追想 10

 ゆっくりと鞘から引き抜かれた剣が、篝火の煌々とした輝きを反射する。炎の色を写し取った刃は妖しく、剣の持ち主が浮かべる笑みは魔に魅入られたかのようだ。

 無言で剣先を向けるハリスに笑顔を返す気も起こらず、ジオールは直立の姿勢を保ったまま彼を見つめる。続いて、自身に向けられた刃を見下ろした。

「なんのつもりだ」

 無機質な声でジオールは訊ねた。

「演習場にお呼び出しする理由など、ひとつしかないでしょう。まして、私はこうして剣を抜いております」

「貴公は遠征より戻ったばかりであろう。せめて今夜は充分な休息を取ったらどうだ」

「それも考えたのですが、一刻も早く貴方と剣を交えたい気分だったのです」

 隙のない構えでジオールの前に立ちながら、篝火に照らされる瞳は少年のように無邪気で、ジオールは静かに息を吐いた。

「貴公のみが疲労を重ねた身という不平等な条件下でようやく対等、とでも?」

「他意はありません。本日の貴方が戦場より帰還したばかりだとしても、私は手合わせを申し出ました」

「勝手な事を。仮にそうであったならば、私は即座に断るぞ」

 ジオールは剣を抜き、切っ先をハリスに向けた。2本の剣が揺らめく灯りを跳ね返す様が眩しく、ゆっくりと目を細める。

「酔狂な事だ」

「お付き合いくださるジオール殿も、なかなかに」

 まったくだ。

 ハリスを睨みながら吐き出した呆れ混じりのため息が、自分自身に向けたものである事を自覚しながらジオールは、息を吸い込むと同時に剣をわずかに持ち上げた。

 刃先が触れ合う音が響くと同時に、小さな動作で剣を振り下ろす。ハリスの動きもほぼ同様で、ふたりのちょうど中心で刃が重なり合い、ちりちりと音をたてた。

 拮抗する力の向こうに見える男の瞳は、相変わらず楽しそうに輝いていた。いい大人が何をそんなにはしゃいでいるのだと、一言言ってやろうとしたジオールだが、その瞳に釣られて剣を抜いた己もしょせんは同類だと知っていた。

 どちらともなく1歩ぶんの距離を置く。その後は一拍すら置かず、互いに剣を払い、振り下ろし、あるいは振り上げ、幾度も刃を交えた。刃が受けた強い振動が柄から手に伝わり、徐々に負担となって手首や腕に圧し掛かるが、休む余裕も引く余裕も互いに失っていた。

 再び刃が重なる事で、均衡が訪れたかに見えた。しかしやや上方から力を加えるハリスが、剣を持つ右手に左手を添えると、緩やかに均衡は失われ、ジオールは歯を喰いしばった。ジオールは、添えて意味のある手を持っていないのだ。

 ハリスの剣をはじき、後方に下がって距離を作る。逃げたジオールが構え直す間に、やや体勢を崩していたハリスも、元通り隙のない構えを見せていた。

「私はずっと、貴方を妬んでいたのだと思います」

 わずかな息の乱れを除けば、戦いの最中であるとは思えないほどに、落ち着いた声による告白。

「面白い事を言う」

 冷たく返すと、ハリスは満面の笑みを浮かべた。

「本心ですよ。私も貴方のように、エア隊長を憎む理由が欲しかった。望まなくても毎日のようにあの人を思い出す、身を焼くような呪わしい感情に支配されたかった」

「酔狂な事だ」

「ええ、本当に、そうですね」

 ジオールが渾身の力を込めて振り払った剣を、ハリスは身軽な動きをもって紙一重で避けた。

「私はエア隊長を忘れてはならなかった。それなのに、放っておくと、思い出が徐々に風化していくのです。すべて忘れるまでには、あと何十年もの時間が必要だったでしょうが、それでも、失いたくないもの、失ってはならないものが、意志に反して失われていく事は、恐怖でした。忘れるな、と、私は毎日のように自分に言い聞かせ続けました」

 切り返しの攻撃を、今度は剣で受け止めたハリスは、渇いた目でジオールを睨み上げた。

「勝手な事を」

 剣を持つ手に体重をかけたまま、ジオールはハリスの足を払う。ハリスにとってそれは予想外の攻撃だったようで、素直に足を取られ、その場に身を崩した。

 黙って剣をハリスに突きつければ、勝敗は決まっていただろう。しかしジオールはそうはせず、剣を右手に持ち変えたのみだった。

 左手ならばやすやすと操れる剣を、右手では持て余す。柄を握る手は弱々しく、重みとも言えない重みに腕は震える――そんな無様な姿を、ハリスに見せつけるために。

「忘却は」

「ジオール殿……?」

「忘却は、神が人に授けた救済だ」

 滑り落ちる剣をそのままに、ジオールは呟いた。刃の先が地面に刺さり、土を抉る様を見届けてから、続ける。

「忘れられるならば、忘れればよいのだ。憎悪も、呪いも、苦しみも悲しみも、何もかも。そうして幸福を得る事こそが、我ら地上の民に許された奇跡ではないか」

 傷付いて苦しんだ若き日に、飽きるほど自身に語りかけた言葉を落とすと、ハリスは驚愕に目を見開く。

 ジオールは理解してもらおうとは思っていなかった。エア・リーンに対して正反対の想いを抱き、正反対の行動を取ってきたハリスに、理解できる事とも思わなかった。

「ジオール殿、貴方は」

「私が今日まで呪い続けていたと思うのか。なぜ、私が、あの男に、そこまでしてやらなければならん? 私はこの左手が思い通りに剣を操れるようになった頃、忘却を決意していた。どうせ、あの男は――」

