EPⅢ×Ⅳ【宝石が如き目《jewel×eye》】

 時計の音が鳴り響く、洞窟のような狭い地下室。水煙管から煙を吸う男の唇から重々しい白が吐き出される。

 脳髄の奥を痺れさせては倦怠感を招く。明確な薬ではなく、しかし毒でもない。一時の浮遊感と享楽を与えてくれるだけ。

 そんな煙を手で払いながら五線譜に下手なオタマジャクシを書いていく女がいた。正確には音符なのだが、女が記すのは丸は三角や四角、時には星の形まで描くのである。


「あれなんですよね? ヴラドさんって利さえあれば、こんな問題児に甘い顔をしちゃう人なんですよね。もー、素直な人ですよねー!」


 女の明るい声に男は答えない。せっかくの休息を女の甲高い声で行われる無駄な会話で消費したくないからだ。

 そんな相手の反応も気にせずに女も上機嫌のまま羽ペンを動かしていく。もちろん煙は常に手で払い続け、どちらが部屋の主かわかったものではない。


「それでなんですけど、もしも鵞鳥男さんの犯人があの人の場合、しゃしゃり出ちゃいますから!」

「合理的な判断が、それか?」

「もっちろん! 歴史に名前は残らずとも、土台として欠かせない人っていますよね? 彼は、そういう人なんです」


 一枚の楽譜を仕上げた女は二枚目に手をかけていく。その背中に対して深々と溜め息をつき、ヴラドという男は日付と時刻を確認する。

 九月二十六日午前十一時。ヤシロという少年が謎の鵞鳥男に襲われて一日が経ったことを示している。そして今頃、彼の仲間である二人は事件現場へと辿り着いたはず。

 そこまで予測した上でヴラドはやる気も見せずに煙を吸い続ける。戦争の気配が漂うだけの日々は、彼にとって退屈しのぎすることが少ないに値するのであった。






 アイリッシュ連合王国の首都ロンダニア。その中でも金融の心臓部と言われるシティ・オブ・ロンダニアにユーナとアルトはいた。

 まずは目の前で何故か貴婦人を金で買おうとするエール腹、デッドリー・グルブンの腹へと各自で蹴りを入れる。分厚い肉は泥の如く明確な足跡を残した。

 声が出なくなったデッドリーの服をユーナが掴み、力任せに路地裏へと放り投げる。和国の柔道バリツのような技に貴婦人がしばし呆気に取られたが、その隙にそそくさと逃げてしまう。


