2.建春門院という人~局という場所
建春門院様と申しましたのは、時代と時代を隔てるほど古い時代のお方であり、姿だけでなく、そのお名前でさえもはっきりと覚えていない人も多いでしょう。
昔も今も限りの無いご縁や、世間に伝わる評判も加わって、大体のお人柄も非常に類稀に素晴らしくいらっしゃったのでしょうか。
朝夕の時間に常におっしゃっていた女院は「女性というものは、心がけ次第でどうにでもなるものなのですよ。親の配慮や、周囲がしてくれる世話は関係ありません。心に慎みを持ち、それでいて自分を卑下しないでいれば、自然と身の程を超えるほどの幸福があるものなのです」と仰られた戒めを聞いて、まだ若く、まして後ろ盾となる親が健在であり、無理に宮仕えをする必要のない女房などは、各自どのような胸中だったのでしょうか。心に響いていたのでしょうか。残念ながら、彼女たちの上辺だけみていると、とても宮仕え人などとは心のうちにも思えなかったし、言葉にもできませんでした。
私などは、どうにかして人に声を聞かれまいとし、まして御簾のはずれからでも姿が見えてしまうことをいっそうひどく恐ろしく思って、慎みながら生活していましたので、他の女房たちとは異なっていたのだな、と後になってから思うのであったのです。
***
朝から夕方までお仕えした人は、定番の女房と呼ばれました。宮中に居慣れていて、穏やかな物腰で、若い女房たちに宮仕えのいろはを教えています。その他は番の女房といって、一ケ月交代でお仕えするべしとお思いになっていたけれど、元日、衣更えの時期、五月五日、七月七日などのような特別な日々、そして年に二回行われる供花会などには、そのままお仕えをします。
上﨟、つまり高位の女房の部屋は、女院の御座に続いている二間で、七条殿と隣あっている女院の寝殿の北の廂の西の端に位置しています。仕えている女房が少ないときには二間、人数が多いときには西の一間を開け合わせて場所をとるものの、人が犇めいていて気を許せるときもなく、衣類がだらしなくならないように、繕って座っていたのです。
中﨟よりも下の位の女房になると、これに続いている台盤所という詰所に、同じようにしてせせこましく仕えています。女院に仕える宿直の女房は、東の台盤所といって、台盤所の向かいまで入りこみます。女院の御座に立ち入ることが許されている女房などは、そこに入ります。
この上﨟が伺候している狭い二間には、長くて二、三日、さらに多忙なときには四、五日も詰めていることもありました。
女院は優美な普段の姿で、常に私たちがいる台盤所までおでましになられました。冬は二重重ねの単を三枚と、指貫をお召しになり、練っていない絹糸で作られた衣服をお召しになっていて、この世のものとは思えないほど優美でありました。現代で多くみるようになった紺色の服は、夏も冬も見苦しいとおっしゃって、女院は見えないようになさっていました。
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