EPⅠ×Ⅴ【暗殺集団《Assassin×group》】

 アイリッシュ連合王国の中心都市ロンダニア、スタッズストリート108番。そこはのろわれた家よりもやっかいな住所であった。

 つねごろからそうどうが起きた場合、警察がまず疑うのはこの住所に関わる住人たちである。借家ギルドホームあつかいであり、多くの者が利用するとはいえ、その数倍は軽く問題が発生する。

 住人自体が家をかいすることもあるし、住人が引き受けたらいかかんだ問題でこわされるのもにちじょうはんの如く。きんりん住人はさわぐのにもきた様子で受け入れていた。

 

 そんな家が昼過ぎ、今、またもやくずれていた。帰ってきたユーナは思わず片手で目元をおおったほどである。

 

「もー、直すのも楽じゃないのですけど……ああ、そういえば制作ギルド【唐獅子】で蒸気機関だんぼう器について話すのを忘れていましたわね。不覚」

「ユーナちゃん、ほうでパパッと修復しちゃうのん? アタシとチドリちゃんが力を合わせれば元の形に戻せるわよん? ちょっとチドリちゃんが筋肉痛で苦しむかもしれないけどねん」

 

 じゃっかん現実とうしかけていたユーナだが、ハトリの明るいさそいを断りながら、昨日と同じ青魔法でもどす。

 重苦しいどんてんの下で破壊された家がとうめいけいばんの表示によって再生されていく。明快な色のれんで作られた借家ギルドホームは何事もなかったかのように建っている。

 ジタンはまたもや目の前に現れた不可思議な時計盤を見て首をかしげる。どこかで似たものがあった感覚。背負っているチドリが小さくささやく。

 

「この青魔法は『時を操る神レリック』であるトキナガの力を借りている。あれは一応すごい存在なんだ」

「え!?」

 

 機械仕掛けの神代デウス・エクス・マキナの体を持つ、一見ただのつうの青年にしか見えなかった存在を思い出してジタンは目を丸くする。

 チドリは深いいきをつきつつも、元にもどった住宅の様子をながめる。いつも通りの二階建てのどこにでもある家だ。建築年数はそれほど新しくはないが、古い良さがかもされていた。

 新品同様に戻らないのは、ユーナの美学なのかトキナガの限界なのかとギルド内で盛り上がったが、結局正しい答えには辿たどかなかった。

 

「うーん。魔法を使った際に家に人間が保有するりょくを感じませんでしたわ。もしかしてジュオンさん達はどこかになんしたのかしら?」

「移動しているなら、ヤシロさんがぼく達を待っていそうですけど……だれもいないのは、おかしいですよね?」

 

 ナギサの疑問にいやな予感をいたユーナはさり気なくチドリに近付き、つえがたなをジタンにれさせる。しゅんかん、チドリの背中の上でこんとうするジタン。

 あらっぽいと言うには静かな方法だが、ちからくに似ている手段。まゆを寄せたチドリは不満そうにユーナの平然とした横顔を見る。

 

「おい。聞かせたくないからって力技がすぎるといつも思うんだが。相談してくれればおれがどこかに遊びに行かせたものを」

ですわ。だってジタンも敵のねらいですもの。チドリさんの実力は評価していますが、今回の件は下手すればチドリさんも対象にされますわよ」

「……どういうことだ?」

「緑魔法。物体に『別存在レリック』をひょうさせる、これが重要ですもの。チドリさん、得意でしょう?」

 

 ユーナの簡潔な答え方にチドリは眉を寄せる。ナギサとハトリも顔を見合わせ、次にユーナに顔を向ける。

 少しめんどうそうな顔をしながらユーナは家の中へと入っていく。元通りになった家の一階げんかんそばには、あまり使わない電話機がある。

 いまだ電報がはばひろく使用されており、政府の事情から民衆みんしゅうへの広がりがおそい電話。しかし電報よりもそっきゅうな対応ができるため、ユーナは気に入っている。

 

