呪文。
「――終焉の音は全ての自由を意味する――」
親指サイズの角笛を『
ユーナが仕掛けた黄魔法に正確な対処法となる黄魔法を行った怪盗オルビットの実力を理解できる者は少ない。なにより革ベルトの固定から解放された杖刀にとって、どんな魔法も破壊してしまえば問題ない。
オルビットに釣られるように真っ直ぐに落ちてきた杖刀は、彼の手にあった角笛を壊す。その瞬間に角笛は黄色の光となって『
「野蛮猿! 逃がすんじゃありませんわよ!!」
「わかってるぜ、姫さん!」
オルビットが落下している最中に走っていたアルトが、自分を縄の代わりとしてオルビットの腰に抱きつく。両腕をしっかりと回し、手の中にあった手錠で自分の手を動かさないようにする。
手錠を使用することで腕の円周範囲を絞った思惑に、オルビットは素直に感心した。しかしお互いに男と密着する趣味はなく、アルトが鳥肌を立たせている瞬間には手錠の鍵は解錠されていた。
「悪いけどよ、
「俺様だって、とぉなぁっ!?」
言葉途中で腕を掴まれたアルトは、そのまま視界が空になったと思った次にダムズ川の水面が見えていた。激しい水音と柱が発生し、流れるような投げ飛ばし技が決まったことを示していた。
「正当防衛っつーことで! さすがにここまですれば……」
「コージさん!」
「任せてくれ!!」
ユーナの呼び声に驚いたオルビットが振り向いた先では既にコージが腕を伸ばしていた。多少の取っ組み合いと腕払いが繰り広げられた後、コージの足払いに引っかかったオルビットの体が側転した。
そのまま腕を掴まれ、背中を膝で押さえられるオルビット。胸が石畳で圧迫されて痛いが、事態はそれどころではない。何度も追い詰められたことは多いが、警察相手にここまでの危機を陥ったのは数えるほどしかない。
自らの体重で相手の動きを抑え、腕を手で掴んで脱出を困難とする。原始的ながらも、これこそが怪盗オルビットを捕まえる最善。ただしコージは無意識であるが。
「ジューダス警部! 今です、確保を!!」
「協力感謝する!! 怪盗オルビット、逮捕だ!!」
ジューダスの大きな声と共に手錠の音が鳴り響く。そこからさらに縄を取り出して雁字搦めにし、手首だけでなく足首や首、太腿や腹までなに一つ動かせないように縛る。
蒸気船の船首から飛び降りたユーナが埠頭の石畳に着地する頃には、ダムズ川の水面からアルトが這い上がってきていた。夏場の川で良かったと、微妙な温度の水に感謝する。ただし代わりに独特の臭いが付着した。
ほぼ簀巻きにされた怪盗オルビットは、少しだけ悔しそうにしているが目の輝きはなに一つ諦めていない。まだ最終手段があるのだと思わせる表情を見ずとも、私立探偵は全て見通していた。
「ユーナん、怪盗の剣弓を没収やん。僕らじゃ魔力吸われてまうけど、ユーナんなら平気やろ?」
「ぐあっ!? そうだった、
魔力を吸収する『
邪魔な赤マントを裏返し、背中の革ベルトに固定されている剣弓に触れたユーナだが、その瞬間に静電気を流されたような刺激が指先を襲う。まるで強気な貴婦人に叩かれたに近い衝撃。
拒絶されたのだろうと推測しつつも、ユーナは溜め息をつきながら杖刀の鞘先で剣弓を軽く突く。魔力を吸う『
「ぐぎゃっあ!? いた、なんだ今の!? 体内で強い破裂と衝撃が発生したみたいな!?」
「カナンさん、これは没収しない方がいいですわよ。革ベルトの固定を外した瞬間に勝手に動いて縄を千切る類ですから」
「あらら。気難しい別嬪さんみたいなもんやな。まあユーナんと怪盗以外は回収できへんし、仕方ないんかな」
跳ね返ってきた痛みで簀巻き状態のまま、まな板上の魚のように動くオルビット。その動きで偶然にも体を抑え込んでいたコージの膝に剣弓が少しだけ触れた。
