神の娘 13
鋭い牙を剥いた、黒き大蛇。それが同時に2匹飛びかかってくると、カイは1匹を避け、もう1匹を叩き斬る。あと少しのところで分断されそうな大蛇の体は、皮一枚で際どく繋がったまま、大地に血の池を作った。
はじめて振るうジークの剣は、手に馴染んでいないという点においてはアシェルで貰ったものと同じ条件のはずだが、不思議と使いやすい。ジークが愛用し、手入れしていただけあって、切れ味も鋭かった。
それに魔物も、過去に戦ってきたものと比較すればさほど強いとは言えない。すぐに片付けられるだろう。そう冷静に判断したカイは、安堵しつつ、しかし油断はしないよう気を引き締めた。
残された大蛇が、再び飛びかかってくる。噛みつかれぬよう身をかわし、体勢を立て直しながら剣を振り下ろす。今度は、綺麗にふたつに分かれた。数度痙攣した後、動かなくなった。
カイはひと息吐いてから、剣にこびりついた血を拭う。いざという時に使えなければ困るため、元より武器は大切にしてきたつもりだが、父の形見となれば、余計に気合が入った。もうそばに居てくれない父の代わりに、ずっと共にあってほしいと願いながら、丁寧に血を拭き取った。
空気が動いたのは、剣を鞘に戻そうとした瞬間だった。
カイは剣を構えながら、かすかに耳に届く音を頼りに振り返る。踏み分けられた草が鳴く場所では、犬に似た獣の姿をした魔物が唸っていた。
しかし魔物は、カイに飛びかかってはこなかった。唸りは威嚇ではなく、痛みによる悲鳴だったのだ。魔物はだらしなく口を開いたまま、大地に横倒れになり、そのまま動かなかった。
「ハリスさん」
獣型の魔物を切り捨てた男を見つけ、カイは身を強張らせる。無意識に彼の周囲を探し、他に人――少女――が居ないかを確かめていた。そうして、誰も居ない事が確認できると、体から力を抜く。
「余計な助力かとは思いましたが、少し数が多いようですのでしたので、勝手に助太刀させていただきました」
「ありがとうございます。助かりました」
軽く言葉を交わし、視線を交える事でハリスの微笑みに応えると、カイはすぐさまハリスに背を向ける。ハリスに対して思うところがあったわけではなく、やや離れたところから届く木の枝が揺れる音に反応しての事だ。
カイが振り返った直後、高い木の枝から影が飛び降りてきた。ギィ、と重い鳴き声を響かせ飛びかかってきた影は、体は小さめだがすばしっこい魔物だ。カイよりあきらかに短い腕を伸ばし、その先端にある鋭い爪で攻撃をしかけてくるので、当然カイは避けるのだが、相手の速さに対応しきれず、体のあちこちにかすり傷を作る事となった。
振り下ろすたびに避けられた剣が、4度目にしてようやく魔物の頭部に埋まった。体の小ささから想像した通り、魔物にしては脆い。一撃であっさりと絶命した。
だからと言って、休憩する間はなかった。草を踏み分けて走り寄ってくる魔物が1体、木の上から飛び降りてくる魔物が2体。飛び降りてくる魔物のほうが動きが早く、カイがそちらを向くと、背の向こうでハリスが動く気配がした。彼がカイの背を守り、もう1体の魔物の相手をしてくれるならば心強い。カイは安心して目の前の魔物に対処する事ができた。
それにしても、とカイは思う。今日は魔物の数が多すぎる。苦戦しない程度の小物ばかりだが、この調子で延々と攻めて来られては、いずれ疲れ果ててしまうだろう。
魔物たちの襲撃がいつまで続くか判らないのだから、無駄に体力を消耗するわけにはいかないと思うと、素早くカイの攻撃を避け続ける魔物たちが煩わしい。自然と苛立つ心を抑え、カイが魔物を斬ろうと剣を振り上げた瞬間、地を駆ける魔物を薙ぎ払ったハリスの剣が、1匹の進行方向に立ち塞がった。
偶然のように見える。だが、おそらくは意図的に、なのだろう。
