EPⅡ×Ⅸ【機械仕掛けの車椅子《gimmick×chair》】

「本当にヤシロんの人脈も謎やし、コージんも相変わらずの被害者体質やなぁ。シェーナんはなるべく機械仕掛けの椅子ギミックチェアから離れたらあかんよ?」

「は、はい! それにしても……ユーナさんはいいんですか?」

「僕達がユーナんの傍にいたら邪魔なだけやん。なにせユーナん自体の強さもあれやけど、杖刀が頼もしすぎるん」


 車椅子の背もたれにくっつくように立つシェーナに対し、橋のあらゆる場所に視線を向けるカナン。ジャックの背後にいる『化け物モンストルム』達はヤシロを倒すため、三分の一まで減った。

 それでも広さで有名なロンダニア橋の道を塞ぐには充分な数が残っている。吊り下げ灯カンテラを片手に、ジャックはエリックの横まで歩み寄ったユーナに鋭い視線を向ける。


「何故ここにいる? デュラハンの雨を受けて、まともでいられるなんて……」

「正直浴びた直後は二日酔いかと思うほど体調悪化しましたが、なにか? ていうか、呼んだのはそちらでしょう?」

「……謀ったな、吸血鬼」


 ジャックの視線がエリックへ向けられる。ユーナも横へと視線を動かすが、少年は平然とした態度で素知らぬ振りをする。


「ま、どうでもいいですわ。レオファルガー広場での雪辱……お気に入りのコートを汚した罪をここで償ってもらいますわよ」

「全く同じコートを着ているようにしか見えないが……」

「淑女たるもの着替えは用意している物ですわ。こだわりは繊維!! あれは高品質の天然素材でしたのよ!!」


 人差し指を迷いなく伸ばすユーナに対し、ジャックだけでなくエリックやシェーナも呆れ果てる。人を指差してはいけない、というのは淑女として当たり前の常識である。

 しかし相当怒りが沸騰しているらしく地団太まで踏む始末である。足で石畳を叩く都度、橋が揺れるのは錯覚であってほしいとカナンは苦笑いになった。


「それにどんな理由があろうとも、わたくしは貴方を許しません。一発は確実に殴らせてもらいます」

「おお、怖い怖い。では殴打される前に消し炭にしなくてはなぁ……この橋の上では、巨大な破滅竜は姿を現せまい」


 ジャックが幽霊の正体見たり枯れ尾花と言わんばかりの笑みを浮かべる。地面よりも薄い橋上、下にはロンダニアを横断するダムズ川。

 地中から突き破るように現れる巨竜。その姿を見た時から、ジャックには破滅竜が限定された条件下でしか呼べないことを見抜いていた。

 そして破滅竜の炎もなしに煉獄の石炭から排出される鬼火に対抗する術を、ユーナが持っているかは半々。好機だと、ジャックは笑みを深くしていく。


「――ごくごくとごくり、滝を呑み込む蛇は長き胴体を海まで伸ばす、虹色の鱗は水飛沫で輝く、美麗なるその体は激流となって我らを襲う!! 罪すらも洗い流す罰を受けよ!! 洗礼は彼の者が与える!!――」


 青い炎が大口を開けて肌を薄く焼く距離において、ユーナは一息で長い呪文を吐き出す。ダムズ川から巨大な気泡が発生した直後に、長大な水柱が藍色に変わりつつある夕焼け空へ立ち昇る。

 蒸気機関による浄水が行われたダムズ川、それよりも透明度が高い水の蛇、一切の生命を許さない美しい真水が意志を持って炎へと向かって伸ばされる。莫大な水蒸気が視界を覆う。

 触れるだけで火傷しそうな熱さの蒸気を浴びてなお、ユーナの目は青い炎が輝く吊り下げ灯カンテラを直視する。彼女の横をジャックの指示で『化け物モンストルム』達が通り過ぎていく。


