EPⅡ×Ⅷ【吸血鬼と古い祭り《vampire×halloween》】

「真実はいつも一つ……それが僕は嫌いなん」


 とある日。吸血鬼の事件が起きる前。雨が降るロンダニアの街を眺めながら、暖炉の横で小さく呟いたカナンの声を、バロックは無視した。

 事件が解決する度にぼやくせいで、耳にタコができるほどだ。いい加減飽きないのだろうかと、タイプライターの音を響かせながら黙々と作業をする。

 暗くて重い雲から濁った水が、茶色の街を時代の底に叩きつけるように、街は少しずつ沈んでいく。カナンはもう一度呟く。


「それでも僕は見つけ出したい。僕の頭脳が動く限りは」






 十月三十一日。昨晩に雨が降ったおかげが、少しだけ秋晴れを覗かせる街は賑やかな様子に包まれていた。

 商店ではグイ・バッカス・ナイトとハロウィーン、どちらが秋の祭りに相応しいかを議論し合ってはカブや南瓜を両方とも用意する。

 アイリッシュ連合王国ではハロウィーンで使用するのはカブなのだが、カメリア合衆国では南瓜を多用する。カメリア合衆国育ちの貴婦人に向けた販売体制も仕込んでいる。


 南瓜の中身をくり抜いて提灯ランタンにして店頭に飾れば、薄暗くなった後も目を引く橙色の光となる。三角と割れ目のような口を描けば、人の顔。

 子供達が悪ふざけでその頭を叩くが、堅い南瓜の皮に涙目に。歩き方を覚えたばかりの子供などは、初めて見る異形の顔に大声を上げて泣き喚く。

 こんな頭になってはいけないよと、大人達は子供に強く言い聞かせる。がらんどうの頭には、なにも詰まっていないと示す空虚な音が中にある炎を揺らした。


「ほんじゃあ、シェーナん。劇場の件で忙しいと思うんけど、よろしく頼むん」


 路地裏から戻ってきたユーナは、シェーナに手を振るカナンの後ろ姿を目撃する。一悶着を起こしている間に、私立探偵は自らの仕事を進めていたようだ。

 機械仕掛けの車椅子ギミックチェアを操作して、カナンはユーナへと振り向く。その表情はどこか冴えない物であり、困ったような笑みを浮かべていた。

 人通りが多いルトランドの雑踏に紛れ込んでしまうような、小さな問題に躓いた青年の顔。ユーナは特に追及する気配も見せず、静かに近付く。


「わかりました?」

「んー、まぁ、繋がりはした感じやん。せやけど……納得できひんというか、したくあらへんかなー……」


 口ごもるようなはっきりしない態度に、ユーナはカナンの車椅子を押しながら黙って返事を待つ。カナンも肘掛けに寄りかかりながら唸る。

 昼前の陽が高い時間帯。と言ってもやはり霧のせいで視界は不明瞭だ。それでも祭り日和の青空が、軒先の洗濯物が、乾いた風を呼びこんでいる。

 ライムシア劇場の方へと足を進めれば、劇場関係者が緊急の告知ポスターを貼っている。主役の代役が決まるまで、劇団ギルド【一角獣】の劇を行う予定らしい。


 予約チケットの払い戻しから、苦情を告げてくる客への謝罪。忙しそうな様子が遠くにいるユーナ達からも伝わってくるほどだ。

 役者達もじきにあの騒々しさに取り込まれてしまうだろう。公演の存続が決まっていても、全く同じ内容で執り行われるわけではない。

 それでも焼けつくような照明の下に出られるならばと、多くの者は懸命に動き回っている。その前をユーナとカナンは通り過ぎていく。


