第32話 奮起
フローレンス・ナイチンゲール。近代看護の母、白衣の天使、……、他にも沢山あるのだろうけれど、私にはそれくらいしか浮かばなかった。すごい看護婦というくらいしか、私の矮小な脳髄には記憶されていない。
だから先生の話に、私は素直に驚いた。
「彼女はね、クリミア戦争で兵舎病棟の看護婦として従事したんだ。そして四十パーセントを超えていた死亡率を、最終的に二パーセントにまで下げた」
先生はゆっくりと私の隣に腰を下ろし、話を始めた。その声は柔らかく、とても穏やかだった。
「その功績の裏には、統計学や衛生環境の改善など色々なものが上げられる。けれどね、私が一番感銘を受けたのは、「死ぬことを禁じた」ことなんだ」
私は先生の授業に夢中になっていた。先生は確か物理教師だったはずなのに、得意気に語る様は歴史の先生みたいだった。
「当時は麻酔無しの手術なんてざらだったからね。生きることの苦痛に耐えきれず、自殺する者が多かったんだ。彼女はそれを禁止にした。病死にしろ自殺にしろ、自分の許可なく死んでしまうことを禁じたんだ」
私は自分の手を眺めた。細くて血色悪い手が震えていた。先生は私の手を取り、割れ物を扱うかのようにそっと握った。
「どんな事があっても、自分の患者に生きろと命じたんだ」
先生の手は見た目とは裏腹に暖かかった。でも、いい大人の二人が何をしているんだと思って恥ずかしくなってきた。
「私は別に彼女を尊敬しているとか、そういうことはないんだけどね。でも、教師という職業を志したとき、私の母親は今の話をしてくれたんだ。当初は意味も分からなかったけれど、君に出会ったとき理解した。教師という仕事は生き方を教える仕事なんだと気づいた。学校は社会へ出るための練習場で、教師の言葉はこれからどう生きるかを決める材料だ。そんなことを知った時、君に出会った」
先生は私の目を見てそう言った。相変わらず冷めていて、死んだ魚のような目だったけれど、この時はとても優しい目に見えた。
「生きようとすることさえ出来ない君を見た。その時ね、不思議にも私は、なんとかしたいと思ったんだ。自分でも驚いたよ。私がそんな風に誰かを助けたいと思う日がくるなんて思ってもみなかったからね。私が、そんなことを思える人間だって、君が教えてくれたんだ」
先生はにっこりと微笑んだ。優しくて、暖かくて、私はとっくに忘れてしまっていた母の笑顔を思い出した。
「君に生きろと伝えて、死ぬことを禁じた。それが正しかったのか今でも分からない。いや……きっと間違っていたんだろうね。それでも私は――君に生きていて欲しかった。そう思ったことに、その心に、嘘は無いよ」
先生は「よっこいしょ」という年より臭い掛け声と共に立ち上がった。ぽんぽんとお尻のほこりを払って、体を伸ばしている。
「もし君がまだ、私の愚かなる願いを叶えてくれる気があるのなら、一緒に立ち上がってくれ」
先生は再度私に向かって手を伸ばした。頼りがいの無い、細くか弱い手だった。
私は先生の手を強く、ただ強く、握ってみせた。
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