追想 11

「こんな所でどうされました」

 呆然としながら夜の闇を、その向こうにあかく輝く篝火を眺めていたカイの真横から、突然かかる男の声。カイは軽く跳ね上がり、慌てて振り返った。男は2歩も歩けば詰められる距離に立っていて、これほど接近されるまで気付かなかった己の鈍さに笑うしかない。

 無意識に右腕を撫でる左腕を背中に隠したカイは、ぎこちない笑みを浮かべた。隠したところでごまかしきれるはずもないと判っていたが、ごまかさずにはいられなかった。

 蜂蜜色の髪の男はいつも通りの柔和な笑みを浮かべ、カイの返事を待っている。カイは無言でごまかそうとしばらく黙っていたが、やがて観念すると、天を仰いで大口を開け、息を吐いた。

「中途半端に寝てしまったからか寝つけなくて、散歩でもしようかと思ったんです。門の内側なら基本的に自由にしていいって言われてますしね。そしたら、人影が目に付いたので、つい」

 星明かりだけを頼りにあてもなく歩いたカイはまず、聖騎士たちの宿舎の裏、参拝者の目から避けるように広がる演習場に辿り着き、その広さに圧倒された。多くの者が寝静まる時間に篝火が灯っている事、その灯りを利用して剣を交えている者たちがいる事に気付いたのは、広さに慣れたあとだ。

 素早く、鋭く交わされた、見惚れる価値のある剣戟。しかしカイの意識を強く引きつけたものは、ふたりが交わす剣ではなく、会話のほうだった。彼らが「エア隊長」と呼ぶ人物がジークである事を、知っていたから。

「話もお聞きになられましたか?」

 続いて投げかけられたルスターの問いに、カイは素直に肯いた。

「盗み聞きするつもりはなかったんです。ただ、腹が立つけどやっぱり剣技は見ていて参考になるなと思ったら、足が動かなくて。たまたま、声が聞こえる距離で、会話の中に聞き覚えのある名前が、あって……」

「では、私が夕刻にお話した聖騎士がどなたであるかも?」

「……はい」

 カイは唇を噛み締める。

 元よりある程度の予想は付いていた。ルスターがわざとらしいほど名前を避けていたので、すでに名前を知っている人物なのかもしれないと疑いはじめた瞬間、ジオールかもしれないと思いついたのだ。カイが見知った聖騎士の中で、右側に剣を下げていた者は、ひとりしか居なかったがゆえに。

 まだ予想でしかなかった時から、カイは思考を巡らせていた。その人物に対して自分に何ができるのか。対面した時、なんと言えば良いのか――だが予想が確証に変わった瞬間、いくつもあった候補は瞬時に失われ、カイはジオールに見つからないよう、宿舎の影に身を隠す事しかできなかった。

「私は、自分を恥ずかしく思います」

 言い表す形が見つからず、カイの中でくすぶっていた想いが、ルスターによって語られる。

 だが彼は、カイの想いを代弁したわけではなく、真実彼自身の想いを語っているだけなのだろう。俯き、暗い大地を見下ろす眼差しが、深い悔恨を物語っている。

「当然のように、ジオール殿は今でもジーク殿を恨み、憎んでおられるのだ、と思い込んでおりました。憎悪によって絶望から立ち直った強い方だと信じていたのです。でも、それは侮辱でしかなかった。真実のジオール殿は、私などの想像を絶する、健やかな強さをお持ちだったのですから」

 カイは強く首を振り、自分自身を責めるルスターを否定した。

「だって、そんなの、あたりまえですよ。普通、簡単には忘れられません」

 喉に詰まる言葉を区切りながらこぼすと、ルスターは小さく肯いた。

「俺、利き腕を失った人に会えたら、ジークの代わりに謝るべきなのかとか、そんな事ばっかり考えてました。もう、絶対に、しませんけど……なんて言うか、なんて言っていいのか」

 許されたのだと思う。ジークは、ジオールに許されていたのだと。

 もしもカイが訊ねたならば、忘れ去る事は自身の救済であって、ジークを許したわけではないと、ジオールは言うのだろう。むしろ、罰なのだと。ジークは忘れ去られた事も知らず、死の瞬間まで悔やみ苦しみ続けたであろうから。

 それでもカイは嬉しかった。許された気がした。至上の幸福にすら思え、溢れる感謝をジオールに伝えたかった。同時に、その欲求に耐える事こそがカイにできるすべてだとも知り、隠れる事しかできなかったが。

「ルスターさん、俺、幸せだったんです。とても、とても。トルベッタで、ジークと、魔物狩りとして生きてきて。叶うなら、ずっとそうしていたかったくらいに」

「はい」

「だけどそれは、誰も許さない幸福なのかと、思って」

「あまりうかれないほうがよろしいのでは?」

 満たされ、溢れかけていた想いの温かさに、水を注す男の声。心は急速に冷え、カイは顔中に浮かべていた笑みを消し去り、声がしたほうに振り返った。

 何も知らない者の目には優しく映るはずの微笑みが、仮面でしかない事を、カイは知っている。その向こうに隠すものを探る気にもなれず、ただ無言で睨みつけた。

「本当に許されたのだとしても、それはジーク殿であって、貴方ではないのです。ですからあまり迂闊な発言をなさらないでください。いつ、どこで、誰の恨みを買うか判りませんよ」

