1-2 塔の上の少女 ー A girl on the tower
灰色の都心から澄み渡った空に立ち上る黒い幾つもの筋に、ソラは不安を感じていた。今いるこの場所が割れて自分が飲み込まれるような不安。
「怖いか?」
地上一、〇〇〇メートルを超える祈りの塔の屋上で、黒髪の女性はソラに問いかける。風になびく黒髪は艶やかで、静かな表情には明晰な知性を感じる。
「無理もないさ。この子、溺れて死にかけたばかりなんだ。多くの人が死ぬのを見てもいるし、不安になって当然だ」
白いスーツの優男が笑顔を浮かべる。自分の名前の記憶だけを失い、気を失う前に発した言葉を名前として与えられた少女。その少女の頭の中で一つの言葉が漠然とした像を結ぶ。
—死。
黒い激流が頭の中で渦巻く。真っ暗な海とそこに現れた幾つもの光の点。何かが炸裂するような音。絶叫。悲鳴。
唐突に抱きしめられて、自分が泣き叫んでいたことに気付く。
「大丈夫か」
やわらかい女性の肌の感触と甘い匂いに、ソラは次第に落ち着きを取り戻し、同時に心の奥がゆっくりと理解する。あれは現実にあったことで、私の家族はもういない−。
『ゲゲゲ、ユウジ、だめだよう。レディーにはかける言葉を考えなきゃ。ギギギ』
見たこともないほど美しい顔をした背の高い男の人は、何事もなかったかのようにソラに笑いかける。その笑顔は完璧だが、この男の人は、これまで会った誰よりも怖い。ソラは両の手をギュッと手を握り締めて椅子に深く座りなおす。
男をたしなめたのはソラの背丈ほどもある大きな人形。つぎはぎだらけで手足も眼口鼻も適当に取り付けられたその人形は椅子に置かれてときどきぶつぶつと何かをしゃべっている。
陽の光が容赦なく降り注ぐ。屋上階の中央に置かれたのは大きなビーチパラソルとテーブル。そしてそれを囲む椅子に座るのは、三人と一つの人形。優雅な午後のティータイムとしゃれ込んでいた彼らにつぎはぎだらけの人形の口から無粋な知らせが届いたのは、つい今しがただ。
「バランスが少しずつ崩れ始めているんだ」
ユウジが楽しげに、歌うように話す。
黒髪の女性、ユーリはテーブルの脇に置かれた棺のような黒く巨大な箱を開く。中から現れたのは漆黒の巨大な銃。ユーリ専用のライフル銃が、レイヴンーワタリガラスという意味の名を持つことを知ったのは、それからずいぶん経ってからのことだ。
「時が再び動き始めたのさ。争いと平和のスパイラルループの中で人は生きてきた。この都市だって例外じゃない。前世紀の半ばまで続いた争いの時代の後、平和な時代が眠くなるほど続いてきたんだ。そろそろ変わろうとする力が働きだしたとしても何の不思議もないさ」
ユウジは、飄々とした仕草で床に放り出された金色の杖を手にする。
『ギギギ。相変わらず視点が傍観者だな、ユウジ。いいのかい?お前の言う通りだとしたらまた人がたくさん死ぬぜぇいいいい?』
「俺は死なないから関係ない。俺は許された範囲で、自分の生まれたこの時代を楽しむだけさ」
そう言うとユウジは杖を振り回して階下に去っていく。テーブルの上には飲みかけのダージリンが残されている。
『ユウジは相変わらずだな。ユーリィィ、お前はぁあ?』
「私は仕事を全うするだけだ」
『わかっているよなぁぁ?それはつまり、崩れかけたバランスを保とうとするってことだぜぇぇ?』
「バランスを保つということが、秩序と治安を守るということならそうだな。お前や私の主人がそう考えているんだ、何か問題あるか?」
ユーリはコーヒーを飲みながら黙々とライフルを調整する。
『お嬢、お前はぁあ???どうしたい??』
「え?私?」
びっくりして振り向いたソラを人形のちぐはぐな目がぎろりとにらむ。
「よせジェスター」
『尋ねるくらい、いいだろぉぉう?どうだいぃぃ?どうしたいぃぃ?』
「わ、私には何もできないわ。そんな力、ないもの」
なおも無言で促すジェスターに、ソラは必死に自分の言葉をひねり出す。
「私は、ただ、今日を生きたい。ママや、パパが言ってた。今はこんなだけど、きっと生きていればいいことあるから、って。だから毎日、少しでも笑って生きようって」
