第31話 授業
一言でばらばらと言っても、理久くんのばらばらとは大きく異なっていた。
史郎さんのばらばらは寸刻みだった。もうそれは元が人の形をしていたとは想像できない。肉塊が部屋中に散らばっていた。その肉塊の中に指や骨などの人間を思わせるものがあるから、かろうじてそれが人間のものであると判別することが出来た。さっきまで着ていた黒いレインコートもばらばらに刻まれて、まるで紙吹雪をまいた後のように散らばっている。しかしその原型をとどめていない衣服だけが、この肉塊が史郎さんであるという証明だった。
普通、残虐でグロテスクなものを見ると気分が悪くなる。私だって人並みにはショックを受ける。しかし、ここまでばらばらにされてしまうと、映画の作り物に見えてしまって、どこか現実感がなかった。
まだ食事前ということもあり、吐き気をもよおしはしたが嗚咽するだけだった。
そして理久くん同様、頭は見当たらなかった。鼻や目、髪の毛などの頭部のパーツはどこにもなかった。頭だけは綺麗な形で持ち去ったのだろうか?
私はそこまで考えて、すぐにドアを閉めた。
「はあ……はあ…」私は息を切らしていた。激しい運動をしたわけでもないのに、疲れ切っていた。
いくら私でも、あんな死体は見たことがなかったからだ。あんな――人ではない何かに見えてしまうものは初めて見た。
まるで子供が粘土を千切って遊んだあとのような、人を人とも思っていないような死体だった。
私は息を切らし続け、体力を失ってその場に座り込んでしまった。頭を抱え、現実を見ないように目を瞑った。見たく無いものはドアの向こうに閉じ込めたというのに、私は愚かにも視界を遮った。
そうして、頭を抱えて動けないでいると、声が聞こえた。優しい声だった。
「どうしたんだい?そんなところでうずくまって」
先生の声だった。先生とは思えないほど温かい声色だったけれど、間違いようがなかった。
「この中で、史郎さんが、死んでいたんです」
情けない声と、情けない姿を晒しながら言ってしまった。
「そうか……、でもこうしているとどんどん時間が経って、君が犯人にされてしまうよ」
「どうでもいいです、もう、全部、全て、どうだっていいんです。もう何もしたくない。もう何も見たくない。どこにも行けないのなら、どこにも行きたくない!」
ついに、いやようやくと言うべきか、私の心は折れてしまった。
今まで色々なものを糧に、様々なことで奮起し、騙し騙し生きてきたけれど、それももう無理だ。不可能だ。私はもうどこにも行けない。
「そう悲しいことを言うな。さあ、手を取っておくれ。立ち上がろう」
先生はそう言ってくれたけれど、私はその手にさえ目を向けず、現実から逃げようと必死だった。
「やっぱり、死んだほうがよかった」私は思わずそんな言葉を漏らした。先生を恨んでいるかのような発言をしてしまった。あの日死ぬなと私に言った人に、酷い台詞を吐いてしまった。
私はふと気になってしまった。先生が今どんな顔をしているのか、なぜか気になってしまった。私は瞼を開き、顔を上げた。
先生はきっと軽蔑しているだろう。こんな私を前に、蔑み以外の感情なんて抱きようがないはずだ。
でも、先生は、申し訳なさそうに悲し気な顔をしていた。それは決して哀れみなどではなくて、同情とも違っていた。
温かい、私を心配してくれているような表情だった。
「どうして、私をそんな風に見てくれるんですか?」
「君が私にとって、一番の教え子だからだよ。自慢の生徒だ。その子が苦しんでいるのに、今私は何もしてやれない」
先生は悲しげな眼で、にっこりと静かに微笑んだ。
「それが悔しくてしょうがない。私は君に、こうして手を差し伸べることしかできない……」
先生は自分の無力さを痛感しているようだった。それが私には信じられなくて、理解できなかった。
「なに、君は私が認めただ一人の生徒なんだ。少しの依怙贔屓は当然だよ」
先生はまた私の疑問を読み取り、聞かれる前にそう答えた。
「君は、目の前の死をちゃんと見ていた。逃げていると自分では言いながらも、決して見えていない振りはしなかった。君は強い子だ。誰よりも強く、優しい子だ」
両親が死んで、親戚からも気味悪がられ、友達は次々に死んでいき、私の周りには死体だけが残った。
だから初めてだった。誰かにこうして、褒めてもらえることなんて、人生で初めてだったんだ。
だから私は嬉しいと――思ってしまった。私にとってそういう感情は毒でしかないのに、死にたがりの私にとって、他人から与えられた喜びは、失うまでのぬか喜びでしかない。
それでも嬉しかったんだ。
「だから立ってくれ。私の手をとってくれ。そして――生きていこう」
先生はなぜ、生きることを説くのだろう。常識だから、という理由はこの人には使えない。だから、私は聞いた。教え子として、先生に指導してもらった。
「フローレンス・ナイチンゲールを知っているかい?」
先生は教師のように、そんな話を始めた。
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