ポチの喜び
それから二十年近い歳月が流れました。ポチはずっとその町で暮らしていました。どこへ行く当てもなく、ご主人様を探す手段もないポチにとって、住み慣れた懐かしいこの場所に居続ける以外に選択の余地がなかったのです。
(今日も曇りか。動きにくくなるなあ)
ポチの体はすっかりガタがきていました。劣化した太陽光パネルの発電効率の低下と配線の腐食、剥離などにより、雨の日の長距離移動は一苦労でした。摩耗した関節部分からは動くたびにギシギシと軋み音が聞こえます。それでもポチはひとつの場所でまったりとしているわけにはいきませんでした。
(あっ、またあいつらだ。隠れなくちゃ)
人影を見つけたポチは素早く身を隠しました。彼らはノラ狩り。所有を放棄されたノライヌやノラネコを捕らえ、屑鉄屋に売って銭を稼ぐ連中です。最近の不景気のせいでここ数年、あちこちで見かけるようになりました。
(やれやれ今回もうまくやり過ごせたよ。捕まると一巻の終わりだからなあ)
遠ざかっていく彼らの姿を眺めながら安堵するポチ。それでも日増しに動きが鈍くなっていく自分の体を考えると、彼らに狩られるのは時間の問題のように思われました。
(ううん、悪いことを考えるのはよそう。悪い考えは悪い事態を招き、楽しい考えは楽しい出来事を招く。さあ、今日も行こう)
ポチは物陰から這い出ると、体をギシギシ言わせながら歩き始めました。向かうのは河川敷。そう、かつてご主人様とボール遊びをした思い出の場所です。雨が降らない限り、ポチは毎日河川敷へ通っては、懐かしい思い出に耽っていたのです。
(あ、あれは!)
ポチの足が止まりました。一人の男が地べたに腰を下ろして川を眺めています。その横に置かれた透明の容器には潰されたノライヌが数体入っています。男はノラ狩り連中のひとりに違いありません。
(逃げなくちゃ……でも、あの人の持っているボール、見覚えがある)
男はボールを投げ上げては両手でそれを受け止めています。無精ひげを生やし、粗末な衣服をまとい、薄汚れた顔と虚ろな目で、その動作を繰り返しているのです。
(ま、まさか……)
ポチにはその姿もその仕草にも見覚えがあったのです。進むことも退くこともできずに立ち尽くすポチ。やがてその男はポチに気づいたようです。容器を置いたまま立ち上がりました。
「ほう、逃げないのか。かなりポンコツのノラのようだな。手間が省けてちょうどいい」
男は電撃捕獲器を取り出しました。電気ショックを与えて動作回路を遮断し捕獲する、彼らのよく使う道具です。
(あっ!)
ポチは気づきました。捕獲器に持ち替えた男の手からボールが落ちたのです。河川敷を転がるボール。反射的にポチはボールを追いました。ぎこちない動きで足を動かし、ボールをくわえ、そうして男の元へと向かいます。
「おまえ……」
足元にお行儀よく座り、自分を見上げるイヌを凝視したまま男は絶句しました。幼い日の記憶がよみがえったのです。
「まさか、ポチ、ポチなのか」
「わん、わん!」
くわえていたボールを放すとポチは鳴き声を上げました。男は地に膝をついてポチを抱き締めました。
「ポチ、ポチ、まだ俺を覚えていてくれたのか。すまなかった。おまえを捨てたこと、俺はずっと後悔していた。本物の犬があれほど愚かだとは夢にも思わなかったのだ。俺はもふもふに騙されていた。甘やかされて育ったタローは一年もしないうちに大型犬になった。近所で迷惑ばかりかけていた。そして車を運転する父さんの邪魔をして大事故を起こしてしまった。母さんも父さんも事故で亡くなり、損害賠償のために家を手放した。俺はご覧の通り、ろくでもない大人になっちまった。ポチ、こんな情けない俺にもおまえは懐いてくれるのか」
「くぅ~ん……」
ポチは鼻声で甘えながらご主人様の頬を舐めました。くすぐったそうに笑うご主人様。何もかも昔のままでした。あの日と同じ楽しさがそこにありました。まるで心がもふもふに包まれているような安らぎ。そしてこの幸福はこれから決して失われることなくずっと続いていくのだと、ご主人様の腕に抱かれながらポチは思うのでした。
ポチの話 沢田和早 @123456789
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