1-9 和解 ー Compromise

「もういいのか?」


 吹きさらしの祈りの塔の屋上。遥かな高みから東京の街並みを見下ろすソラにユーリが声をかける。東京の街には、いつものように靄がかかり、白い海の底に沈んでいる。


「だいじょうぶ!もうぜんぜん問題ないよ!」


 青いシャツに白い半ズボンというボーイッシュな姿のソラは、利発な笑顔を浮かべる。白い頬にわずかに残る赤みを見つけ、ユーリはソラの頭をなでる。


「突き飛ばして悪かったな」


 ユーリの言葉に、ソラは笑顔を大きくする。仲直りしたかったのはソラも同じだ。


「ソラ」


 声に振り返るとマカロワがつぎはぎだらけの人形を手にやってくる。


「ジェスター!直してくれたんだ!ありがとう!」


 ソラはマカロワの手から人形を受けとると、抱き締めたまま楽しそうに屋上を走っていく。


「ったく、あれほどジェスターに悪態を突かれていたのに、気にもしないんだな」

「あのくらいの年の子は、みんなそういうもんさ。世界は善意に満ちているって信じている」


 マカロワは白衣のポケットから煙草を取り出すと火をつけ、深々と吸い込む。


「−元気になってくれてよかった」


 マカロワの心からの言葉にユーリは驚く。


「勘違いするな。私だってあの子に元気になって欲しい。ただ、ルールはルールなだけだ」


 マカロワの意外な一面にユーリが口元に笑みを浮かべると、マカロワは照れたように再び煙を大きく吸い込む。


「上層部は大騒ぎだ」


 マカロワが言葉とともに吐き出した煙は風に乗って大空に溶けていく。


「当然だな。都内全域での爆弾騒ぎ、世界でも屈指のデータサーバーの襲撃、情報統制局現役キャリアの情報リーク、そして生中継での自殺。各方面への説明やら火消しやらでCHITOSEのキャリアたちは当分眠れない日々が続きそうだ。ったく。どんな理由があろうと、テロリズムは絶対に許されることではない。単純明快なことなのに、政治が絡むとなぜか複雑になる」

「あんたは落ち着いているな」

「私には関係のないことだからな。象牙の塔の住人は外界の喧噪とは無関係に真理を追究するのみ、さ。そうそう、襲撃犯の素性が明らかになったぞ。見てみるか?IDタグを照合したところ全員がわけありだった」

「データサーバーが爆破された影響は?」

「十一万四千五百三十二人分の個人情報が消えた。そのうちの四十五人分のデータはクラスターサーバーへのバックアップも残されていない。1マイクロ秒ごとにデータを複製する仕組みでバックアップが残っていないというのは信じられないことだ」

「あの自殺した男か?天谷とかいう」

「そうだろうな。四十五人はこの先、透明人間としてこの社会で生きていくことになる。データ照合もされないし他人になりすますことも容易。犯罪組織にとっては理想の状況だ。テックジェン社を襲撃したアームドスーツは十体。そのうち九体は破壊され身元が判明。残りの一体、逃げおおせた赤いアームドスーツだけは身元が不明で照合データもなし。おそらく"見えない四十五人"の一人。九人は使い捨てだな。おいしい話に釣られて、最後はボン、だ」


 ユーリはアイグラスでマカロワから転送された九人のファイルに目を通す。殺人未遂を起こした元警官、極道上がりのチンピラ、密輸業者の使い走りなど、表の世界に居場所を持つことのできない者たちばかりだ。


「複製データを削除しただけでなく、テックジェン社のデータサーバーの場所を漏らしたのもあの天谷って男だ」

「一般的な思想だ。あいつみたいな考えの持ち主は今の東京にはゴマンといる」


 マカロワは大きく煙草を吸う。不満を言えばきりがないが、それでも今の東京は息苦しすぎる。これだけ開けた場所で息ができるユーリたちはそれだけで幸せ者だ。


「こんなものが政府宛に届いた」


 マカロワが差し出したメモリを、ユーリはスキャンする。


『俺たちは幽霊だ。俺たちはどこにでもいる。どこにでも入り込む。富を貪るお前たちの枕元に立って、そっと銃を突きつけ引き金を引く』


「自己陶酔にもほどがある。思春期のガキが書いたような文面だ」

「差出人は『自由の翼』。代表の名前はナギとなっている」

「ナギ?」

「知っているだろう?薙澤零司だ。検索したがやつの個人情報もデータベースから綺麗に消滅していた。間違いない。そのつてで私のところに回ってきた」


 ユーリはやれやれと頭をかく。手紙の差出人が本当にあの薙澤なら、この先、日本中の富を貪る者は二度と安眠できない。


「ナギはもっと知性的な奴だと思っていたが」

「知性的だが子供っぽいところもあった。あいつが動き出したら止められるのは我々くらいだ」

「気が重い」


 マカロワはポンと肩を一つ叩くと階下に戻っていく。ソラはジェスターを抱えたまま、座り込んで何事かを話している。見上げた空からは涙のような雨粒が落ちだした。

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