3-24 憤怒 — Wrath

 下層界の最果て、赤羽ダウンストリートの操車場でテロリストを後ろ手に縛り上げて管轄の刑事に引き渡したサワイ・ナナミは、着慣れない黒衣を身に纏いつつも、自分が『幽霊』に選ばれたことにまだ納得がいっていなかった。


 肉眼でごった返す人ごみの中からテロリストを判別することは依然として骨の折れる作業だが、行動理論をベースにした識別システムによりその精度は格段に向上している。「テロリストには似通った行動パターン、表情パターンがある」。MITの権威ある教授でなくてもそれくらいのことは想像がつく。世界中のいたる所に仕掛けられた監視カメラで、各国で数えきれないほど繰り返されてきたテロの実行犯の挙動は撮影されてきている。それらを分析し、データベースを構築することで、テロ実行犯は事前にかなりの確度で識別できるようになってきている。緊張、焦り、興奮、恐怖、怒り。そうした感情の表出の仕方が、一般人とテロリスト予備軍では明らかに違う。


—なんで私なんだろ。


 ナナミは再び考える。身体能力が著しく優れている訳ではない。子供の頃から陸上に勤しんできて、インターハイにも出場しているが、女性警察官の中にはナナミより優れた身体能力を持つ者は大勢いる。マキセ・ユキナ、アーデン・リョウコ、マツカワ・カエデなど、名を挙げればきりがないが、中でもマツカワ・カエデの身体能力は並外れている。無駄の無い、あの敏捷な動作には惚れ惚れする。


「求められるのは身体能力だけではない」


 かつてのナナミの上司であり、今はカエデの上司でもあるヤスダは、自分が『幽霊』に選ばれたことを報告した時、複雑な表情とともにそんなことを言った。

 あの黒いスーツは特殊な金属で構築されていて、相性が悪いと十分な力を引き出せない。多くの候補者が苦しむ中、ナナミは抜群の相性を示した。そのことが選抜の決め手になったらしい。

 ナナミは自分のスーツ姿を、手近な監視カメラの映像に自分の黒衣の周波数を合わせて確認する。黒ずくめのスーツ姿。バーニアの着いた両足は太く、耳と目のセンサーは他の幽霊に比しても巨大だ。バーニアは飛行こそ出来ないが、五十メートル近くの距離を一跳びで移動できる。

 卯。うさぎ。

 十二人の幽霊には一人ずつ干支にちなんだ装備をあてがわれてるようになった。ナナミは卯。その干支の通り、抜群の跳躍力と、巨大な耳を生かした情報収集に長けたスーツだ。なぜ干支なのか。そんなこと知る由もない。きっとCHITOSEの上層部に住まうエリートたちの戯れなのだろう。


「バイバイ、クロコ!」


 今や骨董品となったガソリンエンジン式のピックアップトラックが、十人以上の子供たちを乗せたまま砂埃を巻き上げて操車場を出発する。声をかけたのは屋根に腰掛けた一人の少年。前歯の欠けた笑顔は妙に愛嬌があって、ナナミは手を振ってその声に応える。黒ずくめなのでクロコ。幽霊よりはるかにましだ。

 交代の時間までもう少し。振り返ったナナミの目には荒川の淀んだ流れと崩壊した巨大な橋が映る。震災の時、川を遡ってきた津波により流された新荒川大橋は、予算不足のために修繕もされず朽ち果てるにまかされている。崩れたままのコンクリートから飛び出た鉄筋が反射する陽光に目をしばたいた時、朽ちかけの橋の上に立つ一人の男の姿が目に入った。

 長身痩躯の若い優男。

 泥だらけのスーツに身を包み、ナナミのことを見下ろしている。

—なに?あの人。

 男の立っている場所は、地上から優に十メートルはある。落ちたらただではすまない。


「危ないですよ!はやく降りて!」


 拡声器機能をアクティブにして呼びかけるが、男はぴくりとも動かない。

—私を見てる?

