EPⅢ×Ⅲ【地下の交渉《underground×negotiation》】

 時計の音で埋め尽くされた部屋。揺れる白い煙が甘くて苦く、肺の奥から熱で焦がしそうな錯覚。深く吸い込めば、体が拒絶するように跳ね上がる。

 薄暗い洞穴のように狭くて湿度が気持ち悪い。毛布も萎びており、気怠い感覚だけが居心地の良さを探そうとしている。そんな部屋のソファの上でユーナは寝転んでいた。

 好きで寝ているわけではない。ただ『悪しき毒蛇レリック』の毒が体から抜けず、着ている服が穴だらけで酷い有様なのだ。


 毛布にくるまって恨みがましい目で堂々と水煙菅ギセルを吸う男、最高位魔導士の一人であるヴラド・ブレイドを睨む。しかしどこ吹く風と受け流されてしまうのだが。

 三脚椅子に座っているヴラドは細い硝子瓶に取り付けられたチューブで 煙を吸い上げて味わうだけ。部屋の中は各地の時刻に合わせた時計の秒針だけが動いているような、どこか時間のずれを感じさせる。

 長い時間を過ごしてきた魔導士は時計を手放さなくなる傾向が強い。しかしヴラドの場合は時計の音が鼓動に似ていて、生きている実感ができるという理由だけだ。


「可及的速やかに替えの服を所望しますわ。白がいいですわ。清潔感が溢れていますもの」

「ならその毛布で構わないだろ? 薄汚れて黄ばんではいるが、元は白だ」

「……はあ。ヴラドさんに女性の機微を捉えてほしいと願ったわたくしの痛恨のミスですわね。フォンさんは?」

「別室であの小僧の毒抜きを行っている。馬鹿な奴だ。フォンの針治療という名の拷問を望んだからな」


 タイミングを見計らったように壁向こうから絶叫が聞こえてくる。相当痛いのか、もしくは快感になったのか、その声は男とは思えないほど甲高い。

 麻痺が残る体に鞭打ちながらユーナはソファの上に座り直す。今も指先には感覚が戻らず、失血寸前の人間のように肌には生気がない。寒気のせいで胃の奥から込み上げてくる物を抑えるので精一杯なほどだ。

 白魔法で体中に開いた傷はほぼ塞いだ。しかし完治するには一日は白魔法に専念する必要がある。さすがのユーナも赤や青といった魔法を使うことはできないほどの重症だ。


「野蛮猿は放置して、とりあえずここは? わたくし……気を失ってましたわよね?」


 ユーナは少しだけ苦悩した顔で問いかける。ヴラドを探しにカストエンドへ向かい、何故か戦いを強いられた。そして交渉したところまでは覚えている。

 しかしヴラドから交渉成立の言葉を聞いた後、血を流し過ぎたせいで意識を失ったのである。気付けば頼りない蒸気灯スチームランプが輝く小部屋にヴラドと二人きり。

 岩肌の部屋からしてどっかの洞穴かとも考えたが、アルトの叫び声の響き方から察するに広い地下室だと判断できる。おそらく煉瓦の壁をわざと岩肌のように改造リフォームしたのだろう。


 精悍な顔立ちのヴラドと二人きり。普通の少女ならば慌てて顔を真っ赤にしたかもしれないし、それなりの経験がある乙女ならば我が身を危惧したかもしれない。

 それだけヴラドという男の熱さを感じる魅力は強いのだが、ユーナは一切気に留めていなかった。ヴラドが欲求不満の時など、戦えない日々が続いている場合だ。

 色恋には淡白どころが食指も動かない。まず性欲が全て戦闘欲になっているのではないかと疑う者もいるほど、彼は戦いと強い者以外には興味を示さない。


「カストエンドのとある酒場に存在する地下室。借家だ」

「ああ、フォンさん経営の店舗ですわね」

「お前からあの老婆の秘密とやらを聞き出しておかなくてはいけないからな」


 管を机の上に置き、口内に含んでいた煙を全て吐き出す。痛いと思うほど鋭い視線は喫煙で微睡んでいたと感じさせず、ヴラドはユーナを強く睨む。

 黄金律の魔女。魔法が古代や幻想へと置き去りにされる中、どこかから学んだかのように魔法系統を提唱した女性。その威光は衰えない暁のように讃えられた。

 そして彼女の最も偉大な面は二人の魔導士を最高位まで引き上げたことである。ただし事実を知っている者からすれば、手に余る大問題児に首輪をつけたに過ぎない行為とも言えるのだが。


