EPⅡ×Ⅶ【首なしの後悔《dullahan×regret》】

 二階の居間パーラーへと続く階段。そこを迷いなく進んでいったユーナは、小型暖炉の前で車椅子の周囲に本を積み上げたカナンに視線を向ける。

 コーヒーと紅茶の準備を終え、夜食を作り始めているヤシロの姿はここにはない。火が爆ぜる音だけが耳に響く午前零時。ロンダニアの街は暗い霧の中で眠る時間。

 ユーナが近づいて試しに一冊を持ち上げれば、女性に贈る花束についての本。他には植物図鑑や花言葉、世界樹の伝説や寄生木ヤドリギの伝承など。雑多ながら緑に関する本が置かれている。


 膝の上に厚手の毛布を乗せたカナンは、ユーナが来たことに気付きつつも本を読むのを止めない。穏やかな様子で、静かに頁をめくる。

 ユーナも備え付けのソファに座って本を手に取る。ただしカナンが頁を捲る本ではなく、愛読書であるカロック・アームズの一冊であるが。

 霧で冷える窓を隠すカーテンの向こう側は、十月の終わりに相応しい寒々しさを漂わせている。ぶら下がり宿では風邪が流行る時期だ。


「……雨が降りそうやん。足が痛む」

「あまり無茶をなさらない方がいいと思いますわ。で、わたくしが走り去った後で、なんの情報を掴んだのかしら?」

「大したことやない。ムルムんが言っていたシェーナんへ薔薇を贈る人についてと、棺桶をちょこっと年代調べたくらいやん」


 充分な気がするが、カナンとしては物寂しい結果らしい。暖炉の火に照らされた横顔に、少しだけ憂いが混じる。

 そういえば照明係のムルムがシェーナに物を贈る人が存在すると聞いていたのをすっかり忘れていた、とユーナは改めて思い出した。

 ブラウニーがいた道具部屋の床下からわずかに露出した棺桶の角も同様だ。カナンはユーナが去った後、一人でその二つを調べたようである。


「土に埋まってたから具体的な年代はわからんけど、ざっと二百年前の装丁やった。ロンダニア大火の際に流行ったデザインでな、ライムシア劇場ができる前から土中にあったと推測できるん」