「ちょ、おいらをどうする気だ!? まさか、暴行するのか!? 官能小説みたいに! 官能小説みたいに!!」

「この世全ての官能小説に土下座して謝りなさい!! ろくでなし!!」


 胸の前に両手を持ってきて乙女のような仕草を見せてくるデッドリーへと容赦なく蹴りの追撃を行うユーナ。アルトとしても彼女の意見に大賛成のため、口は挟まない。

 五回ほど蹴られた後でデッドリーはいつもと違うことに気付く。そして六回目の蹴りは石畳を転がって避け、壁を背中に立ち上がって不敵な笑みを浮かべた。


「魔法はどうした? まーさーかー……使えない!? おいらの時代がきた!!」

「ええ、貴方に見破られるくらいには。諸事情で白魔法以外が行使できない状態ですのよ」


 忌ま忌ましそうに舌打ちしながら説明したユーナに対し、デッドリーは満面の笑みを浮かべて小躍りする。酒で酔っ払った中年男性の踊りとしては見苦しい部類だ。

 足踏みするたびに豊かな腹の肉が黒革ベルトの上で揺れるので、堪え切れずにアルトは爆笑した。それを肘鉄で黙らせようかともユーナは考えたが、とりあえず我慢する。

 新時代到来の踊りは一分くらい続いたが、汗だらけのデッドリーは足を止めた。息を整えながら、ユーナへと堂々とした態度で向き合う。


「つまりいつもみたいに丸焦げになったり水攻めにあったり蒸し焼きされたり踏み潰されたり、あれやこれがないわけだな!!」

「むしろおっさんがそれだけの酷い目に遭いながら生きている上に反省してないところに俺様は感服するぜ」

「ひゃっほーい!! ざまあみろ、胸なしお化け!! 暴力女!! 魔法が使えなければお前の価値なんておいら以下なんだーい!!」

「ですから……本日のわたくしは白魔法を最大限に活かして貴方が泣き喚いて許しを乞うても殴るのを止めないくらいしか手段はありませんの」


 地の底から這うような静かながらも怒りを漲らせた声と共に、ユーナは両の拳から音を鳴らす。その音は狭い路地裏では嫌なほど強く響いた。

 小躍りした上に精一杯罵倒した後のデッドリーは顔を青ざめさせた。ゆっくりと首と顔を動かし、涙目で鼻水を流しながらもアルトに助けの視線を向ける。

 しかし腹抱えて笑ったアルトは、握り拳から親指を上げたハンドサインだけを笑顔で渡す。幸運グッドラックなんていらないとデッドリーが叫び声を響かせる前に、紫色の悪魔が男の顔に膝蹴りを入れた。


 まずは鼻頭に拳、次に首へと指先、上体が崩れた先で足払いをかける。地面に倒れ伏した相手の右腕を捻り上げ肩の関節を外す。もちろん次は左の肩の関節である。関節をはめ直した際の叫び声は動物の鳴き声のようであった。

 最後の情けで歯や耳、眼球には手を出さなかったが、それ以外の部位などには少なくとも一撃を入れている。あまりの鮮やかさと残酷さにアルトは拍手だけして傍観者を決め込んだ。

 白いチャイナ服を着た少女がなにかしらやっているが、大道芸の練習かと多くの人は見て見ぬ振りで去って行く。金融の街は金に厳しく、他人の不幸に冷たかった。


「これは返していただきますわよ。なんで貴方がヤシロさんの財布を……」

「おいらの金ぇ!?」

「貴方のじゃない!! 家賃分から減っていたら、追撃も辞さないですわよ!!」


 ユーナが拾い上げた財布袋に手を伸ばしたデッドリーだが、その顔面に容赦なく靴底が埋め込まれる。血が乾いていたはずの鼻から、またもや新しい液体を流し始めた。

 そしてユーナは後ろで傍観していたアルトへと財布袋を投げ渡し、即座に確認するように指示する。ユーナの勢いに逆らわない方がいいと理解しているアルトは素直に硬貨を数えていく。