 れんらくさきの数は少ないゆえに、相手は限られている。ユーナは迷いなく、とある場所へ電話をかけた。

 

『はい、こちら万福屋フーマオです! 輸入品からこうひん、犯罪に関わらないならありとあらゆる品物を扱っております』

 

 電話口から明るい声がひびわたる。商売人らしいかつぜつの良さとあいきょうだくさんだが情報過多なしゃべかたでもある。

 背後から聞こえてくる貿易港からにぎわう他店の商売音が耳をふるわせる。たまにあやしい商品名もまくひびくが、ユーナは構わず進める。

 

「フーマオさん。単刀直入にいきますわ。マティウス・アソルダという名はぞん?」

『これはこれは、ユーナのおじょう! マティウスの旦那は有名なかた! これまたビッグネームが出たものです! で、どのようなようで?』

かれに今すぐむらさきすいしょう宮の魔導士と関わるのを止めるように声をかけてください。ザキル団の名前を出せば、ある程度は理解するでしょう。鹿でなければ」

『……だそうですよ、アルトの旦那』

 

 電話口から聞こえてきた名前にユーナは持っていた受話器を壊しそうになった。傍らで聞き耳を立てていたハトリ達も疑問をかべる。

 通信先の向こう側では雨が降り出したにも関わらず港の賑やかな商売の声や人の会話がこんだくし、さざ波のように響き渡っている。それでもはっきりと誰かがフーマオに近寄ってくる足音が感じ取れた。

 

『姫さん、さっそくで悪い。ピンボケおっさんがばくしょうげきで失神してな。今ねこにーちゃんの商店でかくまってもらってるんだわ。チビすけは医師めんきょないから、悪化しない程度に妹の看病をしている』

「……それよりも、ばんざる貴方あなた賭博ギャンブルで手に入れた蒸気機関自動車はマティウス・アソルダさんのでそうないですわね?」

 

 受話器を受け取ったであろうアルトの説明に頭が痛い思いをしつつ、ユーナは確信を持った声でたずねた。

 爆薬ダイナマイトが積まれた蒸気機関自動車。必然と言うにはあくしゅすぎて、正直ぐうぜんと処理したかったが、けいとうの一件ですいほうと帰した。

 道理で蒸気機関自動車でげている際に相手が赤魔法でほのおを放ったわけだと、ユーナはかなりの危機的なじょうきょうだったと思い直して溜め息をつく。

 

『なんだ。もうそこまで辿り着いちまったのかよ。せっかく俺様が最終局面で悪役の如く種明かししようとたくらんでいたのに』

「あ・な・た・は・こちら側でしょうがっ!! 他には? 他にはなにをかくしているのですか!? 白状しなさい! じゃないと……」

『俺様からすれば姫さんの嫌がらせなんてたいてい猫がじゃれているようなもんだぜ? そんな簡単に音を上げるような』

「女装」

『よーし、なんでも聞いてくれ姫さん! 俺様喜んで情報提供しちゃうぜ!!』

 

 コルセットで骨を折られたことがある男は明るく早口でしみない協力を申し出た。

 調子のいい電話口の相手をどうやったらなぐれるかを考えつつ、ユーナは頭の中で簡潔に疑問をまとめていく。

 

「ジラルドさんは何故なぜ殺されたのかしら?」

『ザキル団のかんゆうを断ったからだろうな。大体ザキル団っていうのは、地元では名をせた暗殺集団でも、アイリッシュ連合王国ではネイボッブによって故郷からがされ、ろうとなった集団でもあるんだ』

「……ジラルドさんはカンドていこく出身?」

ごうおばさんにかくにんを取ったからちがいないぜ。使用人として連れて来たけど、習慣やこくせきちがい、細かいことを追求したらキリがないほどの理由で全てをうばってるのが上流階級の紳士ジェントルマンってやつさ』

 