「つまり棺桶と劇場に関連性はない、と。植物図鑑については、薔薇の人についてかしら?」

「せや。シェーナんにどんな花束なんと聞いたらな、五本の薔薇。しかも一本ずつ違うと言う入れ込みっぷりや。モテモテで羨ましいわぁ」

「情熱的な人なのですね。どんな内容か教えてくださいな」


 カナンは五本の薔薇について話し始める。二つは蕾、三つは咲き誇るように満開。赤と白の蕾の内、赤には葉が一枚付いている。

 黒赤、帯紅、可憐な桃色と、鮮やかな花弁は見事と言うしかない。小さな花束ながら、百本の薔薇にも負けない想いが込められているように見える。

 実際にその花達を押し花にして持っていたシェーナから実物を見せてもらい、カナンはそんな印象を抱いていた。


「いやー、見てる方が照れるような花束やったんけど、これが調べてみたら赤面物でなー。本当……困ってん」


 突如真剣な顔で本を閉じて考え込むカナン。深夜だと言うのに欠伸一つせず、眠る様子も見せない。しかし興奮しているわけでもない。

 ただひたすら冷静に、理性を閉じ込めていくような眼差し。ユーナは読んでいる振りをしていた本を閉じ、小さく抑えた声で呟く。


「気付いていますのね」

「ユーナんがヒントくれたからやん。僕は正義の味方やない。せやから迷う。これじゃあ迷探偵やな」


 茶化すように笑うカナンだが、顔色は冴えない。何度も手の平で膝上を擦り、額から一粒の汗を流している。

 そこへパンにバターを塗って夕食の残りの鶏肉を挟んだだけのサンドイッチを皿に載せたヤシロが部屋にノックもなしに入ってくる。

 両手が皿で塞がっているとはいえ、声くらいかければいいと普通の紳士淑女は思うだろうが、彼は普段から合図もなく部屋に入る似非執事である。


「今度はどんな厄介事だ? あまり借家を留守にされても困る。仕事がない」

「ヤシロんは吸血鬼について知ってるん?」

「……詳しくは知らん。しかし話には聞いたことがある。狩人に知り合いがいてな」

吸血鬼専門狩人ヴァンパイアハンターと!? ヤシロんの人脈も謎やな」


 ヤシロから手渡された皿からサンドイッチを摘み上げ、咀嚼する前に驚きの声を上げたカナン。

 さすがのユーナも目を丸くし、さすがは元裏社会の暗殺者として活動していた経歴だと納得するしかない。

 肝心の本人であるヤシロ自体は淡々とした表情のまま、空いたコーヒーカップに新しい分を注ぎながら話し始める。


「多くの吸血鬼は『偽物レリック』らしいが、時折人間の中から『本物モンストルム』が生まれるらしい。突然変異……だから理解されない」

「そんな区分なんか。そんで『本物モンストルム』にはなにか特徴があるんか?」

「……繁殖能力がない。要は……増えることができないんだ。奴らが使える魔術でも不可能だ」

「それは初耳ですわ。でも考えてみれば、もしも増やすことが可能ならば、もう少し目撃情報があってもいいのかもしれませんわね」


 ユーナの呟きにヤシロは小さく頷く。暖炉に薪を足して、最近調子が悪くて使えない蒸気機関暖房器に近付いて工具箱を取り出す。


「奴ら『本物モンストルム』は体内の魔力が偏重した赤ん坊が、運悪く生き残ったようなもの。相手を同じにしようにも、人間の体では耐えられない偏重加減らしい」