「あの赤色おばあちゃんとはもう一度出会ってみたかったなぁ……死んでもうたら、誰とも会えへん。寂しい」

「そうですわね」

「せやけど死にきれん時、誰もいなくなった先、そこで目が覚めるのも辛いなぁ。ユーナん、長生きしてな」

「そんな余命宣告された祖母に向ける暖かい眼差しはしないでくださいませ。少なくとも! わたくしは簡単に死ぬつもりはありません!!」


 堂々と宣言するユーナの姿に、カナンは吹き出すように笑う。車椅子の背もたれに体を預け、青空へと視線を向ける。

 賑やかな声が、人々が走り去っていく姿が、十月最後の気温が、鼻をくすぐるパンが焼ける匂いが、膝上から伝わる痛みが、瞬間的に過去へと切り替わる。

 一回、瞼を閉じたカナン。三回深呼吸した後、決心したように青い目を鋭く前に向ける。事件を前にした時と同じように、獲物を狩る鷹と同じ眼光を宿しながら。


「じゃあ大逢博物館で働くロゼッタんを訪ねて、そんでロンダニア橋にいこか。もうそれで……充分やん」






 夕焼けが真っ赤に街を染めていく時間帯。ダムズ川も、ロンダニア橋も、街を覆う霧さえも不気味なほど同じ色へと変化する。

 それでも太陽の光が輝きを連れてくる。照らされた全てが美しく見えるような錯覚。その輝きを直に浴びて、ジャック・オ・ランタンは目を細める。

 いつもは混雑している橋には『化け物モンストルム』以外の姿が存在しない。白い女性像、狼男、悪戯好きの妖精、黒い騎士、数えればキリがない軍勢。


 大群と対峙する影が一つ。強い意志に燃える目が、静かにジャック・オ・ランタンを見据えている。


 それは街角でよく見かける子供の姿をしていた。しかし実際の年齢は、本人すらも正確な数を知らないほど長生きだ。

 燃えるような赤毛と黒い瞳。サスペンダー付きのズボンと白シャツ。茶色の帽子ですらどこにでも売っている既製品である。


「ああ、会いたかったよ。吸血鬼ヴァンパイア……エリック・オペラ」


 少年に向かって右手を伸ばすジャック・オ・ランタン。左手には、青い炎を宿す石炭が入った吊り下げ灯カンテラが輝いている。

 貴族のような、それでいて捻れた首が不吉な音を立てる容姿。立派な髭すらも作り物めいた、うろ覚えの絵画に似た雰囲気を纏っている。

 まるで案山子カカシの上に蝋で人間の姿を作り上げたような不自然さ。それでもジャック・オ・ランタンは自然な振る舞いの如く、少年に微笑む。


「俺が……仲間になれば、本当にシェーナには手を出さないんだな?」

「もちろんだ。約束しようではないか」


 両手を大仰に振って寛大な仕草を見せるジャック・オ・ランタン。弱者に施しを与える貴族として、紳士として相応しい姿。

 何千という『化け物モンストルム』達も迎え入れるように手を伸ばす。優しく、温かく、しかして容赦なく。少年の逃げ場を一つにしていく。

 少年はポケットに入れていた手紙を取り出す。シェーナへ送られた、遠回しなエリックへの脅迫状。彼らは同じ存在だからわかる。人間に被害が及ぶのを『優しい化け物モンストルム』は恐れる。


 それは人間に近い『化け物モンストルム』ほど臆病になっていくことを意味する。特に人間の中から突然変異として生まれてしまったような、人間と変わりない生活ができる者ならば。

