P-5 人工島 ー Artificial island

 祈りの塔を朝靄が包んでいた。

 祈りの塔の聳える人工島は、震災からしばらくほどなくして東京湾上に建設された。国際的な圧力により短期間で建設された人工島には祈りの塔のほかに国際先進医科学研究所(International Laboratory of Advanced Medical Science:ILAMS)と称する大規模研究施設も建てられた。

 祈りの塔が震災で犠牲となった移民たちの鎮魂の碑であるのに対し、ILAMSは有事における犠牲者数を減らすことを目的とした医療研究機関。震災による被害者を二度と出さない。その決意の表れがこの人工島だ。

 震災復興が叫ばれる中、莫大な国費をつぎ込んでまで、なぜ最新鋭の医療研究機関を交通の便の悪い東京湾上に建設するのか。政府にはもっと他にやるべきことがあるのではないかー。

 建設当初はそのような議論がメディアを賑わしたが、今では誰も口にしない。意図的なメディア操作により国民の関心から逃れたその施設の周囲は常に人工の靄が覆い、その島の真実を覆い隠している。


 祈りの塔の最上層でユーリはいつもと同じ時間に目を覚ました。白い無機質な壁と天井、それにシンプルなデザインのベッド。いつもと変わらない朝。

 サイドテーブルのアイグラスに手を伸ばすと、公衆回線パブリックラインの状況を確認する。眼鏡型のアイグラスは、通常は普通の眼鏡と変わらないが、装着者が意図すると瞬時に必要なデータを提示してくれる。耳には小型のインカム。どれだけ技術が発達しても音声情報の交換が不要になる日はおそらく来ない。

 アイグラスに映し出された公衆回線の汚染状況はいつもと変わらずレッドサイン。昨日の暴風雨が嘘のように東京の海は穏やかなのに、ネットの海は今日も不機嫌なままだ。

 数年前にとあるテロリストの手によりネットの海に放たれた自己増殖進化型高度AI「メビウス」は、ありとあらゆるデータを貪りながら進化を続け、自己の複製でネットの海を満たした。

 ハッキング、汚染、破壊。ネットの海は一夜にして危険なウィルスで満たされ、コミュニケーションの要であり情報の宝庫であったネットは人の立ち入りを拒む汚染された海と化した。情報伝達機能は辛うじて生き残ったが、情報検索系のシステムは軒並み壊滅的なダメージを受け、いまだにその影響から抜け出せていない。

 ユーリはサイドテーブルの引き出しから小指の先ほどのチップを一つ取り出すと端末に差し込む。レッドサインが瞬時にブルーに変わり、ユーリの求めに応じて端末が今日の天気と昨日の東京湾での「事故」の情報をユーリに示す。ピアノコンサートのチケット予約を完了させようとしたところでサインがレッドに反転し髑髏マークと卑猥な映像がブラウザを埋め尽くす。もともと行く気なんてないのに無性に悔しく、ユーリは端末をベッドに放り出すと笑顔と共に悪態をつく。

 ウィルス対策用のワクチンチップはコードを解読し、ウィルス無力化する。しかしその効果時間は短い。絶えず進化するウィルスはワクチンの弱点を発見して瞬く間に進化するからだ。いまのところウィルスとワクチンの勝負はウィルスの圧倒的勝利で、その優位性は当分の間、揺るぎそうもない。富裕層や政府機関が使う上級回線プレミアムラインはウィルスの影響を排除しているが、非常事態でもないのに一政府機関の職員であるユーリにそうしたお高い回線を使う権限は無い。

 シャワーを浴び、裸のままストレッチするとランニングウェアに身を包む。腰には小さな護身用のハンドガン。いつもと変わらない。

 黒豹。

 ユーリを見た者が抱く印象。襟元まで伸びた漆黒の髪に、切れ長の黒い眼。贅肉の全くない引き締まった身体から伸びた手足はしなやかで雪のように白い。落ち着き払った姿は、そこにいるだけで周囲を静かに圧する。衣服はいかなる時も全て黒。ユーリの白い肌に黒はよく映える。

 姿見で自分の肉体を確認しながら昨夜の出来事を思い出す。無人機による虐殺はこれまで何度も目にしたが介入したのは初めて。気まぐれ?自問するが答えは出ない。波間に消えた少女の目の輝きだけが強く脳裏に残っている。

 祈りの塔の中心を走る直通エレベーターで階下に降り、外に飛び出す。一千メートルの高度差もユーリに影響を与えることは無い。外の日差しは柔らかく風は冷たい。冬はそこまで来ている。自分にとって何度目の冬だろうか。数えようとして止める。海の向こうには靄にかすむ東京の街並み。格差の象徴、富裕層の住居である高さ五百メートル超の超巨大高層建築物−摩天楼があちらこちらで靄から顔を出している。朝靄に霞む祈りの塔は、本土からは幻想的な姿に見えることだろう。ユーリは軽くストレッチをすると走り出す。

 

 島の外周に沿って走るとすぐに灰色の建物が見えてくる。デザイン性の欠如した無骨な建物。所員の居住施設であるA棟だ。外見と同じく必要最低限の居住設備しか用意されていない。しかし文句を言う者は誰もいない。研究材料に溢れたこの施設では、まともな研究者なら衣食住などすぐにそっちのけになる。

 木々に囲まれながら坂道を上ると研究施設の本丸であるB棟が見えてくる。A棟の十倍ほどの規模で地下深くへと広がる。邪魔が入ることのない研究にはうってつけの環境。

 B棟を遠目に見ながら丘を回り込み坂を下る。息はあがっていない。足取りも軽い。心拍数はいつもよりわずかに高い。おそらく昨晩の出来事のせい。風が運ぶ潮の香りがユーリの感覚を徐々に覚醒させていく。

 波打ち際は予想通りに騒々しい。迷彩服に身を包み保安部の腕章をつけた男たちが行き来している。いずれ劣らぬ屈強な肉体を持つ保安部の面々は例外なく腰や肩から銃を提げ、漂着物を検分している。

 走りながら漂着物を一瞥する。

 多くの死体。

 どの死体も黒い衣服を身につけている。水を吸ったせいで性別も年齢も判別がつかない。無謀な賭けの代償。


「やあユーリ」


 呼びかけに足を止める。白いスーツ姿の若い男が、場違いな笑みを浮かべて手を振っている。

 百九十センチを超える長身。痩せて引き締まった肉体に、整った顔立ち。右手には金属製の杖。若さに似合わない洗練された佇まい。"マスター"ユウジ・カミオカ。

 施設に住まう被験体たちの教育係マスター。華奢な身体だが、戦車でも彼を止めることは不可能。彼の能力は信頼しているが、彼の性格は信頼していない。ユーリも含め施設の誰にも共通する認識。


「また流れ着いた。全部で十体くらいかな。まだ増えそうだ」


 優男の笑顔は多くの女性を振り向かせる。しかし幾つもの死体が打ち上げられたこの場所にはそぐわない。ユーリは眉をひそめる。


「楽しいのか?」

「まさか」


 ユウジは杖を持つ手と逆の手を腰に手を当てる。その言葉と仕草は子供っぽいを通り越してわざとらしい。ユウジは人の気持ちが理解できない。彼なりに精一杯努力しても、安っぽい芝居にしか見えない。その場限りの快楽を求め続ける刹那主義者。


「生存者がいた。だから嬉しくてね、つい」

「生存者?」

「死にかけている。というか、もうすぐ死ぬけどね。小さな女の子。まだ七、八歳くらいかな。ボートに引っかかっていた」


 その言葉に、ユーリは浜に向けて走り出す。

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