「……誰か試したんやな。自分も吸血鬼になれないか……いや、仲間が欲しかったんやな……」


 カナンの言い直しには反応しないまま、ヤシロは蒸気機関暖房器を軽く解体し始め、内部の錆や汚れを取り除いていく。

 生まれながらの孤独。周囲に蔓延る多くの命、人間、社会、その全てとは仲間外れの最初。しかし人間に育てられていく最中、感性は人間に近付くだろう。

 そしていつしか気づくだろう。自分は違うのだと。魔術で相手を自分で同じにしようと考えても、叶えることはできない。


「多くは耐えられずに自殺する。残りはなんとか生き残ろうと動いても、迫害され、虐げられ、それでも生きようと足掻いて……絶望する」

「わかった。ヤシロんが知り合いのことを狩人やと言うただけの理由。その人は専門家やない、本当の吸血鬼でありながら狩人をしてるんやろ?」

「……正解だ。奴は稀有な大馬鹿だよ。人間が好きで、諦めたくないと笑って……子供を助けるために死んだ。体の回復が間に合わず、呆気なくな」


 作業の手を止めないヤシロは一切の感情を見せずに言い切った。事実をそのまま口にするような、事務的な声で。

 カナンとユーナは押し黙る。人間が好き、そんなことを宣った『化け物モンストルム』を思い出したからだ。愛されないとわかっているのに、好きなのだと。

 報われないと理解しているのに、愚かなほど信じている。合理的ではないし、無意味なことだと呆れてしまう者もいるだろう。それでも心の中で燻るように、残るしこり。


「自分が知っているのはそれくらいだ。力になれたか?」

「……ええ、大いに。ありがとう、ヤシロさん……ところで、暖房器は直りそうですか?」

「無理だろうな。あと二週間、いけるかどうかだ。その頃にどうせまた一悶着起こすのだろう? 制作ギルド【唐獅子】に相談することだな」


 冷静なまま的確な判断を下したヤシロは、応急処置の内部掃除を終えてから工具箱を元の場所に戻す。そして次に空いた食器を片付け始める。

 昔からの癖らしく、ヤシロはあまり睡眠を取らない。延々と動き続ける。働き者と言えばそうだが、仕事中毒者ワーカーホリックとして周囲が心配する働きぶりだ。


「んー、じゃあ僕もちょい寝ようかな。明日は起きたらシェーナんの近所周りに挨拶するわ。ついでに探偵宣伝もな」

「そんなことしなくても好きなだけ依頼がくるでしょうに」

「助手募集やん。一番助手のバロックんが最近執筆であんまり助けてくれへんもん。さーびーしーいー」


 駄々をこねる子供のような口調を軽く受け流し、ユーナも借家の中に割り当てられた自分の部屋へと向かう。三階構造の、さらに上にある小さな屋根裏部屋。

 天井も低く、湿気も酷い場所だが窓が大きいため通気性は悪くない。壁は大窓以外は本棚になっており、出入り口は梯子で登る形式の四角の床穴である。ベットはなく、簡素な布製ソファがあるくらいだ。

 ソファの横には寝る時に軽く照らしてくれる鈴蘭型の小型照明ランプが置かれている、ユーナの作業室と研究室も兼ねている。本格的に就寝したい場合はハトリの部屋へと向かうのが通例となるほど、味気ない自室だ。


 カナンはおそらくもっとも整理されていて、部屋の主からも使用許可が出ているコージの私室で眠ることだろう。コージ自体が仕事が忙しくて中々帰ってこないというのもあるが。