下層民だったソラたち家族の生活はいつもはぎりぎりだった。パパもママも働いてはいたけれど、ソラはいつもお腹を空かせていたし、髪はぼさぼさでいつも同じぼろぼろの服を着ていた。川沿いに建てられた新国民用の住居は狭くて臭い上に、しょっちゅう騒ぎが起きて、その度に警察の自律無人機械とアームドスーツを身につけた警察官が来ていた。隣に住むおじいさんは地面に埋められた爆弾で片足を失って、金属の棒を足代わりにしていたし、裏に住んでいた言葉の通じない異国の家族はしょっちゅう怒鳴り合っていた。
すぐそばの川にかかる大きな橋の上を、綺麗な服を着たソラと同い年くらいの女の子が通ることがあった。その姿を見上げると、ソラはとても悲しくなった。自分はあの子たちとは違う。あの子たちは、私の手の届かないところにいる。あの子のいるところに私も行きたいけれど、それは叶う事のない夢。それがまだ物心ついたばかりのソラにもよくわかった。
そんなソラに両親はよく言った。
−今はつらいかもしれないけれど、生きていればいいこともあるのよ。
−私たちはいいけれど、ソラには少しは楽な暮らしをさせたいな。
そしてあの日、パパとママは行動を起こした。
『ぎゃはははは』
ジェスターがガラガラとした声で笑う。
『いいねぇ。『生きていればいいことあるから』かぁ。生きていたって、何もしなきゃあ、何も変わらないぜぇ?ああそう言えばお前のパパはそれで行動を起こして、死んだんだっけなあ?』
「いいかげんにしろ」
声と共にジェスターは椅子から吹き飛んだ。ユーリの横蹴りをまともに受けて、床に叩きつけられる。
『ガギゴギグゲガ!てめぇ!!世界最高の頭脳の俺様を!!人類の叡智の結晶たるAIである俺様を!!』
「頭脳が自慢なら、うんちくを足れる前にレディに対する言葉づかいくらい学べ」
ユーリはそのまま身動きのできないジェスターを踏みつける。鈍い音とともにジェスターは静かになる。
「し、死んだの?」
「心配するな。こいつはただの端末だ。本体は私たちの手の届かないところにある」
ソラはユーリの白く透き通るような横顔を見つめる。
この人は寡黙でぶっきらぼうだけどとても優しい。
でもそれはソラに対してだけだ。他の人間、自分と無関係の人間には限りなく残酷になる。その残酷さはきっとユウジよりも苛烈だ。でもユーリはきっと自分の行為の結果を正面から受け止める。その不器用さがユーリとユウジの違いだ。
—この人も怖い。
ソラは慣れた手つきで銃を調整するユーリを見つめる。
—でも、この人は信じることができる。
「下に行っていろ。これから始まることは楽しいことじゃない」
ソラは首を振る。
「私も見てる。何が起きるのか、全部見る」
海の上で自分は何もできなかった。だから今度こそ見届けなくてはならない。そして自分に何ができるのか、想像しなければならない。次にまた、何かが起きたときに無力なままでいるのはもう嫌だ。
ユーリは何も言わずに屋上の端に立つ。落下防止用のフェンスさえないそこは、一歩踏み出せば一、〇〇〇メートル下まで真っ逆さまだ。しかしユーリは気にもせずに黙々と準備を続ける。床に銃を固定し位置を微調整。特殊な金属で作られているのか、黒い銃は陽の光を浴びても輝くことはない。そしての漆黒の銃は今日、確実にいくつもの命を奪う。
手入れを終えるとユーリは床の上に腹ばいになり、銃を構える。眼下には目もくらむような東京の街並みが広がる。数えきれないほどの建物と、人々の営み。そこから立ち上る黒い幾筋もの不吉な煙。
「始めるぞ」
ユーリはスコープを覗く。途端に周囲から音が消える。その姿は完璧で、あるべきものがある場所に収まったかのような、調和を示す。
漆黒の銃がこれから奪うであろう、いまはまだ存在する命に思いを馳せながら、ソラは東京の街にじっと目を凝らし意識を集中する。
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