「……姫さん、家賃分より多いぜ。これはおっさんが追加した分として計算で大丈夫か?」

「結構ですわよ。ヤシロさんは無駄を好みません。あの日も家賃を納めるだけだったはず。その分は別袋に入れて返して差し上げましょう」

「うう……強盗のように襲撃しておいて、上から目線……おっさんだって泣くぞ」

「火事場泥棒したのは何処のどいつかしら? 昨日、ヤシロさんが襲われた現場に貴方はいましたわね?」


 断定するような言い方だったが、デッドリーは否定せずに目線だけ逸らした。それはほぼ正解と語っているような物だが、誤魔化そうとしているらしい。

 もちろんデッドリー相手に容赦するわけもなく、ユーナは再度両の拳から音を鳴らした。それだけで今味わった攻撃の数々を思い出し、デッドリーは身を竦ませる。


「い、いました!! つーか、おいらが先にあのチビに話しかけたってぇのに、邪魔したのはアイツだ!! ああ、アイツが悪い!!」

「アイツって、鵞鳥の被り物をした?」

「そうだよ! 痩せてたけど、男だろうよ! おいらは女の判別には自信があるぜ! 実際、お前も初見の時に間違えなかっただろうが!!」

「わたくしはちゃんとスカートを穿いていますわよ!! どこをどうやったら男と勘違いしますのよ、このすっとこどっこい!!!!」


 デッドリーの言葉に対し怒りの蹴りを返すユーナだが、その背後ではアルトが納得したように頷いていた。デッドリーの男女の見分けはかなり正確なのである。

 まず女性は基本的に長髪であるべき、という思想が広まっている時勢と流行において、ユーナの短髪は異端である。それだけで男と判断されてもおかしくない。

 今は渡された白いチャイナ服ではあるが、普段着もスカート着用とはいえ男が履くようなブーツに足を晒す短い丈のスカート。普通の淑女はドレスか長スカートであるのに、だ。


 つまりユーナの外見と服装では男性と間違える者も少なからずはいる。しかし本人がそこを気にしない性格なのが悪い、とアルトは言わない。

 指摘した瞬間にアルトもデッドリーと同じ目に遭うのはわかりきったことだからだ。ユーナの服装に対して口を出せるのは、ギルド内でも流行に詳しいハトリとメイドのナギサくらいだ。

 ただしチドリやヤシロが服に口を出したとしてもアルトのように殴られない。ただアルトが口を挟むというのは、からかいや皮肉がつい混じってしまう結果になるのだ。


「つまり鵞鳥男で間違いないわけですわね。で、なんで貴方は目撃されていないのですか?」

「脅したからに決まってんだろ!! 警察のお世話は当分は御免だね!! 目撃者の女においらのこと喋ったら襲って金品巻き上げて……」

「続きはいりません。で、特徴は? わたくし達が今わかっているのは、鵞鳥の被り物と剣、そして天秤。細かな情報が必要なのです。もしも協力して頂けるなら……」

「報酬か!? 報酬付きならば暴れ馬の女以下でも喜んで手伝っちゃうぜ! ひゃっほーい!!」


 ユーナの提案を先取りして一人歓喜するデッドリー。現金な態度と身代わりの速さに戸惑いつつ、一言多かったことに対して脇腹に抉り込むように蹴りを入れる。

 それでもへこたれないデッドリーにアルトは感心しつつ、ヤシロの財布袋からデッドリーに返す分を他の袋へと移していく。咳き込みながらもデッドリーは将棋頭に人差し指を添える。

 虎の刺青を入れているとはいえ、頭脳には問題ないはず。そう思いたいユーナだが、普段からの行いによりデッドリーを信じるということは難しかった。


「えーと、特徴……剣と天秤だけどよ、なーんかおかしかったな。剣は曲がってたし、天秤には変な目玉がついてたんだよ」

「目玉? そこを詳しく!!」

虎の目タイガーアイに似てたけどよ、それよりも寒気がしたぜ。その目玉、ぎょろぎょろ蠢きやがって、チビは怖かったのか蛙みたいに動かなくなっちまったぜ!!」


 大笑いするデッドリーに一発拳を入れようかとも考えたが、今は堪えて後ほどタコ殴り決定だと誓いながらユーナは続きを促す。


「ま、まあおいらもすこーし動きが固まっちまったけど、そこはデッドリー・グルブン様! 華麗に鵞鳥男の攻撃を回避! チビは避けれず斬られて気絶! ざまあみろ!!」

「斬られた? ヤシロさんが一切の抵抗もできずに!? もしかして剣筋は達人級とか……」

「いーや、あのへっぴり腰は素人そのものだったぜ。喧嘩慣れもしてねぇ、温室育ちのお坊ちゃんの太刀筋そっくりだ」

「おっさんが華麗に避けれてる時点で予測できただろう、姫さん」


 アルトの捕捉にユーナは盛大に納得した。白魔法を使っているとはいえ、ユーナの蹴りや拳で暴行されるデッドリーが無事なのだ。察して然るべきである。

 しかしマイナスな言葉はあまり気にせず、目の前の報酬に目が眩み自分の活躍談と勘違いしたデッドリーの言葉は濁流溢れる川の如く次々に流れていく。

 ユーナはその言葉達をかつて最大まで汚染されていたダムズ川の光景を見下ろすが如く、非常に不服そうな態度で聞いていた。


「チビが倒れて女が悲鳴を上げたら警察の声が聞こえてな。鵞鳥男は逃げちまうから、丁度良く落ちていた財布袋をおいらへの慰謝料として受け取り、口止めも万全にして栄光ある逃走に至ったわけだ」