 天井から吊り下げられた蒸気機関照明が、床上に置かれた茶色の旅行鞄トランクケースと、その中に入っている羽ペンや墨汁瓶インクボトルも照らす。

 服は自称メイドであるナギサが管理してくれているため、ユーナの部屋にはそれしかなかった。ソファの上に寝転がり、ユーナは小さく溜め息をつく。


 そのまま睡魔に任せて瞼を閉じる。火が爆ぜる音が遠くから聞こえてくるような、記憶にもないほど昔の夢をみる浅い眠りへと落ちていった。






 快眠絶好調なユーナは生欠伸をするカナンの車椅子を押して、シェーナが住むというライムシア劇場の近くであるルトランドに来ていた。

 馬車が歩道に半分乗り上げるほどに多い交通量、そして流されそうだと錯覚するほどの歩行者。古くからの商店が並ぶ商業街の一面も持っている。

 ルトランドマガジンを発行する出版社もあり、昔ながらの街並みと最先端が行き交う空間としても人気が高い。


 早朝でも混雑している通りを歩き、口から零れる白い息は冷たい霧に同化する。鼻が真っ赤な子供がお菓子を片手に走り回らないよう、母親が強く手を握っている。

 来る十一月五日のグイ・バッカス・ナイトに向けて叩き売りをする者もいれば、カメリア合衆国で流行となっているハロウィーンを押し出している店もある。

 民家から漂う昼食の準備である肉の匂いに腹の虫が反応しそうになるほど、あらゆる五感を刺激してくる場所でもあり、賑やかな所でもあった。


「ルトランドのカプソンズに寄り道したいなぁ。あそこのローストビーフは絶品やもん」

「確かに。でも今はシェーナさんについてでしょう? わたくしだって……ルトランドマガジンに今度のカロック・アームズについて載っているの見たくて仕方ないのに!!」


 新聞連載すると話題を掻っ攫っている小説の先行判、それが今度発売する雑誌に掲載されるという噂が流れているのだ。

 ユーナとしては早く事件を解決して好きな小説を読みたい気持ちで一杯であり、カナンはその様子に苦笑するだけである。

 民家が集まる地域まで来た際、走り回る子供達を世話するように頼まれたシェーナがユーナ達を見つける。子供達が逃げ出さないように抑えながらの体勢は中々勇ましい。


「カナンさん? それにユーナさんも! こんな朝早くにどうしたんですか?」

「ちょいっと聞きたいことあってん。エリックんはどこや?」

「エリック?」


 カナンの問いかけに応えようとしたシェーナだが、一人の悪ガキが背後からシェーナの胸を掴む。子供ながらの悪戯である。

 簡素なエプロンドレスを着ていたため、スカート捲りをする者も出てきてしまい、シェーナは子供達の世話に必死になる。

 そして約一名、無謀な悪ガキがユーナに迫る。しかしすぐに地面に這い蹲る。何故ならば、捲る必要もなく下から眺めてからかうことができる短いスカートだからだ。


「わ、このぺったんこどぅわぁ!!?? いってぇ……グーで殴りやがった!!」

「当たり前でしょう、悪戯小僧!! 女性の体を無闇に触れて侮辱するのは礼儀違反ですわ!!」

「ぺったんこは否定しないのかよ? やーい、つるぺたー!! 胸なしお化けー!!」

「むぎぃいいいいいい!!!! 鼻たれ小僧が、いい度胸ですわ……わたくしだって魔法や杖刀がなくとも、悪ガキ一人懲らしめることくらいできますのよ!! ていやぁっ!!」


 百歳越えとは思えない低レベルの争いに参加するユーナを、ある意味では微笑ましい、しかし生温かい目で見守るカナン。

 機械仕掛けの車椅子を蹴ってくる子供もいたが、カナンは優しく大人な対応するため即座に子供達が素直に従う。その格差は歴然であった。

 争いとは同じ位置の者同士でしか起こり得ない。それをものの見事に証明したのだが、ユーナの両拳はスカートの中を覗き込んだ子供の頭両脇から捩るように押し付けていた。


「いでててててて!! 痛いって、大人げねぇぞ!!」

「子供だからってなにしても許されるわけじゃありませんの! 覚えときなさい!! 全く……」

「おおっとぉ、団欒中悪いが何でも屋ギルド【紅焔】のリーダー、デッドリー様からそこの胸なしお化けことユーナとやらに……」

「――沈め――」


 意気揚々と道角から出てきた膨らんだエール腹の男、デッドリー・グルブンは一秒もせずに赤魔法で煉瓦舗装道路が沼となったように、下水道まで落ちていった。

 あまりの速さに誰もが幻聴かと疑うレベルだが、三十秒後に鋼鉄の蓋を押し上げて下水道直結穴マンホールから這い出てきた男が、ユーナに向けて真っ直ぐ指差す。


「おいそこの!! 毎回毎回、こういうのはどうかとおじさんは思うわけなんだけど、少しくらい話を聞こうという気概はないのか!?」

「ありません。消えてください。不快です」

「傷つく!! しかしこれでめげるほど軟じゃない!! 今回は伝言係だ! 少なくとも、喧嘩しに来たわけじゃねぇ! わかったな!?」

「――嫌です――」


 返事の言葉すら魔法の呪文として活用し、再度掴んでいた道が泥となったようにデッドリーの体を沈み込ませ、下から小さな衝撃が返ってくる。

 カナンがシェーナに子供達を家に帰すように指示しながら、三十秒後にはまたもや姿を現すデッドリー。その頑丈さにユーナは盛大な舌打ちをした。


「お願い、話を聞いて!! 大体ハトリちゃんやナギサちゃん、もしくはロゼッタちゃんでも可! けどお前には興味ないから、絶壁娘!!」

「わかりました。後で燃やします。いいですわね?」

「ふっ、そうこなくちゃなぁ……用件はこうだ! 今日の夕方、ロンダニア橋で待つ! ジャックより! わかったか?」

「ええ――とりあえず鎮火しにくい炎――」


 適当な内容でデッドリーを火達磨にしつつ、ユーナは考え始める。カナンもデッドリーについては知っているため、乾いた笑いしか零れない。

 シェーナは水をかけようと思ったのだが、その前にデッドリーは下水道へと落ちていき、盛大な水しぶきの音が聞こえてきた。そしてユーナは下水道直結穴マンホールを鋼鉄の蓋で塞ぐ。