「さっきの扇の音ですわね。あれはおばあ様が和国に向かわれる前に猛練習していた名残ですのよ」

「……どういうことだ?」

「おばあ様、和国との友好を示すために着物の着付けから礼儀作法まで学びましたが、苦戦したのが扇の音です」


 鎖国という政治体制で三百年、多くの国を拒絶した東の島国がある。アイリッシュ連合王国から見れば、蓁国ですら遠いのに、さらに海の先に存在するのだ。

 しかし時代が移り変わることでアイリッシュ連合王国はクリオネ戦争の最中、その島国と交渉をした。クリオネ戦争の際に敵国であったユギル大帝国と戦うための補給地点として考えていたのである。

 そしてアイリッシュ連合王国はものの見事に和親条約を結んだのである。これはクイーンズエイジ1854の出来事であった。


 東の小さな島国、その名は和国。今では欧米文化を取り入れて新たな道を進む国。アイリッシュ連合王国からは和国へ向かう外交官一団に、黄金律の魔女を加入させた。

 魔法は世間一般に広まった。しかし魔力保有に関しては個人差がある上に、勉学による地域差も大きい。つまりは有能な魔導士というのはアイリッシュ連合王国でも数不足なのだ。

 今までは未開の地であった和国は眠れる原石、優秀な人材がいるのではないか。もしくは独特の魔法体系を確立しているのではないか。


 魔法に関してはカメリア合衆国より一歩先んじているアイリッシュ連合王国にとって、これから世界に加わる国を見逃す手はなかった。

 黄金律の魔女自身も、探し物がある、と快諾。弟子一人を引き連れて外交を担う役目を引き受けた。その際に彼女は和国について多くを学んだ。

 相手の文化も知らずに身勝手に振る舞うことこそが外交の恥である。郷に入っては郷に従え、という堅実な思想から黄金律の魔女は和服を着て渡航したのである。


 ユーナも彼女が和国の文化を勉強する時間に付き合わされ、土を踏んではいないものの和国については一般のアイリッシュ国民よりは詳しい。

 その際に発見したのが今回の交渉材料となった黄金律の魔女の弱点である。しかしユーナは微笑みながら、ヴラドに紙とペンを用意するように伝える。

 微笑み、だが柔らかな笑みではない。言うこと聞かなければこの先には進ませないぞ、と脅すような笑みである。


「続きは契約書を書いてからです。ヴラドさんですもの、口約束では反故にする可能性が大きいですから」

「……俺が信じられないと?」

「当たり前でしょう。あのおばあ様ですら手を焼いた問題児。しかし合理的な貴方には魔法で最も重要な契約こそが効果的です」


 魔法とは魔力と法則を用いて『別世界レリック』に繋がることを指し示す。この法則というのは契約書に必ず入れる決定事項に近い。

 どれだけの魔力で如何ほどの力を差し出すか。契約文が厳密であるほど細かな調整及び魔力の消費量を減らすことができる。この法則が長い物を青魔法と分類する。