 エリックは手紙を握り潰し、ロンダニア橋の下のダムズ川へと投げ捨てた。もう必要ない証拠品である。最初から解決できる事件であり、探偵を呼ぶ必要もない事柄だった。

 ただ単純に、少年が『化け物モンストルム』として身を捧げればいいだけの話なのだ。犯人糾明も、証拠集めも、派生する事件も刑事も全て無駄なことだった。


 それだけの話、だが――少年は『人間のような人外モンストルム』として少女の傍にいたかった。


「じゃあ俺が死ねば、もうシェーナに用はないな?」

「それは困る。君が死ぬならば、彼女も殺す。用心すると良い……なにせ『化け物モンストルム』はどこにでもいる」


 青い炎が夕焼けよりも強く橋を照らし始める。宙に浮かぶ火の玉は万に近い。太陽の光よりも薄暗く、それでいて目に痛いほど焼き付く熱さ。

 夜闇が迫るロンダニアの街において、霧に青い光が灯る。街角で輝く南瓜の提灯ランタンよりも多い数の『化け物モンストルム』が目を光らせる。

 路地裏、下水道、屋根裏、秘密の地下道、廃屋に新築、酒蔵に芝居小屋。あらゆる所で息づく『非常識モンストルム』は、少年の手で全てを止めることはできない。


「諦めろ、吸血鬼。もう賽は投げられている。出目も決まっている。街は燃え、人も燃え、全てが燃える。残るは『化け物モンストルム』が集う夜、それだけだ」

「……二年前、いや、二百年以上前。もう諦めてるよ。俺は……人間が好きだ。シェーナが好きだ。シェーナが望む未来も、夢も、希望も!! その全てが好きだ!! どんなに嫌われても、嘘をついても、傍にずっといたいくらいに!!」


 ロンダニアが大火に覆われる少し前、まだ街が木造だった頃。一人の少年が『吸血鬼モンストルム』として生まれた。普通の両親から、異常な子供が現れた。

 しかし自覚はなかった。十二歳になるまで自分が何者かもわからず、人間として幸せに育てられた。それでも違和感があった。どこかズレている。違和感がいつまでも消えない。

 そして倉庫の奥から現れた『醜い小人モンストルム』が少年を指差した。人間の真似事をする『化け物モンストルム』が羨ましいと。血を吸う鬼のくせに、と。


 少年はそれから『醜い小人モンストルム』から多くを教わる。魔術の使い方、自分の在り方に特徴、人間との違い。それらを『醜い小人モンストルム』は丁寧に伝えた。

 そして少年は気付く。自分は人間以上に人間が好きなのだと。ただ人間というだけで、全てを好きになれるような根拠のない自信と憧れ。それこそが証明だった。

 特に好きなのは両親だ。少年が『化け物モンストルム』だと知らず、人間と同じように育ててくれた。なんて素晴らしい生き方を教えてくれたのかと、少年は感謝した。


 だからこそ大好きな両親に魔術を使った。血を分け与えることで、自分と同じ存在になれるのだと、理論上では成功するはずの魔術を。

 穏やかな夕食の時間。蝋燭を保護する硝子を覆うなにか。一瞬、少年はなにが起きたのかわからなかった。ただ赤黒い室内を見て、硝子を覆ったのは血だと理解した。

 木の皿には溢れんばかりの肉が入り込んでいる。木の壁や床も満遍なく赤く染まって、破裂音に驚いた隣人が少年の家の扉を叩いている。


 成功するはずだった。成功しなくてはいけなかった。少年は悲鳴を上げた。大好きな両親を、人間を、あまりにも酷い『化け物モンストルム』に変えようとして失敗したのだ。

 狂乱して暴れる少年を押さえる隣人達は哀れむ目を向けている。陰惨な事件現場で、少年だけが運良く生き残ったのだと勘違いした。真実とは異なる解釈に、少年は金切り声を上げた。

 何度も殺してくれと頼んだ。そう簡単に生き返らないように、丹念に杭で体を打ち付けて固定して燃やしてほしいと懇願した。心臓に銀の十字架を埋め込んでほしいと神父にも祈りを捧げた。