 かいそうに語るアルトだが、聞いているユーナはいっさいおもしろくなかった。弱者に救済の手をべるのがしんの義務なのだが、弱者を生むのも紳士だと言われているようなものだ。

 愛国精神が強いユーナでも産業革命による都市部への人口集中や追いつかないさくにはあきれているが、あからさまなけんを口にすることはない。それが当たり前の世の中だからだ。

 貿易や産業革命による人材の流通問題は深刻だ。グレイベルに集まる異国の民という者には、連れてこられたというがいしゃも多数存在している。ザキル団はその中でもカンド帝国出身者の集まりということになる。

 

 過去においてはれい問題も深刻だったが、今では働き口の問題だ。奴隷に関しては整備された法律が厳しく国民をまり、今でははいされた制度だ。

 アイリッシュ連合王国は島国である。どうしても他国の者にびんかんになりやすい性質を持っており、同時に他国に大きい興味を示すのもとくちょうてきだ。

 だからこそ他国から連れて来た人材を当初はもてはやすだろう。しかし時間経過によって様々な問題を理由にかいし、残るのは行く当てのない異国民。

 

『ついでに言えば妹はカンド帝国の人間が産んだ子供だ。だからぼうめんどうを見て、苦労しないようにはいりょしてたみたいだぜ』

「……そう。良い人だったのですね」

『だから富豪おばさんに気に入られ、成り上がり……殺された。首をめて川にドボン! 警察ヤードそうさんの一言だからな。小説の登場人物もなげいていたよな』

「コージさんが聞いたら泣きそうな顔をしますわよ。で、警察ですらめられなかった死因をどうして野蛮猿が知っているのかしら?」

 

 またもや受話器をくだきそうなほど力強くにぎりしめたユーナの耳に、アルトは深い溜め息をついた。電報では受け取れないさいな呆れた感情。

 

『富豪おばさんが調べたに決まってんだろう、姫さん。まさかあの『冥府の役人レリック』を使うとはな。さすが最高位魔導士。こわい者なしだ』

「……それは、きょうたんあたいしますわ。その『死を管理する者レリック』はわたくしも手が出しづらい分野ですから」

『そしてわかるのは、ジラルドっていう奴はかんぺきに死んでいた、ということだ。なのにかねは鳴った。助けてくれと言わんばかりに……さぁ、姫さん! おかしいのはなんだ?』

 

 姿が見えないのにユーナのまぶたうらにはアルトの姿がせんめいに浮かぶ。りょううでを広げてためすような不敵なみを浮かべたどうに似た姿。

 本格的にユーナが受話器をにぎつぶす前に、あわてたハトリが代わりに受話器を持つ。白磁器のようになめらかなしろぶくろに金属と木製が組み合わさった電話機がある姿はアイリッシュ連合王国らしい光景だ。

 受話器に耳を近づけていたナギサとチドリは、ハトリのファインプレイに一息つく。ギルド内の破壊天使はナギサだが、破壊女王はユーナである。

 

「……完璧に死んだ人間に安全ひつぎって馬鹿ですの?」

『だーよーなー。大正解だ、姫さん! 特別に俺様のあつーい茶をプレゼントしちゃうぜ!』

せっ百度の熱湯は茶葉のりょくそこないますから、絶対にやらないでくださいな」

 

 安全棺とは、間違ってめられた人間が外に生存を知らせるための機能を取り付けた墓である。以前に流行しため小説が端を発した、あまり意味のない墓でもある。

 ジラルドはジタンが働いていた工場の人間であり、川に浮いて死んでいた人間。その生死に関しては警察だけでなく、世界で七人しかいない最高位魔導士が証明していた。

 完璧に死亡が確認された人間。生き返ることはない。しかし彼の墓はまるで生きている、いや、動き出すのを予兆しているように鐘が鳴る仕組みの安全棺がほどこされていた。

 