コージはあっという間に目を眩ませて、横に倒れた。アルトが怪盗の頭を手で押さえ、ジューダスが足を掴む。こうなっては腰や肩を動かすのも難しいオルビットは舌打ちする。
倒れたコージはゆっくりと起き上がるが、四つん這いの状態のまま動きを止めてしまう。白魔法が使える程度には魔力はあるが、ユーナのように平気とはいかない。
「コージん、怪盗はこれ以上動くことはできひん。それよりも助手の行方や。後は積み荷検査。そこまですれば……僕らの勝ちや」
「……悪いけどよ、探偵……そんな条件なら俺の勝ちだ」
不敵な笑みを零しながら呟かれた言葉にカナンが反応する前に、蒸気船の煙突からあり得ない量の黒煙が吹き出される。それは朝の白い霧に溶けて侵食していく。
あっという間に目の前が黒くなり、細かい煤煙の屑に耐え切れず瞼を閉じて目を保護する。少しでも口に煙が入らないように口元を覆い、それでも体内に侵入したのを出そうと咳と涙が止まらない。
人の叫びや荷物が落ちる音で聴覚もほぼ塞がれた状況の中で、ユーナの耳元でオルビットは囁く。それは忠告に似た謝罪であり、ユーナには意図がわからない物であった。
「出会わない方が良かったな。もう遅いけど、運命の糸はお前に繋がっちまった。だから……今度こそはお前を」
最後の言葉は蒸気船の汽笛で妨害されて、耳に届くこともなかった。そして肌に叩きつけるような強い風が埠頭から黒煙を吹き払っていく。
ユーナは握っていた手の平で目元を拭う。というのもあれだけの黒煙を浴びたらお気に入りの白コートも、手の甲や頬まで全てが黒一色になってしまったからだ。
倉庫の外壁まで黒くなった中、いつの間にか縄から脱出した怪盗オルビットが船首の上に立っていた。一切汚れていない姿のまま、笑みを浮かべて挨拶を告げる。
「それではアイリッシュ連合王国の皆様、そしてルランス王国の警察諸君! 次の獲物はヴールヴ美術館所蔵の美しき女神像! では次こそ夜空の下の再会を願って!
高らかな声が青空に響き渡った直後の水音。それが怪盗オルビットがダムズ川に落ちたことを意味し、水面を眺めても汚れた水の波紋しかない。気泡がどこにも発生していないのだ。
空気を口に含めたままでは長時間の潜水は難しい。少しずつ鼻から空気の泡を出さなくてはいけないのだが、それが全く見えない。溺れたとは思えないが、位置が掴めない。
ジューダスが膝を落とし、石畳の上に自分の拳をぶつける。逃がしてしまった。あと少しで念願の怪盗オルビットの牢屋入りを果たせたはずなのに。このままでは裁判の行方は不利にしか傾かない。
「すまない……マルコ……私は、私はっ!! 大事な部下一人も守れない……駄目な男だ……くそっ!!」
「ジューダス警部……その、私からも上になんとかできないか掛け合ってみます! 怪盗を逃がしたのは……我々も同じですから」
警察からは淀んだ空気しか流れない。確実に十単位の警官が職を失う。あそこまで追い詰めたからこそ、悔しさが滲み出てくる。辛さのあまりに拳が岩のように固くなった。
コージも沈痛な表情のまま、なんとかできないかと考える。だが犠牲は必須だ。怪盗の勝利で終わり、警察の敗北。栄光あるコチカネット警察としての面目が丸潰れ。
新聞などではここぞとばかりに大騒ぎされるだろう。歴史的な失態だと。誰かが傷つく内容だからこそ、無関係の誰かは面白がる。人の苦難を他人は喜ぶ。抗う術はもうどこにも残っていない。
「怪盗が盗んだのが、本物の
私立探偵の呟きに目に大粒の涙を溜めていたジューダスが顔を上げる。煤で汚れた顔に涙の跡が強く残っている中、煤だらけになりながらもにこやかな笑顔を浮かべるカナン。