 いつの間にか『醜い小人モンストルム』は少年の傍から離れていた。気紛れな性質のせいだろうが、それが少年を孤独へと追い込んでいった。

 全身を震わせながら自殺を図った。首を吊った、手首を刃物で切った、わざと馬車にひかれた。水の底へと沈んだ。大量の薬を飲んだ。暖炉の中に飛び込んだ。

 何度も、何度も、何度も。死ぬまで続けた。なのに死ねない。しぶとすぎる『化け物モンストルム』の体を呪い、人間に嫌われていくことに涙した。


 そして転機が訪れた。少年を恐れた人間達が、縄と杭を使って少年の指先一つすら封じ、頑丈な棺桶の中へと詰め込んだ。

 薄暗い土へと棺桶ごと埋められながら、少年は感謝した。これならば死ぬことができるかもしれない。大好きな人間が手伝ってくれたのだから成功するはずだ。

 これは正当な『恐ろしい化け物モンストルム』退治なのだから、なに一つ問題ない。酸素が薄くなっていく中、少年は目の前の暗闇に安堵して瞼を閉じた。





 それなのに、起きてしまった。誰かが道具部屋の床に重い物を落とし、壊してしまったのだ。棺桶の蓋がわずかに開き、少年は生きていることに絶望した。

 自らの力で拘束全てを引き千切る。長い年月のせいで全てが劣化していた。そして人間が悲鳴を上げる前に、少年は部屋から出ていった。

 ぼやける頭には諦観が渦巻いていた。死ねなかった。両親に会えない。落ちていた新聞を拾い上げれば、二百年も時が経っているという。


 もう誰もいない。その真実が、少年から呼吸を奪うようだった。それでも死ねない事実に、涙することすらできなかった。

 天井近くの人間が集まる場所で膝を抱く。劇場だと気付くのに時間がかかったのは、あまりにも眩しい照明と立派な舞台が二百年前と大違いだからだ。

 喉は渇いている。お腹も空いた。体からは異臭がするし、服も襤褸切れ同然の状態だ。それ以上に独りでいることに、少年は涙を滲ませた。


 劇は呆気なく終わってしまい、追い出されるように少年は石畳を踏む。木造のロンダニアしか知らなかった少年にとって、石畳は針のように冷たかった。

 それ以上に目の前をぼやかす霧が喉を侵食して、血を吐きそうなほどの咳を出す。あまりの空気の悪さにその場ですぐ膝をつく。寒い夜、川に身を沈めようかと考えた矢先だった。


 少女が声をかけてきた。少年が親に捨てられた子供のように見えて、哀れだと思ったからだ。


 大好きな人間に声をかけられて、少年は舞い上がりそうになった。しかし薄汚れた格好の自分が恥ずかしくて、手を伸ばせない。

 だけれど少女は自ら手を伸ばして、少年の腕を掴んで歩き出してしまう。それが『化け物モンストルム』だと知らず、純朴な笑顔を見せながら。

 少女は劇場の下働きらしく、今はその帰りだと説明してきた。息を白くしながら、世話してあげる代わりに守ってくれたらいいよ、となんでもないことのように告げる。


 一時の護衛として少女は冗談を言ったつもりだった。しかし『孤独な化け物モンストルム』はその言葉に力強く頷いた。死ねないのならば、生きようと。

 手を握り合う少女を守ろう。大好きな人間を守ろう。死ぬのは諦めた。仲間を作ることも諦めた。だけれど未来の夢を語る少女を、この子だけでも守って生きていこう。

 自分が『化け物モンストルム』ならば、それらしく生きよう。こんな風に手を伸ばしてくれる人間を嫌うことなどできない。だから嫌うことは最初から諦めている。


 少女と周囲には、彼女の幼馴染みという魔術という名の暗示をかけて生活に溶け込んだ。近所の子供を世話する少女は、元気な笑顔でいつも忙しそうだ。

 暗示は自分がその場にいる時だけ。でないとお腹が空いて仕方がない。断続的に魔術を使うのは、空腹が酷くなる。なにかを食べていないと、耐えられない。

 魔力が減れば減るほどお腹が空いていく。だけれど血は飲みたくなかった。真っ赤な部屋と両親を思い出して、吐き気が酷くなる。効率的だとわかっていても、大好きな人間は襲えない。