声をかける余裕が無かったカイは、感謝の言葉は後にしようと決め、逃げ道を失った魔物を討った。容易に叩き潰せた1匹の醜い死骸に見向きもせず、残されたもう1匹に向き直る。
背中にハリスの背が触れた。カイの真逆を見ている彼は、未だ警戒を解いていない――また新手が来ている、という事だろう。
「カイ様、ものは相談なのですが、相手を交換しませんか? その方が効率が良いと思います」
「そんな事、戦闘中に言われても、ですね」
「騙されたと思って、試してみてください」
ハリスが軽く肩を叩いてくる。それが合図なのだろうと瞬時に悟ったカイは、1歩踏み込んで立ち位置を入れ替えた。目の前に迫った大きく開かれた魔物の口に咄嗟に剣を叩き込み、引き裂きながら地面に叩き付ける。
次が来るわずかな余裕で背後を覗き見ると、カイのものとは比べものにならない素早い剣戟が、たやすく魔物を引き裂いていた。
ハリスの一撃の重さは、ジークはもちろん、おそらくはカイよりも軽そうだ。しかし、とにかく早い。なるほど確かに彼の言う通り、こちらの方が効率が良さそうだ。
募る焦りや苛立ちがいくらか解消され、それでも中に燻るものを、カイは新たに迫る魔物に叩き付けた。
最終的に、何体の魔物を切っただろうか。判らない。10を越える頃には、数えるのも馬鹿馬鹿しくなったからだ。向かってくる魔物をがむしゃらになぎ倒し、ようやく音も気配も消えた。ひとまず新手が尽きたと判断し、カイは肩で息をしながら、その場に座りこんだ。
「お怪我は大丈夫ですか?」
ハリスのほうも片が付いたのか、剣を鞘に収め、カイの元に歩み寄って跪いた。
カイの服はところどころ破れており、赤く染まっている。他者の目には、大怪我をしているように映るかもしれない。カイは、乱れた息をできる限り押さえ込み、小さく笑ってみせた。
「大丈夫です。全部かすり傷ですから。放っておいても、すぐ、直ると思いますけど、念のため、あとで傷薬でも塗っておきます」
「そうですか」
「それより、助けてくださって、どうもありがとうございます。俺ひとりじゃ、駄目だったかもしれない。ハリスさんのおかげで、傷も少なくてすみましたし」
切れ切れの言葉で感謝を伝えるカイに、ハリスはわずかに微笑みながら、左右に首を振った。
「お気になさらないでください。ただの親切心だけで助力を願い出たわけではございません。貴方をお守りする事は、我ら聖騎士の使命です」
カイは瞬時に表情から笑みを消し去った。
そうだった。シェリアへの怒りのあまり、すっかり忘れていた。この男は、カイに「滅び行く大陸を救ってほしい」と言ったのだ。
それはつまり、カイとシェリアを――
カイは疲れた体に鞭打って立ち上がり、数歩後退してハリスとの距離をおいた。
父の死に嘆く自分にシェリアが投げた言葉を、カイは一生忘れないだろう。だから、あの、ただ美しいだけの少女の手を取って生きていけと言われても、絶対にお断りだった。
「俺は貴方にもエイドルードにも従いません。俺が貴方の言うように、エイドルードの子だとしても」
カイは静かに告げた。揺るぐ事のない本音を。
カイには誓う神が存在しない。その代わりに、今は亡き父に誓う。意に沿わないならば、天上の神と呼ばれる存在の定めを受け入れはしない。逆らう事も辞さないと。
「あんな頭のおかしい女と結婚しろだなんて、冗談じゃない」
「どうしてもとおっしゃるのでしたら、婚姻を結んでいただかなくても結構です」
表情を変える事なく、平然と言い放つハリスに呆れて、カイは低く唸った。
「なんですか、それ。あの女を孕ませれば、それでいいって事ですか?」
「良い、とは口が裂けても申し上げられませんが、それもひとつの方法だとは思っております」
カイは息を飲み、ハリスに向ける視線を強めた。