 しかし長文では『力を与える者レリック』が拒否する場合も多い。たまに青魔導士でも呪文を呟いている内に言葉を途切れさせるのは、魔法の法則成立に失敗した証拠である。


 逆に法則を省略、もしくは一切使用せずに魔力を重視して行うのが赤魔法である。多くの魔導士は白魔法を学び、次に修学するのが赤魔法である。

 白魔法は人体に作用する物であるため、赤魔法こそが『別世界レリック』との繋ぎ方を最初に学習すべき分野である。故に赤魔導士の比率は他の魔導士に比べて圧倒的だ。

 ただし赤魔法は操作が難しい。熟練した者でなければ思うような威力が引き出せず、魔力自体が少ない者は無駄な使い方で昏倒する事例も多数報告されている。


 黒魔導士の最高位魔導士、黒鉄骨の魔剣士ヴラド・ブレイド。彼は圧倒的な魔力で『神々などレリック』から強奪する。しかし法則を使わないわけではない。

 むしろ彼は奪う際に対価以上の魔力を渡している。その余分こそが法則となって働いている。この魔力の使い方を見た黄金律の魔女は大きな溜め息を零し、一応赤魔法に属するのだろうかと呆れたほどだ。

 そして黄金律の魔女は彼の無駄な魔力消費をやめさせるため、ヴラドに徹底的な教育を行った。だからこそ今のヴラドは青魔法も多少は使えるようになった。


 ヴラドは理に適うならば素直に従う男である。代わりに情に動かされることはない。自分に刃先を向けた相手が子供がいるからと命乞いをしても、命を脅かす存在ならば容赦なく殺す。

 ただし命乞いの内容に見逃した場合の利益獲得や今後の展望を語られたならば耳を傾ける。それが確かに命よりも大きな利益となるならば、選択の一つに入れるのもやぶさかではない。

 面白いから、豪胆だから、強いから、そういった理由では見逃しはしない。そんな男だからこそ、ヴラドを相手に渡り合おうというなら契約を持ちかけて書面を残さなければいけない。


「おばあさまの秘密一つと引き換えに、鵞鳥男に関する件全てを人助けギルド【流星の旗】に任せる。破った側は一度、相手にどんな命令も従うこと。如何かしら?」

「……こちらの条件が重すぎる。得がない。一点追加しろ。鵞鳥男……そいつの身柄、道具、存在、全てを傭兵ギルド【剣の墓場】に引き渡せ」

「警察や法廷の処理には任せない、ということですか?」

「そうだ。それだけでヤシロや他の犠牲者には手を下さないと約束してやるんだ。安い物だろう?」


 ユーナは駆け引きが苦手だ。だからこそヴラドの最後の言葉にうっかりしていたと若干焦った。鵞鳥男の件全てに、犠牲者達の生存確保を含めるのを忘れていたのである。

 あえてそれを視抜いた上で譲歩した。理由は単純だ。ヴラドは千切れた足の指とはいえ、自分の関係者が多く襲われている。その事実が傭兵ギルド【剣の墓場】の威信を揺らがせていると知っているからだ。

 警察や法廷に任せたのでは時間がかかる上に、傭兵ギルド【剣の墓場】はじゃれてきた野犬すら処理できないと周りに言い触らすような物である。それは損失であり、今後の活動に大きく影響を与える。