 劇の練習をする少女の近くで、笑って、茶化して、喧嘩して。時たま無言のまま傍にいるだけ。それだけで幸せだった。それを伝えたくて、何度か魔術で作った薔薇を贈った。

 正体不明の薔薇の人物にされてしまったが、少年はそれで良かった。もしも『化け物モンストルム』から贈られていたとわかったら、怯えてしまうかもしれないから。

 少女は薔薇を活力に輝いていく。舞台へと駆け上がっていく。それを眺めているだけで幸せだった。自分が『吸血鬼モンストルム』だということも忘れるくらいに。


 だけれど知られてしまった。魔術を使いすぎてしまったせいか。大好きな少女を怯えさせてしまった。危うく冤罪で死なせてしまうところまで発展してしまった。

 劇場で、もしも、私立探偵がいなかったならば。それを考えただけで恐ろしくなる。きっと少女のために、あの男を殺していた。舞台の上で勇者であった男を殺害していた。

 もうそれほどまでに少女が好きな『化け物モンストルム』として戻れない場所に来てしまった。帰る場所などなかったはずなのに、帰りたい場所ができてしまった。


「……だから俺は『お前モンストルム』を殺す」


 口の端から伸びた犬歯を覗かせて、親指の腹を噛み千切る少年。血の玉を吐息で吹き付ければ、噴水のように溢れ零れるほど弾け飛ぶ。

 それが吸血鬼の魔術だと誰かが注意する前に、ロンダニア橋が血で真っ赤に染まる。夕焼けよりも濃い赤色に、意識を逸らされていた人間達も異常に気付く。

 石畳に浸透した血は橋を赤黒くも強固な鉄へと変化させていく。敷き詰められた石の隙間から弾丸のように飛び出た血が、宙に浮かぶ青い炎を消し去っていく。


 炎と血が相殺し合うのを見て、ジャックは舌打ちする。吸血鬼は人間から突然生まれる魔力偏重の中でも特に強力な『化け物モンストルム』だ。

 強い満月の光を浴びて変化する狼男、濃い魔力を込めた血を浴びて適応してしまった赤帽子とも違う。生まれながらの『脅威モンストルム』に対抗できる手段は少ない。

 その少ない手段の内一つ、人間が恐れと畏怖を込めて思い描いた死を知らせる首なしの騎士、デュラハンが蹄の音を響かせて前に出る。片腕には自分の頭、片腕には長大な黒い槍。


 特攻する槍騎兵の勢いは、長く頑丈なロンダニア橋を揺らすほど力強い。地上へと突き出る血の棘すらも踏み潰し、越えていく。水溜まりを突き進むように、血路を開く。

 エリックは迫る槍から目を逸らさず、少年として相応しい細く小さな腕をまっすぐに伸ばす。槍の刃先が手の甲を貫き、エリックの眼前で止まる。黒馬の勢いが弱まる。

 顔に自分の血を浴びながら、エリックは腕を上へとかざす。同時にデュラハンの体も愛馬と一緒に持ち上がり、槍を軸に串刺しにされたような体勢へと移行する。


「俺の人生は血塗れだ。なあ……俺に死を与えてくれよ。誰も犠牲にしない、孤独な死を」

「……いいだろう、ならばくれてやる」


 槍を少年の手から抜くことを諦めたデュラハンは血の雨を呼ぶ。赤黒い積乱雲が黒馬の尻尾から発生し、青い稲妻を纏いながらうねりを上げる。

 そして血の豪雨が全てを染めていく。気持ち悪いほど、死ぬほどの濃い魔力を込めた血の雨を浴びながら、少年は笑みを浮かべた。


「……足りない」


 血の雨が止まる。少年の体に張り付いた血が、霧へと変わっていく。逆さまの体勢になったままのデュラハンは腕の中で目を丸くした。

 相手の魔術に干渉する魔術。相手よりも魔力が上回っていないと不可能の技。そして覆された瞬間に、敗北は決定事項だ。

 霧から現れた血の槍三十本、それに馬ごと体を貫かれてデュラハンは沈黙する。垂れ下がった腕からは頭が橋へと音を立てて落ちていく。


 磔のように見世物にされたデュラハンの横を歩き、橋の上に転がる頭を踏み越えて、吸血鬼エリックは『不死の化け物モンストルム』へ近づく。

 彼の体に最早傷はない。血も一滴たりとも残っておらず、街角で走り回っている少年と変わりない姿のまま、口から突き出た犬歯を剣のように見せつける。

 しかし物怖じしない態度でジャックは微笑む。それもどこか朧気な記憶から思い描いたあやふやな物であるが、確かに笑っていた。


「素晴らしい。これならば悪逆なる偉大な鬼火イグニス・ファトゥスを熾すには充分だ」

「そんなもので街を地獄に変えようとしてるのか?」

「そうだ!! この世の地獄!! 我ら『化け物モンストルム』に相応しい夜を永久に!! 朝は来ない!! 黒煙が全てを埋め尽くしている!! 底冷えするほど愉快な夜を悠久に!!」