「……墓の手配は誰が?」

『紫水晶宮の魔導士。だから管理ギルド【魔導士管理協会】も、クロリック天主聖教会も疑わなかった!! あれは魔力処理がされた死体だと!! だれひと!!』

「でもわくは時が経過するごとに増える。それを利用して野蛮猿は紫水晶宮の魔導士の正体を賭博ギャンブルチップにして、ったわけですわね! マティウス・アソルダを!」

 

 誰も正体を知らない最高位魔導士。しかしその権力は女王によってあたえられた一字が、全てを物語っている。

 管理ギルド【魔導士管理協会】のぎわでもあるし、クロリック天主聖教会の確認不足でもある。だから新聞で報じられた。

 どちらの責任か。元から『様々な異世界の神レリック』と通じる魔導士と、世界を見守るゆいいつ神をしんこうする司教達。考え方から学び方まで違うため、仲が悪い。

 

 そしてアルトが口に出した富豪おばさん、緑鉛玉の富豪ヴィクトリア・ビヨンドは最高位魔導士。紫水晶宮の魔導士とは知り合いである。

 責任のいよりも死んだ部下を利用しようとしているやからを探すため、関係者もしくはがい者を探しだすしかない。しかし損失はけたい商売だましいもある。

 アルトはそんな時に便利な男である。しばもできる、ばくでイカサマを行うのも得意、酒場パブが大好きで、紳士の社交場クラブにも顔が出せる。

 

 紫水晶宮の魔導士は正体を置いてけぼりのまま、名前だけが独り歩きしている状態だ。しかし女王からじゅされた一字の効果は絶大。

 だからこそ疑う者が出始める。本当に目の前でその名前を使う者が、女王から一字を与えられるにさわしい人物か。そしてひそかに調べ始めるだろう。

 垂らしたばりにものの見事にひっかかったマティウス・アソルダに若干同情しつつ、ユーナは話を進めていく。

 

「ちゃっかり車まで手に入れやがりましたわね! この野蛮猿! つまり墓場にわたくしを連れて行ったのも貴方の企みですわね!?」

『いやー。実はクロリック天主聖教会から紫水晶宮の魔導士が何でも屋ギルド【紅焔】をやとって、墓場管理して頂き大変不満っていううわさがあってなぁ……』

「ここであのエール腹が出てきやがりますのね!! 今警察で取り調べ受けていますわよ! かんごく送りになればいいのに!!」

『あー見えておっさん白魔法得意だからなぁ。少しせるくらいで出所すると思うぜ? 脂身の包み生地焼きスエット・プディングかったとかなんとかぼやいてそうだな!』

 

 けいしょで出される砂糖もバターもない高カロリーをせっしゅするだけの料理が頭にかびがり、ユーナも不快な気分になる。

 家の外からうなるような低いしんどうと音が頭のおくを重くしていくさっかく。ナギサがかさとタオルの準備を始めようとした矢先、ハトリにさり気なく止められる。

 ヤシロが留守の今はナギサの失敗をフォローできる者が近くにいない。少しでも家への被害を減らすためのけんめいな判断である。

 

「……で、墓場にどんな仕組みを? わたくしの推測だとどうが使われていた……鐘。おそらく青錫で、けいぞくせいを高めた青魔法」

おそるぜ。全くその通りだ。あらゆる墓に鐘が取り付けられ、円をえがく形になっていた。中心地点はジラルドの墓』

「魔法の法則文は墓に刻めばいいですわね。見えないように、じゅうの横に広がった二柱。その下面に。おそらくそちらには緑魔法に必要な文ですわね」

『姫さんはなにを招こうとしたかわかっているようだな。坊主に聞かせてだいじょうか?』

 

 ユーナは横目でいまだチドリに背負われているジタンを見る。うでは力なく垂れ下がっており、顔もかたで隠れている姿勢だ。

 

「ええ。たぬき入りして聞くゆうはあるようですし。そろそろ子ども扱いも止めますわ」

 

