2-2 無知 ー Innocence

 初めて見たとき、少年は目を疑った。

 のどかな山間に家が何件も建っている。古びた家も多いが、少年が住んでいた崩れかけの家よりははるかにましだ。この国に入ってから少年たちに同行している女によると、どの家も空き家だそうだ。


「この村に私たち以外に人はいないわ。どの家に住んでもいい。もちろん野山で寝たければそれでも構わない」


 女は平凡な顔をしていた。肌の露出の多い服装は奇抜に見えたけれど、きっとこの国では普通なのだろう。


 港で船に乗せられてから三日目の夜、着いたのは明かり一つない辺鄙な浜だった。沖合で小型のボートに移り月明かりを頼りに上陸すると、すぐにまたトラックの荷台に乗せられた。窓は塞がれ外は見えなかったが、揺れと勾配で山道を走っていることはわかった。そうして半日揺られて辿り着いたのがここだ。

 鬱蒼とした森とどこまでも続く山。道幅は狭く、ひび割れたアスファルトからは草木が顔をのぞかせている。ところどころに建つ家はどれも捨てられてから年月が経っている。女の言うとおり人の気配は全くない。標識や看板に書かれた字は初めて見るもので、ここがどこか異国の打ち捨てられた山村であることだけがわかった。


 女の言葉に従い子供たちは皆、方々の家に散っていく。

 少年が目をつけた家は集落の外れの森の中にあった。他の家に比べれば小さいが一人で住むには十分な広さだ。なにより森の中というのが気に入った。中は荒れ放題。ところどころで草木が床を突き破り虫やネズミもいる。でも蛇口を捻れば水が出るし、雨風もしのげる。以前、叔父と住んでいた壊れかけの臭い家よりは遥かにましだ。

 銀髪の男が言った通り、食料は女が手配してくれた。箱に入ったあらかじめ調理された食べ物は信じられないほどうまかった。がつがつと食べ、やせ細っていた子供たちは見る見る血色を取り戻していった。

 子供たちは女からこの国の言葉と礼儀作法を教わった。自立する上で必要だから、と、かつて学校だったという建物に集まり、毎日教わった。

 何かを教わることも、年の近い子供たちと机を並べることも初めての経験だった。学校という言葉を聞いたことはあったが、まさか自分がそこに行くことができるなんて考えたこともなかった。控えめに言ってもそこでの日々は楽しかった。いつしか女のことを、子供たちは「先生」と呼び懐くようになった。

 不思議な事に先生は、言葉は教えてくれても文字は教えてくれなかった。文字も教えてほしい、読み書きができるようになりたい。そう誰かがお願いしても、女は笑ってはぐらかすばかりだった。

 生まれつき器用な少年はすぐに言葉を覚えた。ほかの子供たちも皆、徐々に言葉を覚えはじめ、やがて差し障りなく会話できるようになった。少年の言葉を聞いても、誰ももう異国の生まれだとは思わないだろう。

 言葉を習得する子がいる一方で、どうしても言葉を覚える事の出来ない子もいた。

 そうした子供たちは、いつの間にか姿を消していた。

 まるで蒸発したかのように、ある日を境に学校からも村からも消えた。先生はそのことに気づいていないかのように、笑顔で授業を続けた。


「あの子はどこに行ったの?」


 三人目が消えた時、先生にそう聞いた。勇気を振り絞る必要があった。恐ろしくて先生の目を見ることはできなかった。


「心配ないわ。お家に帰りたい、っていうから帰しただけよ」


 消えた子は言っていた。「父からよく殴られた。あの家には二度と帰りたくない」。先生の言葉は嘘だと分かった。だけど少年はそれ以上聞くことはできなかった。聞いてしまうと何か恐ろしいことが起こる。先生の顔を見るとそう感じた。


「みんな、明日は外に出てはだめよ」


 半年ほど経ったある日、唐突に先生が切り出した。少年を含め残された子供たちは皆、この国の言葉も礼儀作法も完璧にマスターしていた。その間に四人の子供がいなくなっていた。


「なぜですか?」


 尋ねてからしまった、と思った。

 勉強以外のことで先生に何かを聞くことは禁止だ。何かを聞くと先生はいつも恐ろしく不機嫌になる。しかし今日、先生は怒る代わりに笑って言った。


「とても恐ろしいものが空からやってくるのよ。だから家から出ては駄目。外に出たら命の保証はできないわ」


 その言葉に子供たちはみな凍りついた。


「恐ろしいものって…?」


 少年の隣に座っていた女の子が再び禁を破って質問した。

 女は無言で彼女を見つめ、にこりと笑った。禁を犯した事を咎める無言の微笑。女の子はその微笑に再び凍りついた。先生からの返事はなかった。

 次の日、少年は先生の言葉に怯え支給されていた毛布の中で丸くなって一日を過ごした。言われたとおりにカーテンを閉め、明かりを消し、ひっそりと気配を殺して身動き一つしなかった。

 何が起きようとしているのか。なぜ外に出てはだめなのか。考えたが何もわからなかった。

 わからないことだらけだ。

 ここがどこなのか。なぜこんなに立派な家に誰も住んでいないのか。いなくなった子供たちはどこに行ったのか。そして今日、なぜ外に出てはいけないのか。

 知らないことが多すぎる。


『『知らない』ということはとても重要な事なんだ』


 あの銀髪の男はそう言った。

 しかし本当にそうだろうか。


『『知らない』ということは『先入観を持たない』ということだからな』


 それはつまり「騙されやすい」ということだ。知らなければそれが正しいことなのか、悪いことなのか、当たり前のことなのか、突飛なことなのか、判断できない。だから容易に騙される。


 自分には何もない。知識も、お金も、行き場もない、それをいいことに騙されているのではないか。でも何のため?何も持たない自分を、世界で最も弱い自分を騙していったい何の得がある?


 悶々としていると遠くの空から低い唸るような音が聞こえてきた。

 巨大な虫が飛んでいるようなその音は徐々に近づいてきて、やがて大音響となる。あまりの音に少年は恐怖におびえて耳をふさぐ。

 また同じだ。

 いったい何が起きているのか、何もわからない。ただ怯えて毛布の中で丸くなるしかない。

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