 ジャックの手の中にある吊り下げ灯カンテラが燃え盛るように輝く。青く、どこまでも青く。酸素を奪い尽くして極限までに熱く燃える。

 石炭から新たな青い鬼火ウィルオウィスプが生まれ出でる。笑い声の代わりに火花を散らして次々に数を増やしていき、あっという間に血の散弾に消されていく。

 赤い血と青の炎が橋の中央でせめぎ合う。しかしながら炎の勢いが夕焼けが沈むほど強くなっていく。街角で灯る南瓜の提灯も少しずつ明度を上げている。


「この橋に、今日!! 私を呼んだのは間違いだったな……古来の年の節目、愉快で、恐ろしくて、全てが混じって世界に流れる魔力が乱れる日……十月三十一日ハロウィーンなのだから!!」

「世界の基準を餌に、燃え盛る煉獄の石炭……世の乱れが激しくなればなるほど、その勢いを増すということか?」

「御明察!! それでは潔く、倒れてくれ給え」


 地獄の業火を宿す石炭は、地獄が繁盛すればするほど燃えていく。では地獄が盛り上がる時、それこそ人の世が荒れる頃合い。祭日ですら同じことが言える。

 特に年の節目は境が曖昧になりやすい。死者が蘇るとも噂される夜は、世界が最も乱れる日に相応しい。それを証明するが如く、煌々と燃え盛る炎が血の散弾を壁として呑み込んでいく。

 青い炎の壁が眼前に迫る中、エリックは橋に浸透させていた血を全て集め、滝を逆流させるように炎の前へと吹き出した。勢いのある血の壁が、一瞬にして薔薇の花弁になり、炎へと変わる。


 青い炎と赤い炎がぶつかる。どちらも前に進めず、後退することもできず、ただひたすらにロンダニア橋だけでなくダムズ川すらも光の色で染め上げていく。


「なるほど。炎は炎を燃やせない。可燃物が皆無なれば、意味がないと?」

「……」

「甘い!! 甘い甘い!! 透明紙セロファンに包まれた飴玉が苦いほどだ!! 地獄の炎はそこまで生温くない!!」


 赤い炎を青く染め上げて、鬼火は吸血鬼へと突き進む。少年が唇を歯嚙みし、血を一粒流した直後だった。

 黒く細長い物体が少年の背後から真っ直ぐに飛んでいき、彼の横を通り過ぎた上に鬼火の壁を物ともせずに通り抜けて、哄笑を上げていたジャックの頭に突き刺さる。

 事態を静観していた『化け物モンストルム』達は驚く。地獄の業火、その化身である鬼火で燃えない物質があるとは知らなかったからだ。


 ジャックの手から吊り下げ灯カンテラが離れ、橋の上を回転しながら滑っていく。少年も驚いてジャックの頭に突き刺さった黒い物体を注視する。

 そして思い出すのは酷い空腹感。ジャック自身も口から涎を零し、腹の虫が大合唱している。忌ま忌ましいと言わんばかりに、突き刺さった物を引き抜いて川へと投げる。

 しかし意志を持ったようにそれは橋の支柱にぶつかって、上へと戻っていく。その動きを目で追いかけていたエリックは間抜けな声が出そうになった。


「約束の時間ですわ。ここからはわたくしも参加します。よろしくて?」


 上空から手の平へと吸い込まれるように、黒の杖刀は紫魔導士ユーナの元へと戻る。背後には車椅子に座ったカナンと、それを押すシェーナの姿。

 エリックは顔を歪めて叫びそうになった。どうしてシェーナがここにいるのか、何故連れて来たのか。怒りで問い詰めたいことは津波のように頭の中で押し寄せてくる。

 しかしそれ以上の絶望があった。知られてしまった、自分が『化け物モンストルム』であると。そして暗示の魔術も間に合わない。少女が自分へ向ける目が怖くて、顔を俯かせる。