 ついでだと上に重めの酒樽を三つほど重ね、絶対に出てこられないようにする。今は毎度のお騒がせ要因に構っている暇も余裕もないのだ。


「おそらく、今夜が勝負時。その前に邪魔者の始末ときましたか……しかし奇襲ではないあたりは好感が持てますわ」

「ここは普通焦るところなんやけど……ええっと、シェーナんに幾つか聞きたいことがあるんやけど、ええか?」

「あ、はい。劇場に出向く時間までは余裕がありますから。って、ユーナさんはどこに?」

「決戦前に心残りを消しておこうかと。カロック・アームズが載っているか、ここまで来たら確認しなくては」


 シェーナにはよくわからない理由で一人歩き出すユーナ。カナンが少し寂しそうな視線を向けるが、止めはしなかった。

 腰のベルトで固定している黒の杖刀を手で握りしめながら雑踏を歩んでいく。人に触れないように細心の注意を払いながら、少しずつ進んでいく道が細くなるのを確認する。

 最終的には路地裏にまで至り、太陽が届かない腐臭漂う場所へ。表通りでは人々が賑やかな声で今日の予定について歓談している。


 ハロウィーンのお菓子を求めて子供がやってくるかもしれない、家でお菓子を揃えて待機しなくてはという大人達の声。

 布の端切れを集めながら、人形を作りつつも仮装の準備を進める子供達は、大声でどんな仮装をするか話し合っている。

 しかし気が早い者はクリスマスの予定を組み立てるため、良い鵞鳥を手に入れようと肉屋の主人と相談しており、そういう物は予約で終わったと諭されている。


「血の臭い……消してから隠れなさいな」


 振り向かないまま、細い路地裏に誘い込まれたレッドキャップに声をかけるユーナ。背後から襲うとした老婆は、動きを止める。

 昼間の空気どころが、夜でも朝でも、時間に関係なく吐き気を催すような臭いと外見の老婆は歯を鳴らす。不快な音が路地裏で静かに響いた。


「ぎひっ、ぎひひ、ぎしししししししし!! 昨日はお世話になったねぇ……お礼参りに来てやったんだ、血を流して喜びな!!」

「それよりも尋ねたいことが。貴方……人間、でしたわね?」


 背中を向けたまま問いかけたユーナに対し、レッドキャップは笑みを深くしていく。タップダンスに似た動きで、鉄製の靴で石畳を打ち鳴らす。


「よくおわかりで。どこで知ったんだい?」

「貴方の血の臭い……正しくは血の魔力。昨晩、同じ物を浴びましたから」


 体全てを染め汚していく血の雨。通常の人間では耐えられないであろう程濃い魔力が込められた、魔術。下手すれば酸素中毒のように、死に至る。

 しかし万が一、という確率がある。もしも、あの血を浴びて中毒者として生き残ればどうなるかをユーナは考えた。後天性の『化け物モンストルム』が生まれるのではないかと。


 婆捨て山から派生した山姥の伝説が語るように、条件が一致すれば『化け物モンストルム』は容易く姿を現す。恐ろしいくらいにあっさりと。

 血を欲する老人。伝説では性別は語られない。だからこそ老婆でも該当する。血を浴びて真っ赤に醜くなった老人、運悪くも合致してしまい、順応した女。

 赤く濡れた髪、帽子、体を纏う布切れ、元の姿など想像もできないほど醜悪な外見。しかしレッドキャップは嬉しそうにはしゃいで語り出す。


「あたしゃあ、生まれ変わったのさ。長年連れ添った爺さんが余命幾許もないと言われたあの日、誰かが扉を叩いた!! そして視界を埋める美しい赤黒さ!! 目が覚めた気分だった!!」

「……」

「静かに寝ちまった爺さんを何度も斧で斬った! 潰した!! ああなんで!? なんで!? だってあたしゃあ……飛び散る血が見たかったのに!! あの爺、血が少なかった!! あたしゃあの体くらいしか染められなかった!! 化粧にもなりやしない、役立たず!! ああ、役立たず!!」