「……剣が曲がっていたと言ってましたわよね? それはもしかして円月刀、いえ、草刈り鎌の形に似てませんでしたか?」

「そうそう! 剣というよりは鎌だぜ、ありゃあ!! そこの男が持ってる感じの小型で首を刈るには充分な……」


 デッドリーの言葉が止まる前にユーナとアルトは分厚い指先が示す場所へ目を向ける。午前と午後が入れ替わる狭間に、幽鬼の如く現れた存在。

 明らかに造り物とわかる鵞鳥の頭。眼孔には黒い宝石が埋め込まれており、覗き穴は嘴の上に小さく開けられている。中肉中背、しかし腰の辺りが細く見える上等な黒スーツを着ている。

 滑らかで長い指で握るのは、右に草刈り鎌のような小型の剣、左には黄緑色の目が一つ付属された赤い黄金の天秤。天秤の目玉に睨まれた時、ユーナの背中に悪寒が走った。


 腰の黒革ベルトで固定していた杖刀が大きく反応し、ユーナは躊躇わずに留め具を外す。ひとりでに動き出した杖刀は、石畳を弾いて空中へと舞い上がる。

 回転して落ちてくる杖刀に驚いた鵞鳥男は慌てて横に避けるが、鞘先が肩に当たった上に壁へと正面激突した。運動不足というよりは、運動音痴そのものの結果。

 それでも杖刀は石畳に刺さらずに、弾かれるような動きと共に鵞鳥男へと迫る。それも間一髪で避けた男だったが、石畳に尻餅をつくほどだ。


「杖刀、戻って来なさい!」


 あまりの精彩のない動きに呆気にとられたユーナだが、男の不可解さに警戒したが故の指示を出す。杖刀は反抗の様子も見せずに、路地裏の壁を足場とするように再度空中を回転する。

 落ちてきた杖刀を手首で回しながら受け止め、改めて右手に杖刀を握りしめた。横にいたアルトも用心して男を睨み、デッドリーは逃げたいが報酬を貰っていないという一点からその場に踏みとどまる。

 鵞鳥男は盛大に打ち付けた尻を撫でながら立ち上がり始めた。ゆっくりとした動きな上に隙だらけである。しかし天秤の目玉、鎌のような剣の正体が掴めない今は迂闊な動きはできない。


「わたくしは人助けギルド【流星の旗】の一員ユーナ・ヴィオレッド。貴方は?」


 名乗りを上げて相手の反応を窺う。しかし鵞鳥男は左手の平に天秤の台座を乗せるだけだった。秤皿が動作一つで傾き、中心の太い柱に埋め込まれた目玉が目の前の三人を舐めるように見回す。

 それは蛇の目玉。赤い黄金に負けない輝きを放ち、視線が動くたびに秤が不自然に揺れた。ユーナは思い当たった正体に身震いし、呼吸を詰まらせながらも言葉を吐き出した。


「……まさか女神から怪物に変遷した『神話レリック』を元に作っている? いやでも、その『神話レリック』に天秤は出てこなかった! なにより……貴方から必要な魔力を感じない!!」

「姫さん? 魔力を感知できないって、あの趣味悪い鵞鳥頭は一般人かよ!? 魔導士でもなんでもない奴!?」

「ど、どういうことだよ!? おいらは関係ないはずなのに、なんでアイツはここに現れたんだよ!?」


 狼狽するデッドリーを二人の呼吸合わせた拳で黙らせつつ、ユーナは剣と天秤の両方を眺める。普通の武器でも道具でもない。しかし魔道具でもない。

 上位魔導士から作成することが許可され、中位魔導士から使用を許される。それこそが魔道具であり、魔導士にとっては多様な使い道がある便利道具だ。

 魔道具としての共通点を拾うならば二つ。一つは『別世界レリック』に繋がるための補助具であること、もう一つは必ず魔力を使用するという点だ。


 例えば赤銅盤の発明家マグナス・ウォーカーの工房制作ルームメイカーという名前の鎚。それは即座に仕事場を作り上げる彼の専用魔道具である。

 地下、壁、天井、場所に拘らずにギルドメンバーの部屋を作るだけ。しかし部屋一つを普通の中位魔導士が魔法を使って作成するとなると、幾重にも青魔法を重ねなくてはいけない。