 狙うは吸血鬼、その弱点。白い視界でも迷わずにひ弱な少女が立っている場所へと足を進める。この蒸気に埋め尽くされた中では、人間は動けない。

 しかし水の壁にぶつかり、少しの衝撃と一緒に冷たい息苦しさに目を回す。車椅子に座ったカナンが左肘掛けのタイプライター型操作盤を動かしているのが見えるほど、鏡よりも光を透す水。

 水が動く。視界に溶け込むほど透明な水蛇が、車椅子を中心に二人の人間を守るように蜷局とぐろを巻いている。少女を狙っていた『化け物モンストルム』は全て呑み込まれていた。


 滝の轟音に近い蛇の声。それを発すると同時に蛇は体内の水を荒々しく動かし、激流となって『化け物モンストルム』達をダムズ川の水面へと叩き落とす。

 しかし所詮は水だと、魚の形をした『化け物モンストルム』は蛇の体内を泳ぎ始める。その眼前に、爆薬が詰め込まれた小型の筒が破裂する。花火よりも破壊力のある、殺傷目的の兵器。

 カナンの傍に立っているシェーナが、耳を塞ぎながら口を開けて放心している。休みを与えないようにカナンは操作盤に次々と文字を打ち込んでいく。


「ほんまはロケットパンチ搭載したかったんやけど、実現と威力不足言うてマグナスんと二人で嘆いたん……せやけど、これはこれで乙な物やろ?」


 笑顔で少年心を忘れないまま、カナンは機械仕掛けの車椅子ギミックチェアから小型ミサイルを撃ち出していく。蛇の体内に潜った魚型の『化け物モンストルム』達は急いで回れ右をする。

 いくらなんでも人間が作った兵器を、魔法を受けながら迎え撃つのは無理な話である。なにより車椅子にそんな機能を付けている、目の前の人間への恐怖が勝る。

 常識外れの仕掛けを車椅子に施しているカナンは、相手が戦意喪失したのを確認してから、改めて周囲の状況を見回して思考を継続する。


 ロンダニア橋のシティ・オブ・ロンダニア方面に続く端、そこでは青い炎が壁となって塞がれている。その向こう側ではヤシロとワーウルフが戦闘を続行中だ。

 シザークに通じる場所にはジャック・オ・ランタンが『化け物モンストルム』を率いて立ち塞がっている。なによりユーナがエリックと一緒に橋の中央でジャックと対峙している。

 ただしエリックは石のように固まって動かない。カナンは車椅子の操作盤に文字を打ち込み、背もたれの一番下から足場の板を出現させる。シェーナに取っ手を握ったまま、乗るように勧める。


「――ふわふわとふわり、浮き立つ心と同化するように、金色が空を埋める! 羽根は軽やかにして堅強、囀る声がいつか歌となる日まで群れは止まらない! 鮮やかにして脅威!! 弾け飛ぶ風船の音が如く連鎖する栄光と衰退をここに!!――」


 カナンが右肘掛けのレバーを動かして前進する最中、夜空に変わりつつある上空から一直線に降り注ぐ金糸雀カナリアに似た生き物の群れ。石畳を傷つける生きた散弾が、敵へと向かう。

 石像の形をした『化け物モンストルム』が手で弾くが、鉄で構成された体が重みと速さで捻じ曲げられる。一匹だけでも途方もない威力の金糸雀が、風船のように宙に浮かんで空を埋めている。

 いつ飛んでくるかわからない気紛れさは、まさしく風に流される風船。しかして破裂したような音の次には体を貫く姿しか捉えられない。瞬間的に緩急を切り替え、相手の動きを乱していく。


「――ばさばさとばさり、黒と緑の羽根が目に焼き付く風よ、歌に合わせて動く体に従って、大空を翔ていけ! 七色の虹が門となるその日まで、止まり木すらも見えない世界を超えていけ!! いつか出会う愛しさに向かって突き進むがいい!!――」


 鋭い風が体の横を通り過ぎていく、と感じた頃には皮膚に無数の裂傷が刻まれる。目で追いかけようにも、黒と緑の色しか印象に残らない。瞬きすれば瞼の裏に七色の光が点滅する。

