第36話 追憶

 目を覚ましたとき、私は大広間のソファに体を預けていた。額には濡れた手ぬぐいが置かれていた。私はその生温かくなった手ぬぐいを取り、体を起こした。


「大丈夫ですか?」


 葛さんが無表情でそう聞いてきた。私は頭を抑えながら「大丈夫です」と答えた。


「静喪さんは荷物をまとめていらっしゃいますよ。ロープウェイも動くようになりましたので、帰れますよ」


 帰れる。その言葉は私の心を一瞬喜ばせた。しかし、すぐぬか喜びだと思い知った。

 帰ったところで、私には何もないからだ。

 あのぼろアパートに帰ったって、私に待っているのは下らない人生だけだ。人が死んでいく、人が消えていく、なのに私だけが生きている。本当に酷く、惨く、下らない日々だ。


 でも一番下らないのは私だ。目の前の死に、なんの意味も感じない。そんな私には生きている意味がないだろう。


 私は自分の部屋に行き、荷物をまとめ始めた。でも、持ってきたものはスマートフォンと財布くらいだ。荷物をまとめるという作業は必要なくて、ただ着てきたスーツに着替えるだけだった。


 スーツは洗濯とアイロンがけがしっかりとされていて、着てきた時よりも上等なものに見えた。

 着替えた私はベッドに腰かけ、溜息をついた。


「どうかしたのかい?」

 先生はノックも無しに部屋に入ってきて、そう告げた。私は反応することができないまま、先生の侵入を許してしまった。


「もう帰れるんだ。こんなことになって申し訳ないとは思うけれど、こんな場所すぐに出たほうがいい」

 連れて来ておいてなにを言うんだと、私は言いたかった。けれど、何も言い返す気力もなかった。そもそも、こうなったのは先生の責任ではない。それは八つ当たりというものだ。


「先生はなぜ私をここに連れてきたんですか?」


 聞こうとして聞かなかったことを、どうでもいいと諦めて見向きもしなかったことを、私は真正面から捉えた。


「私には思惑とか、深い考えとか、そういうものはないさ。昔の教え子が気になって、会いたくなって、恥ずかしいから馬鹿な口実を考えたんだ」

 いつも飄々としていて、本心がどこにあるのか分からない彼女の、一つの感情がそこにはあった。でもそれがどういうものなのかは私には分からない。


 人と向き合うことを避け、人との向き合い方を忘れてしまった私には分からない。


「きっと君に対して、罪悪感を抱いていたからだろうね」


 先生は申し訳なそうに言うと、私の隣に腰かけた。


「どうしてですか?そんなもの抱く必要なんてないでしょう」


 そんなものを抱かられる価値は私にはない。


「私は君を、生かしてしまったからね。卒業式の日のことを悩まなかった日は一日だってないよ」

 その言葉に私は驚いて、言葉を失った。


 あの日のことを、そんな風に思っていたなんて考えもしなかった。


「私は自分の行動を、正しいとか間違っているとかそういう見方をしない。そういう二元論で見たりはしないんだ。でも考えてしまう、思ってしまう」


 先生は天井を仰ぎ、祈るように言った。


「それでも私は君に生きて欲しいと願った。悩んでも、悔やんでも、苦しくても、そのことを無かったことにしたいとは願わない」


 先生はシーツをぎゅっと握りしめ、声を低くしていった。


「たとえ死んだってそんなことは思ったりしない」


「どうして……」私はなぜ先生がそんな言葉を私にかけてくれるのか分からなくて、聞こうとした。

 けれど先生はいつも通り、私の心を見透かして聞かれる前に答えた。


「生徒に卒業はあるが、教師に卒業はないからだよ」


 そうして私は、どうしても思い出せなかった言葉を思いだした。


『そして、次会うとき私は――また君の先生として会いに行くよ』


 先生はずっと、私の先生だったんだ。


「君を見かけたとき、それまで抱えていた悩みが消し飛んだ。生きていてくれたことに、私は感謝した。だから私は君が生きるという選択をすること以外興味がないんだ」


 先生は冗談ぽく笑うと、私の目を見て言った。


「だから教えてくれ、君が生きていくために、今なにをしたい?」


 先生の質問に、生徒である私は答えるために考えた。瞑想のような、思考の世界に入り込むような体験をした。

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