 男の顔には憤怒の表情が浮かんでいる。いったいなんだというのか。秩序の守り手たる『幽霊』を恐れる者はいても、憎む者は少ない。

 男はおもむろに手にした金属片ーおそらくは橋の建築材の欠片ーを投げる。放たれた金属片は弾丸をも超える速度でナナミに向かって飛ぶ。


「!」


 想定以上の速度に一瞬、反応が遅れる。しかし黒衣がナナミの思考を読み取って変形し、すんでのところで金属片を回避する。金属片は轟音とともに地面に巨大な穴を穿つ。あっけにとられていた人々は、次の瞬間、悲鳴と共にその場から逃げ出す。逃げ惑う人々の中、黒衣の中でナナミは顔をしかめる。黒衣により身体が無理矢理に駆動され、想定していた以上の負荷がかかっている。間違いなく明日は筋肉痛だ。でもそれも生きて帰れればの話だ。


「なんでお前みたいな奴らが存在しているんだ?『幽霊』のくせに」


 いつの間にかスーツの男はナナミのすぐ側に立っている。反射的に肘打ち。最小動作での最高の攻撃。訓練で学んだ基本通りの動作。しかし男はナナミの攻撃を片手で難なく受け止める。厚さ五十ミリの鉄板をも打ち破る一撃を受け止められて、ナナミは驚愕する。この男は普通の人間ではない。自分たちに近い存在だ。


「『幽霊』ならさっさとあの世へ帰れ。目障りだ」


 ナナミは何が起きたのかわからなかった。気がついたら宙を飛んでいた。

—ウソ、でしょ?

 驚愕の次に全身を激しい衝撃が襲った。地面に叩き付けられた、と頭では理解したが、どうすることもできない。そのまま河川敷を数十メートルに渡って吹き飛び続けた。


「がっ、あ…あ!」


 声が出たのが不思議だった。全身の感覚が麻痺し、身体をぴくりとも動かすことができない。たちまち口の中を血が満たしていく。黒衣を身に着けた自分の腕が不自然な向きに折れ曲がっている。自分の身体がどうなっているのか、理解さえ出来なかった。


「これで五人目」


 気がつくと、立ち上がろうとするナナミの傍らで、いつの間に移動したのかスーツの男がナナミを見下ろしている。惚れ惚れするほど美しいのに、その冷徹な横顔には何の表情も浮かんでいない。決意を固めた者の顔だ。

 男は無造作にナナミの首を掴んで引き上げる。砕けた黒衣の仮面がこぼれ落ち、ナナミの顔が露になる。


「女か」


 ほんのわずか、男の手が緩む。しかし身体を動かすことの出来ないナナミにはどうしようもない。


「関係ないな。お前たちはレイカを手にかけた。で、あれば、俺がお前を殺さない理由は無い」


 男は両手をナナミの首にかける。ナナミは、男の目の奥に微かな輝きを見い出す。それはおそらく悲しみだ。


「や…め…て」


 男は手に力を込める。その目からは涙がこぼれる。


「恨むならお前たちの仲間を、お前たちに指示を出した者たちを恨め。お前には直接関係ないかもしれないが、お前たちを一人残らず消さない限り、俺の気は収まらない。お前たち『幽霊』を根絶やしにすること。それが—」


 男はさらに手に力を込める。戦車の砲弾さえ弾き返す黒衣がきしみ、砕ける。


「俺の生きる意味だ」


 男がナナミの首をへし折ろうとしたとき、鈍い音と共に男が吹き飛んだ。倒れ込む寸前、ナナミは誰かの手に身体を支えられる。黒衣を着けた手足。夕日に照らされた、肩に取り付けられた小型のスラスターと面に着けられた飾り羽。

 酉。

 唯一無二の跳躍力と、最高の機動力を誇る『幽霊』。


「救出、早く!」


 馴染みのある凛とした声。

 —ああ。

 ナナミの目から涙がこぼれる。

 —いつだってあなたは私のヒロインだわ、カエデ。

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