神の娘 12
幼い頃からずっと、越えてみたいと望み、焦がれ続けていた壁があった。
壁は大きく、強く、常にカイの前方にそびえ続けていて、その向こうを望む事は永遠に叶わない夢かもしれないと、不安に駆られる日もあった。それでもいいのかもしれないと諦める日々も、ほんの少しだけ。
越えられるならば、方法は何でも良かった。必死になってよじ登っても、横に押し退けるでも。自らの手によって壁を越えたのだと、胸を張って言えるならば。
だのに、壁は自分ではないものに破壊され、目の前から失われた。
こんな結果を望むわけがなかった。自力で乗り越える事は不可能だったのだと、何者かがあざ笑っている気がした。それに――そう、今のカイは、長年の望みが断たれた悔恨の情に駆られているわけではない。
越える事を望んでいた。目の前から背中の向こうへ追いやれればと願っていた。
けれど、失いたくはなかった。
永遠に、ではない。それは無理だとわかっている。だが、こんなにも早く、消えてしまうなんて。
「ジーク」
呟いただけの声は、静かな空間に響き渡った。ひとりきりとはこういうものなのだ、と思い知らされながら、カイは乾いた瞳を窓の外に向ける。
寂しい。
ああ、そうだ、悲しいのだ。目の前にあり続けた壁がなくなってしまった事実に、ただ悲しむしかできないでいるのだ。
壁の向こうに広がる世界は果てしなく、眩暈がするほど明るいだろうと思っていた。いざ、そこに直面すると、あまりの暗さに眩暈がする。
「ジーク」
なぜ、あんな魔物を相手に、命を落としてしまったのか。
ジークの剣の腕は途方もない。あの程度の魔物にやられるはずがない。よほど油断しない限り、傷ひとつ負う事すらないはずだ。
だと言うのに、神の腕は食いちぎられ、多量の失血によって命を落としてしまった。ありえない。ジークが、そんな死に方をするなどと、現実に起こってもまだ信じられない。だってジークは誰よりも強かったのだ。深手を負っていたわけでも、体が思い通りにならないほど年老いていたわけでもないのだ。
一体、どうして――見つからない結論を探して思考する事が億劫になり、カイは視線を巡らせる。そうして、棚に立てかけたままの剣を見つけると、立ち上がり、歩み寄った。自分でそこに置いた記憶はない。きっと誰かが気を効かせて届けてくれたのだろう。
剣を手に取り、鞘から少しだけ引き抜く。
繰り返し丁寧に手入れされ、長年愛用されてきた父の剣。カイが愛用してきたものよりわずかに刃が長いが、重さはさして変わりが無いようで、心地良く腕にのしかかってきた。
「ジーク……」
その行為に意味はないと頭では理解していながら、失ってからこれまで、何度父の名を呼んだだろう。
呼び続ければ、いつか答えてくれるのではないかと、心のどこかで甘えているのかもしれなかった。とうに熱を失った体は、街外れの墓地に丁重に葬られ、土に還りはじめているだろうに。
カイは剣を鞘に納め、胸に押し抱く。
暗く、静かに垂れ込めた空気が、胸につかえて苦しかった。この空間に溢れる、何気ない日常の思い出が、更なる重石となってのしかかってきた。
このままでは正気が押しつぶされてしまう。そんな気がして、カイは外の空気を求め、扉を開けた。
家の中に流れ込んでくる外気が、冷たく頬を撫でる。導かれるように、右足が一歩目を踏み出した。
父を失ってからこちら、空ろな心で外に出ると、必ず広場の惨劇跡に辿り着く。今日もきっとそうなるのだろうとぼんやり思いながら、それでいいやと思う自分も心のどこかに存在していた。
茜色の空が眩しかった。そう言えばここ数日、ろくに青空を見ていない。意図的に避けていたつもりはないので、空の色を忘れるほどに気落ちしていたのだろう。
体が勝手に傾いた。家の前の通りを右へ。勝手に広場へ向かおうとする足を、カイは止めなかった。
進もうとした道に、人だかりを見つかるまでは。
「カイ!」
道をふさいでいたのは、年齢も性別もばらばらな住人たちが合わせて10人ほど。そのうちのひとりがカイの存在に気付き、名を呼ぶと、残りの全員がカイを見た。
多数の視線をあびながら、状況を把握できず戸惑うカイは、その場に立ち尽くす。
集団は、衛視と思わしき格好の男たち3名を除くと、近所に住む女性たちだ。よく見ると、男女に分かれた集団で向かい合うように立っていると判った。ぎすぎすした空気も漂っていて、何かしら対立していたのかもしれない。
「どう……したんだ?」
カイが訊ねると、衛視のひとりが口を開きかけたが、中年の女性がそれを遮るように口を挟んだ。
「なんでもないよ。ちょっとした揉め事さ。あんたは家で休んでな」
「しかしっ」
「うるさいね! あんたたちが気合入れて、自分たちでふんばればすむ話だろ!」
諦めきれない様子で、別の衛視が反論しようとすると、別の女が遮るように怒鳴る。その繰り返しを見守りながら、この奇妙な集団の意図や言い争いの原因を、カイはなんとなく察してしまった。
優しい人たちだな。
数日ぶりに、悲しみ以外の感情に心を揺らしながら、カイは手をすべらせ、胸に抱いた剣の柄に指をかけた。
「どこに出たんだ?」
確信を抱きつつカイが問うと、衛視たちも女性たちも黙り込み、再びカイに視線を集めた。
戸惑い、息苦しさ、罪悪感。それらが、全員の表情に浮かんでいる。衛視たちには、喜びか、安堵のようなものも混じっているだろうか。
きっとまた、魔物が現れた。衛視たちは街を守るため、いつも通り魔物狩りを呼びに来た。女性たちは、家族を失ったばかりのカイに静かな休息を与えようとした。小競り合いが起きるのは必然だ。
いつも通りであろうとした衛視たちと、自分を気遣ってくれた女性たちへの感謝を胸に膨らませ、カイはゆっくりと瞬きをする。空ろな心に力を呼び戻し、強く柄を握った。
「案内してくれ」
「カイ!?」
「何言ってるの、カイ!」
女性たちは「無理をするな」とでも言いたげに、口々にカイの名を呼んだ。
無理をしている。そうなのかもしれない。
だが、魔物の存在に気付きながら、知らんふりして休む事もまた、自分にとっては無理なのだ、きっと。
「気を使ってくれてありがとう。でも、俺は行く。戦いたいんだ」
ジークの敵を取るためでも、悲しみを紛らわせるためでもない。どんな時であろうとも、魔物と戦う事、トルベッタを守る事が正しいのだと、そう思えたからだった。
きっとジークも、今ここに居たならば、「それでいい」と薄く微笑みながら、背中を押してくれるだろう。
大切なものを失って悲しいけれど。
何もかもを投げ出してしまいたいほどに、とても、とても、辛いけれど。
失った悲しみに暮れ続ける事で、再び大切なものを喪失する事になれば、それはもっと辛いだろうと思うのだ。
「俺は、トルベッタを守りたい」
生まれた場所は違うけれど、物心付く前から育ち、父と共に過ごした思い出が色濃く残る故郷を。
父が、守り続けていたものを。
もう、失いたくないのだ。大切なものは、何ひとつ。
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