機械仕掛けの車椅子。その収納庫の蓋を開け、奥から布に包んだ箱を取り出す。硝子箱の中でまさに竜の心臓と呼ぶに相応しい巨大な赤の
高貴な輝きが偽物ではないことを自ら物語っていた。これにはユーナやアルトだけでなく、巻き込まれた
「ど、どうやって!? まさか怪盗が来る前に!?」
「いやいや。僕だって宝石展示室に入ることはできひんかった……けど事件後なら話は別や。現場調査言うて、警官も探偵も好きに出入りできたんやからな」
意地悪く笑うカナンに対し、アルトが思い出す。ウィンダーの死体が発見された後、カナンは一人で行動していた。それはトイレに行くという建前だったが、実情は違っていた。
ウィンダーの死体が見つかる前に怪盗オルビットは警官のバンケットに変装して成り代わった。中庭から幽霊を目撃する間に代わることはできない。ならば直前のバンケットが一人で行動している短い時間に入れ替わるしかない。
つまりその時にオルビットは博物館内部に盗んだ
木を隠すなら森の中。事件を隠すなら新しい事件を。盗んだ宝石を隠すなら盗みが行われた宝石展示室に。灯台下暗し、というには大胆すぎる隠し方。だからこそカナン以外の誰もが気付かなかった。
「ちなみにコージんに頼んでつけてもらった鍵は、解錠するなら三十分や。けど……別に解かんでも中身は取り出せるん」
「……おい、探偵。お前まさか……」
「うん! 展示ケースはさっさと壊して、中身取り出してからあらかじめ用意してた硝子箱入り贋作に同じ仕組みの鍵付けたやつを隠し場所にそっと置いたねん!」
アルトの問いに意気揚々と答えるカナンだが、その内容にアルトだけでなくユーナも体勢を崩した。主に体を前方向に倒すような、転ぶ寸前の体勢だ。
あれだけの大騒ぎの中で怪盗が隠し場所から箱を持ち去っても、中身を確認する暇はないはず。偽物と判明しても誰が何処に置いたかを探す余裕は皆無。
普段の知恵はどこにいったのか、手荒な方法ながらもまさしく怪盗の目を欺いた私立探偵に泣きながら抱きつくジューダス。感謝と感激で言葉が出ず、叫ぼうとして失敗しているような声が聞こえる。
「うぐっ、ぉあ……ふぐぅっ、ぐっ……あ、あり……こ、ぐうぅっ、これで、ううぅっ……」
「ええんよ。マルコ警官の未来をここで摘み取るのは惜しいんやから。なにせ昨晩の推理劇はな、マルコ警官が勇気を出して本当のこと話してくれへんかったら僕でもどうにもならんかったからなぁ」
鼻を啜るのも忘れて大粒の熱い涙を流すジューダスの背中を優しく叩きながら、カナンは苦笑して思い出す。ほぼ状況証拠と推測だけで犯人を追い詰めた危険な橋渡り。
一番の点は最も犯人として怪しかったマルコの事件だ。使用された凶器と殴るために使った鉄工芸品の不一致、ウィンダーの鉄製の鬘による生死証明、そして幽霊出現トリックの糸口。
あそこで一気に追い詰めたのは、犯人が博物館の館長であるビリーだからだ。時間が経過してしまえばいくらでも証拠が隠滅できる上に、あらゆる不正を隠せる地位。
もしもマルコが恐怖心で幽霊のせいにしてしまえば、事態は混迷化してしまう。不明な現象が全て、幽霊のせい、と処理されてしまうのが一番恐ろしいことだった。
たとえ幽霊トリックを明かしても、マルコが全て正直に話していなかったならば停滞する。もしもそこで推理を中断されたならば、その後にビリーは自らが行った犯罪の証拠全てを隠滅しただろう。
検死結果でウィンダーの鉄製の鬘を判明させても遅い。殺人に繋がる全てをビリーは隠すだけでなく、幽霊トリックの肝となる硝子板も全て処分したことだろう。そしてマルコを犯人に繋げる証拠の捏造も可能だったはずだ。
少しでもビリーが証拠を消すの防ぐために。故に必要だったのがマルコが犯した罪。それこそが真実であり、証拠となる。カナンはそれを逃すわけにはいかなかった。