 勢いよく顔を上げたジタンの顔は真っ赤と真っ青を行き来する。ばれていたずかしさと、話の深刻さに言葉が出てこない。

 ナギサは起きていたことに大げさにおどろくが、背負っていたチドリはもちろん、呼吸音が寝ているのとは少し違うとハトリも気付いていた。

 

「死体に残した魔力を青錫の鐘でぞうふくし、でんする。墓に刻まれた法則文により伝わった魔力はじんを描き、緑魔法を発動する」

『魔道具伝播する鐘チェインベルだ。道具を作れるのは上位から、というか中位程度じゃ作る才覚もないだろうが』

「ただし緑魔法は物体に『異物レリック』を憑依させる……依代が必要ですわ。できれば自意識がある人間、もしくはせいこうな機械――機械仕掛けの神代デウス・エクス・マキナのような」

『あの時、まだ発明王は依頼をかんすいしていない。ならば憑依させるのは一つ……人間だ。特に後の目標である女神カーリーせいぎょできる存在だ』

 

 ジタンは進められていく話に口がはさめない。しかしのどの奥がばくに放り出されたようにかわいていくのを感じていた。

 嫌なあせが背中を伝い、眩暈めまいもしてくる。あの時見た動く死体。あれはどうしてジタンがした先で目の前に現れたのか。偶然ではない。

 何故ならばジタンはまれていたからだ。ザキル団の者からとうそうしながら、まるでゆうどうされるように。必死に、逃げて、さそまれていた。

 

「ジタンは『偉大なる三柱神レリック』であるシヴァの依代に選ばれた」

 

 ユーナの冷静な声が水のように頭の中を冷やしていく。ジタンはどこかでなっとくする、自分もにえだったのだと。

 だから何度も狙われた。妹だけでなく、兄であるジタンも。そのせいでコージは首を折られ、ユーナ達といっしょに走り回り、今も背負われたまま。

 ずっと守られていた。事実を認めたくないジタンは顔をせる。ユーナ達のことはきらいではないが、なおになれない。

 

「ただまぁ……杖刀でちょこっと壊したせいで、法則文と魔力の統制が崩れ、暴走。死体に『とりあえずやばい物レリック』が憑依しましたけどね……」

『あれをちょこっとなんてわいい言い方する姫さんのきもの太さにかんぱい。で、姫さん……俺様の耳に届く走り去る音はなん』

 

 アルトの言葉が終わらぬ内にハトリは受話器を置いていた。チドリの背中をばして逃げ出したジタンを追いかけていくユーナ達の姿を見失わないように足を動かす。

 

 

 今にも降りだしそうな空の下、もらったズボンとシャツが汗にれるのも気にせず、ジタンは煉瓦の街を走っていく。

 時には通行人の女性にぶつかり、あやまることもなく去る。女性は慌ててふところにしまっていたさいを確認し、無事なのにあんしてから鼻息一つで少年を忘れる。

 スリだと思われても仕方ないとジタンは考えていた。それに近い生き方と場所で育った。むしろ警察を呼ばれなくて良かったと安心したことにいやがさす。

 

 ユーナ達に出会って嫌とも応とも言えないまま一緒に過ごした時間。それを思い出せば過去でうすよごれた姿の自分がみじめになっていく。

 幼いころから守る側として、働く者として、兄として、助けを求めずに生きてきた少年にとって、今の状況は認めたくない類だった。

 感謝はしている。うれしかった。けれど言葉にできない。なによりこのままユーナ達の傍にいれば誰かの命がまたもや奪われてしまう。

 

 グレイベルの工場はいすいんで死ぬ人間を見ても、同情はしなかった。しかし今は違う。知ってしまった。手をばしてくれる人がいることを。

 今も助けようと追いかけてくる足音が聞こえるのも。嬉しいと同時にはなれたくなる。ジタンは小さな体でけんめいに走る、だけれど行く当てがない。

 妹のメルがどこにいるかも知らない。ジラルドはもうどこにもいない。家族はいない。友も、仕事場も、どこにもない。

 