 それに気を取られた次の瞬間には金色の雨が迫っている。多くの『化け物モンストルム』が悲鳴を上げたが、青い炎が風も雨も燃やし尽くしてしまう。だがジャックから笑みが消える。

 ユーナは紫色の目を決してジャックから逸らさない。魔力が欠乏する様子も見せないまま、黒い杖刀を抜刀しない。次の青魔法を繰り出そうと口を開く。


「――ぶくぶくとぶくり、泡立つ水面を弾く尾びれ、光の階段を駆け上がる白い体は水底を振り向かない! 力強く鱗を剥がし落としながら、飛び立つ姿は光を追い越していく! 道の上を歩いていこう、世界の果てを目指すが如く!!――」


 ダムズ川から音を置き去りにした攻撃が一つ。ジャックの顔が叩かれたように赤くなるが、その頬に残っているのは煌めく白の鱗だけ。冷たい水が頬を癒やすには鋭すぎる。

 顔に残留した水と鱗を鬼火で燃やし、ジャックは次の攻撃を警戒する。最高位魔導士とは聞いていたが、地獄の石炭の前では敵ではないと高を括っていた。少女の実力を侮っていた。

 足を一歩進めようにも、その隙に小さな口から青魔法による呪文が紡がれていく。膨大な魔力が『異なる世界レリック』の深淵へと繋がっていく。


「――そろそろとそろり、闇が迫る森の中、獣の足音に安堵せよ! 生温かい息に命を感じ、満月が訪れないことに終焉を覚えよ! 安寧を伝える牙が柔肌に食い込む、希望が欲しいならば吼えるがいい!! 夜は汝を歓迎する!!――」


 音もなく背後に現れた黒い獣の牙から逃げるジャック。夜の闇に向かって消えていく生臭さに、背筋に嫌な熱さを含む脂汗が流れる。少女の口から零れる音に恐怖する。

 ジャック・オ・ランタンは『異分子レリック』については多少の知識を持っていると考えていた。あらゆる神話に伝説、人が思い描く全て、それ以上の存在について把握しているつもりだった。

 しかしユーナが繰り出す魔法はどこか異質だった。多くの魔導士は語り継がれる『説話レリック』を元に魔力を繋げ、法則を使用して行使する。つまりジャックからすれば想像の範囲内であるべきなのだ。


 青い肌の女神、額に輝く三つ目を持つ創造神、世界樹の根を齧る醜悪な蛇、円環となる終わりなき竜、空を駆ける白い天馬、その全てに名前がある。

 しかしユーナの場合は、名前すらもない『語られない存在レリック』に繋がっているように見えるのだ。そもそも破滅竜自体が、無名の脅威。最高位魔導士である紫水晶宮の魔導士しか行使したことがない魔法。

 星を滅ぼす炎竜、罪科を洗い流す水蛇、歌声が降り注ぐが如くの金糸雀の群れ、目で捉えられない踊りを披露する風鳥、音を追い越す力強い光魚、潜む息だけで命を脅かす闇の狼。ジャックは頭に並べた魔法の内容にほくそ笑む。


「そうか。お前の魔法は、仲間を基準に探り当てているのか! 満天の星から、特定の星を探すための羅針盤として!!」

「貴方風に仰るならば御明察ですわ。闇の海を頼りもなく木船で漕ぎ出すよりも、灯台を目指した方が些か心地良いですもの」


 橋の上にいたヤシロの耳飾りを思い出し、ユーナが所属する人助けギルド【流星の旗】のメンバーに思いを馳せれば、ユーナの魔法の基準は周囲の人なのである。

 人々が語る『素晴らしき逸話レリック』ではなく、語る人々に注目して『関連する世界レリック』を探り当てる所業。その思考はどこか『人間が大好きな者達モンストルム』に似ていた。

