神の娘 11

 室内を照らしていた燭台の明かりが消えてから、どれほどの時間が過ぎただろうか。

 昨晩までにすり減らした蝋燭はだいぶ短くなっていて、今夜を乗り越えるのは無理だろうとはじめから判っていた。そのうち新たな蝋燭をもらいに行こうと思いながら椅子に腰掛けたまま、立ち上がる事すらせずに時は流れて、今に至っている。

 朝が早い者ならばすでに就寝する時間だろうが、これといった予定も無く、客人扱いを受けているハリスにとってはそうではなかった。だが、何をすべきか考えつかず、全開にした窓から見える空や数多の星を眺めながら、緩慢な時間の流れを乗り切るという、無為な時間を過ごしている。明かりを点ける無意味さこそが、立ち上がる気力を奪う一番の理由かもしれなかった。

 ハリスは両手の指を膝の上で絡めた。右手に別のものが触れる事で、二日前に覚えた感触が蘇り、慌てて手を離す。

 たったそれだけの事に怯え、息を乱す己は滑稽だ。しかしハリスは、自身を責めるつもりは無かった。

 この2日間、懐かしくも苦く美しい思い出と、2日前の感触が、交互に蘇って執拗に自分を責め立てているのだ。それ以上の苦痛を自分自身に与える事が、可能だとは思わない。

「隊長……」

 2日前に命を落としたこの街の英雄の葬儀は、今日の昼に行われたと聞く。参列したいとの願望を当然ながら抱いたハリスだったが、カイの気持ちを慮れば、できるはずもなかった。ハリスを目にすれば芋蔓式にシェリアの事を思い出して憤るであろうし、何より、ジークを殺したのはハリスと言っても過言ではないのだ。

 直接の死因は、魔物に負わされた傷だったそうだ。それだけを見れば、ジークの死にハリスが係っているとは言えない。だが、もしあの時自分と剣を交えていなければ、ジークだけでなく自分も魔物の存在に気付いていれば、彼の命は助かったかもしれないと、どうしても考えてしまう。

 深い闇の中で、強烈な罪悪感がハリスを苛んだ。

 ハリスがこうして苦しむ事を、故人が望んでいないだろうと頭では判っている。だが、彼の人の命を間接的に奪ってしまった事実に、後悔が残らないわけがなかった。

 そしてもうひとつ。悲しみに暮れながら、心のどこかで安堵している事実が、何より心苦しい。

 もし彼の死が大陸のために必要不可欠な運命のひとつなのだとすれば、誰かが彼の命を奪わなければならなかったのだ。

「誰か」は、自分ではなかった。

 自分が、直接、手をかけずに済んだ――

「俺の何が正しいんですかね、隊長」

 ハリスは死者の世界へと旅立った人の代わりに、闇を見上げながら語りかけた。

「こんなにも、弱いのに」

 闇に微笑みかけてから瞼を閉じ、更なる闇を呼び込む。ただ暗く、ただ静かな世界は、今のハリスにとって厳しくも優しい世界だった。

 その世界を破壊するように、静かに扉が叩かれる。染み入るような胸の痛みに安らいでいられた時間はあまりに短かく、落胆したハリスだったが、叩き方から予想される扉の向こうに立つ人物を思えば、ひとりきりである事に浸っていられなかった。

 即座に立ち上がり、部屋の扉を開けると、手にした燭台の小さな灯りに照らされる少女がひとり、そこに立っていた。

 ハリスが可憐で繊細な美に微笑みかけると、火の揺らめきと共に空色の瞳が瞬いた。感情が生まれたかのように見え、ハリスは驚きのあまり息を飲んだが、よく見ると少女はいつもと何ら変わりがなかった。揺れる炎が見せた幻だったのだ。

 気付かれないようにため息を吐き、ハリスは静かに礼をする。

「いかがなされました、シェリア様。このような時分に」

 シェリアは無言でハリスを見上げ、続いて灯りひとつない暗い部屋を眺めてから答えた。

「なぜ、わたくしは、カイ様にお会いできないのです」

 怒りや苛立ちが混ざっているわけではない、純粋な疑問だった。

 シェリアは自分とカイが結ばれる運命を疑わず、世界中に祝福されるべきふたりだと信じている。そんな彼女にとって、当の本人であるカイに拒否されるなどと想像も付かない事で、ようやく出会えた運命の相手と引き裂かれている現状に、首を傾げたくなるのは当然だろう。

 ハリスはシェリアの疑問を理解していた。だが同時に、カイの気持ちもある程度理解していた。彷徨うはずであった行き場の無い悲しみが、シェリアの――文字通り――心なき言葉によって強烈な憎悪へと変化した事に、気付かないわけがなかった。

 今、シェリアとカイが対面しても、カイが拒否をして終わるだけだろう。会わせる事は適切ではない。当然の結論を導き出しながら、しかし、とハリスは思う。一体いつならば良いのか、と。

