ー3ー
週が明けた月曜日、ようやく『波那ちゃん』に会えると異常なほどの期待を膨らませている沼口は、焼き菓子のお礼を口実に彼女? に近付こうとしていた。チャンスは就業前に早くも訪れ、席ごとに一輪の花が生けられていることに気付いて、この日も隣の席にいる男性社員に声を掛けた。
「この花はどなたが?」
「きっと『波那ちゃん』ですよ。彼社内では有名な乙メンなんです」
彼? 沼口は我が耳を疑った。
「乙メン、なんですか?」
「えぇ。最初はキモい人なのかと思ってましたが、慣れるとむしろ癒されますよ」
すると少し離れた所を歩いている男性社員に向けて、おはよう波那ちゃんと声を掛けた。
「おはようございます」
彼『波那ちゃん』は可愛らしい笑顔を見せて挨拶を返し、女性社員グループのデスクに落ち着いた。確かに色白で細身の小柄な男性で、見様によっては女性にも見えなくもない。
男だったの? まぁ可愛いけどさぁ……膨らみすぎた妄想のせいで彼のショックは凄まじく、翌日から三日間疲労性の高熱で寝込んでしまう。ところがここの社員たちは、ハードスケジュールからの疲労では、と思っていて、まさか波那を女性と間違えていたと考える者など誰も居なかった。
四日振りに出勤した沼口は、転勤早々仕事に穴を開けてしまったことを課長に謝罪した。たまにはそういう日もあるさとあっさり許してもらい、ホッとしてデスクに戻ると、『波那ちゃん』がおはようございますと声を掛けてきた。しかし勘違いで女性と思い込んだ気まずさからつい視線を逸らしてしまう。
「あぁ……おはようございます」
「お体、もう大丈夫ですか?」
やましい事など何も無いのに、彼と距離を置き、何か用? と素っ気ない口の聞き方をする。
「いえ、きちんとご挨拶をしてなかったので……小泉波那です、よろしくお願いします」
「ぬ、沼口昇です。この前の焼き菓子、美味しく頂きました……」
先日食べた焼き菓子の礼を言うと彼は、良かった。と笑顔を見せる。これが中途半端に可愛くてやりづらい。そう思うと一人で気まずくなって、宜しくとだけ返すと仕事に取り掛かる。『波那ちゃん』はそんな態度を気にすること無く、一礼して自身のデスクに戻っていった。
それからあっと言う間に十日ほどが経ったのだが、沼口はまだ勘違いモードから脱却出来ていなかった。その日の午後、波那がタブレットを持って彼のデスクへやって来る。
「あの、来週末の会議の資料が出来上がりましたのでご確認頂きたいのですが」
「へ?」
男性の波那が事務仕事をしていると思わず、何となく顔を見つめてしまう。
「君、もしかして一般職?」
その問いにハイと頷く彼に対し、仕事出来ない系? と一瞬思ったのだが、先ずは仕事振りを見てみようとタブレットを受け取った。
へぇ、良いの作るじゃない……そう思いながら資料の出来を見ていると、課長が今日は上がって良いぞと波那に声を掛ける。時計を見ると四時少し前、就業時間は六時までなのに何故? と彼の顔を見る。
「今日は早退して病院に行くんです」
「へぇ、どこか悪いのか?」
沼口は訊ねてから、しまった! と罰の悪そうな顔をする。しかし波那は気にせずに、循環器系の持病があるとあっさり答えた。それでか……彼が一般職を選んでいる理由が分かり、タブレットの資料をチェックしてOKを出す。
「転送は来週頭にお願い。俺のタブレットまだ無いから、アドレスは届き次第教えるよ」
「分かりました、お先に失礼します」
「お疲れさん」
この時を境に波那に対する気まずさは払拭され、仕事仲間として信頼し始めていた。以来二人は公私共に親しくなり、波那にとって良き兄貴分となっていく。
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