「あー、やっぱりこうなったかぁ。やっぱロゼッタんのところでアルトんが借家ギルドホームに帰るのを見たっていうの聞いて確認したんは間違いやったなぁ」

「ええ、どうやら野蛮猿はどこかの酒場パブで楽しく騒いでいるでしょう。それよりもここまで予測していたっていうのが、末恐ろしいですけど」

「あのぉ、本当にあの男の子が私の幼馴染み? のエリック? ……全く覚えがないんですけど」


 シェーナの戸惑う声にエリックは拳を強く握る。暗示の魔術を行使していない状況ならば、エリックとシェーナは他人。シェーナには幼馴染みの記憶など皆無で、顔も覚えていない少年がいつも傍らにいたくらいしか認識していない。

 今もエリックの顔を眺めて不思議がっているシェーナの表情に、エリックは声が詰まっていくのを感じる。ずっと嘘をついていた。暗示で、騙していた。

 橋の周囲では警官隊が人々を誘導し始め、表立った役職の者達が拳銃を構えながら橋の上へと近付く。いつものロンダニア橋らしい、混雑した状況へ戻っていく。


 ジャックに付き従っている『化け物モンストルム』達は動揺する。人間は大好きだが、姿を現すのは別の問題だ。醜いと罵られるだけで、死にたくなるような恥ずかしさを味わったのは一度や二度ではない。

 好きだからこそ本当の姿は見られたくない。嫌われたくない。愛されたい。警官隊から一人の外勤主任が飛び出る。その間にジャックが橋の上を転がった吊り下げ灯カンテラを拾い上げる。


「ユーナくん、一体なにが……っ!?」


 飛び出てきたコージは直進方向を遮る青い炎の壁に驚いて足を止め、顔面を毛むくじゃらな犬の脚で潰される。蹴られた勢いのまま警官隊へと逆戻りし、警官を数人巻き添えにする。

 青い炎の壁の前で一匹の狼男が立ち塞がる。目の前の異様な姿に、一般人から悲鳴が上がる。気持ち悪いと、あり得ない姿に向かって当たり前の感想を叫ぶ。

 潰れた顔を白魔法で即時に治したコージは狼男が立っている姿に驚きつつ、その『化け物モンストルム』が着ている衣服に着目した。


「……黒鉄剣隊の、ズボン?」


 公ではないが国が強力な戦力を雇うことは多々ある。中世の海賊も同じ事情で、国が密かに利益を受けていた面が強い。コージが呟いたのは、アイリッシュ連合王国の中でも最も悪徳なる隊の名前。

 魔導士としての資格を有さない黒魔導士の集団、違法者の溜まり場、最底辺の穴。世界で七人しかいない最高位魔導士の一人、黒鉄骨の魔剣士ヴラド・ブレイドが頭を担う傭兵ギルド【剣の墓場】が保有する戦力の一つ。

 クイーンズエイジ1853のクリオネ戦争で最も犠牲が出たと言われる隊の名前。それを象徴する衣服を纏った狼男は、器用に笑みを浮かべた。


「懐かしい名前だ。多くの仲間が死んでいったあの日を思い出す。黒煙が立ち込める中、月だけが真っ赤に輝く夜が……今も俺を『化け物モンストルム』として縛る!!」


 火を噴く拳銃の群れにも怯えず、ワーウルフは石畳を蹴り上げる。空中に浮かんだ無防備な体勢から、黒い森で響き渡る狼の遠吠えを繰り出す。人間の鼓膜が破けそうになる大音量。