「ここでYes了解と言え。できないならばこの契約はなしだ」


 もしもここにフーマオやアルトが傍らにいれば、そう思ったユーナは歯痒い思いをしながらも渋々と頷いた。これ以外に最良の道を見つける時間がない。

 部屋の中で鳴り響く秒針の音に焦らされるように契約を決めたユーナに対し、ヴラドは歯を見せて笑う。笑い声は響かせず、その表情だけで負けたような気分にさせられる。

 再度水煙管ギセルの煙を吸い始めたヴラドを合図とするように、扉から白を基調とした女性用の着替えと羊皮紙と羽ペン、インクボトルまで準備した男が礼儀正しく入ってくる。


「レイリーさん……どこで話を聞いていやがりましたのよ?」

「ヴラド様に仕える身として、主に相応しい物全てを用意するのが私の責務ですので」


 どう考えても盗み聞きしていたとしか思えない用意周到さに、ユーナはげんなりした表情を作る。しかしヴラドは必要な品物を揃えたレイリーという男に対し一言だけ告げる。


「朱印」

「……!? し、失礼いたしました!! 只今ご用意致します!!」


 ユーナに話しかけられても冷静を崩さなかった男は、瞬間的に顔を青ざめさせてから部屋を静かに、それでいて迅速に出ていく。

 一分も経たない内に朱印を準備したレイリーを振り返らず、ヴラドは契約書の文字を書くようにレイリーに命令する。驚くべき速さで羊皮紙に文字が埋められていく。

 これもまた二分も経過せずに二枚分の契約書が完成する。全て手書きであり、一字の狂いもない。まるで版画で量産したような正確さだが、ヴラドは一言告げる。


「一枚足りない」

「申し訳ございません! すぐさま製作致します!」


 素直に従う忠義者、というには些か哀れな様子のレイリーをソファから眺めるユーナ。用意された白い着替えの枚数を確認して絶句する。


「レイリーさん……何故わたくしの下着サイズを御存知で?」

「目測です」


 ヴラドと接する時とは対照的にどこまでも冷めた言い方でユーナに返事をするレイリー。眉目秀麗な東洋顔を凹ませたい、と着替えの服を握ったユーナの手が震える。

 漆黒の艶やかな髪に、細めの三白眼も黒。顔の線も尖っており、全体的に細長い。着ている衣服も蓁国のチャイナ服にも見えるが、古武術で着用する胴衣だと思われる。

 髪と同じくらい黒い服は汚れ一つない。どこか潔癖とした印象が強く、ヴラドに頼んで契約書の紙を重ね合わせれば文字の配置にすら同一である。機械的な作業成果だ。


「三枚目でございます。ヴラド様、他に御用は?」

「ない。部屋で待機しろ」

「かしこまりました」


 ヴラドの指示通り部屋の壁、その中でも一番邪魔にならない場所でありながら、いつでもユーナを殺せる位置に置物のように立つレイリー。ユーナは大きく溜め息をつく。


「わたくしにどこで着替えろと?」

「ここでいいだろう。お前の裸など見る気もない。契約書の確認している間、そのソファの影で着替えろ」

「レイリーさんがわたくしから視線を外せばそうしていましたわよ!! この人、絶対わたくしから目を離しませんわよ!!」

「失敬な!! 誤解を招く発言は止めて頂きたい!! 私は主の御身を守るために自らの命を賭して危険人物から目を逸らすわけにはいかないのです!! どこぞの貧相な娘の裸体など、反応するに値しません!!」


 目測で正確に下着のサイズを測られたユーナとしては、反論と怒声を上げたい場面であった。しかしその前にヴラドが懐から小型ナイフを取り出してレイリーの顔横の壁に投げた。