 ジャックは意気揚々と青い炎の柱を作り上げる。柱は醜い竜の姿となり、空気を震わせる熱気を声として咆哮する。あまりの熱さに十月最後の夜空の下で汗が止まらなくなる。


「ああ、だからこそ憎い!! 人が、お前達が!! お美しいからこそ、見るに堪えない!!」

「それは君が好きだった人間が、同じ人間の手で何度も殺されてるからやん?」


 熱気に晒されて痛む足を擦りながら、カナンが静かな声でジャックに話しかける。車椅子の取っ手を掴んでいたシェーナは、目線を逸らし続けるエリックの横顔を眺める。

 ユーナは近寄ってきたカナンの話に合わせ、魔法を止める。しかして消すことはない。いつでも再開できるように、空中に浮かぶ金糸雀達に『化け物モンストルム』達を監視させる。

 霧よりも濃い密度の熱に、誰もがロンダニア橋の異変に注目する中、星が輝き始めた空を見上げながらカナンがのんびりした様子で言葉を続ける。


「最初はなんでシェーナん狙うんか疑問だったわけなんやけど、エリックんが吸血鬼と判明してもどこか違和感があったん。まるで中身のない南瓜を叩いて、正体を確かめるような不可思議さやったん」

「ふっ、なにを言いだすかと思えば……答えは全て必要だからだ! それ以外になにがある?」

「逆や。本当はなにも必要じゃないんや。茶色の小人ブラウニー達のことも、エリックんやシェーナんのことも、本当は今日のも……せやろ?」


 問いかけたカナンの頭上に影が差す。シェーナが上を仰げば、四角い台座が重力に任せて落ちてきていた。悲鳴を上げる前に、金糸雀の雨が落下物を弾き飛ばす。

 橋の上を転がった石像から白い岩肌が剥がれ、雨風に晒された青銅色の岩肌が現れる。美しい女性の面影は崩れ去り、醜い『化け物モンストルム』が大口を開けて呼吸を荒らげる。

 鬼の顔、痩せ細った骨が浮き出た体、歪な翼が背中から這い出ており、獅子の尾に似た尻尾が足に巻き付いている。雨樋像ガーゴイルに相応しい姿が、そこにあった。


「これ以上……我々を苦しめるな!! 楽にさせろ!! お前達さえ、人間さえいなければ!! こんなに苦しくなかった!! 辛くなかった!! 生きる意味を……見失うことなんてなかったのだ!!」

「……雨樋像ガーゴイルは本来、雨水を醜い怪物の中で浄化してから地上へ流す役割を持つ存在……偽装巨乳許すまじですわ」

「そこなんかーい。大丈夫や、ユーナん。胸は育……二百年以上生きてるおばあちゃんはどうやろか?」


 励まそうとして結果的にユーナの怒りを買うカナンだが、堂々とした剽軽さにシェーナは言葉が出てこない。一瞬で死んでしまいそうな状況で、何故笑っていられるのか。


「ふざけるな!! 私は美しい女の姿を望まれた!! 人間が望んだ!! あの男が……あの男さえ、いなければ!!」

「……んー、本当にそうなんかわからんけど、望みを叶えた……それってやっぱり好きなんとちゃう?」

「ならば置いていくな!! 気付け!! いつだって傍にいるじゃないか、私達は……いつも、どこでも、お前達の傍にいたじゃないか!!」


 叫ぶガーゴイルの口前に手の平を見せるジャック。それ以上は喋るなと、暗黙の指示。ガーゴイルは口惜しそうに後退する。

 青い炎の竜は動かない。ジャックが操る魔術で形作られたこの世の不可思議。ユーナの魔法よりも、強く、世界を揺さぶる力を持つ。


「……その通りだ。我らは常に人間と共にある。だからこそ憎い!! 何故埋まらない、この溝は!? 何故気付かない、ここで叫んでいることに!! ならば誇示するしかない!! 全ての感情は鬼火となって燃え上がれ!! これは憎悪であり、反逆である!! 悪逆なる偉大な鬼火イグニス・ファトゥスこそが!! 我らの全てである!!」


 高らかな宣言に『化け物モンストルム』達から拍手が送られ、夜空となった藍色の天上に歓声が響き渡る。まるで橋が一つの華麗な舞台のように。

 真っ直ぐにぶつけられる感情に、シェーナは受け止めきれずに口元を押さえる。あまりにも純粋すぎて、故に濃密な、気持ち悪いほどの人間へ向けられる『化け物モンストルム』の心。