「エア隊長は、ずっとジオール殿の事を覚えておられたようですよ」

 突如割って入った第三者の声に、ジオールとハリスは同時に振り向く。ふたりがよく聞き知った声の主は優しく、温かな眼差しをふたりに向けていた。

 炎に照らされた蜂蜜色の髪が、柔らかに揺れる。

「ルスター、どうして」

「先ほどカイ様がおっしゃっていたのです。エア隊長は、トルベッタへの逃亡中についた傷に苦い思い出を宿らせて、時に苦しんでいたのだと。頬の傷だそうですよ、ジオール殿」

 ルスターは彼自身の白い頬に触れ、ジオールがかつて深く沈めた記憶を刺激した。

 幼子を足元に庇い、右手で剣を振るう男。全身を紅く染めていたが、自らの身から流れるものは微量で、ほとんどは返り血だったのだろう。

 エア・リーンは、ジオールと共に行動していた4人をあっさりと斬り伏せると、ジオールに振り返った。最後のひとりだと、余裕さえ浮かべはじめたその顔が、冷たく強張った瞬間を思い出すのは容易い。

 最後のひとりがかつての部下だとは思っていなかったのだろう。あからさまに動揺したエア・リーンは、突き出した剣を止める事はできなかった。

 それでも彼ならば、ジオールが反射的に振り上げた剣を避ける事ができたはずだ。しかし彼はそれをせず、頬に大きな切り傷を作った。

 血まみれの剣を鞘に押し込み、幼子を抱いて走りだす男の頬を伝う血液が、涙のように見えたのは、朦朧とした意識が見せた幻だったのだろう。

「知っている」

 吐き捨てるようにジオールは言った。

「ジオール殿?」

「エア・リーンの事だ。最後の瞬間まで、私が残した傷に私を思い出し、それと共に己の罪を思い出し、悔やみ、苦しみ続けてきたのだろう。判っていて、私は忘れる事を決めたのだ」

 ジオールは土の上に倒れた剣を拾い上げ、土を掃い落とすと、鞘に戻した。

「忘れ去られた者は、悲しいですよ」

 ハリスの言葉はひとり言にも聞こえたが、間違いなくジオールに向けて投げられていた。

「だから、ですか。自らは忘れ去るという救済を得て、相手には忘れ去られるという罰を与えたと、そう言う意味ですか」

 今度ははっきりジオールの目を見て投げられた問いだった。ジオールは迷わず肯く事で答える。

「その通りだ。何か問題があるか?」

「いいえ。感服しました。非常に合理的な上、あの人を擁護したいなどと考えている甘ったれた私にも優しい、素晴らしい選択です」

 ハリスは両手を上げて降参の態度を示した。冗談で笑い飛ばそうとしている様子はなく、本気で感心しているようだ。

「エア隊長は、死の瞬間に許しを請いました。ですが、許しを請う相手の中に、貴方の名はなかった。貴方に憎まれたまま死ぬ覚悟を決めていたのでしょう。なのに、当の貴方がエア隊長を忘れていたなんて、笑い話にもならないほど惨めな死に様です」

「愚かな男だな」

「まったくです」

 ハリスは肩を竦めて笑い、ルスターは小さく咳払いをした。

「その愚かな男にいつまでも捕らわれ続ける、貴公らが哀れなほどだ」

「それも否定できません」

「記憶そのものを捨て切れなかった、私自身も同類なのかもしれないが」

 右手で剣を振るわない限り、忘れられると思っていた。そして昨日までのジオールは、エア・リーンを思い出す事なく、幸福と言える生活を送っていたのだ。

 だが今日、カイをはじめて見た瞬間、完全に忘れる事などできなかったのだと、思い知らされた。

 姿形はけして似ていない。性格も、表情も、さして似ているとは言えないだろう。だがなぜかカイはエア・リーンに似ていて、不意に視界に入ると、驚きのあまり心臓が跳ねた。それこそが、忘れ切れなかった何よりの証。

 いや――それももう、どうでもいい事なのだろう。すべては、終わっているのだから。

「これでもう用は済んだな」

「は……」

「今夜は遠征の疲れを癒す事に集中するがいい。ルスターも早く部屋に戻れ。カイ様は今宵が大神殿で初めて過ごす晩なのだ。何かしらの用事や質問があるかもしれん」

 ジオールはふたりの返事を待たず、その場をあとにした。呆然としていたのだろう、背中の向こうに残した者たちから小気味良い答えが帰ってくるまでに、しばしの時間を必要とした。

 辺りから人の気配が失われた頃、ジオールは無数の星が瞬く空を見上げる。

 完璧な静寂が訪れる夜になる予感がした。周囲だけではなく、自分自身の心にまでも。

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