 頬を掠めて壁に突き刺さったナイフに反応できなかったレイリーは肩を震わせた。ヴラドは煙を吐き出す時と同じ口の形で、低い声を零す。


「俺が負けると?」

「た、大変失礼致しました!!」


 大きなしゃっくりが起きたかのように肩を尖らせたレイリーは即座に壁へと体の真正面を向ける。ヴラドは面倒そうにユーナを睨む。

 毛布に包まりながらもユーナはソファの影へと移動し速やかに着替えを始める。レイリーの余計な大声のせいでヴラドの機嫌は一気に悪化したのである。

 もしかしたら部屋から出ることも難しいかもしれない、と考えながらユーナは穴が空いた服を脱ぎ捨てて用意された服に着替えた。


 白いチャイナ服。袖口は手の甲にかかるほど長く大きい。首元も隠れてしまい、腰の辺りからは切れ目が入って足を動かしやすくしている。

 しかし丈の長さは太腿の上までであり、その下にある短い黒のズボンと膝上まで伸びた靴下が見えている。腰の革ベルトと杖刀、黄金蝶の髪飾りだけは変わらない。

 靴は逢国製のブーツであったのに感謝しつつ、着慣れない異国の伝統服にユーナは自分の姿を眺める。どこかの色町で客引きしている娘の姿のようだ。


「俺は三枚とも内容に差異がないことを確認した。お前も目を通せ」

「はい」


 ヴラドに三枚の紙を差し出され、ユーナは注意深く眺めていく。一見では怪しいところはないと思えたが、ユーナは眉をひそめてレイリーを睨む。

 いまだに壁に体の真正面を向けたまま動かないレイリーは、恐らくヴラドの指示があるまでは微動だにしないだろう。しかしユーナは構わずに言葉をかける。


「破った場合の項目。いきなり漢数字を使うのはどうかと思いますわよ? 大体これは和国の怪談話に書かれた手口で、古いですわ」

「……だとよ、レイリー。お前の余計な気遣いが俺を窮地に追いやったという認識でいいか?」

「ち、違います!! 私は主のお役に立てれば、と……」


 またもやレイリーに向かって小型ナイフが投げられる。しかし今度は壁ではなく、レイリーの右手、その人差し指である。爪すらも貫通したナイフに、レイリーは言葉を詰まらせた。


「一字書き足して、十にする。後で三枚集めた際に、線一つを追加するだけで通りますものね。わたくし、おばあ様と共に和国の字を少しだけ学びましたのよ。確か漢字、蓁国でも使われてましたわね」

「書き直しだな。レイリーできるな?」


 利き腕である右手の人差し指へと簡易に布を巻いた男は、脂汗を流しながらも苦々しく頷く。そして血を拭き取ったナイフを献上するようにヴラドへと差し出す。

 それらを特別だと思わないヴラドは水煙管を吸い続ける。少しだけ香草の刺激が混じる煙が体に触れるたび、レイリーの肩が針を突き刺したかのように反応する。

 汗を額に滲ませたままレイリーは紙にペン先を走らせる。怪我をしているとは思えない正確さで綺麗な字を並べるが、その速度は格段に落ちていた。


「わかっていて、黙っていましたわね。酷い人」

「気付かない馬鹿が悪い。そういうことだ」


 淡々とした態度のまま吐き捨てるヴラドに対し、ユーナは深く息を吸いこむ。少しでも浅く、長く、息を吐いていかないと今にも勢いを持って行かれそうな空気。

 なにを考えているかわかりにくいわけではない。なにを優先に動くかはっきりとしているから逆に恐ろしくなる。かつて、ヴラド・ブレイドは異教徒に襲われた村にて見つかった。

 その手に握られていた真っ赤な金貨一枚。死ぬ間際の村人が、差し出したそれを対価に異教徒達に地獄を見せた。依頼された内容はただ一つ。死よりも恐ろしい生の報復。


 異教徒達の行動は非道を超えていた。いつかは国が潰しに来ることは目に見えていた。もしも国の軍とぶつかれば、銅貨一枚の得にもならない。

 だからこそヴラドは村人の無謀とも言える依頼を受けた。異教徒達と与して国と戦うよりも、血に濡れた金貨一枚に価値を覚えた。たったそれだけの理由。

 ヴラドという男は小難しいことは考えない。感情を優先などしない。しかし価値基準で勝れば、どんな無茶も実現させる。戦争で勝利を奪う所業ですら、そんな単純な理屈で動いているくらいだ。


「か、書き終わりました」

「三枚とも確認し、問題なければ一枚はそのままお前が保管。一枚はこちらで、最後の一枚は総合ギルド【大樹の根幹】に預ける。相違ないな?」

「ええ。アドランスさんは病院送りにされましたが、そちらの情報は?」

「知っている。あの『植物娘モンストルム』にでも預ける。ああ見えて仕事はできるからな」


 紙面の文字を目で追いながら、ユーナはのほほんとした笑顔を浮かべるリリカルを思い出す。悪戯小僧の雰囲気も持ち合わせながら、補佐官としても有能なのである。

 そうでなければ一週間に一度はギルドリーダーが倒れるなどという異常事態が見過ごされるなどあり得ない。優秀な人材、なにより不眠不休で動ける『常識外モンストルム』まで雇っているのだから。