 歓喜と憤怒を混ぜ合わせた金切り声。聞くに堪えない内容。ユーナは小さく溜め息をつく。そして杖刀を鞘に収めたまま、構えを取る。

 静かにレッドキャップへと振り返る。血で固まった長髪を伸びた爪で掻き乱すほど、散らばっていく赤い粉末。乾いた血が砕けていく汚らしい光景。

 煙と工場排水で汚れたロンダニアの中でも忌避する場所よりも数倍、嫌悪を抱くには充分な姿。しかしユーナが怒りを覚えたのは、別の部位。


「そんな『おぞましいものモンストルム』になったとしても、人間を愛し、慈しみ……見守ることはできたでしょうに」

「お説教かい、小娘がぁっ!!?? 人間なんて皮に入った血袋!! あたしゃあを美しく満足させることしかできないに決まってんだろ!!」

「……下劣な外道。少しは同情しようとしたわたくしが間違っていました。貴方はここで叩きのめします」

「これだから人間は!! ああ、嫌だ!! 早く街が燃えればいい、真っ赤な炎の中で、真っ赤になった人間の真っ赤な血を浴びたい!! それだけでいい!! それがいい!!」


 枝のように細い両腕それぞれに、一本ずつの血で錆びた斧。建物の外壁にぶつけて傷つけるのも厭わず、逃げ道を奪うように両腕を広げて突進してくるレッドキャップ。

 声もなく赤魔法で炎を飛ばすユーナだが、一切止まらずに炎の中から姿を現す老婆は、目の前に誰もいないことに驚く。炎を潜り抜けた先に狙いの少女が立っているはずなのに、と動揺する。

 弧を描くようにその場で回転し始める。後ろや前、あり得ないとは思いつつも横からの攻撃を危惧しての行動。煉瓦の壁が鰹節のように削り取られて散らばっていく。


「貴方の過ちは一つ」


 頭上から聞こえてきた声にレッドキャップは迷いなく一本の斧を投げる。斧の刃先が向かう先に、壁を蹴って飛んでいたユーナがいる。

 しかし斧は黒い杖刀の一振りで軽く砕けた。回転するのを止めてレッドキャップは舌なめずりしてユーナを待ち構える。狙うは血が最も溢れる臓物が集まる腹。

 白いコートが赤く染まることを想像するだけで恍惚を感じながら、レッドキャップは垂直に落ちてきた杖刀を斧で受け止める。しかし一瞬は持ち堪えたものの、斧の刃にひびが入る。


 黄色く濁った目を驚愕で染め上げながら、二の足で踏ん張るレッドキャップだが、重力とユーナの重さが加算された杖刀の一撃は重い。

 ユーナではなく自分の血で赤く染まるのを想像した老婆は、恐怖した。自分勝手な恐怖で、死にたくないと体が震え始める。頭の中では死という単語が思考を潰していく。

 文字に埋め尽くされてブラックアウトしそうな脳内に、静かながらも鋭く貫く流れ星のような声が響く。一種の魔法の呪文へと姿を変えた言葉に。


「――人の心を捨てたこと、後悔しなさい――」


 斧が砕ける。同時に杖刀がレッドキャップの肩を強く抉る。急激に吸われていく魔力に、悲鳴すらも搾り取られていく。

 レッドキャップは虚しくも手を伸ばす。助けてほしい、誰か助けてほしい。そう願いながら強く眼前へと手を伸ばし続ける。

 黒い影が近づく。それは次第に大きくなっていく。まるで死が形になったような、奇妙な錯覚。しかしレッドキャップは安心した。


 荒々しい蹄の音と共にデュラハンが現れる。首なし馬の胴体でユーナの体を弾き飛ばし、首を掴んでいない手でレッドキャップの体を掬い上げる。


 それは異形の姫を救う騎士のようにも見えて、地面を転がったユーナは舌打ちしたくなる。すぐさま起き上がり、油断せずに杖刀の先端をデュラハンに向ける。

 レッドキャップは大粒の涙を流す。何度も感謝の言葉を吐き出し、魔力を奪われた際に溢れ出た涎を手の甲で拭う。小柄な体のレッドキャップを抱えたまま、デュラハンは一切言葉を発さない。

 夜闇を溶かした黒の鎧。首の断面は霧にも溶けないほど濃密な黒い煙が零れている。抱えている首すらも鎧兜のため顔を見るのは叶わないが、体格からは五十代の男性と思われるほど大柄だ。