自分の罪を認め、警察を辞めたくないと思いながらも自らの正義に従った告白。その勇気がカナンにとって犯人を突き止めるための盾であり、剣だった。
怪盗に邪魔をされるわけにはいかなかった。マルコが自白した事実を作り、全てを隠蔽しようと企む犯人の動きを止めて推理でトドメを刺す。それが私立探偵であるカナンの戦い方だった。
「マルコ警官は罰を受ける。これは罪を犯した者にとって当然のことや。けどな……そこで終わらせたらアカン。必死に勇気を出した人間を、僕は見捨てない!」
「うっ……うう……」
「それが人助けギルド【流星の旗】に通じる心意気や。ちゃんと憶えといてな」
「……ああ。海を越えた先の大地の上でも……忘れない」
そしてジューダスはカナンから
黒煙によって酷く汚れた手にあっても、その宝石は強く光り輝いていた。それは怪盗から大切な宝物を奪い返した栄誉と、大事な部下を守る強さを表すようであった。
急いで護送用の頑丈な馬車を呼び、ジューダスと警察の中でも屈強な男達が乗り込む。向かう先は王宮。酷い姿であっても、すぐに報告をしなくてはいけない。大事な宝石を取り戻したと。
遠ざかる馬車を眺めながらカナンはゆっくりとコージを手招きする。違和感を覚えつつも、コージは姿勢を真っ直ぐにして近寄る。
「で、なんでコージんに化けてるん? なあ、怪盗オルビット」
警察達が後始末で埠頭を動き回っている中、カナンの言葉に気付いたのはユーナとアルトだけである。そして思考が一瞬停止した。
「な、なにを言っているんだ!? 私は……」
「コージんはああいった感動的な状況ではもらい泣きするタイプやし、今の僕の返答にはもう少し誠実な対応する紳士やで。うちのギルドリーダーをなめたらアカンよ」
「……ぐっ、あああああああ!! 駄目だ、俺は本当にお前と気が合わない! せっかくのカッコイイ退場を台無しにしやがって!!」
コージの姿のまま叫ぶオルビット。何人かは振り向いたが、どう見てもコージの姿であるため気に留めなくてもいい変なことが起きただけだろうと、目の前の忙しさに集中した。
ダムズ川を捜索するには小舟が必要なのだが、蒸気船が動いてしまえば小舟は転覆する可能性が高い。とりあえず長い棒で水底を叩くしか方法はないのだ。
そうやって警官が何人も水底を探すが、拾えるのは塵だけである。騒動が収まったと判断した船員などは出向の遅れからくる予定修正のために走り回っている。
「ちょ、わたくしに向かってなにか重要なことを言っといて、なにさらりと戻ってきていますのよ!? 阿保なんですの!?」
「姫さん、それ詳しく! 内容次第では俺様ブロークンハートだから八つ当たりしなきゃいけない!」
「毛が生えた心臓のくせして出てくるんじゃないですわよ、野蛮猿! だまらっしゃい!」
「実は意外とアルトんはそんな外見ながら硝子よりも繊細な心の男やで。顔に似合わず」
「余計なこと言うな、探偵! いやいや、いい男である俺様は確かに儚げな美青年ポジも担当できる自信はあるけどよ」
「はっ! 寝言は寝てから仰ってくださる? 野蛮猿には千年経っても無理な立ち位置ですわよ、それ」
目の前で繰り広げられるどこか漫才じみた会話に、コージの姿をしたままのオルビットが盛大に溜め息をつく。水面に落ちる寸前、魔法で風を発生させての巨大な水柱を出した甲斐もないというものである。
蒸気船からの黒煙で全員が気を取られている間に、ユーナ達の身近にいるであろう警察関係者を糸で縛り上げて倉庫近くに隠した。そして水柱で視界から消えてすぐに変装して、横に立っていたのにばれていたとは。