 別にアドランスが無能というわけではない。むしろ有能だからこそ、倒れるまで働いているとも言える。大樹のように根や幹、葉に至る全てが全体を支えているという、当たり前のように見える難しいこと。それを再現しているのが総合ギルド【大樹の根幹】なのである。


「はいなー! 治療終わったあるよー。どこもかしこも元気な男の子をお持ちしたねー」


 重々しい空気を吹き飛ばすように部屋へと入ってきた女性は、声も出ないほどぐったりしているアルトの首根っこを掴んで浮かばせていた。

 レイリーと同じ艶やかな長い黒髪を二つ結いの団子頭に形作り、まとめきれなかった部分は三つ編みに結んで垂れ下げている。それだけで足首まである長さだ。

 桃色のチャイナ服は牛と呼ばれそうなほど大きな胸の谷間や肉厚な太腿を曝け出し、腰まで裂けたようなスリットから見えるのは瑞々しい生肌のみ。下着は未装着。惜しげもなく白い足を見せつけてくる。


 下手したら露出狂。もしくは痴女。表通りを歩いていたら確実に警官が声をかけるであろう姿だが、どんな紳士も二分間は硬直して眺めてしまいそうな姿だ。

 手先だけでなく二の腕や脇まで見せつける袖なしのせいか、九月の気候ではどう考えても季節ではなく国を間違えた服装である。ロンダニアの夏は薄手の長袖でも過ごせる。

 女性は自分の姿など気にした様子もなくユーナへとアルトを差し出す。しかしユーナは契約書の確認を続けたため、アルトは薄汚い床の上に落とされた。


「あるぇー? レイリー、怪我してるか? 大丈夫か? 胸揉むか? 男って単純。胸揉めば無病息災って言うね。それとも、天国のほうがよろしか?」

「黙れ、フォン」


 明るい様子で声も出ないほど冷や汗を流していたレイリーに話しかけた女性、フォンはヴラドの一言で言動だけでなく動きと表情を止めた。

 無表情とも思える顔のまま、黒い瞳にヴラドの姿を映す。先程までの生き生きとした明快な女性像など、不自然なほど綺麗に消えている。

 ユーナは朱印に親指を付け、三枚の紙に拇印を押す。直後にヴラドも同じように拇印を行い、三枚の紙は正式な書類として成立した。ユーナは淡々とした様子で先ほどまで包まっていた毛布で指先を拭く。


「……問題なし。では、わたくしは野蛮猿を引き連れて情報集めに赴きますわ。フォンさん、野蛮猿に変なことされませんでしたか?」

「……」

「発言を許可する」

「大丈夫よー! アルト、良い子ね。ツボを押せば可愛い声で鳴いてくれる。もっと鳴かそうと思って、余計なツボ突いちゃったかもしれないけどサービスにしておくあるよー」


 蓁国のイントネーションを含めた逢語で器用に話すフォンだが、視線はヴラドに注がれている。どの発言まで許されるか計っているのだ。


「そうですか。レイリーさんの回復を祈りつつ、さっさと去りますわね。ああそうそう、おばあ様の秘密を伝えなくては」

「早くしろ」

「では……おばあ様、和国の文化を学ぶ際に扇の練習を何度も試みたのですが、出国直前まで音を鳴らせなかったのですわ」


 思い出して笑うように、ユーナは口元を指先で静かに押さえる。厳格で誇り高い最高位魔導士、その中でも最も威厳ある老婆は扇に苦戦したのだ。

 まるで空気を切るような鮮やかな音。それを出すのは容易ではない。しかし黄金律の魔女は誰にも知られないように努力したのだが、人前に出る時はその成果を見せなくてはいけない。

 苦し紛れに黄金律の魔女が思いついた打開策は、魔法による音の生成であった。つまりヴラドが聞き覚えがあった扇の音は、黄金律の魔女が誰にもばれないように苦心した結果なのである。