 エリックはそんなシェーナに声をかけたかったが、自分は『化け物モンストルム』であるという自覚から、声が霧に溶ける前に喉の奥で消化されていく。


 首が捻れた男の姿のまま、枯れ木のような両腕を天に掲げるジャック・オ・ランタン。星も見えない、地上の青い炎で明るい夜空が霧を濃くしていく。

 街角で南瓜の提灯ランタンが不気味に笑いだす。十月三十一日、一年の内で最も『化け物モンストルム』が集うに相応しい日。人間達さえも世界の乱れに呑み込まれる。

 祭りの高揚感に浮かれた人々の間では犯罪が起きやすい。火が、飾りが、心が、全てが燃え上がっていく。大火を起こすには都合の良い時間がやってくる。




「どーでもいいですわ」




 明らかにやる気のない声が橋の上で呟かれた。拍手も、歓声も、戸惑いという波の前に消えていく。そして一人の少女に『化け物モンストルム』の視線が集まる。

 紫色の髪の上で黄金蝶の髪飾りが鮮やかに光る。夜の闇の中でも、道を知らないまま歩き出しても平気なように、誰かを導くためだけに黄金の羽根があらゆる色を照らす。


「貴方達の事情も、今宵の都合も、壮大な計画全てが。好きにしやがれですわ。だけど……醜い小人ブラウニーを殺したことは許しません。少女の傍にいたいと願った少年の気持ちを踏みにじったのも、許しません」

「……吸血鬼ヴァンパイアなのだぞ? 人を襲う『化け物モンストルム』なのだぞ!?」

「だからなんです? それは建前であって、本心じゃない。わたくしはまだ……エリックさんの気持ちを聞いていない」


 少年の肩が跳ねる。時を同じくして怯える少女の肩も。交差する視線には、お互いに萎縮した感情が込められている。なにを話せばいいかわからない。

 嫌われたらどうしよう、跳ね除けられたらどうしよう、理解されなかったらどうしよう。襲われたらどうしよう、殺されたらどうしよう、騙されていたらどうしよう。


「愛するには若すぎる美しい少女。君の幸福を祈り、尽くそう。決して滅びない愛と共に、忘れはしない。君に出会えて本当に良かった……これは花言葉や。僕の言葉やない」


 カナンの呟きにシェーナはポケットに入れていた栞を取り出す。大切な、顔も知らない応援をしてくれる人から贈られた薔薇。五本の小さな花束だけれど、それだけで一生頑張れると思えるほどの好意。

 もしもそれが『化け物モンストルム』である吸血鬼からの言葉ならば、本当に傍にいたいだけなのならば。どう応えればいいのか、少女は頭が真っ白になるほど考える。


「……ごめん。俺は嘘をついてた……幼馴染みのエリックなんかじゃない。本当は……これだけでも言いたかった」

「……」

「でもこんな俺でも期待していいのかな? 吸血鬼だけど、嘘吐きで、堂々と正体も言えない俺だけど……もう一度、舞台を見たいって。シェーナが、夢を追う姿を見守りたいって」


 好きとも愛しているとも言わず、一歩距離を置いた期待。それはささやかというには、今にも消えそうな泡沫。証明するように、橋が青に染まっていく。

 ユーナが異常に気付いた時には遅く、石の隙間から青く立ち上る火柱が間欠泉のように不規則に入り乱れる。少女が答えを出す前に、痺れを切らしたジャックが石炭から次々と鬼火を生み出す。