警官が埠頭中を歩き回っているため、いずれ屋根の上で縛られているコージが見つかるだろう。暴れられると面倒なので気絶はさせたが、無傷のままであることは保証する。
「あれだけ派手な退場は逆に怪しいやろ? なにせ縄が解けた後は煙に紛れて姿消した方が得策やん。あえて目の前で姿消したちゅーことは、もうこの場にはいないと印象付けしたんやろ」
「……じゃあ俺が戻ってきた理由もお見通しだろうし、時間もないからさくっといくぞ。神秘ギルド【黄金の暁】について知っているか?」
「それが今回の闇
「神秘ギルド……魔法だけでなく、魔術、呪術、儀式、降霊、あらゆる神秘に携わり、それに関する道具……タロットや
魔法に関する知識だけならユーナはカナンを凌ぐ。今の発言にカナンだけでなくオルビットも目を細めた。アルトも雰囲気に合わせて黙して真剣な表情になる。
「そいつらは『
「……なるほど。貴方はそれを突き止める目的で各地の美術館で盗みを行っていたのですね。予告状で出したのは目を惹くためであり、本当の狙いは彼らに繋がる証拠を集める、ですわね」
「当たりだ。今回は結構な大物だったんだぜ。神秘ギルド【黄金の暁】の本拠地は……アイリッシュ連合王国だからな。それも前の件でやっと掴んだ情報だけど」
「せやから
既に音も姿もない護送馬車の中に、怪盗オルビットが予告状で宣言した宝石が運ばれている。それを取り戻さない時点で、彼には他の狙いがあったと推測できる。
「なあ、バンケット警官に化けた時、人を殺さないのを強く強調したんは……その神秘ギルドに関係するん?」
「お前には教えねぇよ。探偵なら推理して辿り着いてみろ。ただ俺に言えるのは……お前が推理に失敗した瞬間に、変装を脱ぐ気はあっただけだよ」
「知っとるよ。なんせ全部、その目で見てた……もしくは剣弓の構造理解で察知してたやろ? だからジューダス警部にこう言ったんや……部下の心配しとけ、とな」
カナンの言葉にオルビットは苦虫を噛み潰したような顔になる。それもコージの顔でやるものだから、アルトとユーナは珍しい物だと注視してしまう。
ウィンダーが倒れたところも、マルコが逃げたことも、その後のウィンダーとビリーの密談、そして殺人。全ての内容を知っていた怪盗にとって自分の証言を真実に変えるのは容易かった。
警官に化けて隠れて行動していたから、どんなに無茶な内容でも見ていたと言えば目撃証言になる。実際には把握しているだけでも、証拠を持ってくるのも誰よりも簡単にできた。
しかしカナンはそれを許さなかった。オルビットが全てを詳らかにしても真実は変わらない。だがマルコが正直に自分の罪を告白することができなくなる。彼の人間としての大事な部分が隠されてしまう。
そうなればマルコは自分の罪を隠蔽した卑怯者として罵られ、罪悪感に押し潰されて歪んでしまう。もしかしたら二度と警官に戻れないと覚悟し、自殺する道へ進むしかなかったかもしれない。
真実が二つあればいい。カナンは常日頃からそう思っている。今回の件もそうだ。マルコが罪を認めるかどうかの真実が必要だった。罪を否定する真実だけは避けたいと願った。
だからこそ暴いた。証拠もなにも足りない状況で、マルコという警官の勇気と正義を信じて、弱くも強い人間の心を希望に立ち向かった。その不利を知っていたのは、奇しくも怪盗だけだった。
本当はカナンが少しでも証拠集めに戸惑ったら手を貸す予定だったオルビットにとって、カナンが予想以上の速さで推理を終えたのは素直に驚いた。ただしそれが綱渡りなことも、すぐに気づいた。
決定的な証拠もないまま、犯人が逃げる余地をなくす。そしてマルコが過ちを認めて全てを正直に話すように誘導した。カナンにとって大事なのは早急的な解決ではなく、人を助けること。
