第6話

母親に殴り飛ばされた翌朝、目が覚めた幼子は、うまく起き上がれないことに気がついた。

昨日打ち付けた肩や殴られた頬もまだ痛みを覚えていたが、なによりも左脇腹が痛み、起き上がることも、寝返りを打つことも出来なかった。

母親の気配はすでに家の中にはなく、呼んでも無駄だということははっきりと理解できた。

何度か試し、痛む脇腹を手で強く抑えればなんとか動けることに気がつき、昨夜ぶつかったタンスにすがってようよう立ち上がった。

ヨロヨロと壁伝いにトイレに行き、ギリギリ間に合ったことに安堵した幼子の顔が、洗面所の曇った鏡に映し出された。

その瞳は涙が零れおちる寸前で、黒々と絶望をたたえていた。



「その右眼は、ガキのときの、オレの眼だ…左眼は、オレが捨てにいった、あの子猫の眼だ…」

男の声が震えだし、歯がカチカチと耳障りな音をたてた。

「…見んなよ…こっち、見てんな…!」

ぞわぞわは身動ぎ一つせず、ただ男の顔を見つめ続けた。

「…見るんじゃ、ねえよぉっ‼︎」

とうとう耐えきれなくなった男は、鉤爪のように曲げた両手の指を、ぞわぞわの顔に突き立ててその長い毛をがむしゃらに毟った。

ぶちぶちと毛を抜きつづけ、さらに突き立てた指先が、不意にポスンと皮を突き抜けた。

「…あ?」

フシュゥと軽い音がして、ぞわぞわの体が風船の様にしぼみ始めた。

次にグルンとその穴から、全ての皮が『裏返った』。


「チィ。」

気がつけば、男の足元にあった桜色のコンパクトに、一羽の鳥がとまっていた。

手のひらに収まる大きさのそれより一回り小さく、純白の身体は綿を丸めた様にホワホワと丸っこい。

「チィ。」

小首を傾げてさえずる鳥の、黒い目と青味がかった茶色の目からは、ほとほとと涙が零れ続けていた。

男はその涙に気づき、無言で手を伸ばし、鳥を捉えようとした。

「チィッ!」

鳥は怯えた様に飛び上がり、軽い羽音をたてて夜の闇の中へ逃げていった。

中途半端に伸ばされた手はしばし宙をうろつき、そして何も掴めないまま降ろされた。

「…なんだったんだ、結局。」

よっと軽い掛け声をあげ、男が立ち上がった。

尻の汚れを軽くはたき落とし、周囲を見回す。

「オレはなんで、こんなところで座り込んでたんだ…?」

呟いた男は特段その答えを求めようとはせず、不意に今の時刻に気がつき慌てだした。

「ヤッベ。早いとこ都心出て、次の寝床の確保しないと。」

焦った男は足元にあった小さなコンパクトを踏み、バリンとそれを踏み割った。

足早に駅に向かいながら、男はしきりに肩を回す。

「…なーんか、肩とか頭?が軽い気がする…?」

なんの心当たりも見出せないので、男はすぐに気にするのをやめた。

「ま、いっか。」

手のひらほどの何かを失ったまま、男は人の群れを求め、本能的に歩いて行く。

それはあたかも、狩に出る獣の足どりそのものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぞわぞわ 青羽根 @seiuaohane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