薔薇の香り
初めて訪れる街の小さな美術館に辿り着きました。
初夏の陽射しが少しずつ強くなり、日傘をさしていても少し暑いくらいに眩しいアスファルトの道をゆっくり歩いて来ました。薔薇の模様の杖がよく働いてくれました。遠くまで来たのに膝はまだ痛みません。
展覧会の絵は何人かの画家の合同展示会で、作風の違う絵がいくつも並んでいて興味深いものでした。
どうしたことでしょう。私は絵を見つめながら泣いていました。
ハンカチが濡れてすっかり冷たくなっていました。やっと落ち着いた私は、順路に従って全ての作品を見た後、中庭に出ました。
薔薇の花が咲いている庭は甘い香りが立ち込めて、見上げれば青空が広がっているのに、その一角だけがまるで密閉された温室のようでした。
薔薇の香りは人の心を癒すと聞いたことがあります。けれどもその中庭の空間は少しばかり香りが強すぎて、むせ返るような生命の匂いというのか、逆に死を連想するような咲ききった花の後のない命の叫びが聞こえてくるような濃密な香りが鼻孔に流れ込んでくるのでした。
薔薇園の魔法にかかったように、私は立ち尽くしていました。
喉が乾いたけれど動く気になれずぼんやりしていると、あらぬ方向から人影が現れました。会いたくて胸が苦しいとさえ思ったあの人でした。
「来てくれてありがとうございます」
「先日は本当にありがとうございました」
はっと現実に帰り挨拶をすると、夏向さんは中庭の片隅にある白いベンチを指して座りませんかと言いました。私は頷いてそこに座りました。弱いほうの膝のすぐ隣に夏向さんは腰掛けて長い足がすぐ傍にありました。
地べたにへたり込んでいたあの時には気づかなかったけれど、彼は平均よりも背の高い人で少し猫背であるにも関わらず私より随分と高い位置に視界があるのだとわかりました。
初めて見る横顔は鋭角的で、真っ直ぐな鼻筋が綺麗だと思いました。
「足は痛みませんか」
彼が急にこちらを向いたので心臓が跳ねました。
「大丈夫です」
穏やかな笑顔が返ってきました。あの時と同じ眼鏡の奥に優しい光を見ながら、やはり神様なのだろうかと思いました。夏向さんは黒っぽいスーツを着ていました。上等な仕立ての中に一点だけカジュアルな幾何学模様のカットソーを合わせていて、それが一層高級感を高めているようにも見えます。
「絵を拝見していたら、理由はわからないのですけど涙が溢れてきて」
私は目の周りが赤く腫れて化粧も台無しになっているであろう顔を隠すように
「そうでしたか」
夏向さんは薔薇を眺めながら一言だけ言うと、少しの間沈黙が流れました。
「
突然名前を呼ばれて、思わず顔を上げてしまいました。
「はい」
「あの絵の女の子は幼い頃の僕の妻です」
「奥様……ですか」
「はい。昨年、病が進行して亡くなりました」
「そうだったの……ですね」
呼吸が苦しくなりました。自分のものではない圧倒的な痛みが壁のようにそこにあって私は一歩も近づけないのに手に取るようによく見えるのです。
「いつかその日が来ることはわかっていました。僕は幼馴染みであった妻と、この世の時間の多くを共有出来たことに感謝しています。彼女は痛いとも辛いとも言わずに微笑んだまま旅立って行きました。その笑顔を僕は飽きもせず描き続けているのです」
何と言葉を返せばいいのでしょう。私は美しいまでの悲しみを目前に考える力を失い、時が止まったみたいに瞬きもせず固まっていました。
「すみません。余計なお喋りをしてしまいました」
夏向さんは、変わらない穏やかな声で私に言いました。
「いいえ。伝わってきました。素晴らしい絵だと思います。他人の立場から失礼ですけれど、描き続けてほしいと思います」
何とか思いを言葉にしました。
悲しみは何処かへ流してしまわなければ、人の心を蝕んでいつか壊してしまいます。
「私は、あの絵がとても好きです。優しさで溢れています」
また涙がこみ上げてくるのを抑えながら、私は続けました。
「観る者の悲しみまで吸い出すように洗い流してくれる不思議な力があります。私は何年振りでしょうか、泣くことを思い出したみたい」
とめどなく湧いてくる悲しみの残滓を流す涙が、頬を伝い、ぽたりと落ちました。
震える手に、夏向さんの大きくて温かい手がそっと包むように触れ、薔薇の香りが悲しみと混ざり合って降り積もりました。
「ありがとうございます。そろそろ、帰らなくては」
私は、名残惜しい温もりから静かに身を引いて、薔薇模様の杖を持って立ち上がりました。
夏向さんは、中庭からの出口まで案内してくれました。
不思議な空間を抜けると、美術館の出口が見えました。濃密な薔薇の香りが嘘のように、ありきたりの風景が広がっていました。
「今日は来てくれてありがとう。お気をつけて」
もう会えないような気がしました。けれど悲しくはありませんでした。それより忘れようとしていたいくつもの悲しみがさらさらと流れ落ちて、さっぱりとした気持ちでいる自分に少し驚いていました。
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