 蒼炎竜の顎がユーナに迫る。カナンの車椅子に杖刀をぶつけ、吹き飛ばすのが精一杯の時間しか残っていなかった。青の炎に最高位魔導士が呑み込まれて姿を消した。


 車椅子にしがみついていた少女の体が浮き上がる。同時に橋が内側から破裂するように青い炎を弾け飛ばす。小さな手が、機械仕掛けの車椅子ギミックチェアから離れていく。

 私立探偵も為す術なく橋の崩落に巻き込まれ、執事服の少年も狼男と共に冷たいダムズ川へと落下していく最中、吸血鬼は自分にとって最後の希望に手を伸ばす。

 最初の出会いの日、手を伸ばしたのは少女だった。ならば次は自分が手を伸ばし、救う時なのだと我武者羅に破片を蹴り飛ばして突き進む。


 柔らかい少女の手を掴んだと同時に始まる浮遊感の終わり。童謡に歌われるほど起きた出来事だが、クイーンズエイジ1881の十月三十一日。


 ロンダニア橋が落ちた。







 霧よりも視界を汚す土埃。瓦礫が積み重なって一時的に足場となっている。車椅子の車輪が回る音に、エリックは少しずつ意識を取り戻していく。

 鈍い意識の中で、人の声がする。獣とも思えない『化け物モンストルム』の悲鳴も、いまだ終わらぬ崩落の音も。そして手に残る柔らかい感触に、記憶を取り戻していく。

 偶然にも川に落ちずに済んだ。その幸運に喜ぼうとした矢先、腹に常駐する違和感。胃の奥から込み上げてくる熱と苦みに、冷や汗が止まらなくなる。


 柔らかい。だけれど冷たい。ぶれていた視界か鮮明さを取り戻していく。それを恐れるように喉を震わせる。細い鉄の骨柱が、体を貫いていた。赤い血が、川に落ちていく。

 青い炎が咆哮を上げている。奥歯を噛み締めて、状況を理解しようと目を細めていくが、涙で滲んでいく。腹から鉄を伝う血は瞼を閉じた少女の腹へと続いていた。

 声を上げようとした。しかし吐き出せるのは『化け物モンストルム』の血だけ。それだけならばこんなに苦しくなかったのに、結果は予想以上の最悪を招いている。


 瓦礫から突き出た鉄の棒にエリックとシェーナは貫かれていた。冬が間近な川に落ちた方が数倍まともなほど、手遅れと叫びたい現状が鎮座していた。

 抱きしめようにも、鉄が邪魔をする。腹から引き抜こうにも、少女の体が耐えられるかわからない。混乱と焦燥だけが、肺から空気を奪っていく。

 そんな最中、少女が瞼を開いた。虚ろな光しか宿らない眼に戦慄するが、少女は最後の力を振り絞るように握りしめていた薔薇の栞を少年に差し出す。


「あ、りが、と……」


 赤い薔薇。その花言葉は言うまでもない。少女が意図していたかはもうわからない。瞼が再度重く閉じられていくことに、少年は我慢できずに吼えた。

 吸血鬼だから、守れない、孤独になる、置いていかれる、絶望する。しかし死ねない。何度も試したからこそ知っている。この『化け物モンストルム』の体は泣きたくなるくらい頑丈だ。

 少女の手から零れた薔薇の栞が川の底へと沈んでいく。暗く、汚れた水底へと迷いながら。泥の中を進むように、栞は姿を消していくはずだった。


 それを掴む手があった。


 少年の慟哭を掻き消す水音が、残っていた青い炎へと向かう。光る鱗が、金色の小さな翼が、黒と緑の風が、闇から漂う生温さが、黒い杖刀の指示に従う。

 そして水底から黒鋼の鱗を纏う竜が赤い炎を生み出しながら現れる。汚れたダムズ川の水を、勢いよく蒸気へと変えながら黒の靄を吐き出していく。

 白い歯が鳴れば真っ赤な火蜥蜴が水面を這い、首が捻れた男へと向かう。橋が瓦礫として崩れ去ろうとも、青い炎に呑み込まれてもなお、誰かの美しさに心を動かされる存在がいた。