 ここは何処どこなのか。くずちるひざいしだたみたたく。

 

「う、あ、あああ、あああああああああああ!!」

「ジタン! 落ち着け!」

 

 一足早く追いついたチドリがだんは出さない大声でなだめる。少年の肩をつかみ、あやすように抱きしめる。

 それすら苦痛になったジタンは暴れる。通りを歩く人々は何事かと嫌な視線を向ける。そちらの方がジタンは落ち着いた。

 やさしくされればされるほど、痛くてつらい。周囲の煉瓦が雨に濡れて色を変えていく。見上げればこくえんのような雲からにぶい水が落ちてくる。

 

 人々は急ぎ足で家へと帰っていく。その背中をチドリのかたしに見ながら、ジタンは声にならないさけびを上げる。

 もしもこの件が終われば、もうユーナ達の借家ギルドホームには入れない。またひんみんがいはいすいこうで雨水をしのぐ生活。

 ぶら下がり宿で大人達と一緒にまれて病気になるか、救貧院ワークハウスでは男女別だけでなく大人と子供も別。ろうごくのような生活をどくに過ごすしかない未来。

 

「なんで!? なんでだよぉっ!! なんで俺に、俺に優しくするんだよぉっ!? 幸せなんか知りたくない!! 知りたくなかった!!」

 

 圧しかるような雨雲の下でジタンは顔を濡らしながらわめく。ここ数日の楽しかった思い出が未来を暗い物にしていく。

 立ち上がれなくなる。幸せを知る前ならば誰でもせいにできると思えた。しかし今はできない。もう、できない。

 

「こんな世界……こんな世界に生まれたくなかった!!」

 

 親の顔も知らない。優しくしてくれた人は死んでしまう。大切な妹は贄の扱い。未来に救いはない。

 どんなに幸せになっても、ジタンの生まれは変えられない。産業革命によってあふれた人口、その中の小さな子供。

 たよる術を知らない。助けを求める素直なしょうではない。感謝の言葉を口にする勇気がない。死に対するきょうだけが鮮明になっていく。

 

 チドリは耳の横で響く叫びにおくみしめる。こんな小さな子供を救うことができるのか。世界を嫌う子供にらしさを教えられるのか。

 ただひたすら強く抱きしめて離れないようにするのでせいいっぱいだ。だから気付かなかった。背後からしのってきた紫のころもを濡らした男の存在を。

 

 

 雨がうすまくのように視界をさえぎる中、服をみずびたしにしながらユーナ達はチドリとジタンの姿を路上で探すが見当たらない。

 石畳を叩くあまつぶは冷たく足にすようなかんしょくを打ち付けてくる。ハトリが寒さで肩を抱いた際、ナギサが黄色の布が落ちているのを見つける。

 にじんだ血のあとはどこか文字のように見えたが、雨に濡れて読めなくなってしまった。しかししゅうの字だけは読み取ることができた。

 

「パードリー……お姉さま! もしかして……」

 

 ナギサが拾い物をした犬のようにかえるが、その言葉がれてしまう。ユーナのむらさきいろかみに雨が伝い、白いコートをうすよごしていく。

 ただ紫色のひとみと黄金ちょうかみかざりだけが熱を持ったようにかがやく。杖刀をにぎめたユーナは足元でみずまりの中に残る少なくない血に向かって、黒いさやを突き刺す。

 

「――血脈よ、示せ!! 主への道筋を!! 心臓が動き続ける限り、その命の限り!!――わたくしのげきりんに触れたむくい、存分に返させてもらいますわよ! 紫水晶宮の魔導士!!」

 

 雨にも負けず、風にも負けず、水溜まりに浮かんでいた血は一本の糸となって伸びていく。それは死体が動き出した墓場に向かっていた。

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