 膨大な魔力と時間を積み上げて様々な『伝説レリック』の力を借りる。その手間を省略した上に魔力も半分以下で製作できるようにしたのが工房制作ルームメイカーなのである。


 赤魔法並みの速度で丈夫な部屋を。鎚という形を紐として多くの『神々レリック』に一斉接続。柄や鋼鉄の部分に最初から刻まれた法則文により基本的な設計図は決まっている

 応用する部分はマグナス・ウォーカー自身が直接『他の存在レリック』に注文する。つまり部屋の大部分を魔道具に任せることにより、自身への負担を減らしている。

 魔力に関しては魔道具を作り上げた際の完成度に左右される。魔力はあらゆる物質に宿るが、その偏重加減は物質の優劣に影響されるのも多い。貴重な鉱石には大きな魔力を内包していると同じである。


 魔道具製作に関しては最高位魔導士随一。そう呼ばれるマグナス・ウォーカーが作り上げた魔道具の完成度は比類なきものとなる。だからこそ彼に素材を提供する者は多い。

 優秀な道具、工房、材料、ありとあらゆる物を揃え、彼の天才的な技術力が合わさる。それだけで大勢の魔導士が憧れる魔道具が完成される。しかしあくまで魔道具は補助具である。

 その効果が最も発揮されるのは使用者の魔力次第である。どんなに優秀な魔道具も能力を発動するに至る魔力が足りなくては意味がない。魔力こそが全て、というのは全魔導士共通の認識であった。


 改めてユーナは目の前の鵞鳥男へと目を向ける。魔力を扱うからこそ、魔導士は魔力を肌で感じることができる。ある程度ならば、相手の魔力が多いかどうかくらいは判別できる。

 しかし鵞鳥男からは一般の人間と変わらない、むしろやや少ない程度の魔力しかわからないのだ。魔力の保有量は個人差がある。もしも魔道具を使うならば、最低でも鵞鳥男よりも二倍の魔力を要する。

 必要な魔力が用意できない場合、魔道具は飾りと変わらない。杖刀とは違い、魔力を吸わない。だが真価を発揮することも不可能だ。一般人が工房制作ルームメイカーを手に制作を試みようと、金槌のようにしか使えないのと同じだ。


「天秤と聖ミカエル祭が関わっているから『星座の神話レリック』関連とも疑いましたが、前提が違いすぎます! いえ、微妙に合致はしていますが……」

「なんだか俺様、嫌な予感が……」


 正体を突き止めたいユーナだったが、背後に人々が集まるのを感じ取る。さすがに鵞鳥頭の男が武器を持って金融街に出没したのだ。狙いがわからない以上、無視して通り過ぎるのも限界がある。

 何人かが警察を呼ぶようにと大声を上げており、そのざわめきは伝播していく。細波が大波へと変化するかのように、路地裏の小さな出来事が大きな事件へと変わっていた。

 そしてユーナ達の逃げ場は失われたのと同義である。前には鵞鳥男。後ろには野次馬。横は高い壁に囲まれ、下は石畳。晴れ渡る秋空を目指すには金融街の建物は巨大すぎる。


 天秤に付属した目玉が激しく蠢き出す。睨まれた瞬間、ユーナは体の大部分が動かないことに気付く。わずかに指先は震わせられるが、腕や足は意思に反して固まっていく。

 横に立っているアルトも息を詰まらせ、後ろでへたり込んでいるデッドリーは情けない悲鳴を上げるのも忘れた様子に。背後でざわめいていた野次馬達の声も突風に吹き飛ばされたが如く、掻き消えた。

