4-6 発火 — Ignition

 その日の朝、ユキコ・タミストリタはいつもの住まい—旧四ツ谷駅近くの廃ビルの中で眼を覚ました。ぼろぼろのブランケットを跳ね除け、隙間風の這い入る扉脇のベニヤ板をどける。

 旧四ツ谷駅前、中央線の線路を見下ろす太い道は大きく陥没して、人の往来を妨げている。ユキコが生まれる前、この国が債務不履行に陥った際の動乱の傷跡。誰がなんの目的で、なんて今さらわかるわけもない。国民の誰もが抱いていた不満が爆発した。おそらくそれだけだ。


「ユン、おはよう」


 陥没穴にかけられた梯子を上る若い男に声をかける。豆粒のようにしか見えない男に声が届くはずもないが、いつもの日常にそれでもユキコは満足だ。重い足取りで襤褸をまとった男女が道を行き来する。活気なんてないが、それでも生きている。

 アスファルトのあちこちが剥がれ落ち、街路樹も建物も焼け焦げた跡が残る町並み。そこに数日前から六足の機械ロボットが現れ、不穏な空気を醸し出した。動くことなく帽子のような円錐状の金属だけが回転を続ける「働き蟻」は実害はないが不気味だ。「働き蟻ants」と書かれたバックパックには卑猥な落書きが山ほど上書きされている。不安はあるがそれを気にしていたらここでは生きていけない。

 欧州系と東南アジア系の血が何分の一かずつ混ざったユキコの名字の由来はもうわからない。祖父母と母親が津波にさらわれ、放浪の末に父と弟とここに移り住んだのは五年前。以来、「こんな快適な住居はない」という父の言葉を信じ、コンクリートと鉄筋がむき出しながら、雨風と最低限のプライベートが保たれるこの数メートル四方の住居でユキコは暮らしている。


 幸せについてユキコは最近よく考える。


 ユキコの住む廃ビルではいざこざは耐えない。それは一種のイベントでもあり、ユキコも父も弟もいちいち目くじらを立てることはしない。盗みや空き巣はしょっちゅうだし、盗まれたら困る物を隠さないでおくほうがおかしい。ユキコも父も弟も盗みを働いた経験はもちろんある。それは生きるためのスキルであり、そこに罪悪感なんてない。

 日の光を浴びて聳える摩天楼、なかでも世界で最も裕福な国、アメリカの建てたBlueIslandのゴージャスな眺めはいつもユキコをわくわくさせる。日々の食べ物に困らない暮らしってどんなものなのだろう。あのゴージャスな摩天楼の最上層で暮らすってどんな気分なんだろう。自分とかけ離れた世界での生活は彼女にとっては夢だった。父と弟に囲まれた今の自分だってもちろん悪くない。しかしありえないことだとわかりつつも想像してしまう。あそこに住むとどんな景色が見えるのだろう—。


 ユキコをけたたましいサイレンの音が現実に引き戻す。一昔前の携帯端末が壁に映像を映し出す。父からの伝言。弟のネイサンがひどいことになっているらしい。ユキコは不揃いのビーチサンダルを引っかけると、階段を一段とばしで駆け降りる。


「なんだよこいつ!離せよ!」


 二ブロック先のネイサンの働く闇市に着くと、老朽化したかつてのオフィスビルの入り口でネイサンが「働き蟻」に組み敷かれていた。周囲の店はさっさと店じまいし、遠くから騒ぎを見つめている。

『行動適合率75%、過去の違法検挙回数二十五回、テロ等準備罪の適用条件はクリアされました。連行しますのでおとなしくしてください。なお拘束期限は七十二時間。期間内に無罪と認められれば速やかに解放します』

 「働き蟻」の声をユキコは初めて聞いた。無機質な女性の声は虫のような機械の身体には違和感があり、禍々しいものを感じる。


「弟を放しなさいよ!」


 ユキコは手近にあった瓶を「働き蟻」に投げつける。ガシャンという音とともに瓶が割れ中身が働き蟻の背中に溢れる。独特の臭いでユキコは理解する。瓶の中身はガソリンだ。おそらく闇市で使われていた動力源。

 蟻の眼にあたる部分が赤く光り、くるくると回転していたかと思うとユキコを見据え、ユキコの方に姿勢を正す。

『暴力行為を確認。公務執行妨害により該当者を拘束します。該当者名 ユキコ・タミストリタ』

「姉ちゃん!」

 足の下から這い出たネイサンは、ユキコに飛びかかろうとした働き蟻に向けて手近にあった鋼材の端切れを振り下ろす。金属同士のぶつかる衝撃で散った火花がガソリンに引火し、働き蟻を炎が包む。

「ネイサン!」

 火に包まれたネイサンの腕をユキコは手近の襤褸布で叩く。苦しそうな表情を浮かべるネイサンを連れ、ユキコは転びそうになりながらも夢中で走る。その後ろで働き蟻が電子音をあげる。

『活動継続が困難となる甚大な損傷。繰り返す活動継続が困難となる甚大な損傷。大規模暴動およびテロの可能性あり。黒い幽霊による援護を要請する…。』

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