 しかし誰もそれを魔法とは思わなかった。まさかあの黄金律の魔女が扇の音一つを魔法で補うなど、どう考えても悪戯を誤魔化す子供と同レベルだからだ。

 ヴラドですら手に水煙管の管を持ったまま固まってしまう。その間にユーナは契約書を丸め、片手で床に落ちたアルトの首根っこを掴んで引きずって扉の前まで歩いていく。

 炭酸が抜けた瓶の蓋を開ける音に近い、吹き出すような声。続く低い笑い声に、部屋の中にいた全員が音がした方へと思わず目を向ける珍事。


「く、くくっ……あの老婆め、見栄っ張りは変わらずか。それにしてもあれだけ壮大に語った魔法を、そんなみみっちいことに使うなんてな。片腹が痛くなるわけだ」


 ヴラドの機嫌がいい時など滅多にない。それは同時に笑うことも少ないを意味する。そんな男が黄金律の魔女について笑い声を出しているのだ。

 そして気紛れを起こしたのか、ユーナに向かって一つの紙束を投げる。ベルトで固定されているのでばらける心配はない。ユーナはアルトの首根っこを離し、その紙束を受け取る。

 小さな衝撃音と痛みに詰まる声も無視して、ユーナは手に取った紙束の表紙を眺める。それは聖ミカエル祭に関する人事資料に近い物であった。


「餞別だ。それで少しは余計な手間が省略できるはずだ。必ず鵞鳥男を俺の前に差し出せ。いいな?」

「……わかりましたわ」


 感情を優先した行動ではない。一秒でも早く犯人を捕まえて制裁したいという意思が垣間見えた瞬間。ヴラドは既に犯人の心当たりがあるのだ。

 決定的な証拠がないのと不可解な事件性のため、襲った際の被害を考えて手を出していないだけ。ただでさえ不利な状況の中で失敗することは、ヴラドにとっては損である。

 しかしヴラドにとって、黄金律の魔女に関わる情報は追加素材を提供するだけの価値があったという事実。それほどヴラドにとって黄金律の魔女の価値は高いと言える。


 ユーナは育て親である老婆に対し心の奥底では感謝しつつも、秘密をばらしたのは知られたくない故に帰国が遅れると良いなと願うのであった。





 針治療で天国と地獄を見たアルトだが、その足取りはしっかりとしていた。傭兵ギルド【剣の墓場】の借家から出る頃には自分で歩くと言い出すくらいだ。

 しかしユーナに引きずられたせいで階段のところで強かに尻を打ちつけたことに関しては言葉に出さない。どう考えてもいい男が話す内容ではないからだ。

 二人はロンダニア橋に向かって歩いていた。途中で乗合馬車オムニバスを利用しようとは思っていたが、その前にヤシロが襲われた場所に立ち寄ろうと立案したのである。


 原因はヴラドから渡された紙束。そこに書かれていた人名と役割、特に赤い丸がついている名前はかつてヴラドの下で働いていた者達だ。

 一部の赤丸がつけられた人名には赤字で捕捉するように襲われた時間帯、状態、場所、細かな内容が記載されていた。さらにロンダニアの地図が付随しており、それにも赤丸が記されている。

 すると事件が起きた範囲を線で囲むと、王立裁判所近くを中心としていることがわかる。ガウェインガーデンにも近く、敵の狙いはやはり今年の聖ミカエル祭の妨害だろうとは判断できた。


 だが例外が一つ。ヤシロが襲われた場所だけが遠いのだ。確かにヤシロも聖ミカエル祭に関わっているが、それは手伝い程度であり、重要性は低いはずだ。

 さらにヤシロは納める予定だった家賃も奪われている。他の被害者は強奪された形跡がないことを考えると不自然な点ばかり。アドランスが例外と言うわけである。

 ヴラドに渡された資料にはさらに襲われた人物が入院している病院、及び昏睡の症状や外傷、だけではなく病院の防犯体制の隙まで記入されている。殺す準備は万端だったようだ。