 そして鵞鳥男は剣を握りしめてアルトへと真っ直ぐ走り出す。素早いわけでもなく、遅くもない。そんな微妙な速度で迫ってくるのだ。


「アルトさん、襲われる心当たりは!?」

「多すぎて思い出せねぇ!!」


 少しでも情報を掴もうと思ったユーナだが、返ってきた答えは予想通りとはいえ役に立たない物であった。ユーナに危害が及ばない限り、杖刀は動くことはない。

 首を刈るには充分な剣がアルトの首を狙ってくる。頭では必死に体を動かそうとしても、指先が嫌になるくらい振動するだけで終わってしまう。背後では人々の短い叫びが聞こえてきた。

 刹那の金属音に耳が痛いくらいに震える。ユーナは目を丸くし、アルトも眼前の光景に絶句した。そして鵞鳥男も二人と同じように驚く気配を滲ませた。


「コチカネット警察ヤードだ!! 大人しく降伏することをお勧めする!」

「コージさん!?」

「男前、珍しくかっこよく登場とかずるいぞ!!」


 清潔そうな灰色の短髪に黒い目、くたびれた紺色のフロックコートが自ら発生させた風で揺れている。右手に握られた短銃の銃身には鋭い刃先が埋め込まれていた。アルトを庇うように現れた存在。

 人助けギルド【流星の旗】のギルドリーダーにして、栄光あるコチカネット警察の外勤主任。男らしい外見と実直な性格が素直に表面へ浮き出ている男、コージは目の前の鵞鳥男を強く睨む。

 慌てたのは短銃を盾に剣を止められた鵞鳥男だ。どんなに左手の平にある天秤の目玉がコージを凝視しても、その勇ましい動きは衰え一つ見せずに鵞鳥男へと迫る。逃げようにも、剣の刃先が銃身から抜くのが間に合わない。


「そんな頭ではさぞ前が見えにくかろう! 失礼する!!」


 右手で握りしめた短銃を胸元に引き寄せ、鵞鳥男との距離を縮める。そして伸ばした左手で鵞鳥の被り物を勢いに任せて剥ぎ取った。

 出てきたのは平凡な男。前髪は邪魔にならないように後ろに流されており、鼻の頭にはズレた丸眼鏡。相当視力が弱いのか、少しだけ目つきが鋭い。

 年齢は三十代半ば。しかし他に特筆するべきところはない。男は顔を隠そうとしたが、両手が塞がっているせいで一瞬だけ躊躇う。


 コージはその隙をついて、石畳の上に鵞鳥の被り物を放り投げた直後に男へ頭突きを食らわせた。ユーナ達の耳にも骨と骨がぶつかり合う硬質な音が響く。

 あっさりと男の体からは力が抜けていき、剣から手を離して倒れてしまう。ただし左手の天秤は握りしめたまま、目玉は様子を窺うように動きを止めた。

 相手が気絶するほどの威力で頭突きしたにも関わらず、コージはしっかりした意識でユーナ達へと振り返る。額には傷一つ残っていない。


「ユーナくん、すまないが私はこれから彼を連行する。ヤシロの件も含め、彼は重要参考人だから……」

「ちょ、ちょっと待ってください! それはまずいんです!! というかコージさんの担当地区は別でしょう!?」

「聖ミカエル祭の前に大騒ぎでな。警察の方でも柔軟な対応を、と。しかし……なにがまずいんだ?」



 本来シティ・オブ・ロンダニアには専属の警察が設置されている。金融街の重要性を示唆しており、コチカネット警察所属の者は全員が担当外区域である。それでもコージが現れた理由は鵞鳥男の捜索。