「今回は見逃したるさかい。さっさとルランス王国に帰るとええ。現状、アンタを捕まえる鍵も牢屋も思いつかへんからな」
「上から目線どーも。さすがあの意地悪鍵で俺の意識を解錠に誘導した上で、箱を壊す探偵の言うことは違うな」
解錠に三十分かかる鍵。どんな鍵も開けられるオルビットにとっては、時間さえあれば解錠に大きな問題はない。つまり箱を壊さなくていいと判断できる。
だからこそカナンは三十分もかけずに中身を取り出す、破壊、という方法をあえてオルビットの思考から除外させた。意識誘導の鼬ごっこのような思考合戦であり、その点ではカナンは今のところかなり優位だ。
「アルトんやユーナんもここは見逃してえな。多分、怪盗が追い求めてるものは今後の僕らには必要な情報やと思う。僕もまだ闇取引市場の件に関して、解決に一歩乗り出した程度でまだまだかかるやろうし」
「カナンさんがそう言うならば、仕方ないですわね。まあ貴方の演出や無駄に仕掛けに努力する美学とかは好ましいと思うので、今後の続報くらいは楽しみの種にしてあげますわ」
「俺様的には二度と会いたくないんで、どこかでくたばることを願っていてやるよ。探偵が捕まえられないんなら、警察でも当分逮捕は無理だろうしな」
「すっげぇ釈然としない! 見てろよ、華々しい活躍をアイリッシュ連合王国の新聞一面に叩きだしてやるからな!! そうだ……最後に」
一瞬でコージの変装を脱いだオルビットは、普通の少年のような格好のままユーナに近付く。アルトやカナンの位置からすると、頬に唇を近付けているような角度。
そしてわざと手で隠し、顔の角度を変えて口付けしているような図を作る。ただし内側では至近距離からの耳へ息を吹きかけるような話し方。
「水銀の蜻蛉飾りには気をつけろ」
そしてわざとリップ音を立ててから離れる。その音が耳障りだったユーナは耳を隠すのだが、横から見れば戸惑っている少女のような姿だ。
アルトが勢いのまま回し蹴りをするが、軽やかに逃げ去る怪盗オルビットに届くことはない。警官の誰もが気付かないような自然な姿で埠頭から消える。
紫色の黄金蝶の髪飾りが輝く。それはユーナにとって出生の秘密を探るために必要な物だ。しかしそれ以外の可能性が出てきたことに、困惑は隠せない。
「……おい、姫さん。なにを言われた?」
「そうですわね……わたくしだけに聞かされた秘密が三つ。でも教えませんわ」
「なんでだよ!?」
「だってわたくしでもわからないのが二つと、
そのままマイペースにセント・キャリー・ドックに放置されているだあろうコージを探しに行くユーナの背中を見て、なんとなく悔しさを感じたアルトが地団駄を踏んだ。
まるで怪盗オルビットと二人だけの秘密を共有しているような、どこなとなく怪しい関係性がアルトの目の前で成立した。それが彼にとっては気に食わない。
一番長い付き合いではないが、ユーナのことに関してはかなり理解していると無自覚に意識していたアルトからすれば、ユーナでさえ知らない事柄を独占しているオルビットはまさに天敵である。
「探偵! 絶対にあの怪盗を捕まえろよ!!」
「アルトんがもう少し素直になる言うなら、喜んで頷いてあげるわぁ」
面白いことになってきたと思いながらも、親友を応援したい探偵は的確な助言を渡す。ただし親友は苦い表情を作るだけであった。
ビリーは牢屋の中で苦悩していた。盗まれていたはずの
私立探偵は助手のバロックと共に、証拠を手にルランス王国へ渡航した。その船に宝石を取り戻した功績から罰を軽減させられ、軽い停職と減給を与えられたマルコも乗っている。
残ったのは殺人と美術品横流しの不正を行ったビリーの裁判だけ。館長は既に身元が安心できる相手に成り代わっており、幽霊騒ぎも煙が消えるように収まった。