 それは美しい者が好きだ。美しい物でもいい。心でも、信条でも、現象でも、生き様でもいい。美しさのためならば、どんな状況でも足を動かす。

 赤い薔薇の美しさを、少年の一途な想いを、少女が抱く夢を、その全てを。美しいと思ったならば、止まらない。止まる訳にはいかないと、心臓を脈打つままに任せて足掻く。

 美しさの前に人間だけではなく『化け物モンストルム』も『異世界レリック』も関係ない。正義や常識ではなく、美学に従うだけで良い。


 白いコートが水に濡れて汚れても、紫色の目だけが強い光を放つ。街へと侵食しようとする青い炎に向かって、赤い炎である火蜥蜴を進行させる。

 破滅竜の頭上で自らの腹を拳で叩き、水を無理矢理吐き出す。それでも力強く杖刀を握り、空気を吸い込めるだけ腹の奥に溜め、大声と共に放出する。


「まだ終わりじゃない!!!! 終わらせて、たまるもんですか!!」


 耳が痛くなるほどの大音量。それは確かに腹の奥底まで響いた。瞼を閉じた少女が小さく咳き込むのを、エリックは確認した。

 近くから瓦礫が崩れる音が聞こえ、エリックは身構えた。そして動かない足を引きずりながら、手で這いずるカナンが姿を現す。頭から血を流しながらも、片目でエリックとシェーナの姿を捉える。

 袖で大雑把に片目を塞ぐ血を拭き取り、カナンは痛む体を進める。今にも死にそうなカナンの様子に、エリックは肝を冷やす。


「そ、うやなぁ……ユーナんは昔から、そうやなぁ。諦めるのが美しくないって、いつも怒ってるん」

「無理して喋るなよ……」

「ああ、僕ならば白魔法である程度回復できるん。それよりもシェーナんや。僕の知り合いに凄腕の医療資格もある白魔法使いがおるん。そん人の所に連れて行く……ええか?」


 少年の反応を確かめるカナンは、余裕を感じさせない瞳をしていた。一刻の猶予も許さない状況の中、最善を行おうと必死になっている。

 しかし瓦礫に半ば埋まる形の機械仕掛けの車椅子ギミックチェア。それを横目で見たエリックは無茶なことだと、首を横に振ろうとした。

 カナンが膝上に手を伸ばし、ボタンを押すように指先を動かす。両脚から蒸気が排出される音と一緒に、車椅子に座っていた青年とは思えない様子で立ちあがる。


「ふー……これ神経接続めっちゃ痛いから、ほんまはやりたくないんやけど……緊急事態やしなぁ」

「な、あ、た、立った!? だって、車椅子、え!?」

「あんなぁ……僕は一言も歩けない言うてへん。なにせ僕は嘘吐きを騙す、真実を求める大嘘つき私立探偵やからね」


 戸惑うエリックに対して渋々と説明するカナンは、ウインクを混ぜながらも笑顔でエリックとシェーナの腹を繋いでいた鉄骨を足で踏んで断絶する。

 お互いに鉄骨が突き刺さったまま自由になったシェーナとエリック。抜くと血が溢れて出血性ショックで死に至る場合があるため、シェーナの腹に鉄骨が突き刺さした状態で抱き上げるカナン。

 エリックは自らの腹から鉄骨を抜き取る。痛みで額に脂汗が浮かんだが、すぐに偏重した体内の魔力で傷が塞がる。ふらつきながらも、エリックは瓦礫を足場に立ち上がる。


「どうするん? 付いてくるもええ。逃げるのも構わん。全て君の自由や」

「……シェーナをお願いします。俺は……多分、ここで立ち向かわなきゃいけないと思うから」


 エリックが振り向いた先には橋の崩落から生き残った『化け物モンストルム』達が立っていた。全員が厳しい目をエリックに向けていた。

 嫉妬、羨望、屈辱。吸血鬼でありながら人間の傍で生活をしていた少年。今も人間のために動けることが羨ましいと、見当違いな恨みが空気に溶けていく。

 もしも生き続けた意味があるならば。たった一人の少女を生かすためだったのかもしれない。それはきっと『化け物モンストルム』としては最高の生涯だ。


 吸血鬼は鋭い犬歯を見せながら笑う。大好きな人間のために戦える。背後から聞こえる蒸気排出音が遠ざかるのを感じながら、吸血鬼は『化け物モンストルム』の群れへと飛び込んだ。

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