「ありがとう……ありがとう、デュラハン……ぎし、ぎひっしししししししし!! これで形勢逆転だねぇ、小娘!! っ??」


 味方が来たことに安堵したレッドキャップは意気揚々と大声をあげた。その瞬間、腹から突き出た黒い刃に息を詰まらせる。


「な、ん……で?」

「ずっと『醜い存在モンストルム』になった君を、安らかな眠りに誘いたかった」


 震える手で刃を掴む。冷たい感触は知っているものだ。今も安心感を覚えるほど頼もしい、デュラハンの黒い鎧と同じ質感の鋼鉄。

 恐る恐るレッドキャップは振り返る。しかしその前に刃が腹から抜き去られ、体ごと意識が沈む。石畳の上に血塗れになった小柄な老婆が叩きつけられた。


「……彼女は、元は美しい女だった。老いても、色を変える穏やかな美しさがあった」


 抱えられた首が石畳の上で真っ赤な花を咲かせた老婆を眺める。両腕と両足は広げた状態で、大輪を形作っているのを表現していた。

 衝撃で零れ出た目玉が排水口へと落ちていく。伸びた歯の隙間からはみ出た長い舌、落下の衝撃であらゆる方向に折れ曲がった体躯。元の姿など想像もつかない。

 後天性であったため、ブラウニー達のように消えることはない。人間の体が偏重した魔力のせいで変わっただけの、実体を持つ存在だったのだから。


「彼女の伴侶が死ぬ時、私はいつもよりも多くの血を彼女に浴びさせた。気持ち悪いほどの『私という化け物モンストルム』の想いが届けばいいと、愚かにも願った」

「……そして彼女は変わった。貴方と同じ『化け物モンストルム』に」


 たった一度の邂逅で良かった。恐怖して、記憶に刻み込まれるだけでも良かった。血を浴びせることでしか、隣人の死を伝えることでしか、近寄れなかった『化け物モンストルム』がいた。

 万が一、それが起きてしまった。純粋な想いが生んだ奇跡というには禍々しく、悍ましいほどの結果を伴って。美しかった老婆は血に塗れ、人を殺し、醜くなっていった。

 それでも見守ろうと耐えてきた。我慢して、忍んで、想いを潰して、限界が来た。どうしても『赤帽子の彼女モンストルム』を愛せず、思い出の中に眠らせようと機会を窺っていた。


 生涯連れ添った伴侶が息絶えたことを後悔しないような女ではなかった。やはり彼女は死んでしまったのだと、デュラハンは諦めた。自分のせいだと、震える手で始末した。

 レッドキャップが強いのは知っていた。真正面から挑めば苦戦は強いられる。それ以上に手が震える。どんなに血塗れでも、瞼の裏に人間の姿で笑っている女性がいたから。

 手を汚したデュラハンは姿勢だけでユーナに謝礼する。下げるべき頭は腕の中にあるため、腰を曲げて示すしかない。そして感謝の代わりに、ヒントを口にする。


「人間は好きだ。しかし『我々モンストルム』は願う。人間がいなくなればいいと。こんな辛いことが起きないように、嫌われないように、好きだからこそ滅ぼしたいと祈る」

「……臆病なのですね。しかしジャック・オ・ランタンに賛同する理由がわかりませんわ」

「理由は簡単だ。奴こそが最も人間を愛して憎んでいる。だからこそ確実な方法で人間を燃やしてくれる。そう信じているのだ」

「そんなに話すとは、貴方も実は期待しているのでしょう? ジャック・オ・ランタンを止めてくれる存在が現れることを」


 ユーナの言葉に返事しないまま、デュラハンは姿を消す。首のない馬が嘶きをあげた際、石畳の上にあったレッドキャップの体は、ぶちまけられた血ごと全てがデュラハンの行進に合わせて飛んでいく。

 郊外へ向けて空を駆るデュラハン。人が多い街中ではなく、人知れず静かな場所で埋葬するのだろうとユーナは考える。そして再度戻ってくるだろう、大好きな人間を滅ぼすために。

 もう少し素直な接し方をすればいいものをとユーナは呆れつつも、カナンが待っているであろう場所へと足を向けた。

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