それも全てはウィンダーがマルコの一撃で死んでいるか、もしくは欲を出さずに逃げてしまえば良かったのだ。欲張って金をせしめに来たウィンダーを、ビリーはもう一度殺したいとまで願う。
このままでは死刑しかない。だがビリーにはまだ救いがある。美術品の横流しの方法、そして幽霊出現トリックを教えてくれた相手。神秘ギルド【黄金の暁】が味方として残っている。
彼らだってこのままビリーを失うのは痛手のはず。いざとなれば彼らの情報一つで罪を軽減することだってできる。もしくは少女の話だ。あの水銀の蜻蛉飾りによく似た、黄金蝶の髪飾りをした少女。
ただの勘でしかない。しかしどうにも目に焼き付いて離れない。紫色の中でも輝きを失わない、あの黄金。どこかこの世の物とは思えない存在感。
怪盗の姿は残念ながら目撃していないが、彼らも怪盗の動きには警戒している。理由も赤銅の天道虫飾りを身に着けているからだ。その理由をビリーは正確には理解していない。
だが黄金蝶の髪飾りは少なくとも彼らにとって気にかける程度の価値はあるはず。薄暗く湿った牢屋の中で、冷たい石の上で辛抱強く待つ。そして時は来た。
「待たせたな……さあ、こちらに来い」
黒い布で姿を隠した男がビリーへ手を伸ばす。その背後では同じ布で容姿を見せないが、布上に冷たく光り輝く水銀の蜻蛉飾りを身に着けた青年が一人。
やはり間違いない、と笑みを作る。よく似ているどころではない、そっくりなのだ。あの異質な感覚が、黄金蝶の髪飾りにもあった。それさえ告げれば助かると思った瞬間、額に針が浅く刺さる。
よく見れば青年の手から伸びている武器の刃先だ。時計の針にも似ているし、彫刻刀のようでもある。その色は灰。全てを無にすることも、有にすることにも通じる色。
「創造竜の刻刃……これでお前の脳味噌を新しく
「ひっ、ま、待ってください!! 私は大事な情報が、い、いやだ!! 私はまだ……い、いっそ死なせてくれ!」
「安心しろ。痛みはない。苦しくもない。もう死の恐怖を覚えることもない。それすらも忘れ……新たに刻まれないからな」
「ひぃいいあぁぁああああああ!! 待って!! 黄金蝶の髪飾りが、そう! 私は有益な情報っぉ、あ」
糸が途切れたように石の床の上に倒れ伏したビリーに背を向け、男と青年は牢屋を後にする。邪魔だった看守は既に壁として呼吸している。生きたまま石の一部となっている。
人面の石が泣こうにも顔を動かすこともできず、涙を流そうにも水分がない。それでも生存している事実に絶望した矢先、青年の気まぐれで刻刃が触れた瞬間、元の体に戻って倒れる。
侵入者の記憶が消えた状態で体を元に戻されたが、石になったことは覚えた状態だ。彼は正体不明の現象に怯え、まともな生活を送るのは叶わぬ夢に変わった。
「黄金蝶の髪飾りと言っていたな……どうする? 調べるか?」
「いや……やめておきましょう。彼女と顔を合わせることは、まだ、できません」
青年は自嘲するように口元を吊り上げる。本当は二人と出会えないのだが、一人は嫌と言っても探しに来るだろう。
わざわざ白いはずの剣弓を赤く染めた少年は、警告しているのだ。これ以上血を流すなと。彼が生きていると知った瞬間、青年は彼女もこの世界にいるだろうと嫌な予感はあった。
その正体を探ることは青年にとって恐怖だった。彼女、もしかしたら今は彼かもしれない。しかし青年にとっての彼女はまさに、過去の罪であるのは間違いない。
「私は世界を救うために、彼女を殺したのだから」
世界が消えても罪が消えないと証明する存在。それが青年にとっての彼女だった。
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