「だからなんだと?」

「幸福な過去、大いに結構。ですがそれは御心に秘めたまま、今後一切口に出さない事をお勧めします」

「お前の言葉に、俺が素直に従うとでも――」

 素早く繰り出された拳が、カイの真横をすり抜け、背後の壁を強く打った。

 壁に預けていた背に振動が伝わり、身動きすらできなかった自身の未熟さに怯えたカイは、視線のみを動かして壁についた拳を覗く。

「いつ、どこで、誰の恨みを買うか判りません」とハリスは言ったが、考えるまでもない。カイは今、この場で、ハリスの恨みを買ったのだ。もしカイが神の子でなければ、拳は迷いなくカイを打ち、カイの体を吹き飛ばしていた事だろう。

「お優しいカイ様の事です。すでに気付いておられるのでしょう? 貴方とジーク殿の幸せのために、犠牲になったものはなんなのか。だからこそ貴方は、一時は憎悪すら抱いた相手に、同情しはじめているのでは?」

「それは」

 カイは弱々しく首を振った。その通りだと心で認めながら、体が勝手に拒否したのだ。

「ジーク殿が神の定めに逆らったからこそ、シェリア様は運命に疑問を抱かず、逆らわないよう育てられた。つまりは、貴方が親の温もりと幸福を知る代わりに、シェリア様は楽しい時に笑う事も、悲しい時に泣く事もできない方になってしまった――それでも私は、ジーク殿を許しているのです。私にとってあの方は、少なからず恩のある上官であり、友とも思う方でしたから」

 カイは硬直しかけた体を無理矢理動かし、拳を繰り出した男の顔を見る。

「でも、貴方は違う」と無言で語る眼差しは、口元と違って笑っていなかった。

 虚勢を張り、言い返す事はできた。お前に許されなくても構わないと、それだけ言い放てばすむ事だった。

 だというのに声をだせず、穏やかながらも強い感情を押し付けるハリスの目を見つめ返す事しかできなかったのは、ハリスの言葉を正しいと感じる想いが強かったからだ。シェリアを追い詰める行動したのはジークで、自分は物心付いた時から存在した環境を受け入れただけだなどと、ジークを貶める気は毛頭なかった。

「ハリス殿、カイ様に対してお言葉がすぎます」

 ルスターの手がハリスの腕を掴む。穏やかな、それでいて信念の篭る声に、ハリスは壁に打ちつけた拳を崩した。

「申し訳……」

「謝らなくていい。俺も、お前を誤解していた事を謝る気はないから」

 カイが言うと、見下ろすハリスの目が、少しだけ大きくなった。

「俺は単純にお前の事を、性格が悪いんだと思っていた。違うんだな。お前はただ、俺の事が嫌いなだけなんだ」

「カイ様、それはあまりにも」

「さすがにお気付きになられましたか」

 この時ハリスが浮かべた微笑みに、嘘や偽りは感じ取れず、カイは珍しく不愉快な気分にならなかった。

「ハリス殿も、何を認めているのです!」

「言っただろう? 君は私を買い被りすぎだ、と。私は親子ほど年の離れた少年に剥き出しの感情を悟られるほどの、だたの大人げない人間だ」

 呆気に取られたルスターの腕を振り払ったハリスは、この場を立ち去るために背中を向ける。一瞬覗いた眼差しは、愛しむかのように星を見上げていて、自分に向けるものとずいぶん違うなとカイは思った。

「シェリア様には、帰る幸福などありはしない」

 歩き出す直前にこぼした言葉は、風に飲まれて聞き取り辛かったが、カイは確かに胸に収める。

 耳に届く深いため息につられて首を動かすと、眉間に皺を寄せてこめかみを押さえるルスターが、カイと同様にハリスを見送っていた。

「苦労が多いですね、ルスターさん」

 ルスターは再びため息を吐いた。

「こういった役割は本来、ハリス殿が要領よくこなすはずのものなのですが、当のハリス殿が一番奇怪な言動をされる。何を考えておられるのか」

 カイは肩を竦めてから答えた。

「言っていた通りじゃないですか? あいつは本当にシェリアの事が大切で、だから俺の事が嫌いなんですよ」

「それではただの逆恨みではありませんか。私とて、シェリア様の件については腹立たしいと思う事もありますが、その怒りはシェリア様をあのように育てられた神殿上層部に向けております。そうでなければ……私はけしてそうしませんが、シェリア様に普通の少女としての運命を与えなかった存在を責めるべきです」

 意外にもなかなか危険な発言をするものだと、カイは少しだけ楽しい気分になり、顔を背けて小さく笑った。

「そう言ってもらえると、俺は助かりますけど……意味も判らず喧嘩売られるよりはすっきりしたので、別にいいんです。それに、こっちも遠慮なく嫌えますからね。今までも遠慮なんてしてませんけど」

 ハリスがカイに吐き捨てた言葉のすべてが本音であったのか、カイには判らない。だが、ただひとつ、独白かすらも判別つかないほど弱く落ちた最後の言葉だけは、紛れもない真実だった。

 だからこそ余計に、幸せになってほしいと願うのだろうか。

 カイはわずかな星明りのみが照らす薄闇の中、冷たい空気で肺を満たした。

「俺だって、帰れはしないんだ」

 思い出に浸る事はできても、過ぎ去った時間を取り戻す事などできない。たとえすべてのしがらみを振り切り、トルベッタに帰れたとしても、失ったものは返ってこないのだから。

 だから――だから、もう、迷いはしない。吐きだした透明な息を見つめながら、カイは誓う。

 戻れないならば、目指す場所はひとつしかないのだ。

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