2. 名前のない少年 ー A boy without the name

2-1名前の無い少年 ー A boy without the name

 少年は自分の名前を知らなかった。

 生れ落ちたときには確かに名前をもらったはずだが、覚える前に父も母もいなくなった。

 お前の父と母は危険な思想を持っていた。だから連れて行かれ、拷問されて死んだんだ。

 そう教えてくれたのは少年を引き取った叔父だった。叔父は少年を名前では呼ばず、「お前」とだけ呼んだ。

 お前の両親のせいで俺も何度も警察に呼び出された。そのおかげで仕事を失った。だから自分の代わりにお前が稼ぐのは当然だ。そう言って叔父は少年を仕事に出した。

 仕事といっても年端もいかない少年に出来る仕事などあるわけがない。駅や繁華街でお金を持っていそうな人に声をかけ、小銭をせびるだけ。人より器量もよく愛嬌もあった少年は小銭をもらえることが多かったが、殴られることもよくあった。道端で人から金や食べ物をもらい、家に持って帰る。少年は叔父とそうした生活をずっと送っていた。

 叔父は少年の持ってくるわずかな金で酒を買い、一日中飲んでいた。

 仕事に出るとき以外は、酔って悪態をつく叔父を横目に見ながら壊れかけの家でぼんやりと過ごす日々。そんな日々の中でお腹を空かしながら、少年はいつも川のことを考えていた。

 南の方には大きな川があり、その川の向こうにはとても豊かな国があるという。

 その国は建物も道も全てが美しく、おなかいっぱい御飯が食べられるそうだ。

 いつかその川を渡りたい—そう言っていた少年と同い年の物乞い仲間は、それから数日後に道端で冷たくなっていた。

 道の端で行き倒れて死ぬ人間などここでは珍しくもない。日ごとに朽ち果てていく仲間の身体を見ながら、少年は思った。あの子はきっと死んで、川を渡って、あの国に行ったのだ。そしてきっと自分ももうすぐその国に行くー。


「君、ちょっと」


 少年が声をかけられたのは、駅で汽車を待つ人たちに小銭をせびっているときだった。物乞い同士の縄張り争いに巻き込まれないように少年はちょこちょこと場所を変えていて、その日、家から歩いて二時間はかかるその駅に来たのは偶然だった。

 少年に声をかけたのは黒いスーツを着た年配の男。皺一つないスーツは見るからに高級で、顔に貼りついた笑顔がいかにも胡散臭い。この駅には何度か来たことがあるが、見かけたことのない顔だ。


「君、お腹いっぱい、ご飯を食べたくないかい?」


 そんなの食べたいに決まっている。少年は考える間もなく頷いていた。


「なら、ついておいで」


 胡散臭さを感じつつも、黒服の男の鷹揚な雰囲気に惹かれて後をついて行く。しばらく歩くと見たこともない高級な車に乗せられて小さな家に連れていかれた。待たされたのは殺風景な何もない部屋。しかし少年の家と違ってそこは清潔で、嫌な臭いもしなかった。


「ほら、好きなだけ食べるがいい」


 プラスチックの妙なケースに入った食べ物の美味しさに言葉を失った。

 こんなに美味しいもの、食べたことがなかった。男は約束通りお腹いっぱいになるまで食べさせてくれた。ケースに入った食べ物はいくらでもでてきた。


「こんな食べ物を毎日、お腹いっぱい食べたくないか?」


 夢中で頬張る少年に男は優しく声をかけた。少年が夢中で首を振ると、男はその様子をじっと見つめ、それから話し出した。


「君にしてもらいたい仕事がある。とても簡単な仕事だ。それをしてくれれば、好きなだけおいしいご飯が食べられる」


 少年は一も二もなく頷いていた。今の生活に未練などあるはずも無かった。


 次の日、少年は幌付きのトラックの荷台に載せられた。タイヤで走る古びた車。荷台には少年と同じくらいの年の子が何人か乗っていた。子供たちは皆、少年によく似ていた。幼くて、愛嬌があって、利発で、だけど皆、貧しくて飢えていた。男はさらに数日かけてあちこちで子供を乗せて、二十人くらいになると舗装されていない泥だらけの道を港に向かった。港で子供たちを待っていたのは小さな、だけど真新しい船だった。


「僕らは川を渡るの?」


 少年は船で待っていた肩幅の広い、筋肉の盛り上がった男に聞いた。ここからはこの男が少年らに付き添うらしい。男からは暴力の匂いがした。言葉の代わりに拳を振るう、決して金をせびってはいけないタイプの男。


「川じゃない。渡るのは海だ」

「海…?」


 少年は川を見たことがなかったし、海なんて聞いたこともなかった。川とはとんでもない量の水が絶え間なく流れている場所だと聞いていたから、眼の前に広がる風景に、少年はここがあの川ではないかと思っていた。


「おいおい、この子、海を知らないらしいぜ」


 馬鹿にされても腹は立たなかった。

 生まれた時から誰かと対等に話した事なんてない。常に下を向いて、誰かに怒鳴られて、蔑まれて、憐れまれて生きてきた。下に見られ、馬鹿にされるのが当たり前だった。


「知らない事を恥じる事はない」


 透き通るような声とともに、船の奥から一人の男が顔を出した。

 精悍で若々しい顔つき。なのに髪の毛は真っ白。いや、あの髪の色は白じゃない。透き通った銀の髪。

 男は甲板から降り立つと、少年に近付きじっと瞳を覗き込む。口元には人を引きつける微笑。黒い瞳は何も映さない。男の周りだけ空気が違う。神々しく、全てが優雅で輝いている。同じ人間とは思えない。きっと、こういう人が選ばれた人なんだ。


「『知らない』ということはとても重要な事なんだ。『知らない』ということは『先入観を持っていない』ということだからな。いいか?君はこれから海を渡る。海の向こうの国には、今は誰も使っていない家がたくさんある。君はそこに自由に住んでいい。そこには恐い警察もいないし、収容所もない」

「食べるものは…?水は?」

「水はいくらでもある。食べ物は俺たちが調達する。好きなだけ食べるといい」


 夢のような話だった。それと同時に少年の頭の中でアラームが鳴っていた。気をつけろ。おいしい話には罠がある。


「見返りは?僕はそこで何をすればいいの?」


 物乞い仲間の中には、金をもらう代わりに自分を差し出す者たちもいる。ほとんどが少年よりもずっと年上の女の子だ。

 男はフン、と一つ鼻を鳴らすと、銀髪を揺らす。


「君は何か勘違いしているらしいな。下卑た想像をしているのなら、それは間違いだ」


 男の燃え上がるような眼差しに、少年はすくみあがる。プライドを傷つけられたことへの怒りなのか、少年にはわからない。しかし不思議な事に、それでも男はどこか楽しげだ。


「住居と食料を支給する代わりに、してほしい仕事がある。当然だな?その国の言葉で言うと、「働かざるもの食うべからず」というやつさ。仕事については向こうに着いたら教えてもらえるだろう。君のような賢い子には難しい仕事じゃない」


 男はそれだけ言うと、手を振って去って行った。男が歩き出すと港のあちこちから人が出てきて男を取り囲んだ。皆、男に笑顔で声をかけ、男も笑顔を振りまいている。

−きっとすごい人なんだ。

 少年は男の言葉を信じ、船に乗り込んだ。

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