 撃ちだされた銃弾すらも遠吠えによって震え、軌道がズレていく。コージは近くにいた若い警官を突き飛ばし、自分の体を盾にワーウルフの前に出る。巨大な口に生え揃った牙が生温かいと感じる距離。

 コージの影から数匹の犬が姿を現す。影と同じ黒い体、顔のない群れ、その口には刃物や散弾銃が咥えられている。ワーウルフは毛が逆立つのを感じたまま、体を回転させながら後ろへ距離を取る。


「この犬達は……ヤシロか!?」

「近所の奥方から苦情クレームがきた。ロンダニア橋の騒ぎはまたそちらの仕業かい、とな。いい迷惑だと思ったが……本当にその通りとはな」


 疲れた顔で犬達と同じようにコージの影から姿を現す燕尾服の執事少年。伸びた前髪から覗く金色の瞳だけが油断なくワーウルフを眺めている。

 ただしコージはいつの間に仕掛けを施したのかと自分の影を触るが、どう触れても石畳の感触しか返ってこない。真後ろの呑気なギルドリーダーを放置し、ヤシロは指を鳴らす。

 橋の上にあるあらゆる影から黒く顔のない犬達が這いずり出てくる。青い炎に照らされている場所において、影は際限なく現れる。その数は優に百を超えていく。


「……ヤシロ? お前、ヤシロなのか!? まだちっこいのか、お前!!?? 成長期はどこにいった!?」

「自分を知っている黒鉄剣のクリオネ戦争関係者……行方不明だとするならば、ミッドガルか?」

「おおおおお!! まさかこんな所で会えるなんて、夢にも思わなかったぜ!!」


 突如ヤシロに対して友好的に両腕を伸ばす狼男に対し、警官達は判断に迷う。狼男を撃つか、それとも仲間の疑惑があるヤシロを捕獲するべきか。

 コージが警官達に指の動きだけで撤退を命じる。最初はコージの気の迷いかと考えた警官達だが、次の瞬間に頭上を通り過ぎていく数本のナイフに背筋が凍りつく。

 燕尾服の袖、襟元、内ポケット、ベルト、自らの影さえも収納庫とした武器保有者であるヤシロによる、乱雑ながら狙いを外さない武器投擲の姿。そして投げられた全ての武器を爪で払い、歯で噛み砕くワーウルフ。


「本当……最高だ!! お前と殺し合えるなんて、最高の夜だ!! 長生きするもんだな、ヤシロォッ!!」

「自分としては最悪だ。昔の身長を知る奴に出会ったからな……悪いが、今の仲間のためにお前を倒すぞ」

「いいねぇ!! 御頭の矜持を思い出すぜ!! 敵も味方も殺して生き残れ、剣の墓場を積み上げろ!! 最低の俺達にお似合いの、最高の言葉だ!!」


 青い炎の壁を飛び越えて様々な『化け物モンストルム』達がヤシロと警官達に飛びかかってくる。ワーウルフの遠吠えに従うが如く、一つの群れとなって攻撃を仕掛けてくる。

 羽根を持った敵の足に数匹の犬が噛みついて錘に、地を這う敵の頭は数で踏み潰す、真正面から向かってくる敵には首筋を噛んでから振り回す。影の犬と『化け物モンストルム』が入り乱れる。

 その中央で戦うヤシロとワーウルフにおいては、一騎打ちの体すら形成されていない。相手の武器を奪い、飛んできた味方や敵の体を盾にして防御し、ただひたすら心臓と頭を狙って手段を変えていく。


 人間が割り込める戦いではない。警官達はコージの撤退指示の意味を理解し、近辺から見学している住民の避難に努める。適材適所とはいえ、悔しいが従うしかない。

 コージも指示を出した身として橋を離れる。騒動の行方をユーナに任せる。ただ少しばかりの嫌な予感を覚え、静かに振り向いた直後に飛んできたナイフで右耳が橋の上に落ちた。

 慌てて自らの耳を拾い上げて白魔法で治癒しながらも急いで離れる。下手な拷問よりも恐ろしい状況に拍車がかかり、コージは若干涙目になった。

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