「この地図を見ると、相手は徒歩で行動しているな。しかしチビ助をどうやって……あいつがなにもできずに倒されるなんて、相当だろ?」

「ええ。ヤシロさんは上位魔導士並みに魔法を扱えますし、戦闘技術に関してはヴラドさん仕込みです。素人にやられるなど、万に一つもあえりえません」

「つまり……上位魔導士ですら無力化できる魔道具を持った魔導士……という線は?」

「魔道具も種類は豊富ですが、ヤシロさんが無抵抗のまま倒される類となると思いつきませんわ。大体、ヤシロさんの本領は戦闘技術ですもの」


 二人で資料に目を通しながら話し続ける。しかし答えが出てこないまま人通りが多いシティ・オブ・ロンダニアに辿り着いてしまう。

 ひとまずは資料をアルトに渡して、ユーナは周囲に目を向ける。高級な絹の紳士服を着た男が懐中時計を片手に歩き去る。一分一秒も遅刻できない商談があるようだ。

 ロンダニアにおいて金融の心臓部である場所は、まるで人が血液のように止まることなく動き続けている。だからこそ国が生きているとも表現はできるが。


「ここで襲うって……相当な無茶ですわね。それほどヤシロさんに恨みがあったのか、別の狙いか」

「金狙いだとしても、チビ助が家賃を持っていると知ってたのは俺様達くらい……あ」


 ヴラドは言っていた。ユーナやアルトが候補としては強いと。最高位魔導士であるユーナならば、ヤシロを倒す可能性はある。

 あらゆる無茶も魔法によって可能となる。事件が起きたらまず魔導士資格を調べろ、と警察は身辺調査でも重要視するのは魔導士か否か。

 鵞鳥男が傭兵ギルド【剣の墓場】の元メンバーを狙っているならば、いずれは自分の首を獲りに来るとヴラドは睨んでいた。その矢先にユーナとアルトが現れたのである。


「……わたくし達がヤシロさんを襲う利益がないと判断しなかったのでしょうか?」

「ああ見えて傭兵おっさんも激怒してたんだろ。情に流されずとも、判断が鈍るくらいな」

「……そうかもしれませんわね。無償の報復など、普通のヴラドさんでは考えないことですものね」


 襲われた者達の骨で剣を作り、犯人への報復とする。そこには損得など含まれていなかった。一銭の価値もない行動を、ヴラドはわざわざ準備を整えていた。

 その真意に僅かに触れて、ユーナは溜め息を吐き出しつつも笑みを作る。つまりとある男にとって傭兵ギルド【剣の墓場】は損得勘定なしで判断する居場所として成立したのだ。

 ただしこれを本人の前で口走れば命の保証はない。素直じゃない男の悠々とした姿を思い出して、ユーナは少しだけ微笑ましい気持ちになった、のも束の間だった。


「よー!! そこの姉ちゃん!! おいらと遊ぼうぜー!! 金ならある!!」


 できれば何度も聞きたくない類のいやらしさと卑しさが滲み出た声。ユーナの朗らかな気持ちも流れ星の如く彼方に消え去るほどの不快な破壊力。

 渋々と視線を向ければ予想通りの虎の刺青が彫られた将棋頭にエール腹が見苦しい大柄な男。何でも屋ギルド【紅焔】のギルドリーダーであるデッドリー・グルブンだ。

 しかし視線はそこで止まることはなかった。デッドリーが手にしている財布袋。それこそが九月二十五日、忽然と消えた家賃入りの財布なのだ。


「よし、とりあえずあれをぶっ飛ばしますわよ、野蛮猿」

「オーケー、姫さん。俺様もはりきっちゃうぜ」


 なんかもう目の前の謎とかどうでもよくなった二人は、今も貴婦人にいやらしい声を向ける男デッドリーへと勇ましく近付くのであった。

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