 ユーナは体が動かせることを確認し、それからヴラドと交わした契約書をコージへと差し出す。その間にアルトはこっそりコージの短銃から剣の刃先を抜く。

 契約書を眺めていたコージの顔は段々と青ざめ、最終的に傷一つない額に脂汗を大量に浮かべた。ユーナは申し訳なさそうに黙ったまま、コージからの言葉を待つ。


「こ、これは困るぞユーナくん……警察の方でも威信にかけて彼を捕まえるようにロンダニア全区域に指示が出されている! 目撃情報には賞金まで発生し始めたくらいだ!」

「本当に申し訳ないのですが、あの状況でヴラドさんからかなりの好条件で引き出せた内容なので容赦してくださいな……」

「むぅ……ヴラドさんならば仕方ないと納得してあげたいのは山々なのだが……」


 あまり強気に出てこないユーナに対し、コージも困ったように唸る。お互いを認め合い、尊敬しているからこそ譲ることができない。

 その間にも野次馬達は次々と増え、警官の警笛が鳴り響き始めた。対応が迫られる中、アルトは男が手にしていた剣を眺めて目を細める。

 刀身に薄く彫られた文字。それは制作者名を表すのではなく、その剣の名前を示す物であった。見覚えのない名前に、アルトは詳しそうなユーナへと振り返る。


「おい、姫さん……」

「なんですか、ってアルトさん伏せて!!」


 コージとの相談を中断させられたユーナは少し不満そうな目を向けたが、すぐにそれは驚愕に変わる。アルトは尋常じゃない様子に、剣を素早く手放して姿勢を低くした。

 壁にひびを入れるほどのしなやかで太い蛇の胴体。尾の先で器用に剣の柄を掴み、その黒い鱗の姿は路地裏の奥へと消えていく。石畳の上に倒れていた男の姿はない。

 肝が冷えるのを味わっていたアルトだが、地区担当の警官達が遅れて到着したのを感じ取る。アルトは急いで手にしていた袋にデッドリーへ渡す硬貨を入れ終え、それを空中へと投げた。


「おっさん、報酬だ! 受け取れ!!」

「おいらの金ぇ!!」


 警官達は飛んできた財布袋と巨大なエール腹に悲鳴を上げ、何人かはデッドリーの大きな図体に潰された。そしてアルトはコージの襟首を掴み、ユーナを手招きする。

 混乱に乗じて逃げるのを優先し、ユーナは黙ってアルトの後を追いかける。白魔法を使った全力疾走を前に、警官達は見覚えのあるコージの名前を呼ぶことしかできなかった。

 金融街を抜けロンダニア橋へと向かう乗合馬車オムニバスに走りながら飛び乗る。乗客達は胡乱な目を向けたが、礼儀マナーがなっていない輩かと無視をした。


「姫さん、今回の件は前にも面倒事に発展した奴だぜ。俺様を狙ってきたのが、その証拠だ」

「……まさか『偽物レプリカ』が?」

「やっぱり本物のいい男は疎まれちまうのかね。いやー、辛いわー」


 アルトの茶化すような物言いにユーナは怒りの目を向ける。真剣に話したくても、いつもアルトはこうやって空気を緩ませてしまう。

 しかし『偽物レプリカ』の件に対してだけは常時とは違う感情を含ませるのをユーナとコージは知っている。アルトは決して口にはしないが、彼はなにかしらの『原型オリジナル』に関わりがあるらしい。

 本人が口に出したくないのならば、とユーナは追及しようとは思わなかった。アルトの場合は無駄な会話の末にはぐらかされてしまう可能性も否めない。


「あの鎌みたいな剣には、ハルペー、と彫られてた。そんな剣が天秤となんの関係が……」

「天秤は誘導ミスリードですわよ。秋の節句、聖ミカエル祭、左手の天秤と右手の剣にものの見事に騙されましたわ……」

「どういうことだ? ユーナくんは、この事件の正体を突き止めたのか」

「一応は。でも事態は最悪ですわよ……なにせ『偽物レプリカ』とはいえ、女神と直接戦うようなものですから」


 大きな溜め息をついて、ユーナは馬車の窓から見える街の光景を眺める。少しずつ曇り始めた空は、重くのしかかるように街を覆う。

 雨の気配を感じて淀んだ霧も石畳の上を這っていた。コージとアルトは、女神、という単語に驚きだけを滲ませた。しかもユーナは『女神レリック』という区分をしなかった。

 聖ミカエル祭まで三日。あまりの短い日数と気圧の変化で頭痛が思考を圧迫する。それでも対処するしかないと、ユーナは借家ギルドホームへと向かうのであった。

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