「カイ様とシェリア様の間に生まれる御子は、この大地を救うために必要なお方。エイドルードに仕える者として、この国の未来を憂う者として、けして譲れない存在です。しかし、神の御子以外に関しては、譲歩する事もやぶさかではないのです」
「俺は、貴方をもう少し常識的な人だと思っていました」
「人が定めた常識など、神の定めの前に何の意味がありましょう」
ハリスは立ち上がり、カイとの距離を1歩詰めた。
「私はシェリア様の望みを叶えてさしあげたい。一番良い形はもちろん、貴方とシェリア様の正式な婚姻です。しかし、シェリア様は現状、カイ様個人に特別な感情を抱いている様子はございません。エイドルードの後継者、真なる神の子の御生母になる事さえ叶えば、きっと満足してくださります」
全身の皮膚が粟立つ感覚に、カイは震えた。
シェリアだけではない。ハリスもまた、カイにとっては理解できない人種だった。初見から不可解である事を伝えてきたぶん、シェリアのほうがまだましだったかもしれないと、今更思う。
恐ろしいのか、気持ちが悪いのか、ただ不愉快なのかは判らなかったが、目の前に立つ男から逃れたいと心底願った。しかし、先ほど詰められた1歩が大きい。ふたりの間にある残された距離は短すぎ、ハリスが本気を出せば、カイなどすぐに捕まるだろう。
「なぜ、俺とあの女の子供が必要なんですか」
カイは足をすり、少しずつ後退する。
その事実に気付いているであろうに、ハリスは1歩も動かなかった。
「先日もお伝えした通り、滅びゆく大地を救うためです」
「その役割を、神の力を受け継いだ子が担うと? なぜ、子供じゃなければならないんです? これまでどおり、エイドルードが救えばいいじゃないですか。神様、なのでしょう?」
ハリスの浮かべる微笑みに変化はない。だが、瞳が瞬時に陰った事を、カイは察する。
ジークの死を前にして見せたものと同じ輝きでありながら、奥底に眠る光は異なる、不思議な切なさを秘めた眼差しだ。
「トルベッタの民は、エイドルードをお恨みでしょう。エイドルードは大陸のほとんどを魔物から救いながら、トルベッタなど一部の地域を切り捨てたのですから。ですが、どうぞお許しください。魔獣との戦いによって深く傷付いたエイドルードには、大陸のすべてを守る事など、不可能だったのです」
「それは、俺の求める答えではな……」
「大神殿には大司教、砂漠と森の神殿にはふたりの妻。そうして地上の民の力を借り受けながらも、エイドルードは3つの神殿が造る図形の中だけしか守れなかった。さぞ無念だった事でしょう。愛する地上の民を、たとえ1部とは言え、見捨てねばならなかったのですから」
「ハリスさん?」
エイドルードの行動など、想いなど、聞きたかったわけではない。的外れの返答を延々と続けるハリスをいぶかしみ、カイは男の名を呼ぶ。
呼びながら、ハリスの語り口調にわずかなひっかかりを覚えたカイは、一瞬だけ考えた。もしかするとハリスは、的外れな返答をしているわけではないのかもしれないと。
「ハリスさん、エイドルードは」
「伝承では、エイドルードは魔獣に刻まれた傷を癒すために天上に昇った事になっています。けれど真実は違うのです。エイドルードは地上の民を守るために、残された力のすべてを使っていた。傷を癒すための安らぎなど、我らの神にはなかった」
「ハリスさん!」
カイはハリスの名を叫んだ。彼の、悲哀の中に潜む空ろへと向かいつつある意識を、び戻すために。
ハリスは目を細め、カイを見つめた。
その顔にはすでに笑みなどなく、カイは自身が立てた予測は当たっていたのだろうと、おぼろげに理解した。
「もうこの地に、空に、神はないのです」
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