 1日2日待つ時間はある。だが、カイが心の傷を癒やし、シェリアを許してくれるまでにかかる時間は、数日程度ではすまないだろう。1年2年も待つ時間の余裕は、あるとは言えない。

「現在、カイ様のお心は乱れておられます。ですから今少し、カイ様に休息を差し上げるべきだと私は考えいます」

「意味が判りません」

 そうだろう。この哀れな少女に判るわけがない。

 誰かを心から愛する事も、家族という温もりも、知りはしないのだから。

「人がみな、シェリア様のように正しいわけではありません。愚か故に、正しい事を後回しにして無為な時間を過ごす事も、時には必要なのです」

 変わらないはずのシェリアの眼差しであったが、蔑むような眼差しに変化したように、ハリスの瞳に映った。

「愚かな行いと知りながら放置する事もまた、愚かな行いです」

 迷いのない、正しい言葉。この少女にとっては揺るぎない事実であり、ハリスも頭では理解できている事だった。

 だが、心が否定する。

「私も、愚かな人間ですから」

 正しい答えも、ごまかす言葉も見つからなかったハリスは、シェリアの冷たい瞳の輝きに強く責められ、逃れる事も自身を守る事もできず、目を細めながら素直に返す事しかできなかった。

「そうですか」

 シェリアはハリスから目を反らし、俯く。小さな唇を引き締め、空ろな眼差しで、足元のあたりを見つめていた。

 目に映るものではない何かを探しているような視線。どうやら考え事をしているようで、珍しい、とハリスは思った。ハリスの知るシェリアは、自分ですぐに答えが出せない疑問を他人に投げかける事に、躊躇する娘ではなかったのだ。

「わたくしは、貴方の事をおかしな方だと思っていました」

 ようやく紡がれた言葉は、少女の護衛隊長となってからこちら、何度も言われてきた言葉だった。

「ですが、愚かな方ではないと思っていたのです」

 ハリスは思わず微笑んだ。彼女の偏った価値観によるただの評価であると判っていながら、彼女なりの心遣いのように思えたからだ。

「とてもありがたく、喜ばしい事ですが……買いかぶりです、とお返しするしかありません」

「どうやらそのようです。同様に、貴方を愚かではないと思っていたわたくし自身も、愚かであったという事なのでしょう」

「それは違」

「学ぶべき事はまだ、多くあるようです」

 少女は寂しげ――それはハリスが思い込んだだけで、本人はいつも通り無感情だったのかもしれない――に呟くと踵を返し、ハリスに背中を向けた。しかし、2、3歩進んでから立ち止まり、再び振り返ってハリスを見つめてくる。

「父は……賢き人も愚かな人も、等しく愛していたと聞きます」

 ハリスは力強く肯いた。

「はい。偉大なるエイドルードは、地上の民に寛大であられました」

「わたくしも、父のようにあるべきなのでしょうか」

 あまりにも真っ直ぐな問いかけに戸惑ったハリスは、思考する時にわずかに尖る唇を隠すために、口元を覆った。その手は、思考しながら自然と浮かび上がる笑みを隠すためにも役立った。

 3年前に初めて出会った時、この少女は絶対に変わる事はないのだと思っていた。だが、そうではない。近くに居なければ判らないほどわずかではあるが、確実に変化している。

 少なくとも3年前のシェリアは、自分が変化する可能性を口にする事などなかったのだから。

「私個人の意見になりますが、シェリア様はすでに充分すぎるほど寛大なお方だと思っております。貴女は、愚かな者を正そうとはしても、愚かな者を否定する事はありません」

 シェリアはゆっくりと瞬きをして、長い睫を揺らした。

「ですが、愚かなままの自分を受け入れてもらえた時、人は許された気になれるのだと思います。もっとも、すべてを許してしまえば、人は正しくなる事を忘れ、歩みを止めてしまうのでしょうが」

「貴方の答えは曖昧です」

 自身でも答えが出しきれていない事を自覚していたハリスは、シェリアの鋭い言葉によって自身の言が途中で遮られた事に、苦笑するしかなかった。

「常に、とは申しません。ただ、今のカイ様を、許してさしあげてください」

 シェリアはわずかに間を空けた後、静かに肯いた。

「判りました。もうしばらく、貴方の指示通りにしましょう」

「寛大なるお心に、感謝いたします」

 深々と礼をするハリスを気にも止めないのか、シェリアは再び踵を返し、その場を後にした。シェリアが手にしていた蝋燭の灯りの恩恵が受けられなくなり、徐々に遠ざかる足音が通路の向こうへと消えていくと、ハリスは顔を上げ、誰も居ない暗い通路を見つめた。

 偉大なる存在の意志に沿うために、誰よりも大切な少女の望みを叶えるために、託された少年の心を守り導くために、自分にできる事は何なのか。

 暗闇は何も教えてくれない。

 だがハリスは、おぼろげに何かを見つけた気がした。

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