4-16 ラプラス — "Laplace" the worst AI virus

 あの男のことは知り尽くしていたはずなのにどうして—。

 CHITOSE最上層の執務室でマカロワは部屋中央の立体映像を凝視しながら、インカム越しにILAMSのスタッフに指示を出し続けていた。

 都内全域を映し出した中央の立体映像には、OoC(Out of Control)の文字と赤い輝点が続々と現れていく。都内だけで一体どれだけの数の自律無人機械が暴走しているのか、想像するだけで怖くなる。

 ヴィルタールの心臓部、老ヴィルタールの脳神経細胞に偽装し、潜んでいたハッキングAIはメビウスの進化形だ。メビウスは富裕層の使用する高級回線プレミアムラインには浸食できないように作られているが、このハッキングAIは高級回線プレミアムラインどころか最高機密データがやり取りされる秘匿回線ブラックラインでさえも容易に侵食して自己の制御下に置いていく。


「ラプラス、だと?」


 ハッキングAIの最上位層、暴露されたコードにこれ見よがしに記載されているのはラプラス(Laplace)の一語。ラプラスの魔。世界の行く末を見通すことのできる究極の知性体の名。その名は、「世界の全ては俺の思い通りになる」という、ナギからマカロワへの明確なメッセージだ。


「ふざけるな!思い上がるなよ、薙澤零司!」


 マカロワはILAMSに詰める二十五人のスタッフの作業ディスプレイに切り替えると、状況を瞬時に理解する。

 猛威を振るっているラプラスは「自己を複製する」「自己の複製を対象に送り込む」「送付先の制御ロジックを書き換える」という三つの機能しか持たない。「複製」、「送付」、「書き換え」のたった三つ。しかしその三つに特化しているが故に、その三つの機能は凄まじく高い。ほぼありとあらゆる機器に自己を送り込み、制御機器を支配下に置いていく。

 マカロワはILAMSのメンバーにメビウスに有効ないくつかのワクチンプログラムの注入を指示した。しかしどれもラプラスには全くの無力だ。ー全て読まれている。状況は絶望的だが、ナギの遺した言葉がマカロワに火をつけた。


「マスムラとウィリス、キムはラプラスの感染被害状況を確認しろ!それとAI搭載機器の電源は絶対に入れるなと政府から都内全域、いや日本全土にアラートを出させろ!サンディとタカヤマはラプラス自体の解析を続行!AIはハッキングされるから使うなよ?コードを自力で読み解け!ヨシナガとマーク、ヘレンはワクチンプログラムの開発にあたれ!他の者はタカヤマとサンディを支援しろ!いいか?一秒でも無駄にするな!一秒無駄にすればその一秒で一人の命が失われるぞ!かかれ!」


 統率の効いた優秀なスタッフたちは、瞬く間に自分の作業に取り掛かる。そこに迷いはない。自分は天才に指揮されている—。胸にあるのはその誇りと人々を救いたいという願いだけだ。


「この状況でよくもそんな生き生きとしていられるな?科学者ってのはみんなそうか?呆れるよ」


 誰もいなくなったプロジェクトルームで沢木は、アイグラスと立体映像を鬼の形相で見比べているマカロワに話しかける。部屋には二人以外に誰もいない。残りのメンバーは最上層の避難区画に逃げ込んだ。


「まだいたのか?さっさと退避しろ。もうじき暴徒が来るぞ?」

「おいおい、MIKOTOのアナウンスを聞いてなかったのか?暴徒はCHITOSEの誇る優秀な防御用自律型無人機ガーディアンが駆逐したらしいぜ。死傷者多数。これじゃあ明日には安浦内閣は総辞職だな」

「東京がこれだけ滅茶苦茶になったのは、薙澤零司を管理下に置けると踏んだあいつの責任だ。総理を辞めるのは、せめてこの騒ぎを収集する道筋を立ててからにしてほしい」

「無茶言うなよ。暴徒はいなくなったが物騒な防御用自律型無人機ガーディアンがこのCHITOSEの中をうろついている。奴らは人と見れば襲いかかってくるんだろ?脱出の道筋だって立てられていないのが現実だ」


 沢木の言葉にアイグラスの画面を切り替えたマカロワは、CHITOE内部の見取り図を部屋の壁に映し出す。ラプラスが猛威を振るっていても高級回線プレミアムラインそのものに支障はない。ラプラスは無人自律機械だけをターゲットとしていて回線を混乱させようという意図はない。それがメビウスとの大きな違いだ。

 開かれた見取り図には赤い点が十余り。そのうちの一つは沢木とマカロワのいる部屋に近づいている。


「まずいな」

「ヘレン、見えているわね?CHITOSEの防御用自律型無人機ガーディアン、CX-06にワクチンプログラムを転送。プロトで構わないわ。多少の足止めにはなるはず」


 沢木の言葉に応える代わりに、マカロワは即座に指示を出す。すると次の瞬間、画像内で防御用自律型無人機ガーディアンの動きが止まる。


「えらく優秀な部下がいるんだな」

「部下が優秀だと上司は助かるわ」

「部下にも上司にも恵まれたことのない私にはわからない感情だ」

「あなたは完璧を期待しすぎるのよ。もっと楽になればいい」

「生きて帰れたら、そうするよ」


 プロジェクトルームの扉を開き外に出ると、円筒形の胴体に丸い笑顔を乗せたロボットが二人を出迎えた。短い両手には笑顔とアンマッチな機関銃。ガイドを兼務する防御用自律型無人機ガーディアン、”ちとせん”の二つの目の真ん中にはエラーを示す赤い光が灯りそのまま動きを止めている。ワクチンプログラムの効き目はもって八分。

 マカロワは光学センサの配置されたちとせんの目を破壊しようとしたが手持ちのボールペン程度では傷一つつかない。そこで手近の窓のカーテンを引きちぎると頭から被せた。簡単な目くらましだが、これで少しは時間を稼げるはず。限られたいくつかの目的のためだけに作られた自律型無人機には、人と違って柔軟性がない。だから簡単な仕組みでその機能を妨げることができる。


「君と一緒ならなんとかなりそうな気がしてきたよ」

「気がするだけ。本番はこれからよ」


 沢木とマカロワはCHITOSEの迷路のような内部を走り出す。

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